第10話 神床にて、赦しを拒む
館は、街の北外れ──
霧の深い丘の先、木立の奥にひっそりと建っていた。
陽はすでに傾き、影の輪郭が長く伸びる時刻。
石造りの外壁は蔦に覆われ、瓦屋根はところどころ崩れ、
だがその輪郭は妙に整っていた。
整って──そして、『整えられて』いた。
朽ちる寸前で止められた洋館。
まるで『廃墟としての美』を演出する舞台のように、
ひとつひとつの『劣化』すら、計算された装飾に見える。
扉の前で、アリエルは足を止めた。
静まり返った空気。
あれほど重たかったはずの『気配』は、今や扉の向こうにぴたりと潜んでいる。
息を殺し、呼吸をも止め、ただ『彼女を待っている』ように。
「……リィゼ」
その名を呼ぶ声には、熱も震えもない。
けれど、胸の奥に宿る焦燥と痛みは、刃のように鋭く彼女を貫いていた。
(ワガハイが──『ひとりにした』)
ただでさえ不器用な少女が、今もどこかで『あれ』と対峙している。
自らの意志で残り、彼女を逃がした──
あの瞳。あの声。あの『即答』が、アリエルの胸に焼き付いて離れない。
詰め所で──
少年を押しつけるようにガランへ託したときの、あの声。
──《助けてくれ! リィゼが──あの空き家で、ひとりで戦っておるんじゃ!》
それは命を請う叫びだった。
『命を懸けた者』の名を背負って叫ぶとき、人はもう、自分のためには叫んでいない。
その声にガランは目を見張り、数人の騎士たちは即座に駆け出した。
アリエルは少年を託し、信頼と焦燥のままに救援を率いて──
あの手紙が導いたこの『洋館』へと、たどり着いた。
(……ワガハイのために、あやつはそこに残った)
(ならば──今度は、ワガハイがあやつを迎えに行く番じゃ)
背後では、詰め所から駆けつけた数人の騎士たちが、木立の陰に身を潜め、遠巻きに館の様子をうかがっている。
「……1時間──それだけ、待っておれ」
誰にも聞こえぬように呟いた言葉。
だがその言葉は、世界の皮膚に刻まれるような重みをもっていた。
(それで間に合わなければ……あとは、託すぞ)
竜の尾が、地を払うように一度しなる。
赤い瞳が、ゆっくりと館の扉を見据える。
「ワガハイが来たぞ、ファルク=メルム──」
その言葉は、静かな咆哮だった。
『選ばれし者』ではなく、『迎えに来た者』としての名乗り。
アリエルは、扉にそっと手をかける。
指先が触れた瞬間、ぴたりと空気が震えた。
ゆっくりと──けれど、確かに。
その扉を、押し開ける。
*
*
*
扉が、音もなく閉じた。
アリエルは振り返らない。
ここから先は、戻るという選択肢が最初から存在しないと──彼女自身が理解しているからだ。
館の中は、静かだった。
だがそれは、ただの“無音”ではない。
まるで、演奏の直前に息を潜める劇場のような沈黙。
音があるはずの場所に、あえて“音を抜いた”ような、意図された静けさ。
広間の床は黒曜石のように滑らかに磨かれ、天井には無数の蝋燭が灯る巨大なシャンデリアが浮かんでいた。
だが──風はない。
ゆらめく灯火は、魔力による“演出”だ。
「……徹底しとるのう」
アリエルは、ぽつりと呟いた。
すべてが用意されている。
この空間そのものが、『ワガハイの到着』を前提に整えられている──
そう確信できるほどの徹底ぶりに、肌がじりじりと焼ける。
奥へ進むにつれて、館の空気は次第に香りを帯び始めた。
淡く、甘い花の香──だが、それは自然な芳香ではない。
まるで幻覚を誘うための香気。
理性をやわらかく溶かし、心の隙間に何かを流し込むための仕掛け。
そして──視界の奥。
それは、舞台のように整っていた。
広間の中央、一段高くしつらえられた大理石の台座。
そこに半円を描いて並ぶ、七脚の椅子。
目を閉じ、深く沈黙し、まるで演じるかのように。
呼吸は浅く、命の灯はある。
だが、光の差さぬ瞳の奥には、世界とのつながりが見えなかった。
「……あやつら……」
アリエルの心臓がひとつ跳ねる。
意識はあるのか。命はどうか──
けれど、目を奪われたのはそれではなかった。
少年たちの『配置』──それが、異様だった。
それは、観客席だった。
これから始まる何かを見届けさせるための、捧げられた視線。
椅子の真ん中。
ひとつだけ、他より大きく、重々しい肘掛け椅子が据えられている。
それは玉座のようであり、あるいは、舞台の中心を空白にする間の象徴のようでもあった。
──そして、彼らの視線の先。
そこにあったのは、ひとつのベッドだった。
緋色の天蓋が静かに垂れ下がり、蝋燭の光を淡く受けて揺れている。
その佇まいは、まるで祭壇。
──いや、『神床』だった。
これは、儀式の場。
演出でも、装飾でもない。
信仰そのものを捧げるために整えられた空間。
そのベッドの前に、ひとりの少年が立っていた。
否──その身を借りた、狂信の魔術師。
彼は背を向けたまま、静かに立ち尽くしていた。
まるで、舞台の幕が上がるその瞬間を、陶然と待つ者のように。
アリエルの足音が、石の床に落ちる。
──その瞬間、彼の体が、ゆっくりと動いた。
首だけが、音もなく振り向く。
そして、正面に向き直るその動作さえも、なにか演技めいていた。
その瞳には、狂気はなかった。
あるのは、静かな歓喜と──信仰の完成を信じて疑わぬ確信。
「……来てくださったのですね」
空気が、凍る。
「ようこそ。私の、信仰の完成へ──」
アリエルの瞳が、細められる。
「ファルク=メルム──」
それは、少年の姿を借りた者に向けてではない。
この『空間ごと世界を歪ませた存在』への、明確な呼びかけだった。
「リィゼを迎えに来たぞ。そして──ワガハイは、そなたを赦さぬ」
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本日は3話、1時間おきに公開予定です。