Ⅱ.六節
いずれものセトリは終え、無事ライブの成功をおさめた皆望ジェリー。
我々ファンは余韻に浸りながらも会場を後にする。
記念撮影をする者や、あまりの感動に泣き崩れる者もいた。こうみると多種多様なファンが、みな紅一点に向かい愛を伝えているということは不思議なものである。
それほど、ミナチーの魅力を再認識した。
あぁ、人生史上最も幸せな時間だった。もうあの光景は以後、見ることはできないだろうからこそ永久に心に刻んでおきたい。
そして忘れてはならない。
心からの感謝をカルネに。
武道館を後にした時には既に夕日が立っていた。
もうそんな時間か。
蝉はとっくに威勢を失っており、今では影すらも薄い。
これから俺はどうしたものか、と考えているさなか。
そこには小柄で、かなりと整った顔立ちをしている少女が現れた。
「おかえりなさいシモンくん。ライブ、存分に楽しめたかしら?」
「言葉で表現できないほどの感激だったぜ! もう余韻だけで涙が出そうだ……」
「そう、それならよかったわ」
彼女には似合わないような柔らかい顔を見せてくれたように感じる。
常時、気を張っているような彼女にもそんな一面があるのだと実感した。
「それで? これからどうするんだ」
「そうね、一旦は2022年に戻りましょうか」
いつしか彼女が俺の胸元に手をおいたと思えば。
もう慣れ切った暗転にて、時空跳躍が行われた。
ここは……あのマンションの近く。
「ここに来たのはいいが、これからどうすんだ?」
「どうするかというよりも、話したいことがある、ってニュアンスが正しいわね」
彼女は正面を見つめては翡翠色の目を見開く。
その改まった所作に、こちらも真剣な態度を見せなければと身を引き締める。
だが、その態度とは裏腹に思いがけない言葉を投げかけられることになった。
「ね、ねぇシモンくん。やっぱり、この作戦は辞めることにしないかしら?」
「――――え?」
一瞬、彼女が何を言っているのか意味が解らなかった。
「この期に及んでどうした。なにか不都合なことでも」
「いいえ、そうじゃないの。やっぱり私は――」
手を胸の前に当てては、懸命に何かを伝えようとする彼女。
自身の感情の昂ぶりを大人しくするよう言い聞かせ、次の言葉を待った。
「やっぱり私は、シモンくんに母親を殺させるなんて無理よ。あなたを人殺しにして私がなにもせずに都合のいいように……だから、やめにしたの。自分勝手でごめんなさい」
彼女は俯き、バツが悪そうな様子でいる。
「いやいや待て待て。せっかくここまで来たんだ。やらないわけにはいかないだろ。そんなの気にしてちゃ人生進むにも進めねぇって」
「ダメ――ダメなのよ」
「なんだ悪い未来でも見えたのか? それなら言ってほしい。俺が俺の母親を殺したらどうなる?」
いずれも双方、声のトーンが下がり険悪な雰囲気になっていた。
「――言えない」
「は?」
「言えないわ。こんなこと絶対に……」
「言ってくれ! こう、俺らが助け合って初めてこの作戦は……」
つい感情的になってしまった逆穂子シモンは、とっくに周りが見えないようで。
「だめ、なのよ。――もう」
「ど、どこいくんだ!」
縦伊志カルネは途端に踵を返しては走り出す。
まるで俺から逃げるようだった。
「まて!」
そうして俺は彼女を追いかけ始める。
彼女は駆け出し、ビル街のほうへと疾走した。
なんでこんなことをしてまでも、俺から逃げたいのか。
唯一、それだけが解らないままで。
最初はほんの焦燥感なんだと思っていた。だが走るたびに、次第にその気持ちは増幅されて、いずれにも殺意と呼べる悍ましいものに変貌したのだ。
やっとの思いで彼女を追い詰めることに成功する。
ここはとある路地裏。
