第19話 名もなき祝福の中で
床は冷たくなかった。
ファルクの額が触れた石床は、まるで心の奥底を撫でるように、静かに沈黙を湛えていた。
その静けさの中、彼は泣いていた。
声もなく、涙だけが、次から次へと溢れていた。
理由はわからなかった。
ただ、胸の奥がぐしゃぐしゃに潰れていく。
崩れ、溶けて、なくなって、空っぽになって、
そしてそこに、何かが──満ちていくのを感じていた。
目の前の光景。
ベッドの上、重なり合うふたつの影。
リィゼとアリエル。
互いに名を呼ぶことすらせず、ただ、体温と気配と呼吸だけを交わすふたり。
それは、決して『行為』ではなかった。
それは、『証』だった。
愛が、確かに存在するということの。
そして、それがこの世界に、まだ残されているということの。
ファルクは知っていた。
愛という言葉が、どれだけ胡散臭く、人を騙すものになり得るかを。
信頼がどれほど容易く裏切られ、利用され、壊されるかを。
だから、もうとっくに見限っていたはずだった。
人の心なんて、ただの幻想。
感情なんて、欺瞞。
関係なんて、契約に過ぎない。
それでも、今この瞬間、
ファルクの胸を締めつけていたのは、
そうした諦念を裏切るほどの真実だった。
ふたりの姿が、美しかった。
ただそれだけだった。
……
「……どうして、こんな……」
喉の奥から、しぼり出すように言葉が漏れた。
言葉にしてしまえば壊れてしまうと、わかっていた。
でも、もう黙っていられなかった。
「誰も……ワタシを……救おうとは……していなかったのに……」
……音がした。
ごとり、と。
それは、誰かが椅子を揺らしたような、ごく微かなきしみ音だった。
半円に並ぶ七脚の椅子──
その中心。最も大きく、装飾も豪奢な玉座のような椅子が、
微かに──震えた。
次の瞬間。
そこから、転がるように一つの影が現れた。
絡まる脚。這うような動き。
そして、それは人だった。
衣擦れの音が、床に落ちる。
膝をつき、両の手を床に突き、
まるで崩れ落ちるように──その男は、嗚咽した。
背中が波打つ。
吐き出した息が、濡れた石に小さく弾けた。
床に伏したまま、彼は嗚咽を噛み殺すように、指を強く握りしめた。
あまりにも長い時間、心の奥に塵のように降り積もっていた絶望がいま、ようやく流れ出していた。
それは誰の手によってもたらされたわけではない。
誰かが、彼に手を差し伸べたわけではない。
誰も、慰めの言葉すらくれなかった。
けれど──
そこに、赦しがあった。
それは贈られたものではなく、
彼が、ただ“見てしまった”ものだった。
……
ふと、記憶の奥底で、何かが呼吸した。
まだ幼かった頃。
人の心の色が、ほんのりと“光”のように見えていたころ。
不安が紫。
怒りが赤。
祈りが薄金色。
あの頃は、それが美しいものだと信じていた。
人の内側には、皆それぞれの“光”があるのだと。
その光を見つける術が、精神魔術だと。
「──それは、美しい術でした……」
ファルクは呟いた。
誰に語るでもなく。
ただ、自分という存在の最奥にいる、
『あの頃の自分』に向けて。
「……私は……もう一度、あの光を見たかっただけだった……」
そのとき、不意に、何かが胸の奥で弾けた。
それは赦しだった。
他人から与えられるのではない、
自分がようやく、自分に与えることを許した赦し。
涙が止まらなかった。
呼吸が苦しかった。
それでも、ファルクの顔には、笑みが浮かんでいた。
喜びでもなく、安心でもなく。
それはただ、長い長い夜を越えて、ようやく朝が来た人の顔だった。
「……ああ……」
ベッドの上から、微かな寝息が聞こえた。
どちらのものかは分からなかったが、その音は、何よりも静かで、温かかった。
「……あなた方は……なにもしていないのに……」
「ただ、そこにおられただけなのに……」
「……私は……こんなにも……救われてしまった……」
ファルクは、声にならない声で、泣き続けた。
その涙はもう、悲しみのものではなかった。
過去への未練でも、今への怒りでもない。
それは、自分がようやく『在ってよい』と認められたことへの涙だった。
「……これが、美か……」
静かに、息を吸う。
冷たい石床の香りが、胸の奥にしみわたっていく。
石床はもう、冷たくなかった。
それはまるで、遠くにある誰かの掌のように、やさしく、あたたかかった。
「……これが、ワタシの──『はじまり』か……」
その言葉を最後に、ファルクはそっと目を閉じた。
──その瞬間だった。
広間の空気が、すう……と、微かに揺れた。
それは、風ではない。魔力でもない。
まるで、長い夢の底から小さな呼吸が浮かび上がってくるような──
そんな、静かな動きだった。
ふと、布の擦れる音がした。
「……ん……」
微かに、寝息のような呟き。
目覚めたのは、一人の少年だった。
あどけない頬に貼りついた銀髪が、ゆっくりと揺れる。
「……なんか、……夢、みてた……っけ……?」
少年は、まだ焦点の合わない瞳であたりを見回す。
その視線は宙を泳ぎ、やがて、ベッドの上のふたりへと──
届く寸前で止まった。
……見ていない。
いや、まだ見なくていい。
隣でもう一人の少年が、眉をひそめながら寝返りを打つ。
別の子が、ぼそりと呟いた。
「……おなか……すいた……」
どこか夢の続きのような声。
その言葉に、すぐさま返事はなかったけれど、
小さな笑い声が、ひとつ、こぼれた。
笑った自覚すらないような、あまりに自然な、それは。
彼らは戻ってきたのだ──
ほんとうの自分たちの場所へ。
長く閉ざされていた世界のすぐ隣にあった、光の中へ。
誰に許されたわけでもない。
ただ、そういう時が、今、訪れたのだった。
*
*
*
そして。
突如として、音が破られた。
ごぉん、と。
重厚な木製の扉が、強引に開かれる音。
「──確認! 中に反応あり!」
低く、鋭い声が響く。
足音が乱れ、甲冑が触れ合い、剣の鍔が跳ねる音が続いた。
白銀の騎士たちが、一糸乱れぬ隊列でなだれ込んでくる。
室内の空気が、一瞬で“戦場”のものに切り替わる。
「ッ、急げ、状況把握!」
──だがその場にいた誰も、声を失っていた。
彼らの視線が、一点に縫い止められる。
ベッドの上。
絡み合ったまま静かに横たわる、ふたりの少女。
布の波紋の奥で、深く眠るようなその姿。
そして、床。
まるで祈りの果てのように崩れ伏し、嗚咽をこぼし続ける、男の影。
言葉にならない、というより──
言葉を挟んではならないような、静寂。
……それは、祈りのあとだった。
もう儀式は終わっていた。
世界は、静かに、その祝福を受け止めていた。
ひとりの騎士が、そっと息を吐いた。
「……全員、生存を確認。
状況……極めて、特殊。これより回収を開始します……」
そうして、誰も声を荒げることなく、
ひとつの幕が、静かに──閉じられていった。