表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/21

第19話 名もなき祝福の中で

 床は冷たくなかった。

 ファルクの額が触れた石床は、まるで心の奥底を撫でるように、静かに沈黙を湛えていた。


 その静けさの中、彼は泣いていた。

 声もなく、涙だけが、次から次へと溢れていた。


 理由はわからなかった。

 ただ、胸の奥がぐしゃぐしゃに潰れていく。

 崩れ、溶けて、なくなって、空っぽになって、

 そしてそこに、何かが──満ちていくのを感じていた。


 目の前の光景。

 ベッドの上、重なり合うふたつの影。


 リィゼとアリエル。

 互いに名を呼ぶことすらせず、ただ、体温と気配と呼吸だけを交わすふたり。


 それは、決して『行為』ではなかった。

 それは、『証』だった。


 愛が、確かに存在するということの。

 そして、それがこの世界に、まだ残されているということの。


 ファルクは知っていた。

 愛という言葉が、どれだけ胡散臭く、人を騙すものになり得るかを。

 信頼がどれほど容易く裏切られ、利用され、壊されるかを。


 だから、もうとっくに見限っていたはずだった。

 人の心なんて、ただの幻想。

 感情なんて、欺瞞。

 関係なんて、契約に過ぎない。


 それでも、今この瞬間、

 ファルクの胸を締めつけていたのは、

 そうした諦念を裏切るほどの真実だった。


 ふたりの姿が、美しかった。

 ただそれだけだった。



 ……



「……どうして、こんな……」



 喉の奥から、しぼり出すように言葉が漏れた。

 言葉にしてしまえば壊れてしまうと、わかっていた。

 でも、もう黙っていられなかった。



「誰も……ワタシを……救おうとは……していなかったのに……」



 ……音がした。

 ごとり、と。


 それは、誰かが椅子を揺らしたような、ごく微かなきしみ音だった。


 半円に並ぶ七脚の椅子──

 その中心。最も大きく、装飾も豪奢な玉座のような椅子が、

 微かに──震えた。


 次の瞬間。

 そこから、転がるように一つの影が現れた。


 絡まる脚。這うような動き。

 そして、それは人だった。


 衣擦れの音が、床に落ちる。

 膝をつき、両の手を床に突き、

 まるで崩れ落ちるように──その男は、嗚咽した。


 背中が波打つ。

 吐き出した息が、濡れた石に小さく弾けた。


 床に伏したまま、彼は嗚咽を噛み殺すように、指を強く握りしめた。

 あまりにも長い時間、心の奥に塵のように降り積もっていた絶望がいま、ようやく流れ出していた。


 それは誰の手によってもたらされたわけではない。

 誰かが、彼に手を差し伸べたわけではない。

 誰も、慰めの言葉すらくれなかった。


 けれど──


 そこに、赦しがあった。


 それは贈られたものではなく、

 彼が、ただ“見てしまった”ものだった。


 ……


 ふと、記憶の奥底で、何かが呼吸した。


 まだ幼かった頃。

 人の心の色が、ほんのりと“光”のように見えていたころ。


 不安が紫。

 怒りが赤。

 祈りが薄金色。


 あの頃は、それが美しいものだと信じていた。

 人の内側には、皆それぞれの“光”があるのだと。

 その光を見つける術が、精神魔術だと。



「──それは、美しい術でした……」



 ファルクは呟いた。

 誰に語るでもなく。

 ただ、自分という存在の最奥にいる、

 『あの頃の自分』に向けて。



「……私は……もう一度、あの光を見たかっただけだった……」



 そのとき、不意に、何かが胸の奥で弾けた。


 それは赦しだった。

 他人から与えられるのではない、

 自分がようやく、自分に与えることを許した赦し。


 涙が止まらなかった。

 呼吸が苦しかった。

 それでも、ファルクの顔には、笑みが浮かんでいた。


 喜びでもなく、安心でもなく。

 それはただ、長い長い夜を越えて、ようやく朝が来た人の顔だった。



「……ああ……」



 ベッドの上から、微かな寝息が聞こえた。

 どちらのものかは分からなかったが、その音は、何よりも静かで、温かかった。



「……あなた方は……なにもしていないのに……」


「ただ、そこにおられただけなのに……」


「……私は……こんなにも……救われてしまった……」



 ファルクは、声にならない声で、泣き続けた。

 その涙はもう、悲しみのものではなかった。

 過去への未練でも、今への怒りでもない。


 それは、自分がようやく『在ってよい』と認められたことへの涙だった。



「……これが、美か……」



 静かに、息を吸う。

 冷たい石床の香りが、胸の奥にしみわたっていく。


 石床はもう、冷たくなかった。

 それはまるで、遠くにある誰かの掌のように、やさしく、あたたかかった。



「……これが、ワタシの──『はじまり』か……」



 その言葉を最後に、ファルクはそっと目を閉じた。


 ──その瞬間だった。


 広間の空気が、すう……と、微かに揺れた。


 それは、風ではない。魔力でもない。

 まるで、長い夢の底から小さな呼吸が浮かび上がってくるような──

 そんな、静かな動きだった。


 ふと、布の擦れる音がした。



「……ん……」



 微かに、寝息のような呟き。


 目覚めたのは、一人の少年だった。

 あどけない頬に貼りついた銀髪が、ゆっくりと揺れる。



「……なんか、……夢、みてた……っけ……?」



 少年は、まだ焦点の合わない瞳であたりを見回す。

 その視線は宙を泳ぎ、やがて、ベッドの上のふたりへと──

 届く寸前で止まった。


 ……見ていない。

 いや、まだ見なくていい。


 隣でもう一人の少年が、眉をひそめながら寝返りを打つ。

 別の子が、ぼそりと呟いた。



「……おなか……すいた……」



 どこか夢の続きのような声。

 その言葉に、すぐさま返事はなかったけれど、

 小さな笑い声が、ひとつ、こぼれた。


 笑った自覚すらないような、あまりに自然な、それは。


 彼らは戻ってきたのだ──

 ほんとうの自分たちの場所へ。

 長く閉ざされていた世界のすぐ隣にあった、光の中へ。


 誰に許されたわけでもない。

 ただ、そういう時が、今、訪れたのだった。





 そして。

 突如として、音が破られた。


 ごぉん、と。

 重厚な木製の扉が、強引に開かれる音。



「──確認! 中に反応あり!」



 低く、鋭い声が響く。


 足音が乱れ、甲冑が触れ合い、剣の鍔が跳ねる音が続いた。


 白銀の騎士たちが、一糸乱れぬ隊列でなだれ込んでくる。

 室内の空気が、一瞬で“戦場”のものに切り替わる。



「ッ、急げ、状況把握!」


──だがその場にいた誰も、声を失っていた。



 彼らの視線が、一点に縫い止められる。


 ベッドの上。

 絡み合ったまま静かに横たわる、ふたりの少女。

 布の波紋の奥で、深く眠るようなその姿。


 そして、床。

 まるで祈りの果てのように崩れ伏し、嗚咽をこぼし続ける、男の影。


 言葉にならない、というより──

 言葉を挟んではならないような、静寂。


 ……それは、祈りのあとだった。

 もう儀式は終わっていた。

 世界は、静かに、その祝福を受け止めていた。


 ひとりの騎士が、そっと息を吐いた。



「……全員、生存を確認。

 状況……極めて、特殊。これより回収を開始します……」



 そうして、誰も声を荒げることなく、

 ひとつの幕が、静かに──閉じられていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