Ⅱ.七節
――あの日のことは忘れることができない。
昨日は家族全員でお出かけ、楽しかったな。
またああいう風にどこかにいって、買い物をしたり、存分に遊んだりしたいものだ。
私は昨日の楽しい思い出に浸っていたさなかである。
今日は久々に学校の居残りをしてしまったもので、帰りが遅かった。
なので外は夏手前ながらも翳りを見せ、日陰はすでに消え去っている。
「早く帰らないと。とにかく走ろう」
私は家族を不安にさせたくなかったため、勢いよく飛び出し家まで直進。
私の家は千代田区には希少種である一軒家。
なかなかの敷地面積を誇り、両親の相当量の稼ぎによった賜物である。
そんな誇らしげな家にとうとう着いては、鞄の中から自宅の鍵を取り出そうとするが見当たらなかった。あれ、私入れ忘れたっけ?
仕方ない、ここはインターフォンを押して親に出てもらおう。
そう思い立ち、押してみるが暫くしても反応がない。
再度押してみるものの、やはり静寂が漂う一方だった。
何かがおかしい。
家の電気はついているし、両親が在宅していると思っていたのだけれど。
私は窓のほうから回って中の様子を確認することにした。
「お母さーん、お父さーん?」
一切反応を示さずに、家は足音一つすらしていない。
私は流石に勘が鈍いというわけではないので、この段階で確信に変わっていた。
家族に何かがあったのだ。
ふと、ガチャリと開扉する音がしたかと思えば誰かが走り去ったかのように見えた。
頭にクエスチョンマークが取れない中で、私は開けっ放しになっていた扉の前に向かって。扉の取っ手には赤くなにかで塗られたような跡が……。
「これは――お母さん! お父さん!」
急いで私は靴を脱がないままでリビングの扉を開ける。
そこには目を背けたくなるような光景が広がっていた。
「おかあ、さん……?」
ぐったりと床に横になっては、口から、お腹から赤赤しい何かが溢れ出していた。
全身が焼けたような熱を帯びる。
――私は信じない。信じないから。
その後に、私がどこで、誰と、何をしたか記憶が曖昧だった。
いつしか私はその場に倒れ込み、気付けば知らない天井を仰いでいて、
「ここは……」
自身の腕には点滴が刺されていたようだ。
私が起きてからまもなくして、ワイシャツを着た男二人と医者が駆け付けてきた。
どうやら傍らの二人組は刑事であったらしい。
そんな彼らに告げられた、その先の話が――
「縦伊志カルネさんですね。お体のほどは大丈夫でしょうか」
「え、えぇ。今は何とも。お気遣い感謝します」
自身の身なりを確認すると、未だ制服姿のままようで。
私は帰宅直後だったことを思い出す。
「そ、それより! 私の両親はどうなったんですか! 教えてください刑事さん」
彼らの体を揺さぶり、激しく答えを求めていた。
私があの時、リビングに入った時点では既にそこは血みどろの空間に化していたのである。その場で私の両親は倒れこみ、それはそれは凄惨この上ないもので。
「その……大変言いづらいものではありますが……縦伊志さんの親御さんは――」
そこでもう解ってしまったのだ。
この先、何を告げられることになるのかを。
だから私は、
「うるさい!」
ききたくない、いやだ、こんなのげんじつじゃない、きっとわるいゆめをみているんだ、わたしがなにをしたの、こんなしうちひどいじゃないか、だってわたしは……。
またも視界が暗くなっては意識を失ってしまった。
そのまま私の処遇は児童養護施設に送致されることとなる。
――今でもこの日が人生史上最悪なことであることは今でも確信を持って言える。
ただただ涙が枯れるまで流したという形容では収まらないほどに、私は毎晩も毎晩も泣き暮れていた。こんな精神的状況下で自決を選択しなかっただけ幸いなことなのかもしれない。それほどに私は追い込まれていたのだ。
だけどある日、私の人生は思いがけない形で一変する。
私の移転先は、地元から距離が離れていたがために転校する運びとなった。
それ以来、不安定な精神状態で馴染めるわけもなく、早々に不登校になってふさぎ込むことになる。私は何もかも空虚だった。
それからしばらくの間、私は誰とも話さず、施設の人にも話かけないでほしいという始末。なんら変わらずして布団で丸まり、今日も学校の休みを連絡しようとした時だった。
電話番号を入力し、学校のほうへ掛けようとすると、
『カルネちゃん、来月は修学旅行があるんだけど、どうするかね』
謎の声が頭の中で響く。いいや、正確には知っていた。
これは普段から学校の電話対応をしている教頭先生の声だ。
だけど待って?
まだ私は電話を掛けていない。
それどころか閉じこもった空間の中で人の声が耳に届くはずもなかった。
まさかの幻聴? 人は追い込まれるとここまで来るのかと軽い恐怖を覚える。
そんなことは一旦忘れ、私は着信ボタンを押した。
耳を当て、2コールほどで応答してくれたらしい。
「もしもし、縦伊志です。本日も体調がすぐれないため欠席連絡を入れたいのですがよろしいですか?」
「もしもしー、教頭の杉浦です。今日もお休みですねー、わかりました。担任のほうに伝えておきますねー」
電話越しで発せられるのは、普段から耳にしている淑女独特の和らぐ声だ。
「毎度のことありがとうございます」
本当にここひと月は、まともに口をきいているのが教頭先生だけかもしれない。
ほんの気休め程度だが、私は教頭と話す数分の会話でかなり落ち着くようだった。
なので心から感謝の気持ちを抱いている。
「いいのよー。あっ、それよりも。カルネちゃん、来月は修学旅行があるんだけど、どうするかね?」
「え?」
「おや、知らなかったのかい? そっちの職員さんには伝えたはずなんだけどねぇ」
修学旅行があるなんて知りもしなかった。
確かにここの職員には接触を断固拒否を示しているため、情報伝達事項が行き届かないのは納得だ。外部の人間と交流を断ち切った私が、修学旅行なんぞ知る由もなかったのだから。だけど、問題はそんなものではない。
電話を掛ける前に聞こえた幻聴。
それがまるまる原形を保ったまま、同じように、同じ声で再生されたかの如く。
そんな奇妙な出来事で頭がいっぱいだった。
それから日常の中で何度も訪れる虫の知らせのような予知。
そんでもって望んだ時間に時空跳躍ができる驚くべき現象。
どうやら私は超能力者というオカルティックな存在になっていたらしい。
不定期に訪れる、事象をあらかじめ知ることができる能力。
おまけに森羅万象を揺さぶるようなタイムリープまで。
最初はこのことが怖くて、誰にも打ち明けることができなかった。
それらのことで私は密やかに懊悩していた日々を過ごすことになる。
自分自身を見失いそうになった一方で、このチカラの活用する手段を策案して。
憂鬱が微かに晴れてきた頃合いに、この人間離れしたチカラを反故にするわけにはいかないと思った。これで私の人生が豊かになるのならと、そう願った。
その能力に目覚めてから三年の時を経る。
ある日常の中でふと脳裏によぎった人物が一人だけ居た。
そういえばあの人は今、何をしているんだろう。
それは過去に私に仲良くしてくれていた近所の男の子、逆穂子シモンくんだった。