第6話 扉の向こうに、まだ名もない沈黙がある
詰め所を出た通りには、遠くから魚を焼く匂いと、誰かが鍋の蓋を落とした音が漂っていた。季節は初夏。街の外れでは、そろそろ灯がひとつ、またひとつと点きはじめる頃合いだ。
そんな穏やかな風景を背景に、ふたりの足音だけが、どこか不釣り合いに響いていた。
アリエルは、リィゼのすぐ隣を歩いていた。
だが、その肩と肩のあいだには、言葉では測れぬ妙な間があった。
ちょうど、尻尾がひと振り分だけ届かない距離。
「ふん、まったく……あの場ではよう言うてくれたのう」
アリエルがぼそりと呟く。
リィゼは一拍おいて、少しだけ顔を傾ける。
「どの話?」
「『実物より盛ってる』というやつじゃ。あれ、ワガハイのプライドをくすぐったぞ」
リィゼの口元が、かすかに緩んだように見えた。
「……あれは事実だ。というか、場が和んだろう?」
「まあ、そうじゃが……」
アリエルはちら、と横目でリィゼを盗み見る。
相手は前を向いたまま、なにも語らない。
だが、彼女の耳の先が、夕焼けよりわずかに赤く染まっていた。
「……ふふっ」
竜の尾が、ひと振りだけ軽やかに揺れた。
そのときだった。
「……ん?」
アリエルが足を止め、ふいに周囲の空気を嗅ぎ取るように鼻を鳴らした。
そして、鋭く目を細める。
「リィゼ……見ろ」
指差した先、石畳の向こうに一人の少年がいた。
風の向きのせいか、頬にかかる髪がふわりと持ち上がる。
白い肌、金の髪、どこか夢の中のような目。
そして──肌にまとわりつくような魔力の残滓。
「これは……新しいな。しかも、かなり濃い」
「待って、今──逃げた!」
少年はふたりを見たかどうかもわからぬまま、くるりと踵を返して走り出す。
「……追うぞ!」
リィゼが先に動いた。
その背を追うように、アリエルもひと拍おいて竜の尾をはためかせ、軽やかに駆け出す。
走る足元から、風がふっと変わった気がした。
その一瞬、視界の端で逃げていく少年の動きに、なにか──引っかかりが残る。
眉が自然とひそむ。
──なにかが、おかしい。
よく見れば──その走りには、あるはずの“ぶれ”がなかった。
焦りも、迷いも、振り返るそぶりすらない。
まるで逃げているのではなく、あらかじめ決められた場所へ向かっているような
──そんな足取りだった。
その走りには、あまりに感情が欠けていた。
入り組んだ路地を三つ、四つと抜ける。
次第に人通りはまばらになり、空気の温度すら変わってゆく。
──そして、そこにあった。
空き家。
路地の突き当たりに、ぽつんと。
他の建物とは異質な空気をまとっている。
塗りの剥げた木の壁、屋根の一部は崩れ、窓には古ぼけた布がかけられている。
にもかかわらず、不思議なほど整って見えるのはなぜだろうか。
「……あの家だけ、空気が違うな」
「うむ。“閉じて”おる。魔力の膜か、何か……それも極めて静かなやつ」
少年は扉をすうっと開け、何も言わずにその中へと姿を消した。
その仕草すら、まるで舞台に立つ役者のように滑らかで、無感情だった。
ふたりは息を整えることもなく、扉の前に立った。
「行くぞ」
リィゼの言葉に、アリエルは一度だけ深く頷いた。
「……ワガハイは、踊らされるつもりなどない。
だが、踏み込まずにいるつもりも──ないのじゃ」
彼女の赤い瞳が、真っ直ぐに扉の奥を見据える。
そして、ふたりの手がそろって扉に触れ──
きぃ、と、静かに軋む音。
その向こうに広がる空間は、まだ何も語らないまま──ふたりを、静かに待っていた。
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本日は初日のため、第八話まで30分おきに公開いたします!