12月8日 想像を創造する
そんなわけで『028冒険しようよ!<ショートショート版>』をアップしました。(カクヨムで。『小説家になろう』の方は、コンスタントに安定して供給ができるようになってから、順番に上げていこうと思います)
読んでもらえば分かると思うけど、題名と内容はちょっとちぐはぐだ。
なんだけど、あえてその題名にしたのは、
『このような方式で12月2日に言ったような作品を描きたい』
と常々思っていて、その時につける題名を
『冒険しようよ!』
というタイトルにしたい……ということが、もうずーーーーっと前から決まっていたので、それ以外が思い浮かばなかった。
今回はあのようなラストになったけど、実際はそうではない。ベースをあのような二人称、『あなた』に問いかけるようにして、想像と創造で楽しめるような作品を一度描きたいと思ってる。
響かないかもしれない……とも思ってる。
今は映像技術が発達しすぎて、文字で表現できるもので映像で表現できないものはない……と思われがちだ。人間の創造力は低下し、文字だけではイメージができず、そもそもその作業をめんどくさいと思ってしまう人たちも増えた。
でも、俺は文字の不確実さって自由度だと思っていて、視覚化されていないからこそ、小説作品だけに許された無限の世界が広がっていると思っている。
例えば、『きれいな人が波打ち際を歩いているのをあなたが見かけた』とする。
これ、ビジュアルがあればどんな感じできれいな人なのか一目瞭然だ。
現実でも、映画でも、アニメでも、漫画でも、ドラマでも、視覚に訴える媒介にはそれが共通している。
が、小説作品にはそれがない。ラジオの朗読でもいいんだけど、『きれいな人』と言われただけでは、どんなふうにきれいなのか、あなたの好みなのかそうでないのか……全く分からない。
〝だから小説作品の方が劣ってる〟と考えるのは早計だし、俺は個人的に、これを〝描写不足〟と、したり顔で評価する奴にアンチだ。
描写が不足してるんじゃないんだよ。その部分に自由度を持たせているんだって。
どんなふうにきれいなのか分からない……ということは、だよ? 逆に言えばどのような美しさを持っている人を創造してもいい……ということになる。
これが、ひとたびビジュアルに縛られれば、例えばドラマなら歩いてきた女優さんが好みでなければ、それだけで興味を失ってしまう。
でも、小説作品はそれが自由だ。あなたの好きな女優さんを思い浮かべればいいし、なんなら初恋の相手を思い浮かべたっていい。
それは、この美人だけにとどまらない。波打ち際といってもどのような波打ち際なのか、そこから見上げる街並みは日本風なのか西洋風なのか別の星なのか、……この一文だけならどのように創造してもいい。
つまり、小説作品というのは、ビジュアルがない分、読者の数だけ、別の世界が構築できる……ということでもあるのだ。
もちろん、何でもかんでもあやふやに描いたら、もはや世界観も何もあったもんじゃないが、物語の中核に当たる部分はクローズアップして描写しても、それ以外の部分では自由度を持たせることによって、読者ごとに違った世界を楽ませることができる。
それが、小説作品のすばらしさであり、先ほど言った、『文字で表現できるもので映像で表現できないものはない』という文言、例えば映画にそんな真似はできるのか?
ともあれ、そういう創造を楽しめる部分こそ、他にはない、小説の楽しさなのだと思うのだがどうか。




