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第1話

 重い瞼を開き、体を起こすと、そこは見慣れない真っ白な部屋だった。

 機械の音だけが部屋中に鳴り響いている。自分の置かれた状況がよく分からず、気づいたらここにいたように感じられた。

 

 しばらく窓の外を眺めていた。桜の木が力強く風に揺られている。室内とは違い、外はとても鮮やかに彩られていた。景色を目に焼き付けている所に、扉の開く音がして、そちらに顔を向ける。白衣を着た女性が一人、部屋に入ってきた。一瞬驚いたように目を丸めたが、すぐに笑顔を貼り付ける。その女性はすかさず口を開いた。

「目が覚めたのですね。体調はいかがですか?」

「あのー……これはどういう……」

「覚えていないのですか?」

 女性の目が見開かれる。何か良くないことを言ってしまったのだろうか、と考えたが、その心配はすぐに晴れた。

「あなたは二週間前交通事故に遭ったのです。そこで、頭に強い衝撃を受け、今まで眠った状態でした。」


 つまり、二週間もベッドに横たわっていたということだ。その事実に衝撃が走る。今になって体の痛みが全身を襲った。

「いたた……」

「あまり無理なさらないでください。まだ怪我が治っていないのですから」

 女性の手を借りながら、僕はベッドに横になる。おそらく看護師だろう。その手からは消毒液の匂いがした。状況は少しずつだが理解してきている。


 頭の中で消化しきれなかった疑問を口にした。

「交通事故って、どんな感じだったんですか?」

 語彙力の無さも交通事故のせいなのか、と考えていると、看護師は笑みを消して真っ直ぐに僕を見つめた。

「覚えていませんか……?」

 責めているわけではないのだと分かるように、首を傾げて空気混じりの声で言葉を零す。

「事故前のことは全く……。気づいたらここにいたって感じです」

「そうですか……」

 考え込むように顎に手を添えながら、僕には聞き取れない声で何かを呟いている。


 やがて、僕の方に向き直り、疑問を投げかけた。

「では、お名前は言えますか?」

「はい。月城大和(つきしろやまと)です」

 記憶の確認だろうが、僕の感覚では事故以外のことは、はっきりと分かる気がする。しかしその自信も次の会話で砕かれた。

「では、年齢は分かりますか?」

「十八です」

 間髪入れずに答えると、看護師は目を丸めて明らかに動揺した様子だった。思わず僕の身体も強張る。次に紡がれた言葉で、思考が凍りついた。

「いえ……あなたの年齢は保険証にある通り、今年で二十歳です」

 病室に吸い込まれてしまいそうなほど目の前が真っ白になる。看護師が口を開いたことだけは分かったが、言葉は耳に入ってこない。僕に何かを告げて病室を後にした。

 

 しばらく天井を眺めて呆けていると、また扉が開く音がした。そこには、先ほど説明をしてくれた看護師と、一人の男性が立っていた。白衣の中に青色のギンガムチェックのシャツと、黒いズボン、首には聴診器をぶら下げていた。格好からして医師であることは分かる。

 

 それから、ベッドのまま病院内を動き回り、一通り検査を受け、気づけば病室に戻ってきていた。

 なんて楽な移動なのだろうか。――楽観的に考えるくらいには、現実感が湧いていなかった。

 結果は、交通事故で脳に強い衝撃が加わり、軽度な記憶障害が後遺症として残ったとのことだった。その期間は約二年、大学入学後からの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

「ご家族には連絡しておきますね。」という言葉を最後に、僕は白い空間に一人取り残された。


 次の日、病院で昼食を取り一息ついていると、廊下から大きな足音が近づいてきて、僕の病室の扉を叩いた。

 うるさっ。闇金の取り立てのような力強さで扉を叩かれて思わず耳を塞いでしまう。そんな経験はないんだけど……。いや本当に。

 誰だよ、と心の中で悪態をつく。感情のままに扉の前の主に声をかけた。

「どうぞー……」

 僕が言葉をつぶやくと同時に扉が力強く開かれた。

 優しく開けられないのだろうか。――目を細めて入り口の近くに視線を向ける。

 春には早すぎるほど眩しい笑顔を纏い、温かい空気に包まれた女性が立っていた。

 向日葵(ひまわり)みたいだな、と心の中でつぶやくと、なぜか心の奥がチクリと痛む。どこかで会ったことがあるのだろうか。


「大和くん!」

 突然名前を呼ばれて思わず体が跳ねてしまう。

「ごめんなさい……。どなたですか?」

 言っている自分でも胸が締め付けられるような気がした。それでも、彼女は向日葵のような笑顔で言葉を返す。

「あ、私は大和くんと同じ大学の同級生!二年前から仲良くしてるんだよ!」

 勢いに押されて思わず頷くのも忘れてしまう。その表情をどう受け取ったのか、彼女は続けて言葉を紡いだ。

「大まかな事情については、昨日大和くんのお母さんから電話で聞きました」

 なぜかこちらに頭を下げる動作を繰り返す。慌てて頭を上げるように手で促した。しかし、大事なことを言われていないことに気づき、疑問を口にする。

「あの、お名前は……?」

「あ、忘れてた!桜井未幸です!みゆきはこう……」

 空中をなぞるように指を動かす。

 

