第5話 名を授ける、それは世界に触れるということ
朝の光がまだ柔らかさを帯びていた。
石畳の隙間に残った雨の名残が、ほのかに靴の裏を湿らせる。
通りには、早朝の市場を支える人々の姿──荷を運ぶ少年、開店の準備をする菓子屋の老夫婦──がちらほらと行き交っていた。
その一角。
まだ開けたばかりのパン屋の前で、リィゼが立ち止まり、紙の地図を広げる。
「……ここだ。昨夜導き出した範囲」
紙の上には、魔力残滓の濃度を表す印と、アリエルが記録した座標が淡く浮かんでいる。
その指がなぞったのは、住宅地と小規模な市場が混在する、雑多な一帯。
アリエルはその地図を覗き込み、ふむ、と小さく唸った。
「市場に隣接し、路地も入り組んでおるな……雑多な地形。
人目が多くて紛れやすいが、逆に目撃されるリスクも高い」
彼女の赤い瞳が細められ、尾を風に泳がせながら街を見渡す。
木造三階建ての傾いた家屋、軒先に吊るされた香草と干し草。
遠くからは、焼き立ての甘いパンの香りが風に乗って漂ってくる。
「このへんをひと通り見たら……詰め所に立ち寄っておこうか」
リィゼが不意に言う。
「む? なぜじゃ?」
アリエルが顔を向ける。
首を傾げる仕草はどこか無防備で、けれどその声の調子は、探るように真っ直ぐだった。
リィゼは、しばし沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「お前が捜査に協力していると、きちんと伝えておく。
万が一のとき、助けを求めやすくなる」
「……ワガハイを、外の者と見なして、不審がられぬように、か?」
「それもある。……が」
そこで言葉を切ると、リィゼは目を伏せ、ほんのわずかだけ口調を落とした。
「お前が一人になったとき、連絡が通るようにしておきたい。
何かあったら……すぐ動けるように」
アリエルは、その言葉の重さを受け止めるように、じっと彼女を見た。
数拍の沈黙ののち──ふん、とひとつ鼻を鳴らす。
「ぬぅ、おぬしにしては、気が利いておるな。
よかろう、詰め所ではワガハイが華麗に名乗りをあげてやろうぞ!」
赤い瞳が得意げに笑い、尻尾がくるりと弧を描いた。
その一方で、顔の端がかすかに赤らんでいるのを、リィゼは見逃さなかった。
「……面倒事は任せる」
その呟きは淡々としていたが、どこか安堵がにじんでいた。
*
*
*
詰め所は、街の南端──
幹線と裏路地が交差する、石畳の交差点の傍らにあった。
庇の下には、掲示紙が幾枚も風に揺れている。
行方不明者の通達、夜間巡回路の変更、持ち込み禁止物の一覧表……
無骨な文言と筆跡が、まるでこの建物の“中身”をそのまま表しているかのようだった。
小さな鐘の音とともに扉が開いた。
室内には、帳面を繰る紙の音。
研ぎ澄まされた槍を磨く、布と金属のこすれる音。
それらの合間に、ときおり控えめな笑い声や、湯気の立つ湯飲みの香りが混じる。
詰所には、肩肘張らぬ“現場の空気”が満ちていた。
張り詰めた規律の下に、日々の疲れと矜持が折り重なっている。
それは、言葉ではなく“空気の濃さ”で伝わる何かだった。
だがその空気は、ふたりの来訪で少しだけ揺れる。
「あ……アルマシア殿……!」
「おい、となりの……あれ……」
「例の、緑の肌と白髪……」
ざわり、と詰所全体の空気がざわめいた。
槍を磨く手が止まり、帳面の筆が中空で固まる。
一人などは慌てて、何かの冊子を棚の奥に押し込みながら視線をそらした。
その一連の気配を──アリエルは、決して見逃さなかった。
「ふん、まったく……失礼な話じゃな」
竜の尾がばさりと揺れ、視線は真っすぐに前を見据える。
「ワガハイは、あんな破廉恥な薄い本のモデルなどでは──!」
「……実物より『盛ってる』と評判だ」
リィゼのぼそりとした一言に、アリエルの耳がぴくりと跳ねた。
「っっ!! そ、そういう問題ではない!!」
机の脚の下で、彼女の尻尾がばしりと跳ねる。
頬がじわじわと染まり、怒りとも羞恥ともつかぬ色に揺れていく。
