蛍石
「いしやさんでーす」
うだるような夏の暑さの中。
どうせ汗で崩れるからとメイクを全放棄し、すっぴんのままハンディファンの風を顔面で受け止めて歩いていた私は、その声に驚いて思わず足を止めた。
大学への通学路の途中にあるその建物は、とうの昔に閉店したはずの古い商店だ。雑貨を売る店舗の入り口とは別に、タバコを売るための小窓がある――のだが。
この街で生まれ育ち、現在大学生となった私の記憶にある限り、過去に一度も開いていたことがないそのタバコ販売用の窓が、開いている。
そこから子どもの声が聞こえた。
幽霊……という単語が真っ先に浮かぶ。
奇しくも今はちょうど怪談の季節。
……そういえば、夏によく幽霊が出るってことは幽霊って意外とパリピなのかな。
「いしー、いりませんかー?」
もう一度聞こえた。今度は、声がこちらを向いている。子どものパリピ幽霊は、足を止めた私を完全にロックオンしたようだ。
私がおそるおそる窓に近づくと、タバコを販売するためのカウンターの向こうには、髪を二つに結んだ小学校の低学年くらいの少女がちょこんと座っていた。
彼女の真横にはレトロな形状の扇風機が置かれていて、ブーンとやかましい音を立てながら少女に風を送っている。
扇風機を使う幽霊の話はあまり聞かないので、生きているタイプの少女ではあるらしい。
それにしても――。
「……いし?」
カウンターの上には確かに石が十数個並べてあり、その横にかわいらしい犬のイラスト入りのメモ帳が一枚添えてあった。
メモには「1つ 30えん」と書かれている。お店ごっこをしているのだろう。
「セールです」
「はあ」
「暑いから全部買って」
暑いなら、なぜこんなところでごっこ遊びをしているのか。
少女に対する謎は尽きないが……。私に声をかけたのは正解だ。私は比較的「石」というものを好んでいるのだ。
子どもの頃は私もそのへんで石を拾ってきて、部屋に並べたりしたものだ。
彼女が買えというのなら、買ってもいい。ひとつ三十円なら全部買っても五百円もしないのだから。
そしてなによりも、この少女がクーラーのないこんな場所にずっといるのであれば、熱中症が心配だ。そのお金で飲み物を買うように言って……。
そんなふうに考えながら、私はセール中だという石をざっと見回して――唖然とした。
「……これって、全部あなたが集めたもの?」
「拾ったー」
「こっ、これも!?」
「あ、それはちっちゃいけどキラキラしてるから五十円」
なんと、均一と言いつつ他の価格の品も紛れ込んでいる百円均一方式……。
いや……そんなことよりも、いま私が指さしたやや透き通った緑色の石は、エメラルドかなにかの原石ではなかろうか。
改めてきちんと見てみれば、そのへんの茶色い石のようでいて、実はうっすら遊色が見て取れるオパールっぽいもの、きらりと艶めく黒曜石っぽいもの。
……拾った、って。
お店の店頭から……とかじゃないよね。暑いだけが理由ではない、ちょっと嫌な汗がにじむ。
「えっと、この近くで、こんなにいろいろな石が落ちてる場所があるの?」
「うん。お兄ちゃんの部屋に」
「お兄ちゃんの部屋に」
それはたぶん、落ちているものではない。
「お兄ちゃんは、この石いらないんだ?」
「ママが河原に捨てたの。こんなのばっかり集めてるから彼女にフラれるんだってさ」
「お兄ちゃん……」
家族がコレクションの価値を理解せず、所有者に無断で捨てたりフリマに出したりするという話は聞いたことがあるが。しかし……。
彼女の兄なら、中高生くらいだろう。
中高生男子がお小遣いやバイト代でコツコツ集めたであろうものを、そんな理由で捨ててしまうのはあまりにも横暴ではないか。
大学生になっても彼氏彼女という言葉と縁がない人だっているんですよ。私のように!
