なんておばかな王子さま、愛されヒロインさまに敵うわけないじゃないですか【電子書籍化】
ビアンカは今日もせっせと階段を登っていた。
塔の最上階に幽閉されている王子さまのお世話をするためだ。
「おはようございます王子さま! まだ生きてらっしゃいますかー!」
だーれもやりたがらない懲罰塔の世話係。手すりのない外階段はなかなかに恐怖だし、疲れるし、しかも相手は落ちぶれ王子さまだ。貴人相手に仕えていると時折もらえる褒美の類も期待できない。その王子さまは王位継承権も取り上げられており、本当はそう呼ばない方がいいのかもしれないが、ビアンカはそのまま王子さまと呼んでいた。だって名前を知らないから。
「おはようメイド。今日もびっくりするほど不敬だな」
鉄格子の窓がついた扉の向こう側には金髪碧眼の見目麗しい王子さまがかまえている。
ビアンカは城仕えの下っ端メイドで、本来なら高貴な方に声をかけていいような身分ではない。しかしこの懲罰塔には他に人がいないのだから自分が声をかけるしかないと思っている。不敬と言われても王子がさみしく思うよりはいいだろうと。
鍵付きの扉をあけて中へ入るとテーブルに食事を置き、背負ってきた荷物を床へおろす。荷入れ袋の中には王子のお召し替えや本が入っているので手際よくさばいていった。この時間に少しだけ言葉を交わすが、最近はもっぱらビアンカのおドジ話お披露目会だ。昨日はうっかり掃除中にバケツをひっくり返してあちこち水浸しにしたことで怒られた話を聞いてもらった。
今朝はどんな話をしようかと思っていると、先に口を開いたのは彼の方だった。
「なあメイド。俺はいつここを出られると思う」
「うーん、一生無理じゃないですかね」
「長すぎるな」
「はい」
城の人たちは誰も王子さまのことを気にかけない。まるで最初からいなかったみたいに、誰も彼もが通常運転だ。あの事件から三ヶ月しか経っていないにもかかわらず。
いや、この王子の目線で言えば三か月も経った。これまで唯一の王子としてそれなりに暮らしていた人が塔の最上階に閉じ込められ、もう少しで百日にもなろうかという孤独な監禁生活。想像を絶するつらさがあるだろう。
「たかだか浮気だぞ? 浮ついた気持ちだぞ? そんなので一国の王子を……たったひとりしかいない我が子をこんな懲罰塔へ押し込むなど、父上らは正気の沙汰ではない」
「こればかりは王子さまが悪いとしか言えません」
そう、この王子はやらかしてしまった。
婚約者とは別の女とよい雰囲気になったのだ。天真爛漫なその娘の笑顔はまばゆくて、いつも粛々と王子の不出来さをなじる婚約者とは全く違うタイプで新鮮だったのだろう。
「確かにあいつには悪いことをした。幼い頃からの婚約者を蔑ろにした。あいつはさして俺のことを好きではなかったようだが、俺の行動があいつの矜持をひどく傷つけただろう。今となっては反省している。……でも俺がやったことはそこまで非難されることなのか? 口づけだってまだだったんだぞ」
その浮ついた気持ちを向けた下位貴族のご令嬢は、王子が廃嫡されたと同時にすたこら逃げてしまった。玉の輿に乗れる相手を物色していただけで、相手は誰でもいいらしい。
「誰かを残酷にいたぶって殺したわけじゃない。不当に貶めて財産を奪いとったわけでもない。国家の転覆を狙ったわけでも、機密情報を漏らしたわけでもない」
それなのに、王子は国を統べる素質がないとして継承権を剥奪され、幽閉されている。まだ十七歳だというのにやりなおしの機会も与えられなかった。もしこの先も出されることがないのなら待っているのは途方もない孤独な時間だろう。たった一人の血を分けた息子に、その決断をした彼の両親。件の婚約者であったエリザベート嬢は王妃教育を完璧にマスターしていることなどを理由に、王位継承順が繰り上がった年若い王弟を相手に据えて未来の国母を間違いないものとしている。国王夫妻も彼女を我が子も同然に可愛がり、王子が首を傾げてしまうのも無理はない。
