第14話 この手を、離さない
リィゼは、アリエルの手を離さなかった。
むしろ、その手をそっと引き寄せるようにして──
壊れ物を扱うというより──手のひらに載せた、光を纏った宝石のように、そっと抱きしめた。
それは、力強くも、優しい抱擁だった。
護るように。預かるように。
まるで、繊細な宝石細工を指先にのせたときのような手つきで──。
手が、そっとアリエルの背へまわされた。
ふわりとした動きだった。
けれど、その細い腕に込められたぬくもりは、確かにひとつの意志を伝えていた。
「……はじめるね」
声は囁きにすらなっていない。
それは、まなざしの内側で、ただ願いとして揺れていた。
アリエルは、抵抗しなかった。
逃れようとも思わなかった。
それが導かれることなのだと──
ほんの少し遅れて、気づいた。
導かれたのは、ベッドの縁。
緋の天蓋が、天井から柔らかく垂れ下がり、
まるで世界と世界の境界を、この瞬間だけ包んでいた。
リィゼと並ぶように腰を下ろしたアリエルは、
少しだけ指を動かした。
そこへ、ためらいもなく絡んでくる指があった。
やさしくて、あたたかくて──
(……覚えている)
その重なり方を──身体が、忘れてはいなかった。
あの夜、そっと重ねた指先の温もりが、まだどこかに残っていた。
その静かな動作だけで、アリエルの鼓動がひとつ、高く跳ねた。
「リィゼ……」
かすれた声が漏れる。
けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。
リィゼは、何も言わず、ただそっと顔を寄せる。
最初の口づけは──額。
ついで、頬に。
そして、耳のすぐそばに。
どれも、軽く触れるだけ。
けれど、それぞれに“意味”があった。
ひとつずつ、「ここにいていいよ」と伝えるように。
アリエルという存在の全体を、肯定していくように。
鼓動が、ひとつずつ高まっていく。
呼吸が浅くなり、言葉が喉元で途切れたまま、どこにも行けない。
アリエルは目を閉じられなかった。
その優しさが、こわかった。
まるで、自分の内にある何かを見透かされてしまいそうで。
けれど──唇が触れた。
ふたりの唇が、軽く、ほんの一瞬、触れ合う。
それだけで、胸の奥がしん、と音を立てたようだった。
強くはない。
深くもない。
──けれど、
触れ合ったその瞬間、世界の時間が、ふたりだけを中心に静止した。
キスが終わる。
けれど、心の震えはまだ止まらない。
リィゼが、ゆっくりと顔を離す。
そして、ほんの小さく──けれど、世界のすべてを告げるように、言った。
「……好き」
その声は震えていない。
想いが飽和したからこそ、逆に透明な声だった。
それは告白ではなかった。
『誰かに許してもらう』ための言葉ではなかった。
──ただ、自分の存在がそこにあるという証として、
世界に向けて差し出された“命のかたち”だった。
アリエルの目が、かすかに潤んでいた。
けれど、それは涙ではない。
ただ、心が飽和し、あふれそうになっている証──。
そのすべてを包むように、リィゼの指が、アリエルの手を強く握った。
だけど、強くはない。
ただ、逃げないように。
それだけだった。
ふたりの指先が絡むたび、世界の輪郭がぼやけていく。
名前も、時間も、これまでの出来事さえ──
いまはもう、必要なかった。
ただ、『あなた』がいて、
『わたし』がここにいる。
それだけで、すべては足りていた。
アリエルの唇が、わずかに動いた。
声にはならなかったけれど──
『好き』という言葉が、そこにあった。
もう、言葉でなくてもよかった。
ふたりの心は、
すでに意味よりも深い場所で──
確かに、重なり合っていたのだから。
──この瞬間、
ふたりの世界は、誰にも踏み込めぬ聖域となった。