「でもね、きれいなのもあったから、リリが拾ってきたんだ。これを売って、アイス買うんだよ」
「しっかりしてらっしゃる……」
「だから買ってー」
少女――リリというのが名前かもしれない――は、上目遣いで私を見上げてくる。えー、かわいいな、この子。
だけど、ちゃんと所有者に返してあげるよう説得したほうがいいよねえ……。
ぶぶぶぶぶっ
「うわっ」
そんな葛藤のさなかにある私のカバンのポケットで、窓から部屋の中に飛び込んできたカナブンのような勢いでスマホが震えた。
びっくりした。カナブンが飛び込んできたのかと思った。
表面に悪意を感じるほどの熱を持った黒いカバンから、スマホを引っ張り出す。
その画面に浮かぶ文字は、講義開始の二十分前を告げていた。朝一講義がないから忘れないようにセットしてたんだった。
そこまで急ぐ必要はないが、それでも残された時間内で、私が小学生女子を説得できるのか、と問われれば、それはノーだと胸を張って言える。
それに彼女が説得に応じても、またママが捨ててしまう未来しか見えない。
「じゃあ、全部買う。ええと、全部でいくらあればいいのかな」
「やったー! 全部で二百八十一円!」
「わあセット割すごい……っていうか、アイスの値段?」
「うん!」
一円単位で値段を覚えているくらい、アイスが食べたいのか。すごい執念だな。
「えっと、こまかいお金ないから、五百円で買うよ。だからアイスだけじゃなくって麦茶とかスポーツドリンクも買って飲んでね。熱中症になっちゃうよ」
「いいの!? ありがとう美人のお姉さん!」
お世辞まで言えるとは。すごいな、最近の小学生。
そういう流れで、その日私は、どこかのかわいそうなお兄ちゃんのコレクションと思われる石を手に、大学へと向かった。
***
それから二日経った。
今日も今日とて暑い。ハンディファンの風もぬるいので、濡らすタイプのひんやりタオルを首に巻いてみた。
風が当たった部分は涼しいけれど、当たっていない部分は蒸れてあせもができそう。
人類は自然現象の前でかくも無力なのか――などとと、無駄に壮大な無力感をかみしめながら歩いている私の耳に、再び、声が聞こえた。
「あっ、扇風機持ったひと」
聞き覚えのあるその声は、今日もあのたばこ屋の窓の中から聞こえてきた。というか私、「扇風機持った人」って認識されてたんだ……。
家電抱えて歩いてるみたいなイメージが浮かんでくるけど……。まあ、「ノーメイク汗だらだらの人」よりははるかにいい。
しかし……、また捨てられた石を拾ってきたのだろうか。私は、お宅のお兄ちゃんが家出しないか心配です。
そんな不安を胸に、私はたばこ屋の窓を覗き込んだ。
「……こんにちは」
「こんにちは!」
少女は元気に挨拶を返してくれたが、カウンターの上に商品は置かれていなかった。
その代わりに――というわけではないと思うが――彼女のすぐ横には、成人男性がぐったりした様子で横たわっていた。
年の頃は三十代半ばくらいだろうか。
標準よりもすこし痩せぎすな体型。固く閉じられたまぶたの下には真っ黒なクマが浮いている。――微動だにしないその姿は、限りなく『死』を連想させる様相を呈していた。
「……あの、その人、生き……」
「おにーちゃん! 起きて!」
そんなご遺体のような男性の顔面を、少女はベチベチと容赦のない勢いで叩きはじめた。
……どうやらまだ生存していたらしいその男性は、顔をしかめて「ぐう」と小さなうめき声をあげた。
……うん、痛いよね。音が痛そうだもん。
しかし、少女は彼がうめくだけで起き上がらなかったことが不満だったらしい。
小さな手をぐっと握り――。
「おにーーちゃん!!」
「……ちょ、っ、……」
男性のみぞおちに力いっぱい拳を振り下ろした。
生命の危機を察知したのか、男性は体をひねって逃れようとした……が、残念ながらまったく間に合わなかった。
