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プロローグ

 ――殺したい気持ちに理由は必要か?――


 目の前の存在を肌身に感じながら、バレぬよう恐怖心を隠した。

 空が朱色に染まっていった日暮れの時。

 やけに響いて聞こえるアナログ時計の秒針は心拍数よりも遅れて進んでいるようで。

現在はどうやら十七時、この時間で夏にしては夕立が早いんだと感じる。

 

 しかし、そんな思考すらも全ては現実逃避をするための手段でしかない。


 何故なら、

「今日は定期テストの返却日よね」


 その一声は、全身をも凍り付かせる。

 まもなくして母親がティーカップに手を伸ばしたころから本題といったところだ。


「隠してないでさっさと出しなさいシモン」

 語気が強くなり頬が引きつっている母親の表情は、目を向けなくてもわかるもので。

 目のやり場を失った俺は、ただただ机の下で指遊びをしている手にしか目を合わせることができなかった。


 怒りの矛先はいつでも心の中枢を突いてくる。

なのに、ここに自身の精神を保ちうるような盾はどこにも存在しない。

ただ同時に、自身を守れるのは己のみだとも自覚していた。


「…………」


 説教がこれから始まる恐怖と、自分自身が口にしないと何も進展がない構図はひどく嫌いだ。時間が許す限りとはいかないし、何より最も俺のことを許していないのは母親だ。


「なに? もしかして今回のテストも五教科合計500点も取れなかったの」

「……ごめんなさい、今回は数学だけが一問間違いの98点でした」


 言ってしまった。まずい、また殴られる。怖い。いやだ、待って俺を撲たないで。


「こんなんじゃ糸枇亜(しびあ)高校なんて夢のまた夢。私学になんて到底いかせるお金は我が家にないし、せめてあそこには行ってくれないと。公立高校なのに東堂(とうどう)大学進学実績が去年は70人越え。入学さえできれば高め合える勉強仲間はたくさんいるわ。そんな貴重なチャンスすらもあんたはふいにするわけ? お母さんがあれだけあなたを思って、勉強に注力するよう大手の進学塾にも通わせたし、そのためにパートまで掛け持ちした。ちょっとは私の気持ちも考えて」


 さらに怒気の含んだ母親の声はエスカレートしていく。

「なのに、またあの男みたいに私を裏切るの?」


 いつまであんな男に縋りついているんだ。

 気持ちを考えてほしいのは俺のほうだろう。


 ただ母親を憎めばいいものの、同時に自己嫌悪に陥ってしまうのがひどく嫌いだ。

きっと俺じゃいけないんだ。こうやって母親を苦しめて、親不孝者で、これじゃまるでただの不良品じゃないか。


 なんて、そんなバカげた戯言に俺が振り回されるわけがない。

「いい加減にして。シモン、あんたいつまでも子供じゃないのよ? 少しはお母さんのためにそれなりの成果を出してちょうだい」


 ――殺してしまえ――


 でもやっぱり俺は、本当にダメな人間なんじゃないか?

 いやいや、そうじゃないだろ。しっかりしろ俺。

 これまでに俺のことを苦しめる諸悪の根源なんて一つじゃないか。

 (はらわた)が今にも煮えくりかえそうな。

 殺意と狂暴じみた心の叫びが心臓の鼓動を伝って脳に送られてくる。


 一方で、母親は手に持ったティーカップが微かに震えていて。


 鬼の形相をしたそれは、まさしく鬼と断言しても差し支えないだろう。

 鼻根あたりを抑えて苦しそうな面持ちだった。


 今にもそのティーカップを投げられそうだ。

 そう予期したものは早々に現になりそうで。

 当たったら痛いだろうな。でも慣れっこだ。

 いつか又できた傷も薄くなって誰にもバレない。

 

 もうこれでいい。助けなんてとっくのとうに諦めたから。

 俺は覚悟を決めて身構える態勢に入ろうとした刹那――――――


 ドンと大きな音とともに何者かがこちらに迫ってきた。

 俺は目の前が深紅に染め上げられ……。


 あまりに衝撃的な光景に以後忘れることができないだろう。

 どこまでも澱んでいた心のため池が、一世一代千載一遇の到来とともにすべてが瓦解した。今まで張り詰められていた風船の空気が、たったひと光の飛来によって、無理やりに、それ上に唐突に突き付けられたかのように。


 俺は現実を目の当たりにすることしかできなかった。

「やめて、そんな……」


 無惨にも切り付けられた命は、さきほどまでに確かに活き活きとしていたヒトである。

足早に駆け付け様態を確認するが、素人知識から見てもまず助かりはしないだろうと判断をしてしまうほどに。


 命を切り刻んだ正体は、まもなくして駆け足で逃げていく。

 俺は自分の衝動に身を任せ、何度も呼びかけながら体を揺さぶった。

「母さん! 母さん!」


 ――すべてはお前が望んだことだろう――


 次第に視界がかすみ、意識すらも朧気(おぼろげ)になっていき。


 俺が気が付いた時には、なぜか母親の肩に手をのせているのがわかった。

 手の甲には紅色に染められた血が、


「うわあああ!」


 とっさに後ずさりをするが、全容を目で捉えては絶句するしかなかった。

 あれ、どうして。どうしてお母さんが目の前でお腹を切って死んでいるんだ?


 なんで、なんでお母さんはこんなにも苦しそうに床に倒れ込んでいるんだ?


「か、母さん――母さん!」


 またも母親のもとに近寄っては必死に名前を呼びかける。

 悲痛な叫びは空を切り、やがて声が枯れ果てるのが先だった。



「――――死なないでよ」

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