エビローグ 朝の光が届く場所
「……リィゼ、そこ。鍋、焦げておるぞ」
「えっ、うそ。あー……ほんとだ。でもまあ、ちょっと香ばしくなって美味しいかもよ?」
「根拠のない前向きさは、おぬしの長所じゃな」
「でしょ?」
アリエルはパンを手際よく切り分けながら、どこか機嫌の良さそうなその笑みに、ため息をついた。
彼女の表情は、決して緩んでなどいないけれど──
きっと、笑っていない顔のまま、笑っている。
リィゼの部屋は、相変わらずだった。
床には昨夜脱ぎ捨てた服が置きっぱなしになっていて、食卓の端には読みかけの報告書と、半分折れたペンが突っ込まれたままの筆立て。
窓際には、飲みかけの茶葉入りポットと、うつ伏せになった観葉植物の鉢。
葉は、光のほうへとわずかに首を伸ばしている。
倒れてから何日も、誰にも起こされなかったようだった──まるで、それが『慣れ』であるかのように。
狭いキッチンにふたり分のマグカップが並んでいて、リィゼは片手でスクランブルエッグを混ぜながら、もう片方の手で流しの蛇口を閉めた。
ふたりの朝は、静かだった。
けれどその静けさは、心地よい余白で満たされていた。
*
*
*
あの夜のあとの話をするなら、まず「沈黙」から始めなければならない。
突入してきた騎士たちは、一様に声を失った。
ベッドの上で静かに眠るふたり。
床に崩れ、涙に濡れているファルク。
すべてが終わっていた。始まりのような、終わりのような光景だけが残されていた。
少年たちは保護され、ファルクは拘束された。
といっても、彼は一言も抵抗せず、ただ両手を差し出してこう言っただけだった。
「ありがとう」
そう、それだけだった。
「のう、アリエル。あの犯人なんじゃがな」
食卓につき、少し冷めたパンにバターを塗りながら、リィゼが口を開いた。
「……最後、笑ってたよね。泣きながらだけど」
「……そうじゃったかもしれんのう」
アリエルはコーヒーに砂糖を入れながら、わずかに眉を寄せた。
「……変態には変わりないが」
「うん、それは確か。でも……変態にも色々いるじゃない?」
「貴様……変態を分類しようとするな」
リィゼがふふ、と笑う。
「でも、あの魔術師……なんであんなに泣いてたんだろうね?」
「……知らん」
アリエルは言い切った。
だが、その表情はどこか釈然としない。
あの夜、ふたりの間にあったもの。
確かに在った『なにか』。
それを誰よりも深く見たファルクが、どうしてあれほど涙を流したのか。
──今も、わからない。
わからないけれど、 「何もなかった」と言うには、もう遅すぎた。
そのときだった。
ばさり、と。
窓の外から羽音が聞こえたかと思うと、小さな包みが空から落ちてきて、テーブルの上にコトン、と音を立てた。
一羽の鳥が、旋回するようにして窓から飛び去っていく。
まるで任務を終えた使いのように、軽やかに。
「……手紙、か?」
アリエルが包みを取る。
封蝋には、見覚えのある模様。
──ファルクの魔印。
「また厄介な魔術……?」
「いや、違う。これ、読んでみて」
リィゼが封を開けて、手紙を広げる。
『拝啓 おふたりへ。
あの夜のことを、言葉にする術を私は持ちません。
けれど──私は、確かに触れたのです。
この身の奥深く、何かが灯るのを、はっきりと感じました。
世界は、いまだ救いの彼方にあるのかもしれません。
それでも私は、なお愛という名の光を信じてみようと思います。
もし、再びおふたりの旅路に
私の力が必要とされることがあるならば──
どうか、ためらわずに声をかけてください。
それが、私に与えられた贖いであり、
そして、私が選び取った再生なのですから。
愛と祈りをこめて──
ファルクより』
「まさか、脱獄?いや、だどしてもこれは……?」
「……ちょっと何言っているか、わからないね」
アリエルは鼻を鳴らしてパンをかじった。
リィゼは、ふっと笑ってコーヒーをすする。
そして、一拍おいて。
リィゼが、なにげないように言った。
「ねえ、アリエル」
「……なんだ」
「この部屋、狭いよね。キッチンも小さいし、洗濯物干す場所もないし」
「……まあ、否定はしない」
「もしさ──ふたりで暮らすなら、引っ越さなきゃね?」
……言ってから、ほんの一瞬、リィゼの指先が止まった。
その沈黙を、アリエルは見逃さなかった。
アリエルの手が、パンを持ったまま止まった。
「……ふたりで、か」
しばらくの沈黙のあと、アリエルは目を細めて答えた。
「……真面目に、検討しておこう」
ふたりの間に、ことさら変わった何かはなかった。
けれど、確かに始まった何かが、そこにはあった。
それはまだ形のない未来。
けれど、きっと──もう逃げない。
窓の外には、眩しい朝日。
湯気の向こう、ふたりの影が重なって、ゆっくりと、朝に溶けていく。
──もう、この日常から逃げ出す理由は、きっとどこにもない。