「だ、大丈夫……です?」
自分でも、いったい誰の何に対して言ったのかわからない言葉が、むなしく宙を舞う。
うつ伏せになって咳き込む男性、「早く起きないからだよ」と口を尖らせる少女、ぬるい風を送り続けるハンディファン、ジージーと降り注ぐ蝉の声……。
この地獄の中で、私はいったい、どうしたらいいのか。
「うう……、どうしてこんなバイオレンスな子に育ったんだ。姉さんそっくりになってきた……」
私が「気配を殺して立ち去る」という選択肢を第一候補として検討しはじめたあたりで、やっと男性がノロノロと体を起こした。
そして、私の方を見て、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああっと、すみません……お見苦しいところを」
「い、いえ……」
目を開けていると、寝ていたときより少しだけ若く見えた。どう見ても寝不足で不健康そうな印象は変わらないが。
……しかし、この人が少女の言う「お兄ちゃん」らしい。
年の離れた兄妹の可能性も全くないわけではないが……。普通に考えて、兄妹ではなく、「親戚のお兄ちゃん」とか「知り合いのお兄ちゃん」というところだろう。
少し若く見えても、それでも三十前後くらい。
……ああ、そうなると、「石ばかり集めているから彼女にフラれた」という言葉の重みがかなり変わってくるなあ……。
「こんな暑い中呼び止めてしまってすみません」
そんな失礼なことを考えているとは思っていないだろう男性は、やはりひどく申し訳なさそうな顔でもう一度小さく頭を下げた。
「それでですね……この子が先日あなたに売った石を、買い戻させてほしくて……」
「ああ、あの石なら――」
「一度は譲ったものを返して欲しいというのは失礼だというのは重々承知しているのですが、あの中にはとても大事な鉱石も含まれていまして!」
「あ、えっと――」
「ある程度なら言い値で買い取りますから、どうか――!」
男性はカウンターに手を乗せて少し前のめりになりながら、私が言葉をはさむ隙間もないくらいの勢いで一気にそこまでまくし立てた。
圧……圧がすごい。
「ええと……あの、無断で処分されたという事情は聞いていますから、私はむしろ、一時的にお預かりするくらいのつもりでいたんです。……チャンスがあれば、元の持ち主にお返ししようと思っていたので、お金なんて必要ありません」
「え!? 返す!?」
「え?」
かばんの中から、例の石が入ったポーチを取り出そうとごそごそし始めていた私は、「目を丸くして絶句する」という男性の驚きように、つられてびっくりしてしまった。
えーと……返すのって、おかしいかな……?
「私、おかしな事を言ったでしょうか……?」
「あっ、すみません!」
おそるおそる聞いてみると、男性はハッとした顔で頭を振った。
「こんなに親切な女性とは、とても久しぶりにお会いしたので……」
「……はあ」
いったいこの人の周りにいるのはどんな女性たちなのか。……ああ、少なくとも、勝手にコレクションを捨てる人物はいるのか。
「……私が彼女から受け取ったのはこれだけです。先ほど仰っていた『大事な鉱石』というのがあるといいんですけど……」
私は、あの日からずっと持ち歩いていた石を、ひとつずつ取り出してカウンターに並べる。
個別にティッシュでくるんで、傷つかないようポーチにもハンカチなどを詰めていたので、並べるのに地味に時間がかかるが仕方がない。
「……すごく丁寧に保管してくれてたんですね」
「全然詳しくはないんですけど、きれいな石を集めるのは私も好きなんです。――自分が大事にしてる石が乱暴に扱われて、傷ついたり砕けたりしたら嫌ですから」
「そう。そうですよね」
男性が大きく頷き、初めてうれしそうな表情を見せた。……笑うと幼い印象になる。年齢不詳だな、この人。
