episode1-1-4 動き出す運命(後編)
途中でアグネスが若返るような描写があります。
イメージとしては、ハウルの動く城でソフィアとサリマンのシーンを想像しながら描いています。
表現力が稚拙なため、イメージがしにくいかもしれません。
ですので、ソフィアとサリマンのシーンを思い浮かべながら読んでくれるとイメージしやすいかもしれません。
「あ、あぁ! ……な、なんてことなの」
ノスタルジックな感情に惑わされたアグネスの声は震えていた。少女を見つめる瞳から、彼女がこれまで心の奥底で封じ込めていた思いが溢れて流れ出す。頬を涙がいくつも連なって伝って落ちる。その様子に部屋の隅で置物に鳴ろうとしていたシスターは、何事かと驚き慌てふためく。鉄の聖女と呼ばれる大教母が初めて見せた弱さに、シスターを抑え込んでいた恐怖は吹きとばされていた。
「アグネス様!」
シスターはアグネスへ駆け寄ろうとしたが、寸前で感情を抑え込んだアグネスが手で制した。
「だ、大丈夫……大丈夫」
「で、ですが……」
シスターが大教母に対する深い愛情と敬意が見える。助けを拒むアグネスの手によってそれ以上近づくことを阻まれたが、彼女は心配そうにアグネスの顔を見つめ続けた。
「ありがとう。でも……大丈夫だから」
アグネスは顔を上げて、自分の胸に巻き起こる感情を必死に抑え込もうとしていた。彼女の自制心の強さと気高さ伝わってくる。荒廃したニサンの復興に力を尽くし、気丈に振る舞い続けたアグネスは必死に自分を奮い立たせて、目の前で超然と彼女を見つめる少女を見据えた。
大教母アグネスを捕らえ続ける真っ赤な瞳の中に、アグネスは遠くへ置いて来た過去を見つめていた。
アグネスはシスターが近づこうとするのを視線で止めて、落ち着いた態度で彼女に命じた。
「シスターヘレナ。申し訳ないのだけれど、貴方は退室していてください。彼女と話したいことがあるのです」
「……そんなわけにはまいりません」
大教母の身を心配するシスターは、臆することなくソファに座り続ける少女を睨む。その敵意を少女は不敵な笑みで受け止めた。その姿にシスターは目の前の少女を恐れることをやめた。
「貴方が心配するようなことは何もありません。彼女は古い……そう、とても古い友人なの」
アグネスの最後の言葉は、ノスタルジックに激しく揺らいでいた。シスターはアグネスの様子に不安を感じたが、アグネスの身を心配するあまりその願い通りに動くことはできなかった。そのシスターの思いを嬉しく思いながらも、アグネスは厳しい表情で彼女に冷たく命じた。
「下がりなさい。私はもう大丈夫です。これから彼女と話すことは、貴方が聞いて良い内容では無いのです」
鉄の聖女であるアグネスを取り巻く環境は、齢七十を迎えようとしている彼女にはあまりにも辛く厳しい。三大帝国は常に彼女の弱みを探し続け、周辺国の内部にも彼女を貶めようと謀略を画策する者達もいる。戦禍ニサンの大教母として人々から崇められるアグネスには敵が多い。五十年間、彼女は決して誰にも弱さを見せることは無かった。
この一瞬だけ、心の奥底に封じ目固定た感情が溢れ出してしまった。彼女はそんな自分を戒めるかのように大教母としての鉄面皮を顔に被ると少女を見つめた。鉄の聖女の名に恥じない、冷徹な態度だ。
親愛を寄せる大教母のその姿勢にシスターは寂しさを感じた。一介の修道女でしかないシスターヘレナには、大教母の苦悩を分かち合う立場にはない。自分の無力さを悔しそうに噛みしめながら、シスターは静かに一礼して部屋を出ようとする。その背中を少女の一声が捕まえて引き戻らせた。
「ねぇ、部屋を出て行く前にお茶をもう一杯貰えないかしら?」
シスターは露骨に苛立った表情で少女を睨んだ。シスターに少女を客人として持て成す気持ちは無い。乱雑な所作で、少女の前に置かれたカップに紅茶を注ごうとした所で、隣から声を掛けられた。
「私にも一杯頂けるかしら」
大教母の願いに、シスターは親しみを込めて応る。シスターが優先するのは慕う大教母願いだった。