「……お相手さまが『愛されヒロイン』ですもん。どうしたって勝ち目ないですよ」
思わずつぶやいたビアンカ。
その言葉に王子が反応した。
「愛されヒロイン? なんだそれは」
「わたし、加護がありまして。その人の簡単な称号なんかが見えたりするんですよ」
実はビアンカ、先祖代々占い師の家系に生まれており、本人にもちょっとばかり不思議な力があった。それは特別強い力ではなく、パン屋のおじさんであれば『パン屋』、王様であれば『国王』などの本人の属性が見えたりするだけだ。たまーに有力な情報がわかったりするが占い師をするほどでもなく、ビアンカは保身を最優先に日々つつがなく下っ端メイドをやっている。
「あの方は『愛されヒロイン』です。うちに代々受け継がれる言葉には『ヒロイン・ヒーローの名のつく者には全力でおもねろ』とあってですね。全ての物事は彼らを中心にまわるんですよ。たてつくなんてもってのほか。もう一度言いますが、あの方は愛されヒロインです。王子さまはあの方を大事にしなかった。それだけで、というかそれが最大の罪なんですよ」
なにを馬鹿なことを言っている、と王子さまの目が語っている。しかしそれを言葉にすることはなく、ビアンカの言ったことを少しずつのみ込んでいるようだった。
「愛されヒロイン……」
「はい。みんなから愛される特別な女性です」
お母さんもおばあちゃんも、そのまた上のおばあちゃんも言っていたありがたい訓辞なのだ。
「なのでわたしは絶対あの方にはたてつきません! 長い物には巻かれます! 命大事です!」
鼻息あらく宣言するビアンカをよそに難しい顔をしてなにかを考えだした王子さま。きっとこれまでのことを思い起こしているに違いない。何が悪かった。あの時こうしていれば。そんなことを考えこんで落ち込んでほしくなかったので、ビアンカはことさら明るい声で教えてあげた。
「ちなみに王子さまは『おマヌケざまあ王子』ですからね、なにしてもダメだったと思います」
「はい不敬」
「王子さまがちょっとおバカなのはもう仕様なんでしょうね」
「このメイドほんと不敬」
だから、うまくいかなかったことを必要以上に悩まないでほしい。十分に罰は受けたのだから。
「……その、わたしもバカなんで、物事の良し悪しって経験しないとよくわからないんです。痛い目みないとわかんないっていうか。でもそれで許される環境でした。失敗して反省して、それから学んで」
でも目の前の王子さまはたった一度のやらかしで、その後の人生がめちゃくちゃになってしまった。確かに王族であれば少しの判断ミスが大事に至ることもあるだろう。けれど、もう少し環境が違えばと思ってしまう。みんながみんな正解を選び続けられるわけではない。失敗から学ぶことだってたくさんあるのに。
「なんだ。不敬メイドの分際で俺をなぐさめているのか」
「それは、その、」
このおマヌケざまあ王子に手を貸すことは、きっと愛されヒロインさまの意に沿うことではない。わかっているのに、ビアンカはこの王子さまを放っておけない。
「ありがとな」
そう言ってまっすぐにビアンカを見つめる王子。その瞳は何も諦めていないように強くきらめいていた。
ビアンカはうっかり、それはもううっかり扉の鍵を閉め忘れた夜が幾度かあった。きっと王子の姿はないだろうと思い、翌朝ドキドキしながら塔を覗くと、なぜかまだいる王子さま。おマヌケ王子だからきっと気付かなかったのね、とビアンカはうっかり忘れそうな日をあらかじめ教えてあげた。それでも王子は塔から出なかった。
「もしかして逃げ方がわかりませんか?」
「この特級不敬メイドめ。それで俺が逃げたらおまえが罰せられるだろうが」
「……さようですか」
自由がほしいくせに。
誰よりも自由がほしいくせに。
