12月2日 昔のドラクエみたいな小説作品
今日書くことは、似たようなことを何度か書いたことがあることで、つまりずっと思い続けていることだ。
今の冒険ゲームはすごい。まるで映画だ。
アニメーションが当たり前どころか、それが2Dですらない。いや、2Dが劣っているとかじゃなくて、オッサンが子供の頃は映画ですら実現できなかった技術なので、ことさらに3Dでの動画展開はすごい……と言っておく。
音楽だってまるでオーケストラ。べらべらとしゃべり続ける登場人物たちはドットなど感じさせない滑らかさで、まるでそこに実際いるみたいだ。
練り込まれたストーリーは秀逸……かは、ゲームによるだろうしこの身にもよるだろう。けど、少なくともゲームに参加しているというより、ゲームを通して登場人物たちのストーリーを体験している……ということには変わりない。
え? そんなのRPGなら当たり前だろうって……?
……昔はそうじゃなかった、でしょ?
ファミコンのドラクエを例に挙げれば、そりゃぁまぁ、「魔王を倒してこい」という、最終目標は存在しても、ストーリーというストーリーは無きに等しかった。
勇者たちに人格は存在せず、ローレシアでサマルトリアでムーンブルクという立場はあったけど、彼ら同士の会話など、仲間になる一瞬しかなかった。もちろん、その後も個別にエピソードが存在しているわけでもなかった。
イベントにアニメーションなども無ければ、声なども当然存在しない。村人に話すと『ピロロロロロ』みたいな音を立ててなんとなく声が出ている雰囲気を出しているだけだった。
でもだからこそ……つまりストーリーがあってなかったからこそ、プレイヤーたちは脳内で彼らの冒険を補完した。人によっては、頭の中で彼らが会話していたかもしれない。男男女というパーティで、相関関係を創造した人もいたかもしれない。
正解がなかったからこそ、ゲームを遊ぶ人の数だけのローレシアの王子やサマルトリアの王子が存在しえたのだ。
プレイヤーたちがどこまでを思い浮かべたかは分からないが、同じローレシアの王子でも思い浮かべる性格や声、クセや表情など……そのキャラクターを形成する要素はバラバラだったに違いなく、その妄想こそが楽しかったんじゃないか……?
つまり、昔の冒険ゲームには想像の余地があった。頭の中で世界が広がる余地があったのだ。
今はどうか。ただ見ているだけじゃないのか?
で、だ。
今描いている百噺の28噺目は、矢久作品でもだいぶ珍しい、二人称小説形式となっている。
今回はそうではないんだけれども、この二人称形式を使って、いつかそういう冒険作品を描いてみたいと、ずっと思っている。
主人公(勇者?)のセリフなどほとんどない。エピソードは描かないわけにもいかないけれども、読んで読んで読み進めていくほどに、自分の脳内で冒険が膨らんでいくような……まるで自分が冒険をしているような……そんな小説作品……。
いまだカタチにはなっていないが、それがもし実現するなら、そんなことができるのは、アニメでも漫画でも映画でもなく、小説作品なのだろうと思う。
むやみやたらな映像は、想像力を低下させるからだ。




