第11話 七脚の椅子と、狂信者の祈り
アリエルが口を開くより先に──
『それ』は、ぽつりと、空気に染み込むように言葉を発した。
「……ようこそ、我が導きの御方」
それは声というより、熱だった。
静かに、だが抑えきれない熱が、言葉となって漏れ出したのだ。
「私は、あなたに会うために、私になったのです」
少年の姿を借りたその肉体は、まっすぐにアリエルを見ていた。
その眼差しは、信者のものだった。
だが同時に──赦しを待つ者のものでもあった。
「あなたは……信じてはくれないでしょうが」
声は震えていなかった。
むしろ、祈るように──何かに赦されることを確信している者のようだった。
「私は……生まれつき、少しだけ見えすぎたのです。
目の前にある現実より、人の内側のほうが、ずっと正直に語ってくれた」
「他人の怒りや嘘、愛情や執着。そういったものが、手に取るように見えたのです」
彼はうっすらと笑う。それは、誇らしげというより、どこか痛々しい笑みだった。
「だから、精神魔術の道へ進みました。
感情を紐解き、記憶を辿り、思考を導く。……それは、美しい術でした」
「──けれど、違ったんです」
その一言は、にわかに空気を変えた。
「私のもとに来た依頼は、どれも、どれも……人間の醜さを凝縮したようなものばかりでした」
低く、深く。
その声は、地下水脈のように染み込んでいく。
「夫の不貞を暴きたい。子どもの嘘を正したい。あの人の本音が知りたい」
「──いいえ、違う。みんな、自分の思い通りに動く人形が欲しかっただけだ」
「私は、人を癒したいと願っていたのに──
気づけば、人の『欲』の後始末ばかりしていたのです」
「心を覗けるというだけで、人々は私を避けました。
あるいは、便利な道具として、汚れた意志を投げつけてきた」
「私は心を覗けるがゆえに、誰にも必要とされなかったのです。
『本当の私』を知ってしまう者を、人は怖がる。あるいは、利用しようとする」
「私は、誰の心にも居場所がなかった。そして気がつけば──
私は、人の心というもの自体が嘘ではないかと、思い始めていた」
アリエルは息を呑んでいた。
その語り口に、迷いがないことが、何より恐ろしかった。
「そんなとき──あれに出会ったのです」
『それ』は、ふっと笑う。
それは信仰に至った者だけが見せる、救済の笑みだった。
「あの書。
あの聖典が……私の魂を、たった一冊で救ってくださったのです」
彼はまるで、神託を語る神父のように、静かに言った。
「そこには、美があった」
「あの物語には、すべてがありました」
「力を持ちながら、暴力ではなく“悦楽”で相手を支配するあの姿……
相手の弱さすら優しく抱きとめて、まるでそれを肯定するように、ねちっこく、深く……奪い尽くすあの所作に──私は、ただ、震えました」
「私は、それを読んで……初めて、泣いたのです」
「──ああ、これが、美だ。これが、望まれて生まれた力の在り方だと!」
叫びではない。
囁きのようでいて、そのすべては魂を打つ熱だった。
「そして知ったのです。あれは実話だと」
「書き手は語りました。『これは、白髪のハイ・ゴブリン娘様が私に見せた妄想を、私はただ紙に写しただけです』と──」
「……あなたの御心により、我らが読むことを赦された書であると!」
アリエルが顔をしかめた。
だが『それ』は気づかない。いや──気づいていながら、関係ないのだ。
「私は、夜ごと夢を見ました。
あの少年のように、あなたの指先で、息を、思考を、尊厳を──順にほどかれていく夢を」
「ただの肉体ではダメです。
精神までも、すべてを預けてこそ──あなたに完全に奪われるという意味がある!」
「私は、精神魔術師です。だから私は、作ったのです。術を。方法を。構造を」
「精神を抜き、移し、少年の肉体に宿る術式。
この身で、あの体験の恩恵を受けられるように──あなたの愛に、触れられるように……」
狂ってなどいない。
これは、祈りなのだ。歪んだがゆえに、まっすぐな祈り。
「そしてあなたは、私の供物を受け取ってくださった」
「少年を抱き、連れて行ってくださった……」
一歩、こちらへ進む。
「あなたが私を、受け入れてくださったのですああ、あれほどの喜びが、ほかにあるでしょうか?」
「そして……そして、あなたが……今、ここに」
声が震える。指先が痙攣し、喉が詰まる。
言葉という器では到底足りぬ至福が、彼の全身からこぼれ落ちていた。
「……揃えました」
「最高の肉体を、揃えました」
「五人では足りないかと、六人目を加え、七脚の椅子をご用意しました」
「どうか……どうか、選んでください」
「どれでも構いません」
「すべてでも構いません」
「あなたが望むなら──この魂ごと、あなたに差し出します」
そして、『それ』は静かに頭を垂れた。
自らの狂気に、一片の恥じらいもない、完全な礼儀と共に。
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