「アタシとは随分対応が違いすぎるんじゃない? アタシはお客様なんだけど」
「アグネス様、それでは私は失礼させて頂きます。何か御用がありましたらお呼びください」
シスターは少女の文句が聞えていないかのように、大教母にだけ体を向けて静かに一礼すると流麗な動きで退室する。そんなシスターに向かって、少女は立ちあがって更に声を上げた。
「ちょっと、待ちなさい。お茶、私のお茶は!」
扉が静かに、だがシスターが少女に抱く強固とした拒絶の意思を感じさせるかのように閉められた。
「何なの? あの態度は。アグネス、一体どういう教育をしているの? アタシが同じようなことをしたら、必ず口煩く説教をアナタにされた覚えがあるんだけど」
「それはあの子以上に貴方が酷かったからです。お忘れかしら、隣国の王がご訪問された時に、アツアツのお茶をわざと王の頭に注いだのは誰だったかしら」
「それはアイツがシスターを売春宿の娼婦と勘違いしているセクハラ親父だったからよ」
「そうね。貴方以外のシスターならば手当たり次第に、あの男はシスターに対してセクハラ行為を働いていたわね。だけど、貴方はあの方の趣味の範疇には入っていなかったはずだけど」
「それが最大の一因ね。殴らなかったんだから、むしろ感謝して欲しかったくらいよ。なんせその後、アタシのやった事は全シスターから称賛されたんだし。そういえば、あの王様を王位から退かせて監獄にぶち込んだのって、貴方じゃなかったかしら」
「ええ、あの方は男性で唯一私のお尻を遠慮なく撫でまわした殿方でしたので」
「だから永遠に他の女の尻を触れない所に閉じ込めておいた、ということかしら?」
「ええ、貴方は知らないでしょうけど、私はとっても嫉妬深い女なの」
しばらく二人は無言と互いに挑発し合うように見つめ合った後、クスクスと笑い合い出した。久しぶりに再会した旧友が親交を温め直しているかのようだ。かたや齢七十を超えた老婆と、かたや14.5歳に見える少女がだ。先ほどのシスターがこの光景を見たならば、きっと不思議そうに首を傾げたに違いない。
笑いが収まると、薄いヴェールのようにほのかな静寂が室内に垂れ込める。アグネスは少女の姿にじっと目を落としていた。少女は老女の視線を薄笑みを浮かべて受け止めている。そんな少女の傲慢さが、アグネスの胸中に抑え込んだはずの弱さを呼び起こし始めた。室内には二人の他にも、少女の後ろに従えた二人のエルフがいたが、彼女達は少女の陰に隠れているかのように気配を消していた。アグネスはエルフ達には目もくれなかった。彼女の関心は、少女だけに向けられていた。
アグネスの瞳は少女を通して過去を見つめている。アグネスの瞳は澄んで綺麗だが、疲れ切っているように見える。それは燃え尽きようとしている蝋燭の灯火のようだ。あの日から、彼女はずっと戦い続けてきた。戦争によって傷ついた人々を救い、荒廃した国を復興させるために。その過程で、彼女は多くのものを失ってきた。大切な人も、大切なものも。それでも彼女は決して涙を見せなかった。鉄の聖女と呼ばれる大教母として、人々の希望となるために。だが、今、目の前にいる少女は、彼女の心の奥底に封じ込めていた感情を呼び起こした。
「貴方は、本当に変わらない」
アグネスには隠す気がないのか、その声には溶けることのない悲しみで固まっていた。少女を見ていると、これまで自分が何を失い何を犠牲にしてしまったのか痛いほど理解できてしまう。それが、アグネスには耐えがたかった。
「本当に変わらない。貴方はあの頃のまま私の前に現れた。本当に貴方は酷い人」
「なに? 若さの秘訣を知りたいのかしら?」
少女は冷ややかに不敵な笑みを浮かべる。少女がよく見せる無邪気な可愛らしい笑顔とは異なる。背筋が怖気るような妖艶さが漂っている。
「それはね、老いを感じないこと。過去も、今も、考えないこと。ただ遠くを見つめて、何も考えずに前に進むだけ。周りを見たり、立ち止まって振り返ったりしては駄目。ただ前だけを見据えて進むだけ。それが若さを保つ秘訣よ」
