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エビローグ 朝の光が届く場所

「……リィゼ、そこ。鍋、焦げておるぞ」


「えっ、うそ。あー……ほんとだ。でもまあ、ちょっと香ばしくなって美味しいかもよ?」


「根拠のない前向きさは、おぬしの長所じゃな」


「でしょ?」



 アリエルはパンを手際よく切り分けながら、どこか機嫌の良さそうなその笑みに、ため息をついた。

 彼女の表情は、決して緩んでなどいないけれど──

 きっと、笑っていない顔のまま、笑っている。


 リィゼの部屋は、相変わらずだった。


 床には昨夜脱ぎ捨てた服が置きっぱなしになっていて、食卓の端には読みかけの報告書と、半分折れたペンが突っ込まれたままの筆立て。


 窓際には、飲みかけの茶葉入りポットと、うつ伏せになった観葉植物の鉢。

 葉は、光のほうへとわずかに首を伸ばしている。

 倒れてから何日も、誰にも起こされなかったようだった──まるで、それが『慣れ』であるかのように。


 狭いキッチンにふたり分のマグカップが並んでいて、リィゼは片手でスクランブルエッグを混ぜながら、もう片方の手で流しの蛇口を閉めた。


ふたりの朝は、静かだった。

けれどその静けさは、心地よい余白で満たされていた。





 あの夜のあとの話をするなら、まず「沈黙」から始めなければならない。


 突入してきた騎士たちは、一様に声を失った。


 ベッドの上で静かに眠るふたり。

 床に崩れ、涙に濡れているファルク。

 すべてが終わっていた。始まりのような、終わりのような光景だけが残されていた。


 少年たちは保護され、ファルクは拘束された。

 といっても、彼は一言も抵抗せず、ただ両手を差し出してこう言っただけだった。



「ありがとう」



そう、それだけだった。



「のう、アリエル。あの犯人なんじゃがな」



 食卓につき、少し冷めたパンにバターを塗りながら、リィゼが口を開いた。



「……最後、笑ってたよね。泣きながらだけど」


「……そうじゃったかもしれんのう」



アリエルはコーヒーに砂糖を入れながら、わずかに眉を寄せた。



「……変態には変わりないが」


「うん、それは確か。でも……変態にも色々いるじゃない?」


「貴様……変態を分類しようとするな」



 リィゼがふふ、と笑う。



「でも、あの魔術師……なんであんなに泣いてたんだろうね?」


「……知らん」



 アリエルは言い切った。

 だが、その表情はどこか釈然としない。


 あの夜、ふたりの間にあったもの。

 確かに在った『なにか』。

 それを誰よりも深く見たファルクが、どうしてあれほど涙を流したのか。



──今も、わからない。



 わからないけれど、 「何もなかった」と言うには、もう遅すぎた。


 そのときだった。

 ばさり、と。


 窓の外から羽音が聞こえたかと思うと、小さな包みが空から落ちてきて、テーブルの上にコトン、と音を立てた。


 一羽の鳥が、旋回するようにして窓から飛び去っていく。

 まるで任務を終えた使いのように、軽やかに。



「……手紙、か?」



 アリエルが包みを取る。

 封蝋には、見覚えのある模様。



──ファルクの魔印。


「また厄介な魔術……?」


「いや、違う。これ、読んでみて」



 リィゼが封を開けて、手紙を広げる。



『拝啓 おふたりへ。


あの夜のことを、言葉にする術を私は持ちません。

けれど──私は、確かに触れたのです。

この身の奥深く、何かが灯るのを、はっきりと感じました。


世界は、いまだ救いの彼方にあるのかもしれません。

それでも私は、なお愛という名の光を信じてみようと思います。


もし、再びおふたりの旅路に

私の力が必要とされることがあるならば──


どうか、ためらわずに声をかけてください。

それが、私に与えられた贖いであり、

そして、私が選び取った再生なのですから。


愛と祈りをこめて──

ファルクより』



「まさか、脱獄?いや、だどしてもこれは……?」


「……ちょっと何言っているか、わからないね」



 アリエルは鼻を鳴らしてパンをかじった。

 リィゼは、ふっと笑ってコーヒーをすする。


 そして、一拍おいて。


 リィゼが、なにげないように言った。



「ねえ、アリエル」

「……なんだ」

「この部屋、狭いよね。キッチンも小さいし、洗濯物干す場所もないし」

「……まあ、否定はしない」


「もしさ──ふたりで暮らすなら、引っ越さなきゃね?」



 ……言ってから、ほんの一瞬、リィゼの指先が止まった。

 その沈黙を、アリエルは見逃さなかった。


 アリエルの手が、パンを持ったまま止まった。



「……ふたりで、か」



 しばらくの沈黙のあと、アリエルは目を細めて答えた。



「……真面目に、検討しておこう」



 ふたりの間に、ことさら変わった何かはなかった。

 けれど、確かに始まった何かが、そこにはあった。


 それはまだ形のない未来。

 けれど、きっと──もう逃げない。


 窓の外には、眩しい朝日。

 湯気の向こう、ふたりの影が重なって、ゆっくりと、朝に溶けていく。



 ──もう、この日常から逃げ出す理由は、きっとどこにもない。

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