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嘘のない人生〜完全版  作者: つなかん


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第十一章 彼の朝

ポストに白い封筒が落ちる音で、朝が始まった。

 コトン——。

 いつもは気にも留めない響きが、やけに澄んで聞こえた。


 台所で湯を沸かす。やがてケトルの口から、細い蒸気が立ちのぼる。

 カップに湯を注ぐと、紅茶の葉がゆっくりと開いていく。

 その動きをぼんやりと眺めながら、蓮は封筒を手に取った。

 宛名の筆圧はやわらかい。けれど、迷いがない。

 ——佐倉紗季。


 封を切る。紙の繊維がささやく。

 万年筆のインクの匂いがふっと立ち、部屋の静けさと混ざった。


 > 蓮へ。

 > ……旅から帰って、身体の中に小さな命が宿っていることを知りました。

 > これは奇跡でも、偶然でもなく、七日間が本物だった証だと思います。

 > あなたに何かを求めるつもりはありません。ただ、伝えずにいることが嘘になる気がしたのです。

 > “嘘の中では愛せない”——あなたの言葉に救われました。

 > ありがとう。そして、さようならではなく、“またね”と書かせてください。

 >                           紗季


 読み終えるまでに、二度、息を止めていた。

 紅茶は、もうぬるくなっている。

 窓を開けると、金木犀の香りが薄く流れ込んできた。

 季節が肩越しに覗き込むみたいに、静かな朝だった。


 “求めない”と書いてあるのに、心は答えを探し始めていた。

 何をすべきか。何ができるか。何を言ってはいけないか。

 脳裏に浮かんでは消える問いの群れを、蓮はひとつずつ手で押しのけるようにして立ち上がった。


 鏡の前に立つ。

 役の台本が机に開かれたままだ。

 “父親を演じるシーン”の付箋。

 これまで何度も“父親”を演じてきた。

 しかし、今、紙の上の台詞はやけに軽く、そして遠かった。


 ——演じることと、生きること。

 ——嘘と、真実。

 紗季がくれた手紙は、その境界線をまっすぐに引き直してしまった。


 午前、スタジオへ向かう電車の揺れに身を任せる。

 窓に映る自分の顔は、よく知る“俳優の顔”をしていた。

 けれど、その奥に、誰も知らない素顔が静かに座っている気がした。


 撮影。

 照明が落ち、カチンコの音が鳴る。

 共演者が台詞を投げる。「お前は、何を守りたい」

 蓮は台本通りの台詞を言いかけて、ふっと短く息を吸い直した。


 「——嘘のないものを」


 スタッフが息を呑む気配がした。

 監督の「カット!」の声。

 沈黙。

 次いで、低い声で「今の、いい」とだけ告げられる。


 モニターの脇に立って、蓮は目を閉じた。

 守りたいのは、正しさでも、体裁でもない。

 “嘘のないもの”。

 それはきっと、他の誰かに理解されなくても、そこに在るものだ。


 昼休憩の合間、控室の机に便箋を広げる。

 ペン先が紙に触れると、言葉は思ったより静かに出てきた。


 > 紗季へ。

 > 手紙をありがとう。読んでから、部屋の空気の色が少し変わりました。

 > 伝えてくれて、嬉しかったです。

 >

> 生まれてくるその子に伝えてください。

 > あなたは愛から生まれた、と。

 >

> 求めないと言ってくれたことに甘えず、僕もまた、嘘のない言葉だけを選びます。

> すぐに何ができるかわからない不器用さも、今の僕の真実です。

> それでも、喜びとともに受け止めています。

>

> もしよければ、冬の京都で会いましょう。

> 風が冷たくなったころ、川の音を聞きながら、あの“七日間”の続きを少し話したい。

>

>                 神谷 蓮


 書き終えて、封をした。

 胸の奥にあったざわめきが、波が引くように静まっていく。


 夕方、撮影が終わる。

 スタジオを出ると、空は群青と橙の境目で揺れていた。

 ポストに封筒を投じる。コトン、と小さな音。

 朝の音と同じなのに、もう違って聞こえる。


 帰宅。

 玄関に置いたストールを手に取って、鼻先に寄せる。

 ——ウイスキー、柑橘、冬の気配。

 あの夜の川風の記憶が、静かに戻ってくる。


 台本を閉じ、窓を開ける。

 金木犀が、少し強く香った。

 “父親を演じる”ためではなく、“誰かを守る覚悟”のために、

 呼吸が深くなるのを感じる。


 ランプの明かりの下で、蓮は独り言のように呟いた。

 「嘘のないものを、守る」


 そして、部屋の時計が八時を指すころ、

 彼はスマートフォンに短いメッセージを打った。


 > 『お手紙、受け取りました。ありがとう。

 >  体を大切に。近いうちに、京都で。——蓮』


 送信。

 画面が暗くなる。

 静かな部屋に、夜のはじまりの音が戻ってきた。


 ——朝に落ちた一通の手紙は、

  一日の終わりに、ひとつの覚悟へと形を変えていた。


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