Ⅱ.五節
先ほどのカルネの指示通り、俺は作戦の準備段階に入っていた。
現在位置するのはもう一人の逆穂子シモンの自宅手前。
渡された紙切れには、俺が以前住んでいたマンション前の待機と作戦執行日時。
この命令に従い、北の丸公園から炎天下の中、移動を行い今に至るという訳だ。
やはりこの高層マンションを見上げるには、まだまだ身の丈が足りないかもしれない。もうあと2メートルくらい足しがあれば、楽になるのだろうが。
儚い夢である。
首が痛くなってきたため、クルクルと頭を回していると。俺が着用すればちょうどよさげなのだろう、その図体にそぐわないパーカーを着て歩み寄る少女に気が付いた。
サッと姿勢を正しては彼女を正面に向かい合う。
「待たせたわね、シモンくん」
翡翠の眼をギラつかせては、相も変わらず綺麗な紺の髪を振ってみせる。
「やっと来たな。今までをしていたんだ」
待ちくたびれたせいで、背筋をのばしては気だるげそうに相槌を打った。
「野暮用というやつよ。別段、あなたが気にすることではないわ」
彼女は俺と同様にマンションを見上げる。
彼女がどこか物憂げな目をしていたのは気のせいだろうか。
「ところで。作戦決行は明後日に設定しているのだけれど、問題ないかしら」
「ああ、カルネに一任するよ」
「ありがとう」
そして考え込むようにして顎に手を当てる彼女。
俺がその精錬された顔立ちを眺めていると、彼女は開口したようで、
「シモンくん。一つ隠していたことがあったのだけど、実はこの作戦が上手くいくと私にもかなりの恩恵が受けられることになるの」
「恩恵って、何をもたらすんだ?」
「あなたの母親が殺される。そのことによって警察は現場付近の警戒態勢をとることになるわ。そして私の両親をあやめた強盗殺人鬼はこの地区で強盗をしなくなるの」
「お、おぉ! すごいじゃんか。俺の悲願が叶うと同時にお前の親まで……いっそうのこと、やる気が漲ってきたぞ。まさにウィンウィンな結末だ」
「ええそうよ。だから直接シモンくんにお願いすることにしたの。利用するようで少々悪き気もするけれど、理解してもらえないかしら」
顔の横にかかった髪を人差し指でクルクルと回しては、遠慮しがちにこちらを見つめてきた。
「そんなことなら気にしない。むしろカルネの両親の命を救えて、俺の窮屈な生活がなくなって。かなりの成果じゃないか」
内心かなりの興奮が堰止められずに顔がニヤついていただろう。
口角が上がってしまうほどの非現実的状況とともに、千載一遇の人生挽回を喫するチャンス到来。絶対にこの機を逃すわけにはいかなかった。
それにしても、
「なんで作戦を取り行うのが明後日なんだ? 別に今日でもよかったじゃないか」
「まだやりたいことがあったのよ。それまでは休んでいるといいわ」
するっと指を前に出しては、意志を貫き通らせるかのようにものを言う。
「今回の作戦はシモンくんに大きな負担になるわ」
「任せろ。ここは男の意地ってもんが――」
「だから、これでも見てきなさい。前払いの報酬よ」
言葉をかぶせられ、手渡された品は目を疑うものだった。
「え! み、皆望ジェリーの武道館ライブチケット⁉ どこでこれを」
「たまたまインターネットで応募したら抽選に見事当選したのよ」
「たまたま、って。まさかカルネもミナチーファンなのか?」
「え、ええ。そうよ、ミナチー……好きだわ。けれど、これはシモンくんに譲るべきだと判断したのよ」
まさかの同士だったことに驚きだ。
「まじかよ、カルネも皆望ジェリーを推しているとは……。けど、本当にいいのか?」
「ええ、気にすることはないわ」
「それなら……ほんとありがとう。この恩は一生忘れない。いや、でも本当に俺が受け取ってもいいのか? カルネが当てたんだろ。いやでもやっぱり欲しい」
「そこまで言われると、ぎゃ、逆に恥ずかしいから辞めてくれるかしら……? こういうのは素直に受け取っておけばいいのよ」
「まじで助かる! どうやってこの恩を返せばいいか……このチケット何円した?」
ポケットから財布を取り出しては、チケット代を払おうとしたのだが、
「元来、見返りなんて求めるような人ではないわ。だから大丈夫。それよりも、シモンくんを2025年に転送してあげるから。武道館ライブに行ってきなさい」
「あぁ! 本当にありがとうカルネ」
「どういたしまして」
嬉々として俺は能力発動を待機する。
そしてカルネは俺の胸に手を当てたかと思えば。
いずれの景色も黒に染められ一転する。
「ここはさっきと同じ公衆トイレか」
カルネは配慮をきかせてくれたようで、北の丸公園にテレポートさせてくれた。
飛び出してみると、蝉の声よりも人のざわめき声のほうがうるさく耳に響く。
本日の武道館ライブに参戦するであろう人々が有象無象にいて、夏とは違うまた何とも言えない暑苦しさを醸し出していた。
左から右に人の波が形成され、そこに埋まりこんでしまえば中々抜け出すことは容易ではないだろう。だが、この先には憧れのライブが……。
俺は胸を躍らせながら人込みの中に入っていった。
順当にそのまま流れで会場入りできるかと思われたが、急に流れが止まる。
人々は謎の停滞のさなか、あちらで何かしらのハプニングが生じていることを話していた。
「なんだなんだ。あっちのほうで騒ぎが起こっているのか」
人口密度が高く、特段身長も高くないので状況は把握できやしない。
だが、前方で人々が何かしらで騒ぎ立てていたことだけは解った。
徐々に人の悲鳴がこちら側に迫ってくる。
なんだ、何が……。
とうとう目の前に騒動の正体が現れたかと思えば、
「うおお!」
思わずの衝撃に、隣にいる人のことを忘れ回避行動をとってしまった。
「ご、ごめんなさい」
ふぅ、びっくりした。
なんだ蜂が飛んできてたのか。そりゃ人が騒いでは叫ぶもんだ。
個人的に虫嫌いなので、本気でビビってしまったことだけは言っておきたい。
するとまた、
「うおおおお!」
第二波だった。今度はさっきよりも巨体な蜂が突進してくる。
なんて災難な……蜂だけは本当に命にも関わるし、刺されたら絶対に痛いだろうし是非ともやめていただきたい。
次第に人々のざわめきも収まった頃合いだろう。
まもなくして、やっとの思いで人がの流れ始める。
よかった、蜂のせいで会場入りできないなんてことがあれば最悪だからな。
とうとう会場の入り口にまで到着し、早速職員にチケット提示を要求された。
半信半疑だったチケット。
恐る恐る見せてみるが、どうやら本当に有効なものだったらしい。
まったく、カルネには感謝してもしきれないな……。
そして予てから憧れた武道館ライブ。とうとう幕開けだ。
ガシャンと照明の光が落ちると反比例して、観客の歓声はますます大きくなっていった。いよいよ始まるといった合図だろうか。すると、
「みなさーん、聞こえますかー?」
ドッと会場のボルテージが一気に爆上がりして。
その透き通った声を起点として、皆望ジェリーの単独ライブが開かれることになった。
タイムリープでの経験よりもはるか凌駕する刺激的新体験に、時間をも忘れライブに熱狂する至福の時間。ああ、なんて幸せなんだろう。
いつまでもこうしていたいな……。
――欲望を解放しろ――