第十章 手紙
夜は、静かに降りてきた。
窓の外の街灯が、カーテン越しに淡い橙色の光を落とす。
机の上には、白い便箋と封筒。
横に置かれた万年筆が、まるで私の心を待っているようにそこにあった。
——今日は、書こう。
逃げずに。飾らずに。
胸の奥で小さく息を整える。
静かな部屋の中で、時計の秒針だけが一定のリズムを刻んでいた。
それが、まるで新しい命の鼓動と重なって聞こえた。
便箋に名前を書く。
「神谷蓮様」。
その文字の形だけで、胸の奥が少し温かくなる。
私は深呼吸をして、ペンを走らせた。
> 『蓮へ。』
>
> あなたに出会ってから、私は少しずつ変わりました。
> あなたの言葉の中にあった“嘘のない時間”という響きが、
> 今も心の奥で生きています。
>
> 旅から帰って、身体の中に小さな命が宿っていることを知りました。
> 驚きよりも、感謝の方が先にきました。
> これは奇跡でも、偶然でもなく、
> あの七日間の時間が“本物だった”という証だと思います。
>
> あなたに何かを求めるつもりはありません。
> ただ、この事実を伝えずにいることが、
> それこそ私にとっての“嘘”になってしまう気がしたのです。
>
> どうか、私を責めないでください。
> そして、私が自分自身を責めないように、
> あなたのやさしい言葉を、心のどこかで覚えていてください。
>
> 『嘘の中では愛せない』——
> あなたの言葉に救われました。
>
> ありがとう。
> そして、さようならではなく、
> “またね”と書かせてください。
>
> 紗季
書き終えた瞬間、
胸の奥で何かが静かに弾けた。
涙は出なかった。
ただ、肩の力が抜けて、息が深くなった。
“伝えた”という事実が、
それだけで心を軽くしていた。
私は封筒を閉じ、
丁寧に切手を貼った。
窓の外を見ると、夜空に薄い月が浮かんでいる。
雲が流れ、星がひとつだけ光っていた。
靴を履いて外に出た。
夜の空気は思っていたより冷たく、
頬をすり抜ける風が心地よかった。
ポストの赤が街灯に照らされて、
少し滲んで見えた。
手紙を差し入れる指先が震えた。
でも、迷いはなかった。
> カタン——。
ポストの中に紙が落ちる音がした。
その音が、まるで“ひとつの季節の終わり”を告げる鐘のように聞こえた。
私は夜空を見上げた。
風が髪を揺らし、街の灯りが遠くで瞬く。
誰かの笑い声が、静かな通りの向こうから聞こえた。
「大丈夫。」
小さく呟く。
「もう、嘘じゃない。」
手をお腹に添えると、
内側から微かに温もりが返ってきたような気がした。
> ——あの日、あなたがくれた“真実”は、
> 今、私の中で息をしている。
部屋に戻ると、机の上には
蓮からもらったペンダントが光っていた。
雫のような形をした小さな金色のチャーム。
その中央には、淡く光る白い石が埋め込まれている。
手のひらで包み、
そっと目を閉じた。
> この命は、
> 誰かに許されるために生まれたんじゃない。
> “愛から生まれた”という、その真実だけで十分だ。
静かな夜。
窓の外で風鈴が小さく鳴った。
明日はきっと、また新しい朝が来る。




