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第13話 名を呼ぶ、その手のぬくもり

 リィゼは、ゆっくりと一歩、進み出た。


 薄布一枚を纏うその姿は、決して怯えてはいない。

 むしろ、凛とした威厳すら宿していた。


 けれど──アリエルは、そこにいつもの彼女を見つけられなかった。



「……リィゼ?」



 呼びかけに、応えるように琥珀の瞳が揺れる。

 その瞳は、まっすぐにアリエルを見ていた。

 だが──その奥に、かすかな濁りがあった。


 それは、理性の膜がうすく歪んでいるような、奇妙な光。



「……アリエル」



 リィゼの声は、柔らかかった。

 いつものように、どこかぶっきらぼうで、律儀で、誇り高い──

 そんな声ではなかった。


 それは、ただ『好き』という想いを真っ直ぐに運ぶだけの、少女のような声音だった。



「……きみが、無事で……よかった……」



 アリエルの胸に、かすかに冷たいものが落ちた。



──これは、違う。



 リィゼは、たしかにアリエルを慕っていた。

 それは誰の目にも明らかな、淡い感情だった。


 けれど、いまの彼女は違う。

 それは、感情の濃度が均衡を崩した状態だった。


 感情だけが肥大し、理性だけが削がれていく。

 まるで、恋心だけがふくらみすぎて、心という器からあふれ出しそうだった。



「リィゼ、まさか──おぬし、その心……!」



 言いかけたアリエルの腕を、リィゼがそっと取った。

 その手は震えていなかった。だが、熱かった。



「お願い……少しだけ、顔を見せて」


「え、な──」


「もう……ずっと、見たかったんだ」



 ふわり、と。

 銀の髪の先が触れた。

 熱を帯びた吐息が、アリエルの頬に落ちる。


 アリエルの手は、ほんのわずかに動きかけ──けれど、伸びなかった。

 アリエルの指先が揺れた。

 けれど、触れるには──ほんの一歩、勇気が足りなかった。


 それは、理性が本能にブレーキをかけたのではない。

 それほどまでに、リィゼの熱がまっすぐすぎて──

 まるで、触れればこちらが壊れてしまいそうで。



「ずっと……こうして触れたかったんだ」



 リィゼの声は、まるで夢を語るようだった。

 その声音の裏に、確かな抑えの崩壊が見えた。


 そして──


 その光景を、

 ファルク=メルムは、

 まるで聖域における儀式を見届ける司祭のように──

 静かに、ひたすらに、見守っていた。


 それは邪なものではなかった。

 煩悩でも、欲情でもない。


 神が神たるに至る道筋。

 リィゼはそのために選ばれた器であり、

 いま行われているのは──導き手への心の捧げ物だと、彼は信じて疑っていない。



「……ああ、素晴らしい……」



 呟きは、ほとんど無意識だった。

 あたかも、花が咲くのを見て涙する老人のように。

 あるいは、劇の一場に心を奪われた観客のように。



──そう、これは準備なのだ。



 アリエルが、真に自分を受け入れるために。

 その心を整えるために。

 そして、少年の肉体を通して、自らの童貞を捧げる本番のために──



「導きに、至れ──」



 その祈りに似た囁きが、

 静かな広間に、そっと溶けていった。



*

*

*



 アリエルは、目を逸らせなかった。

 拒絶も、制止も──ただの一手すら、浮かんでこなかった。

 目の前にいるのは、確かにリィゼなのに。

 けれど、その瞳に宿る光は──ただ、愛しさだけで塗りつぶされていた。


 リィゼの指先が、そっとアリエルの頬をなぞる。



「冷たいな。こんなに、かわいいのに」



 その声音は──まるでおとぎ話の王子様だった。

 甘く、柔らかく、優しくて。

 けれど、逃げ場を与えないやさしさだった。


 アリエルは、小さく肩を震わせた。



「リィ……ゼ……やめ──」



 言葉の続きを、リィゼは聞かなかった。

 聞かないのではない。

 聞かずとも、自分のすべきことがわかっていた。


 彼女の手が、アリエルの髪に触れる。

 ゆっくりと、撫でるように、優しく。

 そこにあるのは、強制ではなかった。

 ただ、好意をそのまま流し込むようなふるまいだった。



「ねぇ……アリエルは、こういうの、好き?」



 琥珀の瞳が、揺れていた。

 すこしの不安と、圧倒的な好きだけで、満ちていた。


 アリエルは、何も言えなかった。

 この状況に言葉をぶつけたところで、意味を成さないと──身体が理解していた。