妖しげな色気をまとって言う少女からは、幼さの痕跡が消えていた。見た目は十代前半にしか見えないが、艶然と笑みを浮かべる彼女の赤い瞳からは危険な魅力が溢れている。その赤い瞳に映り込むアグネスの姿は、まさしく神話で語られる太陽に魅せられた少年の如く太陽の炎に焼かれていた。恐ろしさを感じながらも、アグネスは少女の瞳から逃げなかった。
まっすぐに見つめ返すアグネスを見て、少女は言葉を続けた。
「アグネス、貴方と最後に会ったのはいつだったかしら。最後に貴方を見た時は、今みたいな老け方をしていなかったわ」
「今の私を、一体いつの頃の私と比べて見ているのですか。貴方と最後に会ったのは三十年近くも前ですよ。その時の私は、まだ四十を迎えたばかりで、今よりもずっと若々しかったころです。貴方はそれを覚えていないのですか?」
「アナタはそう思っていても、周囲からは二十代前半と変わらないくらい若く見えていたはずよ。実際、私が最後に会った時は、不覚にも驚かされたんだから。ここで過ごしていた頃と何一つ変わらずにアナタがいたんだからね」
「その言葉を、私は何倍にもして貴方に返したいですけどね」
少女の軽口に冷然と返すアグネスの返しに、少女は胸を反らして噴き返すように鼻で小さく笑った。そんな偉そうな態度の少女を、アグネスは過去を懐かしんでいるかのように柔らかな表情で見つめた。
「それにしても、ここも随分復興が進んだわね。最後に訪れた時は、思い出を探すこともできないくらいに荒れ果てていたのに」
「えぇ、多くの人々のおかげです。今、広場で復興作業に携わる者も、難民の看護をしている者達も、全員が周辺国から無償で集まってくれた人々なのです」
「これも全部は鋼鉄の聖女のおかげかしら、アナタが世界会議で、三帝国から多額の支援金と大量の支援物資をあの手この手でふんだくったのは痛快だったは。今でも思い出すと笑えてくるもの。平和条約の調印式だというのに、軍事力をちらつかせてすこしでも利権を狙っていたろくでなしの糞爺共の悔しそうな顔は、できることなら絵にして後世に残したいくらいよ」
アグネスはそれらの支援金と支援物資のほとんどを、戦争によって傷ついた周辺国の復興と難民救済の為に使用した。それがニサンの大教母の強大な権力の礎となっている。ちなみに三帝国の内、賠償金の支払いも迫られたガストラ帝国は、経済的に大きな打撃を受けることになった。
「あれは私個人というよりも、私の背後に貴方という存在があったからでしょう。貴方が裏で色々とやっていたんでしょ? 貴方の助力が無ければ、内界でも大規模の軍事力を有する三帝国が大人しく和平条約に調印するはずがない」
「はて、なんのことを言っているのかは解からないけど、少なくとも私はこの国の復興に関しては何一つ関与していないのだけれども」
「それなら尚更、私だって何かをしたわけではありません。もし、これだけ早く復興できたのは、ひとえに積み重ねでしょう」
「積み重ね?」
少女は空のカップの取っ手に指を突き入れて、クルクルを回している。ちなみにそのカップは、ガストラ帝国の帝室で使用されている超高級食器である。
「この国は長い間、戦争を憂い戦禍に見舞われた国と人々の為に尽力してきました。先代の大教母、それよりも前もその前も、連綿と受け継がれてきた思い。建国の母であり大聖母のソフィア様頃から、そしてシスター達が始めたころ。この国が積み重ねてきた歴史のおかげがあって今があるのでしょう」
アグネスは深い感謝の念から、自然と頭を下げて胸の前で手を組んだ。彼女は外の広場で復興作業に順じているボランティアに祈りを向けた。1
そんなアグネスの様子を、少女の赤い瞳が無言と見つめている。その赤い瞳には怒りが込められているのを、瞼を閉じて祈りをささげているアグネスには知ることができなかった。
「ちなみに広場のあれはなんなの?」
少女の問い掛た。少女の声な鋭く、瞳は不機嫌そうにアグネスを見ていた。少女の声に、アグネスは閉じていた瞼を開ける。少女の声には、剣呑に研ぎ澄まされた鋭さがあった。