外の群衆がざわめく場所と打って変わり、静寂が漂っていた。
「きゃっ」
なにか物に足を引っかけたのか、彼女は前屈みに転んでしまう。
その拍子に靴が脱げ、痛そうにしながらも地面に手をついていた。
「なぁカルネ。なんで逃げるんだ」
とうとう立ち上がってみせる彼女に、息を切らしながらも質問を投げかける。
そこで俺はプツンと何かが切れたのか。
無様にも彼女に懇願した。
むしろ脅迫じみていたのかもしれない。
肩を揺さぶっては、激しく問いかけた。
「どうして。どうしてなんだよ……それさえ達成できれば俺らは」
「もうやめて頂戴。今のあなたは……どうかしてるわ」
刹那、左頬が熱くなる、
どうやら彼女が右手で平手打ちをしたらしい。
どうして、どうしてなんだ。
ほんの数時間前までは最大限の優しさを振りまいては、俺の意思を尊重し認めてくれたじゃないか。なのに急に意味の解らぬことを言って、どうしたってんだよ。
一瞬、頭が止まったが現状を飲み込むと、俺はさらに躍起になってしまった。
「なにすんだよ!」
「目を醒ましてはくれないかしら。お願いシモンくん」
潤んだ彼女の瞳はなお訴えかけている。
「わけわかんねぇよ」
しかし、それは逆穂子シモンを逆上させる材料になってしまったのだ。
その中で何を間違えたか持っていた包丁を取り出しては……脅すつもりの材料だったはずのそれを、彼女のお腹に突き刺してしまっていた。
「シモ……ン、くん――?」
やがて鼠色のパーカーが中央から赤く染まっていく。
「どうして……」
痛みに耐えきれなくなった彼女は、ドクドクと血を滴らせながら倒れ込んだ。
「カ、カルネ!」
自身の誤りに気が付いた時にはもう手遅れだった。
「ごめん、ごめん! ど、どうしたらいいんだ。そうだ! 救急車を呼んで」
ポケットに手を伸ばそうとすると、彼女がそれを抑止する。
「だ、ダメ……シモン――くん。因果律の……乱れに」
「そんなことはどうだっていいい! 俺はただ――」
「いいの、よ。シモン――くん。もう、間に合いそうに――ない、から」
「そんな。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! 嘘だ!」
すでに満身創痍で今にも死に絶えそうな彼女に何もすることができなかった。
心底、悔しい気持ちと自責の念で押しつぶされそうになるのと同時に、己への嫌悪感が強まっていく。一方で彼女は口を開いてこうも言った。
「2025年にいる――べつの、あなたと……接触なさ、い」
「――え?」
「片方の私たちが、死ねば……は変わる。世界は……もう一方の、――わたし、たち、を。……。たの、み――――まし、た……」
その瞬間、手の力を失った彼女。
それが死の宣告だった。
声にすらなっていないような声で、痛みなんかを通り越して俺みたいな存在を最後まで気遣ってくれた彼女。
そんな優しすぎる人の前で、俺は情けなく涙を流し続けるしかなかった。
「ごめんな、ごめんな。ほんとうに、俺はお前に何もしてやれなかった。せめてもと思って、もっと胸を張って生きたかっただけなんだ。ただ俺は……」
ふと彼女のポケットから金属音のする小さな物体が落ちた。
これはあのマンションで使っていた鍵。
見た瞬間、それは彼女が作戦のために用意したものだと気付き、大切に拾い上げ。
ただ彼女の命の輝きが失われるとともに、俺は彼女からあるものを託される。
何故だか解らないがそれは、彼女が有していたタイムリープ能力。
彼女の想いを受け継ぐとともに、やまぬ涙に心が押し潰されそうになっていた。
俺は、いつだってお前のことが――。
薄暗く狭いここで、俺は首を上げる。
逆穂子シモンは心底、死にたい気分で天を仰いでは哀を叫んだ。