「あ、それです! よかった……」
ポーチの中の石はのこり二つ。そもそも少女が拾った中に大事な石は含まれていなかったのでは……と不安になっていたところで、男性が大きな声を上げた。
それは、磨かれた滑らかな石肌に、ミルクを混ぜたような柔らかなグリーンが美しい、ビー玉ほどの大きさのヒスイだった。
私がカウンターの上にヒスイを置くと、少女が横からヒョイとつまみ上げた。
「これを探してたの?」
「うん。人からもらった、大事なものなんだ」
「ふうん……。リリが拾っててよかったね」
たしかに、彼女が拾っていなければそのまま河原に転がっていたわけだし、通りすがりの誰かに拾われていたかもしれない。そうなったら、取り戻すのはほぼ不可能だ。
「それはそうなんだけど……売るのはダメだろう?」
「だってアイス食べたかったんだもん」
ぶうと頬を膨らませた少女の頭を撫でた男性は、「あっ」となにかを思い出して私を見た。
「そうだ。お金がいらないといっても、リリが受け取った分はお返ししますね」
「あー、そうですね。わかりました」
結局、石の持ち主の財布から五百円が減り、その五百円は少女のお腹に消えたことになるわけだが……。
それでも、無関係な私が出すより身内が払う方が自然だ。お金が関わることで、よく知らない人に借りを作るのは嫌だろうし。
男性は自分の横に転がっていたカバンを引き寄せて財布を引っ張り出した。
「ではこれ、お返しします。……それと迷惑をかけたお詫びに、嫌でなければこれを」
五百円を受け取るつもりで出した私の掌に、五百円玉と一緒に、同じくらいのサイズの鉱石がコロンと乗せられた。
薄い青に、ほんの少しだけ紫色が混じっている。透明感はあまりないが、かわいらしい色合いだ。
「えっと、これ」
お詫びなんていらない、もらえない――返そうとした私に、彼は柔らかく微笑んだ。
「蛍石です。あなたのように優しくてきれいな色なので、ぜひもらってやってください」
「…………」
「? どうかしましたか?」
固まった私を見て、彼は不思議そうに首をかしげる。
この人、天然で、あんなキザなセリフが出てくるのか……。言われた私の方が恥ずかしいんですけど!
そんな私と男性のやりとりを脇で眺めていた少女が、あきれ顔で男性を小突いた。
「お兄ちゃん、そういう感じだからフラれるんだよ」
「……え!? なんで? ――いや、っていうかあれは別にフラれたわけじゃないから」
「ふーん。どっちでもいいけど、簡単にさっきみたいなこというの、やめた方がいいと思う」
「ええ……なんで?」
「別に普通ですよね?」とこちらに同意を求められても困る。私に免疫がなさ過ぎるって問題もあるんだけど、それでも普通じゃないでしょ、あれは!
しかも「フラれたわけじゃない」ってことは、彼女持ちなのに、異性に対してあの言い回し……。
「……やめた方がいいと思います……」
「だよねー」
「うっ、二対一になった……。ええと、気をつけます……」
明らかにわかっていない表情でそう言った男性に、少女は「そうしなさい」とうんうん頷き、それから改めて私を見た。
「そうだ、自己紹介してないね。私は夏井凜々花! お兄ちゃんは悠理だよ。最近引っ越してきたんだ。よろしく! ――お姉ちゃんは?」
少女――凜々花はニカッと歯を見せて笑う。
私は……この流れ、ちょっと言いにくいなあ。
「小郷……蛍です」
「蛍ちゃん? その石と同じだね!」
蛍石――フローライト。
その名前になんとなく親近感を感じ、そこから石好きになった。私にとってはきっかけの石。
優しくてきれいな色。私はこんなにステキだろうか。
「うん、同じ『蛍』なの。よろしくね」
今日も地獄みたいに暑いけど、夏もそんなに悪くないかも……。
そんな少しだけ楽しい気分で、私は凜々花に笑顔を返した。