目を開けたアグネスを捕らえたのは、真っ赤に燃える少女の瞳だ。実際にアグネスを見つめる不機嫌な様子の少女の瞳には、露骨な蔑みが浮かんでいる。
「満足した?」
少女の言葉に、アグネスは拳を握りしめた。少女の言葉には明らかな侮辱が込められている。アグネスの心を土足で踏みつけるかのような野蛮な思いが言葉に込められている。
少女をよく知るからこそ、アグネスは深呼吸して沸き立つ心を静めた。
「……今、何と仰ったの?」
「あら、図星だった? 満足したのか、って聞いたのよ。老いすぎて耳まで遠くなった?」
少女のあからさまな挑発に、アグネスは冷静さを保とうとした。しかし、少女は嗜虐的な笑みを浮かべた。1アグネスの心をつかみ続けるその笑みに、アグネスは憎しみを感じた。
「あんな物まで作って、一体何なの? 彼女に対する当てつけかしら?」
少女は窓の方を見て言った。4アグネスはそれだけで、少女が何を言いたいのか理解した。5大教母の執務室から窓越しに見える広場の中央には、シスター像がそびえ立っていた。6平和の象徴として建造されたその像は、大教母アグネスが最初に造った物だ。7宗教国ニサンの建国の母である聖母の像ではなく、アグネスがこのシスター像を建てたのは、アグネスなりの思いがあったからだ。
少女の赤い瞳は、そんなアグネスの薄暗い思いを見破っているかのようだ。少女の視線からは、友人が侮辱された時に抱いている怒りの感情が込められているかに見える。
その瞳がアグネスには許せなかった。我慢ならなかった。気が付けば、アグネスは大教母としての立場も忘れて、これまでずっと心の中に閉じ込めて来た感情を吐き出していた。
「……あの子だけじゃない。貴方にもよ」
鉄の聖女とは思えない、感情を剥き出しにした声音でアグネスは少女を睨む。恨みがましく少女を見据えるアグネスの瞳は、戦後の復興のシンボルと人々から敬われる聖女の姿とは真逆の姿だ。
「私を置いて逝ってしまったあの子にも、私をこんな場所に置き去りにして遠くへ行く貴方にも。私を残して離れて行った二人を、私は……私は!」
鉄の聖女の異名を持つ老女の鉄面皮の上を、涙が伝って流れ落ちる。少女を暗い感情の孕んだ瞳で睨むアグネスの姿は、慈愛の象徴とされる大教母にはあってはならない類のものだ。
「あっ、……あの子は、あの子は私を置いて……手の届かない遠くへ行ってしまった。もう二度とあの子の笑顔を見ることはできない。もう二度と。あ、あなたは……あなたは、あなたで!」
猛烈に憤り体を震わせるアグネスは、腹の底から込み上げて来る激情を抑えることができなかった。苦しみながら少女へ向けて呪いのように言葉を投げつける。長い間心に膿み続けた毒を吐きだしているかのようだ。これまでアグネスが押し殺し続けていた感情に復讐されているかのように見える。
そんなアグネスの姿を、少女は静かに見つめていた。紅い瞳に映り込むアグネスの苦しむ姿は、地獄の業火に焼かれる亡者のように見える。
「私を……皆を……全部を置き去りにして……遠くへ行こうとしている! 私が追い掛けたくても、必死に呼び止めても、振り向きもしないで、足を止めようともしないで、あなたは遠くへ行ってしまう。私は……私は!」
溜め込み続けた悲しみが溢れ出すのを、アグネスは止めることができなかった。顔を両手で覆って隠す。それでも涙は止まらない。滂沱の涙が指の隙間から零れ落ちる。顔を伏せて嘆くアグネスからは、人々の希望の象徴とされる大教母の威厳が流れ落ちていた。
いま、ここで悲しんでいるのは、まだ十代の見習いシスターだった頃のアグネスの姿そのものだった。
「何で行ってしまうの? 皆、私を置いてどこへ行こうというの? お願いだから……お願いだから、私を置いていかないで」
嗚咽混じりで絞り出されたのは、アグネスの悲痛な叫びだった。彼女が今見ているのは、過去だ。彼女が捉えられているのは、ノスタルジックな希望だ。
アグネスは恨みで歪んだ瞳で、少女の深紅の瞳を睨んだ。彼女が見つめているのは、現在では無い。少女の赤い瞳を通して、かつての自分が置き去りにした過去を見ていた。
