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プロローグ 十一月の夜、こぼれた一杯
十一月の京都。雨上がりの夜、私はひとりで小さなバーのカウンターに座っていた。
看護師を辞めて二ヶ月、肩から抜けたはずの重さは、なぜか胸の奥に沈んだままだった。
隣に腰を下ろした男の肘が、かすかにグラスをはじいた。氷が跳ね、琥珀色の液体が私のスカートを濡らす。
「すみません!」
慌てる声に、私は思わず笑ってしまった。
「大丈夫。……でも、派手にやられましたね」
彼はバーテンダーから受け取ったハンカチを差し出し、申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当に失礼しました。僕、神谷蓮といいます」
その名に覚えはあった。
スクリーンの中で見たことのある俳優。けれど目の前の彼は、光よりも影をやわらかく纏っていて、人間の温度でそこにいた。
会計のあと、彼は自分のストールを私の肩にそっと掛けてくれた。
微かに残る香りが、遅れて心に届く。ウイスキー、シトラス、そして冬の空気の匂い——。
胸のどこかで、長いあいだ眠っていた鐘が小さく鳴った。