その様子に、詰め所の空気がふっとほぐれた。
笑いを堪える者、目を伏せて咳払いする者──
一瞬ざわついた空気が、アリエルの尻尾の跳ねとリィゼのぼそりとした返しで、すこしだけ緩んだ。
隊士たちの何人かが、思わず口元をほころばせる。
だが、それ以上の軽口は交わされない。
この場がくだけすぎてはならない場所だという空気だけは、皆が自然と察していた。
奥の帳の奥から、くぐもった声が響いた。
「リィゼ」
現れたのは五十がらみの騎士。
浅黒い肌、左頬に一本の古傷、簡素な紋章入りのマントを羽織った姿。
威圧するでもなく、ただ場を制する重さがあった。
リィゼは短く頭を下げ、アリエルの肩へ視線を送った。
「戻りました。報告と──紹介を」
男は頷くと、まずリィゼに目をやり、それからアリエルをじっと見やった。
「……なるほど。書物で見るドラゴンフォークとは、ずいぶん印象が違うな」
目の端がわずかに揺れる。
「ふむ、竜といえば巨大で凶暴で火を吐くと思っておるのじゃろう?」
アリエルは少しだけ顎を引いて、にやりと口元を歪めた。
「ワガハイは、『知の流れ』に連なる者。外見は小柄でも、誇りと格は折れぬわい」
男は、その言葉を黙って聞いていた。
そして、ごく浅く──だが確かに、頭を下げた。
「……すまなかった、先入観だったな」
言葉に硬さはない。だが、それ以上の軽さもない。
「俺はガラン。この詰め所の世話役だ」
一歩近づいて、リィゼとアリエルのあいだに視線を置く。
「姿は見ていた。ここ数週間、リィゼがやたら緑の影を追っていたからな。」
リィゼが、一歩前に出る。
「彼女は、捜査協力者です。魔術的分析に優れ、痕跡から術式を解読し、施術の意図や、術者の目的までを割り出す技量を持っています。
私が数日かけて築く仮説を、彼女は数時間で補強できる──信頼できる人物です」
言い終えたあと、わずかに間を置いて、静かにアリエルの名を添える。
「……『アリエル』。それが、彼女の名前です」
ガランはゆっくりと頷いた。
「お前がそこまで言うのなら、俺としても疑う理由はない。
その言葉ごと、受け取らせてもらおう。責任も含めてな」
口元だけで微笑を浮かべ、すっと背を伸ばす。
「聞いた通りだ。アリエル嬢は、リィゼとともに捜査にあたる。
……これよりは、協力者として詰め所も支援に入る。異論は?」
誰も異を唱えなかった。
むしろ、数人の若い隊士が姿勢を正し、静かに頭を下げた。
その様子に、アリエルがふん、と鼻を鳴らした。
「……なかなか心得ておるではないか。
これなら、身を預けてもよさそうじゃ。……ワガハイは、アリエルと名乗っておる。
正式には──偉大なる始祖・賢龍王マナスに連なる一族の子、我が父祖アラディブの娘、アリーシャ」
アリエルは少し誇らしげに名乗ると、続けて言った。
「もっとも、特別な者以外には『アリエル』でよいぞ」
その名乗りに、詰め所の空気がぴりりと引き締まる。
それは、ただの呼び名ではないと、誰もが本能で悟った。
リィゼはその様子を、口元だけで笑いながら見つめていた。
ガランがふいに視線を外し、少し声を落として言った。
「……ああ、それと。リィゼのこと、頼んだぞ。こいつはな……不器用で、考えすぎて、口に出すのが遅すぎる。だから、頼む。」
アリエルは、ぱちりと瞬きをし──
それから、にやりと口元を緩めた。
「ふん。ワガハイの目を見くびるでない。
……あやつの硬さは、これからゆっくり、溶かしてやるつもりじゃ」
その言葉に、ガランは何も言わず、ただ小さく──うなずいた。
──そして隣で、それを聞いていたリィゼは。
何も言わず、少しだけ目を伏せて、小さく息をついた。
それは、ため息のようでもあり。
照れ隠しのようでもあり。
彼女の横顔に、わずかに紅が差したのは、きっと誰も見ていない──はず、である。
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本日は初日のため、第八話まで30分おきに公開いたします!