怒りや不満、悲しみと嫉妬、そんな思いがまぜこぜとなった感情の矛先になりながらも、少女は決してアグネスの視線から逃げようとはしなかった。少女の目の前にいるのは、宗教国家ニサンの大教母ではない。少女の赤い瞳に映る今のアグネスは、かつて大教母に憧れていた一介の見習いシスターだった頃の彼女に戻っていた。大教母アグネスではなく、ただのアグネスとして、目の前の少女に昔のように感情をぶつけていた。
「……本当に、本当にあなたは酷い人」
顔を覆い隠していた手を外して、顔を上げたアグネスの顔は嵐が過ぎ去った後のようだった。鉄の聖女の鉄面皮はボロボロに砕けて剥がれ落ちている。涙でずぶ濡れで、激しく感情が吹き乱れた為にしわくちゃになっていた。
だが、彼女の全体から漂っていた暗澹さが無くなっている。大教母として重圧に耐え続けるあまりに表情に押し固まっていた疲労感が吹き飛んでいた。嵐が過ぎ去った後の空のように、晴れ晴れとした爽快な笑みを浮かべている。
少女はそんなアグネスの様子に、満足そうに踏ん反り返って勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その様子は見た目通りの無邪気な少女に見えた。
「何をいまさらそんな解り切ったことを言っているのよ。私は酷い女なの。身勝手で我儘で。忘れたの?」
「そうでしたね。何度、あなたの尻拭いをさせられたことがあったことか。あなたは全てにおいて規格外のシスターでしたからね。掃除を頼めば、必ず何かしら壊す。怪我人の治療を任せれば、何故か余計に治療箇所が増える。病人の介護を任せれば、何故か疲労で倒れる人が増えるだけ。あの時は今以上に人の手はあったけど、それ以上に救いを求める人が多かった。なのに、貴方ときたら余計な厄介事ばかり増やすんだから」
「それは、アタシにそんなことを頼む人の責任よ。適材適所って言葉を知らないから、そんな事態に陥るのよ」
少女は悪びれる様子もなく言う。アグネスは呆れたように嘆息一つ漏らして話を続ける。
「私も考えを改めて、力仕事なら大丈夫だろうと支給物資の運搬を任せて見ると、いつも輸送トラックの荷台にはたくさんの怪我人が詰め込まれて運ばれてくる。貴方に聞いてみれば」
「あれは、物資を奪いに来た野盗共から物資を守る為に致しなく武力を行使した為よ」
「聖母に付き従う慈愛と慈悲の象徴たるシスターが、よもや過度の暴力行為をするなんて世も末だったわ」
「悪漢どもに聖母の慈悲は必要なし」
悪びれもせずにいう少女の姿に、過去を見たアグネスはかつての感情が蘇って来たかのように憤った。
「貴方のそういう傲慢な所が大っ嫌いだった」
「アタシはアナタの意固地なところが気に食わなかった」
アグネスは呆れた様子で、少女は笑みを浮かべながら言う。まるで気心の知れた友人と口喧嘩しているかのようだ。アグネス自身も、宗教国家ニサンの指導者である大教母という衣を脱ぎ捨てて、感情のままに少女にくどくどと文句を言い続ける。
「何度、大聖堂の壁を壊した事か。何度、聖母像を壊した事か。だけど、貴方は決して謝らないし、反省だってしない。貴方は普段から問題行動ばかりで、古参のシスター達から目の敵にされている貴方の為に、私がどれだけ奔走させられたか。貴方に私の気苦労が解かりませんか?」
「ちょっと待ってよ。言っておくけどね、それに関しては咎められるような事は何一つしていないわよ。あの頃は、難民の集団がやってくる度に、その中に混じって入ってくる馬鹿共が、介護しているシスターを商売女かなんかと勘違いして、毎回無理やり手籠めにしようとするから、その度に私は彼女達を守るために武力を行使しただけなのよ。大体、壁も像も直せばいいだけなんだから、あんなに口喧しく言わなくてもいいじゃない」
反省の色一つ浮かべずに、アグネスの小言に口答えしてくる少女に対して、アグネスは目をつり上げる。
「貴方はいつもそうやって周囲の人達と軋轢ばかり作る! それを解消させられる私の身にもなってよ!」
「何よ、大体エルヴィラはその事で私を責めた事は一度も無かったわよ」
