第二章 秘密の重量
夜の病院の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
消毒液と静寂。看護師を辞めても、あの場所の記憶は身体に染みついている。
私は部屋のカーテンを閉め、ソファに腰を下ろした。
スマホの画面には、「桐原悠真」の名前。
開いても、ただ “既読” が並ぶだけ。
彼とは八年の付き合いだった。
出会ったのは夜勤明けの食堂。
当時の私はまだ二十代で、白衣のポケットに希望と無理を詰め込んでいた。
「君みたいな看護師がいてくれると助かるよ」
そう言って笑った彼の言葉に、少し救われた気がした。
いつの間にか、その笑顔が “依存” に変わっていた。
桐原悠真——内科医。
五十代半ば、端正な顔立ちに穏やかな声。
患者にもスタッフにも信頼される人。
でも、私が知っている彼は少し違った。
夜、会う約束はいつも急だった。
「今日、空いてる?」
そんな一言で、私は支度を始めてしまう。
彼は多忙だった。
会えるのは月に一度、あるいは二度。
食事をして、ホテルに行って、また別れる。
その繰り返し。
それでも、心のどこかでは“特別”だと思いたかった。
彼には、誰にも言えない趣味があった。
人の欲を観察するようなパーティ。
時に乱れ、時に笑うその場で、私は“彼が望む私”を演じた。
そのたびに、少しずつ自分の輪郭が溶けていった。
——私は誰を愛しているんだろう。
帰りの車の中、ミラー越しの自分が見知らぬ女に見えた。
涙は出なかった。
ただ、胸の中で重たい鉛のようなものが沈んでいた。
“正しいことをしている人”の隣にいながら、
自分だけが嘘をついているような気がした。
でも、それは違う。
本当は——彼のほうが、ずっと嘘が上手だったのだ。
「情より理性だ」
そう言うときの彼は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
私はそれを知っていた。
けれど、知っていても離れられなかった。
肩書き。
安定。
“彼のそばにいる自分”という安心感。
それらを失う恐怖が、愛よりも大きかった。
だから私は、笑ったふりをした。
愛しているふりをした。
でも、どれもほんの少しの嘘だった。
夜、鏡の前に立つと、化粧を落とした自分が問いかけてくる。
——本当に、このままでいいの?
返事はできなかった。
部屋の隅に、あの夜のバーでもらったストールが掛けてある。
近づくと、微かにあの香りがした。
ウイスキーと冬の空気。
蓮の声が胸の奥で、静かに響く。
> 「今だけは、嘘のない時間にしましょう。」
その一言が、心の奥でゆっくりと疼き出した。
——あの夜から、何かが確実に変わり始めている。
まだ“言葉”にはならないけれど。
私はもう、誰かの飾りではいられないのかもしれない。




