エピローグ
『――自分自身に打ち勝つことこそが偉大である――』
これは古代ギリシャの哲学者、プラトンの名言だ。
自分自身が最大最強の敵だなんて、現代社会では普及しきった思想ではあるものの。遥か古代より、本来の自分を見つめ直すことなど非常に革新的で、かつ苦で仕方なかったはずである。
世界で初めてこれを唱えた彼は、それこそ自身と真摯に向き合うことで己の弱さたる核心に目を向け、この名言を生んだのだろう。
ただ同時に彼はこうも思ったはずだ。
人間とは裏腹に抱えた欲念に囚われ、時には制御が利かなくなってしまう。
だから己を抑制し、傲慢な感情から脱却するために彼は自身に言い聞かせたのだ。
人の欲望とは常に青天井だから仕方ないのだけれど。
そう、欲望は青天井……青天井……青天井……、青い、天井?
「ん――知らない天井だ」
俺はいつしか仰向けに寝転がっていたようで、空の模様をあらわした青い天井を眺めていた。それは子供部屋にありがちなもので。
え、本当にここどこ?
バッと跳ね起きては、知らない部屋を駆けまわる。
知らない寝床に、知らない廊下。知らないリビングに知らないダイニング。
ついでに知らないパジャマを着てる。
どれをとっても未知なものばかりで、急いで外に飛び出すことを決意。
手前にあった誰のかわからない学生靴らしきものを勝手に拝借しては、ドアノブに手をかけた。
普段とは違う重厚な扉に違和感を覚えては、体重を思いのままに乗せて。
「ちょっ」
ガシャンと音がすると、突如として扉が手から離れていき。
物理法則にのっとり、俺の体重はそのまま前方向にスライドされ、挙句には目の前にあった短い階段に転げ落ちた。
なんとか上手く受け身をとり、最低限のダメージで済んだものの。
体は逆さまで、頭と首を地べたに、背中は壁にくっついている状態だ。
「世界が……反転して、見える」
何事だよまったく。
なんだかデジャヴを感じてしまうのは気のせいだろうか。
すると階段の上で高所から見下している、なんとも図高い存在に目をくらました。
そこにいたのは黒みがかったセーラー服を纏う少女。
紺色で腰までのびた髪との相性が神がかっているそいつは、カツカツと階段を踏みながら歩み寄ってくる。
自身の目の前に来たかと思えば、少女はこう口にした。
「あなた、この世界に自分より強い敵はいると思うかしら?」
次は啓発的な文句とともに、真意の解らない問いかけをしてくるものである。
俺がこんな状況だというのに、相も変わらずお構いなしだな。
それに痛い、痛いよ。落ちたときに肘とか打った気がする。
だが、そうこうしては居られないので、立ち上がってみようとするも頭をあげると、
「あなた、人のスカートの中を覗いて興奮する変態だったかしら。やめて頂戴、私の固有価値が下がってしまうわ」
一瞬、その言葉を真に受けて血迷ったが、目を逸らしては起き上がった。
「その減らず口がなくなったら、もっと価値が上がるだろうよ」
それにしても、何故ここに彼女がいるのか。
あたりを見渡してみるが、ここはどうやら何処かのマンションらしい。
俺が飛び出してきた扉は、不親切なことに階段と一直線上に繋がっていたらしく、バランスを崩して俺が階段から落ちるのは既に用意済みの舞台だったようだ。
螺旋階段にしっかりとした踊り場があることに感謝しつつ、話を進めた。
「とにかく、だ。急に扉を開けないでもらいたい。その度に俺がどこかしら負傷を負ってしまうから」
「何か文句でもあるのかしら?」
ふいっと彼女は横顔を見せる。
不機嫌そうな態度もこれまた美顔が強調されるのはウザったらしい。
「そりゃ文句だらけで……まぁいい。それよりここは……」
つい先ほどまで、我々はあのアパートにいた。
そしてカルネのタイムリープ能力に頼っては、転送先が訳のわからぬマンションの一室。ここにいるのはカルネのテレポーテーション能力か何かか、と推測するも「間違いね」と言われてしまう。
「ここはあなたのお家よ、シモンくん」
「はぁ?」
カルネ曰く、どうやらここは世界線が変動した後のようで。
ようは俺の母親が殺されることがなく、彼女の両親が死んでしまう元ある姿を取り戻した世界なんだと。
「正しい軌跡が描かれた、因果律にとって理想の世界。私たちがエンコンを排除したことによって、世界線の変動が起こり得なかった世界に移り変わったの。ただそれだけのことよ」
「なるほど……」
そうここで一つの疑問が浮かび上がってくる。
「あ、あれ? あの二人はどうなって……この世界にいたはずじゃ」
「彼らはあくまでエンコン。だからこそ、最初から存在なんて微塵たりともなかったのよ」
なるほどそういうことか、本来の世界線にいた俺らは別世界の記憶を保持しつつも、この世界線に回帰したということらしい。
「てか、この世界で俺はどういう立場なんだ?」
それもそのはず、母親を殺されなかっただけでこの世界の三年間はかなりと変容を遂げるはずである。
「あなたは進学を希望していた糸枇亜高校を滑っては、滑り止めの全日制高校に通っているわ」