ビアンカは知っている。鉄格子の向こうに見える青空を悲しそうに見上げていることを。日に日に憔悴していく様がつらくて、少しでも元気になってほしくて、バカな話をしたり自分の食事をこっそり分けたりした。不敬だぞ、と言って王子はいつも笑ってくれたけど、その目はいつも外の世界を渇望していた。
城の人間は王子の存在など最初からなかったかのように通常通りだ。誰ひとり王子を気にしない。見にもこない。世話係であるビアンカに尋ねもしない。国王陛下も、かつての側近たちも、婚約者であったエリザベート嬢も。用済みのものには興味もわかないと言わんばかり。これまでの人望がそうさせたのだと言われたらそうかもしれないが、だとしたら、王子がここに縛られる理由なんてあるのだろうか。
もしかしたら誰も、あなたがいなくなったと気付かないかもしれませんよ。
あまりにも悲しいその言葉をビアンカはそっと呑み込んだ。
王子が幽閉されて一年、愛されヒロインのエリザベートと王弟のご成婚から幾日かが経ったある日のこと。
朝からの晴天はみるみる崩れ、叩きつけるような強風が吹いてきたと思うと大きな雷がいくつも地に落ちた。
地面が揺れるほどの落雷にビアンカは王子のことが心配でならなかった。懲罰塔は古く、所々が朽ちかけている。もしこの強風や雷で塔が崩れるようなことがあったらと気が気でない。
ドオォンッ。辺りを真っ白に染める強烈な稲光と同時に聞こえる大きな落雷音。確実に王城周辺に落ちたと誰もが思った。見回りの兵たちが慌ただしく出て行き、ウソか誠かわからない情報が残された者たちのあいだで交錯する。
城壁にある物見台に雷が落ちた。突風で城の窓が割れた。厩舎の屋根が飛んだ。そのせいであちこちで怪我人がでた。
そんな恐ろしい情報が錯綜するなか、懲罰塔が全壊し燃えているという信じられない言葉が聞こえてきた。たまらず、ビアンカは大部屋を飛び出した。
「王子さま!!」
人をかき分けて外へ出てみると、叩きつけるような風がビアンカの体を揺らす。さいわい雨は降っておらず、ビアンカは懲罰塔へと向かった。古い木箱が目の前を横切り、スカートが大きくはためくなか、必死に足を動かした。
「おい、あぶねーから引っ込んでろ!」
「だめ! 王子さまがっ!!」
途中で兵士に止められたが、それも振り切って懲罰塔へ向かうと、そこにはとんでもない光景が広がっていた。
うっそうとした森の手前で塔が無残に崩れている。
幸いにも火災はおきていなかったが、元々古かった懲罰塔はこの風と雷に耐えられなかったようだ。
その残骸の前にぽつんと立つ、ひとつの人影。
「王子さま……」
遠目からでもそれはあの王子であるとわかった。またうっかり鍵をかけ忘れていたのもあって無事逃げおおせたようだ。大きなケガも見当たらず、ビアンカの存在に気づくと片手を大きく上げて何かを叫んでいる。
『世話になったな!』
風が強くて何もわからないけれど、そう聞こえた気がした。
ビアンカは大きく手を振った。
彼を盛大に送り出すために。自由になってもらうために。この騒ぎに乗じて城から離れればビアンカが逃亡の責任をとらされることはないと思ったのだろう。おマヌケな王子で、婚約者を大事にできなかったダメな人だけど、少なくとも下っ端メイドに被害が及ばないようにしてくれる優しい人だ。
「もう愛されヒロインさまに逆らっちゃダメですよーっ!」
大きく、大きく、腕を振る。
ビアンカに背を向けて去ろうとする王子の口元が「やっぱ不敬」と動いた。聞こえなくとも、それだけは確かにわかった。
「お元気でーっ!」
暗い森が王子をすっぽりのみ込んでしまうまで、ビアンカはいつまでも手を振った。
◇
それから二十年ほど経っただろうか。
王妃となったエリザベートは目を見張るような改革を行い、世の中を少しずつ、着実に変えていった。
市井へ学校を開き、上下水道を見直し、貿易に力を入れ、国全体の食糧事情を改善した。