 彼女は、文字を書き終えて、一歩こちらに近づいた。ふわりとフローラルの甘い香りが鼻をくすぐる。

 ピンク色のワンピースを身に着けた彼女は、桜の咲く今の季節にマッチしていた。口元に視線を向けたタイミングで彼女はピンク色の唇を開く。

「あ、タメ口でいいからね!よろしく!大和くん!」

 そう言って彼女はこちらに手を差し出す。その手を握り、言葉を返した。

「よろしく……未幸ちゃんでいいのかな?」

「ふふっ、未幸でいいよ」

 未幸は握られた手を上下に激しく振る。一つ一つの動作がとても大きい。あまりの強さに目を細めていると、理解しがたい言葉が降ってきた。

「退院したら幸せを探しに行こうよ!」

「……え?」

 

 ――幸せを探しに行こう。

 

 突然言われたその言葉がどういう意味を持つのか、いくら考えても答えが出てくることはなかった。僕が考えを巡らせていると、続けて未幸が言葉を零す。

「私今、幸せが何か分からないの!だから一緒に探してくれると嬉しいな」

 眩しい笑顔には似合わない言葉が未幸の口から出ていることに混乱してしまう。しかし、その笑顔に惹かれて思わず肯定をした。

「う、うん……行こっか」

 すると未幸は大きい目をさらに見開き、口角を限界まで上げてとび跳ねる。消毒液の匂いだけが漂っていた部屋に、甘い香りが充満して鼻の奥を刺激した。

「やったー!ありがとう!大和くん!」

 その笑顔に体が熱くなり、未幸の眩しさが真夏の太陽を呼び寄せたように感じられた。



 退院するまでの二ヶ月、未幸は毎日お見舞いに来てくれていた。僕の両親は、ここからは少し離れている地元に住んでいるため、二週間に一回くらいの頻度が限界のようだった。なので、未幸が毎日来てくれるのはありがたい。

 

「いよいよ明日退院だねー」

 いつも通りお見舞いに来てくれていた未幸が、絵に描いたような笑顔で言葉を零す。

「毎日ありがとう。ほんと助かったよ」

「いえいえー!」

 顔の前で手を横に振っている動作を終えると、眉尻を下げて僕と視線を合わせた。こちらを見て首を傾げる。

「早速で悪いんだけどさー……二日後、一緒に出かけない?」

 大学は休みなんだ、と言葉を続ける。急だな。二日後って明後日だぞ。今ベッドに横になってる自分が、二日後普通に外を歩いているなんて想像もできない。

 それでも、未幸の表情を見て頷いてしまう。

 ――この顔に弱いんだよなぁ。

 

 不安げに瞳を揺らしながら、下から見つめられると断れなくなってしまう。不満を全て飲み込んで、決心するようにお腹から声を出した。

「行こう、二日後に」

 なぜか、未幸は目を丸め、驚いた表情をしていた。彼女の開いた口がなかなか塞がらない。

「……ほんとに?」

 僕は何も言葉にせず、ただ彼女を見つめて頷く。

「ほんとにほんと!?」

 少しずつ彼女の体が前のめりになる。椅子から落ちてしまうのではないかと心配してしまうほどに。

「うん。ほんとにほんと」

 僕の言葉に未幸は、幸せを探しに行く旅をする必要はなさそうなほど、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「決まりだね!二日後幸せを探しに行く旅に出よう!」

 右拳を上げながら椅子から立ち上がる。窓から入り込んだ日差しが彼女の全身を照らし、未来の幸せを示唆しているのではないかと感じられた。

 

 翌日、僕は次の日の期待感を胸に抱えて、一人、家までの道を辿る。すっかり夏を感じさせる虫の音が辺りをこだましていた。空は透き通るように明るく、太陽が僕のことを力強く照らしている。久しぶりの暑さで自然と前屈みになった視線の先には、僕の作った黒い影が前方へと伸びていた。その対比がどこか胸をざわつかせる。

 胸の奥の期待と不安が、目の前の風景にそっと溶け込み、まるで風景そのものが僕の心を映しているかのようだった。

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