最終章 春の約束
春は、静かにやってきた。
長い冬の眠りのあと、
京都の空はやわらかな霞を帯び、
桜並木が淡い光のヴェールをかけたように咲き始めていた。
——三月二十八日。
予定より少し早く、
小さな命がこの世界に生まれた。
その瞬間、
すべての時間が音を失ったように感じた。
産声は小さく、それでいて確かで、
涙がこぼれるよりも先に、胸の奥が温かくなった。
助産師の「おめでとうございます」という声が遠くに聞こえる。
> 「こんにちは、はじめまして。」
その言葉を口にした瞬間、
世界がまるごと“光”になった気がした。
小さな掌、小さな爪、小さなまつげ。
何もかもが初めてなのに、どこか懐かしい。
まるで、ずっと昔から知っていたような気がする。
“この子が、私を選んでくれた”
そう思った。
——その夜、病室の窓から見えたのは、
春の月だった。
薄い雲の向こうに浮かぶ白い光。
まるで誰かが見守ってくれているような静けさ。
枕元には、退院祝いに届いた小包が置かれていた。
送り主の名を見て、胸が熱くなる。
——神谷蓮。
中には、小さなフォトフレームと、一通の手紙。
桜の花弁が描かれた便箋に、
彼の筆跡が、穏やかに並んでいた。
> 『おめでとう。
> あなたの笑顔を想像しながら、この手紙を書いています。
> 僕は今、舞台の上で新しい役を生きています。
> でもどんな役を演じていても、
> あの冬の日の川の音が、僕の中に流れ続けています。
>
> この子が大きくなったら伝えてください。
> “あなたは光から生まれた”と。
>
> そして、いつか——春の川辺で。
> もう一度、同じ風の中で笑いましょう。
>
> その日まで、あなたとこの世界が、
> 嘘のない優しさで包まれていますように。
>
> ——蓮』
文字が滲んで、紙が少し湿った。
涙ではなく、
心がほどけて流れたような温かさだった。
数週間後。
春の光が満ちる日曜日。
私は赤ちゃんを抱いて、鴨川沿いを歩いていた。
桜が風に舞い、川の水面を流れていく。
遠くのベンチに、黒のコートを着た男性が立っていた。
風に髪を揺らし、
手に小さな花束を持っている。
——彼だった。
目が合った瞬間、
時間が一瞬止まった。
けれど、次の瞬間、自然に笑っていた。
彼はゆっくりと近づき、
私の隣に座った。
「春ですね。」
「はい。やっと、春になりました。」
桜の花びらが、赤ちゃんの頬にひとひら落ちた。
蓮がそっと手でそれを払う。
その指先が触れた瞬間、
赤ちゃんが小さく笑った。
「……この子の名前は?」
「陽翔です。」
「いい名前だ。」
「春の光に生まれた子だから。」
ふたりで川の音を聞いた。
あの日と同じ、でも少し違う音。
新しい命の分だけ、世界が広がっているようだった。
「これで、全部が繋がった気がします。」
「うん。」
「嘘のない人生を、生きていけそうです。」
「あなたは、もうずっと前から生きてますよ。
ただ、自分で気づいていなかっただけです。」
蓮の言葉に、涙がこぼれた。
今度の涙は、悲しみでも後悔でもない。
“生きていてよかった”という、
静かな幸福の涙だった。
> 川の流れは止まらない。
> 季節はめぐり、命はつながっていく。
>
> 嘘のない人生とは、
> 誰かと真実を分かち合う勇気のこと。
陽翔の小さな手が、
私の指をぎゅっと握った。
その力が、未来を約束するように温かかった。
風が吹いた。
花びらが舞い、川面を渡っていく。
その光景の中で、蓮が静かに言った。
「……また、春に会いましょう。」
私はうなずいた。
「ええ、きっと。」
空の青さが、
涙よりも深く、
そして、嘘よりもやさしかった。
> ——春の約束。
> それは、もう叶っていた。
>
> 生きて、愛して、赦して、
> 今、この光の中で。