 リィゼの手が、アリエルの肩を包む。

 そっと引き寄せられる。



「大丈夫。わたしが、全部……優しくするから」



 それは誓いの言葉ではない。

 ただの、感情の吐露だった。

 にもかかわらず──その声音は、何よりも信じられるものだった。


 ファルクの喉が、ごくりと鳴る。

 けれど、そこに欲はなかった。

 あるのは、ただ神聖の進行を見届ける信徒の、畏敬。


 ──その瞬間、

 この場において、アリエルもリィゼも、

 人でありながら象徴となった。



「さあ──アリエル。目を閉じて」



 リィゼが微笑んだその顔は、

 本当に、世界でいちばん優しい顔だった。


 感情が揺れる。

 顔が熱い。

 鼓動が高鳴る。


 胸が熱いのに、その熱の出処がわからない。

 まるで、心のどこかが自分のものではなくなったような──そんな感覚。


 ──これは、自分の想いか?

 それとも、何か外からの干渉なのか?


 その問いに、答えたのはファルクだった。



「ええ。彼女の心を整えさせていただきました」



 その声音は、敬意に満ちていた。


「元より彼女は、貴女に強い想いを抱いていました。

 けれど、自らの枷──『女の子同士だから』という理性が、それを塞いでいた。

 私はただ、そのバランスを、少しだけ調律したにすぎません」



 アリエルは言葉を失う。

 ──ならば、このまなざし。

 リィゼのこの微笑みも。指の熱も。



(……ファルクの、術……)



 そう思った瞬間、アリエルの胸が、ひどくざわついた。

 それは──恐怖ではなかった。

 自分のなかに生まれてしまったとある感情を、誰かのせいにしたいという、浅ましい逃避だった。


 だから、彼女は問うてしまった。



「では──ワガハイにも、何かしたのか……?」



ファルクは、ただ、静かに首を横に振った。



「ありえません」



 その声音には、熱も怒気もなかった。

 けれど、それ以上に重かった。



「御方の心に、私が手を加えるなど──不敬の極みです」


「私は、導きを整える者です。

 けして、御方の魂に触れることはありません。

 そのようなことが許されると考えたことすら──一度としてありません」



 その断言が、アリエルの胸に深く落ちる。

 言葉というより、光景のような確信だった。



──ならば、この胸の熱は。



 この鼓動の乱れは。



(……ワガハイが……自分で……?)



 信じたくなかった。

 けれど、疑いようもなかった。


 目の前のリィゼは、確かに美しい。

 優しさに満ちていて、温かくて──

 そして今、自分のためだけに、その手を伸ばしてくれている。



(リィゼ……)



 その名を心の中で呼んだとき──アリエルは、目の前のリィゼに、手を伸ばせなかった。

 アリエルは、その手を取ることができなかった。

 伸ばせば届く距離にあるのに、まるで自分のものではないような、遠さだった


 それが、まぎれもない自分の感情だと知ってしまったから。


 そして──


 その迷いのまま、宙に浮いたアリエルの指先を、

 リィゼの手が、そっと包み込んだ。


 それは、ごく自然な動きだった。

 まるで、そこにあるべきものが、あるべきように重なったかのように。


 アリエルの四本の指に、リィゼの五本の指が優しく絡む。

 その握り方は、ただの手つなぎではなかった。



──あの日と同じだった。



 ふたりがはじめて同じベッドで眠ったとき。

 寒さにかこつけて、手をつないで、

 そのぬくもりのまま、目を閉じた夜があった。


 そのときと、同じ形だった。

 大きな手が、小さな手を覆い、守るように、導くように。


 アリエルのまぶたが、かすかに震える。

 肩の力が抜けて、重力に引かれるようだった。


 その記憶の残像が、心に火を灯す。



(……リィゼ……)



 名を呼ぶ声は、もう心の中ではなかった。

 アリエルの存在すべてが、その名を求めて揺れていた。


 けれど、その揺れは不安ではない。

 それは、答えに近づいていく者だけが得られる、静かな光だった。


 リィゼの指が、ほんの少しだけ力をこめる。

 逃がさぬように──でも、壊さぬように。


 そして、そのままアリエルの手を引いた。

 静かに、けれど確かな意志で。


 その引き寄せの先にあったのは、拒む理由のない帰る場所だった

 いま、二人は、ようやく──同じ光の中に立っていた。

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