さらに、貴族・平民からそれぞれ議員を立てて、王による独裁から議会を中心とした政治へ移行。また立法・行政・裁判の三権を分立させることによって権力がひとところに集まるのを防いだ。
議会に関してはまだ上手く回っているとはいいがたいが、それでも十数年の年月をかけるうちになんとなく形がさだまってきた事にビアンカはさすが元ヒロインさまと思う。
そう、元・ヒロインだ。
エリザベートの誇るべき称号である『愛されヒロイン』は、いつのまにか『やり手の王妃』へと変わっていた。これまでビアンカが見てきたなかでも所属がかわると同時に称号が変わる人はいたから珍しいことではない。まさかヒロインがとれるとは思わなかったが、もちろんやり手の王妃さまに逆らう気は毛頭ない。保身第一。
ビアンカはというと、二十年前からさほど変わってない。そこそこの失敗と反省を繰り返しながら、それなりに生きている。珍しくいい雰囲気になった男性が結婚詐欺師だったときはもう恋愛なんかするもんかと思い、仕事ひとすじになったのはいつからだっただろうか。
というわけで、今も古参メイドとして城で勤めていた。もう三十四になろうとしているのに先日気付いて地味にショックを受けているところだ。
そのショックをまぎらわすために、ビアンカは休日に城下町へ降りていた。店が並ぶ区画は多くの人でにぎわっていて、昔よりもずっと自由になった庶民たちが活気を振りまいている。
王妃の改革により、王侯貴族は尊い存在という空気はまだあるものの、影響力はだいぶ削がれた。不敬罪とかいう身分を笠に着た理不尽な罰則もなくなり、法にのっとり罪をおかせば貴賤関係なく裁かれる。そして王家は国を動かし導く存在というよりも、いく先を見守る国の象徴という雰囲気になりつつあった。
つまり、王侯貴族が持っていた特権はほぼなくなり、平民という理由で虐げられることがなくなり、さらには才覚があれば平民でも立派に成り上がれる世界になりつつあるということだ。貴族たちからしたら面白くないだろうが、それを指揮したのが王妃なのだから仕方がない。庶民からしたら万々歳だし、いまだに王妃の支持率が高い理由もうかがえる。
なんにせよ、庶民が豊かになるのはいいことだ。庶民のビアンカはあちこちの店を覗きながら街歩きを楽しんだ。
ふいに、予感がした。
占い師の血が、何かが起こると言っている。立ち止まって辺りを見回していると後ろから声をかけられた。
「ビアンカ……?」
名前を呼ばれて振り向くと、目を見開いた壮年の男が立っていた。背が高くしっかりした体つきは若々しいものの、ビアンカとそう変わらない歳のように思える。こんないい男知らない。どうせまた結婚詐欺師の類いだろう。でも、この色味と精悍な顔つきはどこかで見たような気がして……
「え、だれ」
思わず口から出てしまった素の言葉。男は懐かしむようにして苦笑した。
「不敬なのは変わらないな」
瞬間、ビアンカの脳がぴりっと痺れる。
笑いかける男は二十年前に離れたあの人とよく似ていた。
「まさか……王子さま……?」
「なんだよ。もうとっくにそんな身分はないんだ。名前で呼んでくれ」
にかっと笑う口元からのぞく白い歯がまぶしい。
「すみません、お名前を知らなくて」
「不敬もここまで来るといっそ清々しい」
「もったいぶらずに教えてくださいよ」
「……リーンハルトだ」
以前と変わらない、変わらないように見えるやりとり。やはり二十年ぶりに顔を合わせるとお互い知らない過去が見え隠れする。ビアンカが知っている王子はこんなに穏やかに笑いかける人ではなかったし、こんなに落ち着いた雰囲気はなかった。
この人はあれからどんな人生を送ったんだろう。
ビアンカはすっかりおじさんになってしまった元王子を見つめた。おじさんと言ってもそこらの同年代より断然若々しいけれど。
「なあ、久しぶりに会ったんだ。よかったらお茶でもしないか」