「まじか、結局落ちちゃったのかよ」
まぁ、あれだけのストレス環境下で受験勉強をしていたんだ。
効率よく勉強なんてできないだろうし、それでもあそこまで頑張った自分を褒め称えるべきであろう。
「ついでに私も糸枇亜高校の生徒ではなくなってしまったわ。この制服のとおりね」
その言葉に勘づいてしまう、この世界の彼女の軌跡を。
そもそも通信制高校に通っていた俺は最低限の勉強しかこなしてこなかった。これからの世界においては勉強三昧で取り残された俺の学力を取り戻さないといけないな。
そのためには己の欲心を抑え込み、現実を向き合う必要性がある。
「学力の面を懸念しているなら問題ないわ。『元・糸枇亜高校の生徒」であった、こ・の・わ・た・しが、特別に教鞭を執ってあげる。感謝なさい」
「う、うぜぇ……いや、うぜぇ。でも素直にありがたい。ありがとよ」
彼女のやろうとしてくれることは非常に助かることだ。だけど勉強がどうした、生活スタイルがどうしただの上辺の話では収まらない問題があるはずで。
「自分自身に打ち勝つねぇ……」
自身の曖昧な気持ちが、心底感じた怨恨が、『エンコン』という悲しいドッペルゲンガーを誕生させてしまったのだから。
その言葉は確かに現状の俺に当てはまることだが、彼にとっても同じだった。
俺と彼は互いに矛盾した存在。
双方の境遇に対しての葛藤が、己しがた本当は何をしたいか解らない自己に対する猜疑心が、どこまでも追及されうることはなくやがて崩壊の一途をたどる。
いずれにせよ、机の上に選択肢が存在すれば選ばれるものは一つに帰結するほかならない。量子もつれによった厳格な世界のルール。
だが、外的要因がなければそれらが選ばれることすらなかっただろう。
どちらかを観測しなければ、世界は決定することはない。
「なぁカルネ、やっぱりこの世界って――」
「シモンくん。ここでは落ち着いて話し合いができないわ。場所を変えましょう」
言葉を重ねられたものの、大人しく受け入れてやった。
ビルから反射する陽光は熱心にも輝きを見せるが、なんだか今日は涼しい気がする。
夏にしてはいい散歩日和だ。
「そういや、タイムリープとか予知とかの能力はまだあるのか?」
ふと気になったことを口にしてみる。
「なぜか予知能力はまだあるのだけども、タイムリープに関してはあれを最後に失せてしまったわ。もう役目は果たされたということかしら」
カルネは自身の掌をみると、嘆息をこぼした。
「かもな。もうタイムリープなんて二度とごめんだ」
「ええ、私もそう思っていたわ」
世界を書き換えた。そう言われれば大層な偉業かもしれないが、当事者の俺らにとってそんなことは重要ではない。
この世界を選んだことに本当に悔いはないのか?
ただただ、その問いだけがいつまでも心中渦巻いている。
たとえ、あの世界がまやかしだったとしても彼女が愛した両親は二度と回帰することはない。死んでしまえばもう二度と手は届かない。
果たして本当にこれが最善の選択だったのか?
彼女に聞き出すにも訊けない内容に往々にして苦悩をする。
ただそれでも彼女は俺にこう投げかける。
「きっと、あなたはずっと考えている。私の痛切な境遇を案じて。これが自意識過剰な発言でなければいいのだけれど」
「お前の言う通りだよ。俺は自分ばかりが欲望を叶えてもらって、カルネは我慢しっぱなしで」
「そんなことを考えているのなら、まずは私の目をみなさい」
「えっと、それはどういう」
「とにかく見なさい」
「な、なんだよ」
俺の目を凝視する彼女。
その翡翠の瞳には吸い込まれそうになるほどに魅力が詰まっていた。
だけどこうして真正面から見つめ合うってのは恥ずかしすぎて、まともに平静を保てなくて。彼女よりも先に目を逸らしてしまった。
「やっぱりこの選択でよかったと、私はそう得心いったわ」
振り返ればいつしか彼女は太陽のような、きらびやかな表情をこちらに見せてくれたようで。
「や、やっぱりお前の考えてることはさっぱりわかんねぇよ」
「さて、本当にそうかしら」
「知らねぇ」
再び彼女は先導しては、影を踏まぬ程度に歩みを合わせていく。
そこで新しく共通点を見出した気がした。
この影のごとく、人は裏腹に抱えている暗い部分があるのだ。
だから各々、彼らそれぞれ、前を歩く彼女の思惑なんぞ詳らかに知る由もない。
けれど、彼女がそういうのならそうなのだろう。
彼女なりのケジメが、決断が、俺を引き連れるようにこの世界に導いたのだ。
その過程できっと心の奥で秘めた想いが溢れ、零れそうにそうになるほどに。
「ねぇ、シモンくん」
名を呼ばれてはカルネのほうに顔を向ける。
そんな中、風が強く吹いてその美しい長い髪の毛をたなびかせた。
彼女は振り返り、俺の正面に立ってはにっこり微笑む。
――いつまでも輝きを忘れさせない存在がそこにはいた。
俺の心までもを照らし出すかのように。
「――私に気付いてくれてありがとう」
この瞬間、彼女――縦伊志カルネは初めて愛を叫んだのかもしれない。