表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘のない人生〜完全版  作者: つなかん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/16

第六章 別れ

冬の終わり。

 冷たい雨が上がったあと、街の空気はどこか澄み切っていた。

 夜の光が濡れた舗道に滲み、

 その上を歩くたび、ヒールの音が心に響いた。


 ——今日は終わらせる日。


 そう決めていた。

 もう逃げない、と。


 ホテルのラウンジで待ち合わせた。

 桐原悠真は、いつもと変わらない穏やかな表情をしていた。

 黒のコート、整った髪、

 どんな場所でも“医師”であり続ける男。


 「久しぶりだね。少し痩せた?」

 「そうかもしれません。」


 私は、微笑みの中に揺れる自分の心を隠した。

 でも、もう言葉を繕う気力はなかった。


 グラスの水がテーブルの上で光る。

 指先が冷たくて、自分の手じゃないように感じた。


 「……悠真さん。」

 「うん?」

 「話があります。」


 彼は眉をわずかに動かしたが、黙ってうなずいた。

 周囲のざわめきが、遠くの世界の音に変わる。

 私は深呼吸をひとつして、唇を開いた。


 「別れましょう。」


 その一言が、思っていたよりも穏やかに落ちていった。


 彼の指がわずかに止まり、

 テーブルの上の水滴が光を弾いた。


 「……誰かいるのか?」

 彼の声は冷たくなかった。

 むしろ静かで、底に少しだけ悲しみが混ざっていた。


 私は逃げずに目を見た。

 「はい。……います。」


 沈黙。

 長い、深い沈黙。

 彼はカップを持ち上げ、

 何も言わずに一口だけ飲んだ。


 「そうか。」


 短い言葉のあと、彼は静かに息を吐いた。


 「君のそういうところ、昔から変わらないな。

  ちゃんと“終わらせる”ところが。」


 それが、彼なりの優しさだとわかっていた。

 けれど、胸が痛んだ。


 「……ごめんなさい。」

 「謝ることじゃない。

  人の気持ちは、止められないものだ。」


 彼は目を閉じて、微笑んだ。

 その顔を見たとき、私はやっと理解した。

 ——彼もまた、ずっと孤独だったのだ。


 長い付き合いの中で、

 私たちは互いを“支えるふり”をして、

 実際は、互いを“繋ぎとめるため”に利用していたのかもしれない。


 「幸せになれ、紗季。」


 その言葉に、涙があふれそうになった。

 でも、こぼさなかった。

 泣いたら、きっと彼の記憶に私は“弱い女”として残ってしまう。


 それだけは違う気がした。


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。

 「今まで、本当にありがとうございました。」


 外に出ると、冷たい風が頬を打った。

 街の明かりが滲んで、世界が少し歪んで見えた。


 それでも、歩き出せた。

 涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥で何かが静かにほどけていった。


 > ——悲しみの中にも、

 >  確かに“自由”の匂いがあった。


 その夜、部屋に戻ってカーテンを開ける。

 夜空に星は少なかったけれど、

 ひとつだけ、遠くで強く光っていた。


 「ありがとう、悠真さん。」


 小さく呟いた声が、

 ガラス越しに夜へと溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