いろんな感情で胸がいっぱいになった。
ビアンカはこくこくと頷くほかない。
近くにあった品の良い喫茶店は創業五十年も続く老舗で、元王子ことリーンハルトに誘われなければ一生足を踏み入れることはなかっただろう。
テーブルにつき、改めて見るかつての王子さまはなんだか立派な美丈夫になっていた。しかし王族らしからぬ茶目っ気はそのままご健在のようだ。じゃないとビアンカをお茶に誘わないだろう。
ビアンカのことはたまたま目に留まったらしい。リーンハルトは仕事の移動中で、そう言われてみるとさっきは秘書官のような人が彼の後ろにいた気がする。
ふたりの飲みものが運ばれ、しばらくするとリーンハルトは別れてからの話をしてくれた。
「あの嵐の日におまえと別れて、俺は念願の自由を手に入れた。何にも縛られたくなくて俺は森の中で暮らし始めたんだ」
寝るのも起きるのも何を食べるのも全部自由。誰に指図されることなく、全部自分で決めていい。楽しかった反面、それなりの失敗があった。雨風をしのげる寝床はあったほうがいいことがわかったし、食べ物はきちんと選んだ方がいいことも知ったそうだ。
「低次元すぎません?」
「言うな。あの時ははしゃいでいて知能指数がひどく低下していたんだ」
森から森を移動し、動物をはべらせ日々を暮らしていた。そんなある日、よくわからない木の実を食べたのが原因なのか、腹を下して倒れたリーンハルトはたまたま近くを通った木こりのおじさんに助けられたそうだ。それからしばらくは家で看病してもらい、そのまま森の野人から役に立たない居候へとジョブチェンジ。
「拙いながらも肉体労働というのを初めてやった。自分のできることを差し出して対価を得るという体験も初めてだった」
最初はなにもできず失敗ばかりだったが、木こりの夫婦が教えてくれたおかげで薪割りや家事ができるようになったとリーンハルトは言った。いつまでもお世話になるわけにはいかず、助けてくれたお礼に木こり夫婦を困らせる木材組合のクソ組合長をぎゃふんと言わせて街へ出た。
「ちょっと待って情報量多いです」
ビアンカは眉間をおさえて待ったをかけた。
すると口を尖らせたリーンハルトが言い訳のように説明をする。
「だってあいつらさあ、おじさん達が文字読めないのをいいことに組合費ふんだくったり色々やってたんだよ。ごろつきみたいな取り立てするし」
だから森に罠を仕掛けて組合長を動物のフンまみれにしてやったそうだ。
「発想がこども」
「あの時はあれが限界だったんだよ。でも、あとできちんと組合長には話をつけて、おじさん達から巻き上げたお金は返却させた」
それから街で便利屋のような仕事をはじめていろんなことをやったという。荷運び、売り子、代筆屋、畑や牧場の手伝い、犬の調教。一時期はヒモも経験したという。ヒモに関してもう少し詳しく聞きたかったけれど口をはさむ雰囲気ではなかったのでビアンカは諦めた。その後もリーンハルトは好奇心のおもむくままいろんなことをして、気の合う仲間を見つけたり、裏切られたり、失敗と反省をくりかえしながらたくましく生きた。
不義理はしないほうがいい。お金はあったほうがいい。体は健康であることがこの上なく大事で、そのためには寝て食べて運動した方がいい。見た目はきちんとした方が得する。助けてほしい時はきちんと口に出す。言葉にするとどれも簡単だけど大事なことだ。
いろんな経験を積むうちに嫌でも理解していく人の世の生き方。過去に王宮で学んだ勉強からは得られない、生々しく苦しい現実はリーンハルトをたくましく成長させた。
ある程度資金がたまると有志たちと商会を立ちあげた。それこそいろんな問題を乗り越えながら、少しずつ商会を大きくしていったそうだ。ただ、平民が寄り集まった商会は舐められることも多い。名前が売れるにつれて招待されるパーティーが増え、そこで気どった下級貴族たちから嫌がらせを受けた。自分はともかく仲間たちが理不尽に傷つけられるのが許せなかったそうだ。
