第7話 用意された部屋、備えられた沈黙
きぃ、と、扉が開かれた。
その向こうには、何の音もなかった。
街のざわめきも風のささやきも──すべてが、置き去りにされたような空間。
室内には、古びた木材の匂いと油染みの残り香が漂っていた。
だが、それらはどこか不自然に整っていて、まるで誰かの手で空気ごと撫でつけられたような、妙な違和感がまとわりつく。
アリエルは眉をひそめる。
「……人の気配は希薄じゃ。けれど、空気が妙に澄んでおる。
まるで、用意された空間のようじゃな」
リィゼは無言で頷き、剣の柄にそっと触れる。
何も起きていないはずなのに、空気の奥がきしりと鳴った気がした。
ふたりは慎重に奥へと進む。
床板の軋み、壁の染み──どれもが、必要以上に沈黙を守っていた。
そして、居間らしき空間の中心に──
ひとりの少年が、うつ伏せに倒れていた。
先ほど追った、あの少年だ。
金髪の先が頬に貼りつき、白いシャツには土埃が淡く残る。
革靴の片方は脱げかけて、足元には素足がのぞいていた。
アリエルが駆け寄ろうとしたとき、リィゼが手で制する。
「待て」
それに応じて、アリエルは慎重に床に手をかざし、目を細めた。
指先に、空気の濁りが感じ取れる。
「……結界ではない。けれど、魔力が……まだ揺れとる。薄く、残っておるな」
「注意しろ。何かが置いていかれたような気配だ」
リィゼが一歩だけ踏み出し、周囲を見回す。
その間に、アリエルがそっと膝をつき、少年の肩に触れる。
倒れている──だが、確かに息はある。
まぶたがわずかに動き、微かな呼気が、肩の上で温かく揺れた。
「……目は開いておる。脈はある、息もある。だが、これは……ただの眠りとは違う」
アリエルの声には、微かな戸惑いが滲んでいた。
少年のまぶたが、微かに動いた。
そして、わずかに目を開け──焦点の合わぬまま、アリエルの顔を見た。
その瞳は空ろだが、完全に無ではなかった。
ただ、自分の意思で世界を見ているわけではない──そんな印象を抱かせる。
「意識は……『宙吊り』じゃ。自らの意志ではなく、誰かの掌に吊るされた糸の先──そんな感触じゃな」
言葉を落としながら、アリエルはそっと少年の身体を抱き上げた。
骨の軽さ。体温の残る重み。
だが──どこかが決定的に欠けている。
命の灯があるのに、その光が胸の奥に定着していないような、そんな不在の感触だった。
それでも、アリエルの腕の中で、少年の心臓は確かに打っていた。
まるで、まだこの世界にしがみつこうとしているかのように──小さく、弱く、けれど確かに。
その傍らに、小さな紙片が静かに置かれていた。
折り目は丁寧で、封の代わりに金糸がひと巻きされている。
まるで、贈り物のリボンのように。
アリエルは眉をひそめつつ、それを解いた。
紙を開いた瞬間──指が、ぴたりと止まった。
その目が、何か異物に触れたように、ほんのわずか揺れた。
そこに記されていたのは──
『──親愛なる、ハイ・ゴブリン娘様へ──
本来ならば、すべての調律が整ったのちに、お迎えする予定でございました。
けれど、貴女が私を探してくださっていると知り──
私の心は、もう抑えきれませんでした。
ただそれだけの理由で、予定より早く舞台を整えてしまいました。
準備は未完ではありますが、まずはこの少年をお納めくださいませ。
貴女の眼差しの前に供せること──それが、私にとっての歓喜。
どうかご遠慮なく、このひとときをお楽しみいただければ幸甚です。
この部屋の整えは、すべて貴女のために。
前菜をお愉しみいただいている間に、主菜の支度を進めてまいります。
どうか、このささやかなおもてなしが、貴女のご機嫌に叶いますよう──
貴女の崇高なる御心に触れる許しを、心より願って。』
アリエルは手紙をじっと見つめたまま、動かなかった。
眉間には深く皺が寄り、口元には、震えに近い動き。
その目には──怒りや嫌悪ではなく、まず“理解できなさ”があった。
読み終えてもなお、そこに記された言葉の意味が、脳に定着しない。
「……なにを……言っておるのじゃ、これは……?」
息の混じった呟きが、紙片の上に落ちる。
手紙は、端正で丁寧で、礼儀に満ちている。
けれど──『内容』が、あまりにも、ねじれていた。
それはまるで、祝辞の形をした執着。
贈り物と称しながら、明らかに歪んだ“欲望の供物”。
アリエルの手が、紙の端を震わせたとき──
ぴしり、と空気が裂けた。
それは声でも足音でもない。
まるで、部屋そのものの皮膚が小さくひび割れたかのような、音。
ふたりが同時に振り向く。
──そこに、ひとりの少年が立っていた。
その顔立ちは、見覚えがなかった。
けれど──アリエルは、その身なりや髪の色に、かすかな記憶の引っかかりを覚えた。
装いも、さきほど追った少年とは異なる。
だが、その眼差しだけが──まるで別物だった。
その目には、熱があった。
怒りでも敵意でもない。むしろ、それは──歓喜。
見開かれた瞳は、まっすぐにアリエルだけを見つめていた。
熱を帯びたその光は、まるで聖堂にひれ伏す信徒のようであり、同時に、舞台の幕が上がる瞬間を待ち望む役者のようでもあった。
アリエルは目を細める。
「……あれは……失踪者のひとり……?」
口の中で押し出した瞬間、
ぞわり、と背中を撫でるような気配が走った。
この肉体は、誰かのもの。
けれど──中身は、『それ』ではない。
「……誰じゃ、こやつは」
静かな問いかけに、少年はただ、黙ってアリエルを見つめていた。
その表情は、嗤いも語りもせず──ただ、感動していた。
その視線に宿るのは、明確な意志だった。
言葉を持たぬまま、それは『ここまで来てくれた貴女への感謝』を、全身で告げていた。
けれど──アリエルの背筋を、ひと筋の冷たい感覚が這い上がった。
感情を向けられているだけではない。
見られているだけではない。
そこにあるのは、『力』だった。
魔力の波でも、殺気でもない。
けれど確かに、“何かを押し返してくる気配”が、部屋の空気をわずかに軋ませていた。
(……こやつ、ただ者ではない──)
そのあまりに純粋な歪みが、
かえって空気を重たく、息苦しいほどに変えていく。
部屋の灯りがわずかに揺れる。
結界も術もないはずの空間で、何かが始まろうとしていた。
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本日は初日のため、第八話まで30分おきに公開いたします!




