第三章 雪の気配、川の音
十二月の初め。
京都の空気はすでに冬の匂いを帯びていた。
冷たい風が頬をなでるたび、胸の奥に小さな痛みが走る。
その日、私は午後の買い物帰りに鴨川の橋を渡っていた。
吐く息は白く、夕暮れの光に溶けていく。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。
> 『今夜、少し歩きませんか。——蓮』
名前を見ただけで、胸の奥がふっと明るくなった。
理由はわからない。
ただ、彼に会いたいと思った。
約束の時間、川沿いの道に立つと、
対岸の街灯がやわらかく水面を照らしていた。
その光の中に、蓮の姿があった。
黒のコートに、首元のマフラー。
冬の夜に溶けるような落ち着いた佇まい。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
それだけで、十分だった。
ふたりで並んで歩き始める。
川面に映る光が揺れ、風がマフラーの端を持ち上げた。
「最近、眠れていますか?」
突然の問いに、私は笑ってごまかそうとした。
けれど、その声は思っていたより弱かった。
「……正直に言うと、あまり。」
蓮は頷き、空を見上げた。
「僕もです。
夜になると、演じてきた自分の顔が
本当なのか、わからなくなる。」
その言葉に、心が静かに反応した。
——この人も、嘘の中で生きている。
「俳優なのに、ですか?」
「だからこそ、ですよ。
嘘をつくことに慣れると、
本当の感情を見失う。」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。
私は立ち止まり、川面を見つめた。
水の流れが街の灯りを切り取って、
まるで時のように流れていく。
「私も、嘘がうまくなりました。」
「嘘?」
「笑って、平気なふりをして。
本当はもう、誰かに見透かしてほしかった。」
沈黙。
冬の風がふたりの間をすり抜けた。
その冷たさの中で、蓮がマフラーを外した。
「これ、貸します。」
ふわりと肩にかけられたマフラーから、
彼の香りが微かに漂った。
ウイスキー、柑橘、そして冬の夜の匂い。
「少し、あたたかいでしょう。」
「……はい。」
頬が熱くなる。
それが寒さのせいなのか、違うのか、自分でもわからなかった。
川のせせらぎの音。
遠くで響く電車の走る音。
世界が、ゆっくりと静止していく。
「今夜だけは、嘘のない時間にしましょう。」
彼の言葉に、胸の奥が震えた。
私の中の何かが、
ようやく “呼吸” を思い出した気がした。
その夜、家に帰ってもマフラーは外せなかった。
香りが消えてしまうのが怖くて。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
彼の声と、川の音が重なり合って響く。
——この人といるときだけ、
私は“生きている”と感じる。
窓の外で、雪が降り始めていた。
まだ小さな、初雪だった。