リーンハルトは仕返しを決意する。
そのパーティーはそこそこ規模が大きく、王族は顔を出さずともぽつぽつ上位貴族が顔を出していた。リーンハルトはかつて王宮で学んだ審美眼を活かし一級の礼服を仕立て、これまた王室仕込みの礼儀作法と威風堂々な態度でその場の空気を掌握。元から整っている容姿に完璧な立ち振る舞いに、仲間からも驚かれる始末だったとか。
あいつは何者だとざわつきはじめれば興味をもった人が次々に声をかけてくる。かつて頭にいれていた国内貴族相関図と今日までの政治経済情勢を加味しながらにこやかに話をすれば、相手はリーンハルトに夢中になった。最終的には下級貴族が手も足も出ないような味方を手に入れる結果となったそうだ。
「ふっ。王子だった経験が活かされた数少ないエピソードだ」
「それだけやったらバレたんじゃないですか?」
「それがバレなかった」
「やだ王子さまかわいそう」
「でたぞ不敬が」
ビアンカだってこの歳になればなにが失礼に当たるのか流石にわかる。けれどこの元王子にはあえてそう言いたかった。彼もきっとおんなじだ。わかっててふたりとも冗談を言うのだ。お互い昔よりだいぶ落ち着いた声音ではあるが、二十年前と同じようなようなやりとりに、ビアンカは懐かしさで思わず笑ってしまった。忘れさられた王子のことにほんの少し胸を痛めながら。
それをまぶしそうに見つめるリーンハルトの眼差しにはまだ気が付かない。
「……ビアンカ。おまえ、結婚は」
「してないですよ。寄ってくるのが詐欺師くらいしかいなくて。リーンハルト様は?」
「そろそろしたいなと考えている」
「まあ、ふふっ。素敵ですね」
こんなにいい男になったのだからさぞやおモテになるだろうと他人事のように笑っていると、ふいに指先に熱を感じた。見ると、リーンハルトがビアンカの手に少しだけ触れている。ビアンカがその気になればすぐ手を離せそうな、そんな柔らかい触れ方で。どうにも恥ずかしくなって顔を上げると、リーンハルトがまっすぐにビアンカを見つめていた。言おうと思っていた文句を思わず呑み込んでしまう。
「おまえのことが、忘れられなかった」
どきり。
ひときわ大きな心音が胸に響く。
「忙しい時でも、悲しい時でも、楽しい時でも、ふとおまえの顔が浮かぶんだ。あれから二十年経ってるのにな」
ビアンカを見つめる眼差しに過去を振り返るような切ないものが混ざる。どうしよう、と内心でつぶやいた。リーンハルトの言葉が、体温が、眼差しが、ビアンカの心を熱くしていくのだ。
「わたしも、たまに王子さまのこと思い出してました。元気で暮らしてらっしゃるといいなって」
「ビアンカ」
触れていただけの手が、きゅっと握られる。
たったそれだけなのに体温が上がり、はるか昔に閉じ込めていた淡い気持ちがあふれてくる。どうしたって叶うはずのない想いが今さら。
ちらり、と占い師の目で彼を見た。
かつてはおマヌケざまあ王子として愚かしく理不尽な運命を定められたリーンハルト。しかし人は成長する。障害を越えていく。落雷のあったあの日に運命から解き放たれ、今の彼は別の何者かになっているに違いない。
「また会いたい。次は花束を贈らせてくれ」
まるで口説くようなリーンハルトをよそに、ビアンカは驚いた。
『波乱万丈ヒーロー』
彼の称号にヒーローの文字がある。先祖代々より媚びへつらう対象と言われる称号を、リーンハルトが持っている。あまりのことにビアンカは言葉が口に張り付いて出てこなかった。うんともすんとも言えず、ただ目を瞬くばかり。それをどう捉えたのかリーンハルトが少しだけ眉を下げる。
「もうエリザベートに敵わない俺ではないぞ。あいつが議会制やら色々やってくれたおかげで王家が大きな顔できる時代は終わった。あいつが今もしケンカを吹っ掛けてきても、返り討ちにできる力はつけたつもりだ」
