第2話 その名を、互いに呼ぶ前に
ハイ・ゴブリン娘が後ろからついてくる気配を感じながら、女騎士は静かに扉の前で立ち止まった。
「……ここだ」
短くそう言って、鍵を回す。
扉が軋む音を立てて開かれた瞬間、少しこもった生活の気配と、紙と鉄の匂いがふたりを包み込む。
部屋の中は、意外なほど“人の気配”に満ちていた。
壁には地図や似顔絵がびっしりと貼られ、赤い糸が事件の現場を結んでいる。
その間を埋めるように、証言メモや時系列表、魔導文字の断片が紙片として貼りつけられていた。まるでこの空間全体が、ひとつの巨大な捜査資料のようだった。
しかし――
「……思ったより、散らかっておるな」
部屋の片隅には脱ぎっぱなしのブーツ、半ば剥がれかけた鎧のパーツ。
籠の中にくしゃくしゃに押し込まれた下着類は、整理という概念から距離を置いている。
「片付けてる暇なんか、ないんだ。事件が立て続けでな」
女騎士は素っ気なく言い、薬缶に水を汲みながら肩をすくめた。
「とりあえず、そこに座って。お茶を淹れる」
ハイ・ゴブリン娘は部屋の隅にある椅子に腰かけながら、ぐるりと視線を巡らせた。
目を引いたのは、机の上に無造作に置かれたイチゴジャム入りのクッキーの袋だった。
(……あれは、甘いやつ……)
ぴくん、と耳が動く。
目は書類を見るふりをしつつ、袋の位置を微妙に視界に収めた。
「さて、情報共有だ」
女騎士が報告書の束を持って戻ってくる。
「これまでに失踪した少年は七人。全員が十歳前後、いずれも整った顔立ちで、
姿を消す前に“誰かと話していた”という証言がある。ただ、その『誰か』の顔を覚えている者はいない」
「記憶に干渉する魔術、もしくは認識の改ざん……ふむ」
ハイ・ゴブリン娘は顎に手を当てる。
指先には魔力の粒子がわずかに宿り、机上の紙に触れると、淡い輝きが生まれた。
「……ふむ、なかなか込み入っておるのう。だが、ワガハイが解析してくれようぞ。偉大なる始祖・賢龍王マナスに連なる者として──父祖アラディブの名にかけて、
この魔術の痕跡、暴いてみせるわい!」
女騎士がわずかに目を細めた。
「ドラゴンフォーク……か。
『知恵ある竜の末裔』と呼ばれていたな。だが、実物に会うのはこれが初めてだ。
ハイ・ゴブリンと呼ばれているが、それは──」
「人間どもの勝手な命名じゃ。緑の肌に長耳、それだけで“ゴブリンの上位種”と決めつけおって」
ハイ・ゴブリン娘は、ふん、と鼻を鳴らした。
「ワガハイは、ゴブリンとは違うのじゃ。ワガハイらは、知の流れに属する。
……その誇りだけは、忘れぬようにな」
「わかった。以後、気をつけよう」
女騎士は真っ直ぐな視線で頷く。
その誠実さに、少女はほんの少しだけ機嫌を直したようだった。
「ところで……解析に必要なものは?」
「うむ。それについては、非常に重要なものがある」
ハイ・ゴブリン娘はピシリと人差し指を立てた。
「甘味じゃ。脳の働きを活性化させるために必要なのじゃ。具体的には、そこにある──いちごジャム入りのクッキー!!」
「それ……私の非常食なんだが」
「ワガハイは今、『非常』な状況にあるのじゃ!」
押し問答の末、女騎士は小さくため息をつきながら袋を手渡す。
少女はぱあっと顔を輝かせ、はむっ、と満足げにクッキーを齧った。
「むふふふ……これぞ、ワガハイの燃料。
……よし、これで魔力も満ちた。いざ、解析開始じゃ!」
その姿を見て、女騎士はわずかに口元を緩めた。
だが次の瞬間、ふと思い立ったように立ち上がる。
「よし。じゃあ、これが終わったら──ケーキを買ってきてやる。
……甘いのが好きなんだろ?」
「……け、けーき……?」
紅の瞳が、まんまるに見開かれた。
そして、椅子の下──マントの裾から、竜の尻尾がぴこぴこと上下に小さく跳ねる。
ハイ・ゴブリン娘はそれに気づき、慌てて椅子の背に尻尾を押しつけるようにして押さえ込んだ。
「いちごと、生クリームのやつがあるらしい。
街で評判の店で、ちょっと並ぶけど……その価値はあるそうだ」
「ま、まじか……!? いや、別に……そこまで甘いものが好きというわけでは……その……」
もごもご言いながら、しかし顔はどんどん赤くなっていく。
「解析、期待してるぞ」
女騎士はそう言って、扉の前に立った。
だが、取っ手に手をかけたところで、ふと思い出したように足を止める。
「そういえば──名乗ってなかったな」
振り返らずに、彼女は続ける。
「私の名は、リィゼ=アルマシア。
……よろしく頼む、『知恵ある竜の末裔』」
そして一拍。
無言のまま背を向けて、扉に手をかける。
その動きは、明らかに『お前は?』と問いかけていた。
しばしの沈黙ののち、少女はふうっと息を吐くように言った。
「偉大なる始祖・賢龍王マナスに連なる一族の子──
我が父祖アラディブの娘、アリーシャ」
扉の向こうでリィゼが立ち止まる。
「……お前の『本当の名』か」
「そうじゃ。ワガハイの、誇りの名じゃ。
アリーシャと呼んでよいのは……ま、特別な者だけじゃがな。普段は……アリエルでよい。そう名乗っておるからの」
少しだけ照れを込めたその声音に、リィゼはふっと目を細め、扉の前で足を止めた。
「では、その名……大切に覚えておこう」
女騎士は、扉越しにわずかに笑みをこぼしたようだったが、それ以上は何も言わず、静かに出ていった。
部屋には再び静寂が戻った。
けれどその静けさは、ただの無音ではなく──名を交わした者たちだけが感じる、やわらかな余韻を宿していた。
アリエルは、そっと指先で紙をなぞりながら、小さく呟く。
「……ふん、リィゼ、か。
悪くない名じゃの。……ま、ちょっとだけ、じゃが」
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本日は初日のため、第八話まで30分おきに公開いたします!