さも自分を庶民のように言っているけれど、血筋で言えば王家直系で誰よりも尊い人。そんな人が、気のせいでなければ、ビアンカを口説いている。
「……い、いま、お付き合いしてる人とかは」
「いない。まあ恋愛で人生失敗したようなもんだからな。経験も必要かと思ってそこそこ付き合いもしたけど、こんなもんかとわかってからさほど興味なかった」
「だけど結婚に興味がでてきた?」
「おまえとなら結婚もいいなと思った」
「わたし、もういい年ですよ」
「俺だっておじさんだからちょうどいいだろ」
こんな急なアプローチ、普通の人なら結婚詐欺であってしかりだが、相手はヒーロー。事象の中心にいる人だ。仮にビアンカのことを騙そうとしていてもヒーローなのだから「はいよろこんで!」と返事をすべきなのだ。だけどビアンカはそれが言えなかった。どうしてだろう。思い返せば、この人が塔に囚われている時だって愛されヒロインさまの意に反したことをしていた気がする。保身第一のビアンカを揺るがすのはいつだってリーンハルトかもしれない。
「おマヌケざまあ王子はいやか?」
いたずらっぽく笑う彼。
二十年前と変わらないその人に、ふと心が軽くなった気がした。この王子にだけは思うがまま接してみるのもいいかもしれない。
「……おマヌケざまあ王子だったころから、大好きですよ」
余裕たっぷりに笑って答えてやる。それが予想外だったのか、しばし目を見開いたあとリーンハルトがおずおずと切り出す。
「……その『大好き』は異性としてか?」
「さあ」
「この局面でその態度とはさすがだな」
「知ってましたか、いまは不敬罪ってないんですよ」
「ふっ、俺がおまえを罰したことがあったか」
「ないですね」
顔を見合わせて二人で小さく笑った。
心地よい空気に体の力がするりと抜けていく。
ここが喫茶店だったことを思い出して手元のカップへ視線を落とした。コーヒーのよい香りが鼻をくすぐった。子供の頃には分からなかった、苦さをはらんだ大人の香り。
あの頃とは歳も立場も、何もかもが違う。
テーブルの上でいまだに握られている手を、ビアンカはそっと握り返した。
◇
後日、花束とともに現れたリーンハルトから改めて名刺をもらった。しかしその名前を見て絶句する。ビアンカにはリーンハルトと名乗ったのに、小洒落た名刺にはハルト・ライゼと書いてあったのだ。情報通でないビアンカだってハルト・ライゼなら知っている。このところ王都で名を馳せている鉄道王その人だ。いまだ独身でのらりくらりと女性をかわしており、実は人嫌いだとか女嫌いだとかをメイド仲間が楽しそうに話しているのを聞いた。
名前のことを聞くと、王族の身分と一緒に元の名前は捨て、木こり夫婦からライゼ姓をもらったらしい。彼にとって木こり夫婦は親のような存在なのかもしれない。リーンハルトの実の両親である前国王夫妻は、懲罰塔が落雷で倒壊した一週間後にその場を訪れ、そろって茫然と立ち尽くしていたのをビアンカは知っている。そののちに退位を発表された彼らが何を考えていたかは分からない。後悔してればいいのにとビアンカは思っている。
「おまえだけはリーンハルトと呼んでほしい」
そう言って彼は花を差し出すのだからたちが悪いというか、なんというか。頬が熱くなるのを無視しつつ両手で受けとる。ビアンカは内心あきれていた。リーンハルトは顔もいいし、男盛りの資産家だ。いくらでも伴侶を選べる立場だろうに、どうして自分を選ぶのか。
ほんと、おバカな王子さま。
頭のなかでまだ若い頃の王子が「不敬だぞ」と言ってビアンカに笑いかける。
大好きだった。
あの頃は手を伸ばすことも、想いを寄せることもできなかった。そもそも住む世界が違う存在だった。
「……ありがとう、リーンハルトさま」
ビアンカは目の端に涙をためながら、嬉しさを隠しきれない笑顔で花束を抱きしめたのだった。甘くて優しい香りが、胸をいっぱいにする。