「エルヴィラ様!」
アグネスは先代の大教母であるエルヴィラの名前を聞いて激しく動揺した。エルヴィラはアグネスの先代の大教母である。五十年前のガストラ進攻の際に、難民やシスター達の前で銃殺された女性だ。アグネスは先代の大教母を心から慕い尊敬している。そんな人物を平然と呼び捨てにした少女を、アグネスは許せなかった。しかしそれが目の前にいる少女以外だったならば、アグネスは冷静に聞き流すことができただろう。
拳を固く握りしめて、立ち上がったアグネスは怒りのままに少女を責めたてた。
「どうして貴方は昔からそうなの! 大聖堂の壁はまだしも、聖母像は宗教国家ニサンの建国の象徴というわけじゃないのよ。聖母像は救いを求める人々の光なの。平和を願う人々の希望なの。それが壊されるということが、どういうことなのか。どうして、貴方にはそれが分からないのですか!」
アグネスは少女を見下ろして睨みつけた。怒りで体が震えていた。
アグネスから激しい怒りをぶつけられながらも、少女は常に彼女から目を逸らさない。アグネスと話し始めてから、少女は何度アグネスが溜め込み続けて来た感情をぶつけられただろう。少女はこれまで一度だって、少女自身の感情が動揺した様子を見せない。
少女は冷静に、アグネスを真っ直ぐに見つめ続けている。その赤い瞳にアグネスは少女に向けて不満をぶつけ続けた。
「貴方は一体、何を考えているの? この国を愛していないの? エルヴィラ様に関してだってそうよ。あれだけよくして貰っていたのに、どうしてそうやって平然とあの方を呼び捨てにできるの? 貴方にとって、この国もエルヴィラ様も、この私だってそう! 貴方はいつだってそうやって人の心を平然と搔き乱す! そして、何事も無かったかのように貴方はどこかへと行ってしまう。何も言わず、振り返りもせずに」
アグネスは言葉を途切れさせた。少しの間、沈黙が続いた。アグネスが何を思ったのか、少女には分からなかった。しかし、アグネスが再び口を開いたとき、彼女の怒りは消えていた。
「あの子の事も、貴方にとってはすでに過去にすぎないの?」
アグネスの声は、訴えるように響いた。今のアグネスの姿は、まるで両親の愛を疑う思春期の少女のように見えた。体面に座る少女とはまるで真逆だ。激しく揺れ動く感情を制御できなくなっている今のアグネスは子供のように見える。それに対して少女は常に動じた様子はない。。
アグネスの縋るような眼で見つめられた少女は、ここで初めて視線を動かした。赤い瞳は下へ動き、ティーカップを見つめる。カップの中は先程からずっと空のままだ。赤い瞳は、次に左へ動き窓の外を眺めた。その視線の動きは、何かを探すというよりは何かを確認しているかのようにも見える。それはきっと少女自身にあることに違いない。
少女が再び視線をアグネスに戻した時、彼女はすでに座っていた。平静さを取り戻したのか、これまで感情の吐露で乾いた口をお茶で潤している。そんなアグネスの様子を眺めて、少女は笑みを浮かべながら困った様に言う。
「……信仰心の差、かしらね」
肩をすくめて少女は言う。アグネスはそんな少女の赤い瞳を見据えながら、静かにカップを置く。アグネスの瞳は、再び過去を眺めていた。その過去の哀愁に沈む瞳を見て、少女は溜息を一つ漏らした。
「アグネス、確かにここもアナタも、アタシにとっては過去よ。だけどね、過去の繋がりの先に今があるのよ。アタシは別にこの国に何も思っていないわけじゃない。ここのシスター達にも、アナタのことも、あの子のことも、アタシにとっても、それは同じよ。もし何もなければ、私がここにいるわけがないでしょ。アナタなら私のことが解かるはずよ」
「信仰心の差……そうね……そうだったわ。昔から私達と貴方との間には溝があった。あの頃はそれに気付いていたけど、大して気にしていなかった」
アグネスは過去を追い求めて、視線を窓の外へと向けた。
「私はあの子が羨ましかった。あの子はその溝を飛び越えて、いつも貴方の傍らにいた。正直、私はそんなあの子に嫉妬していたわ。私とは違う形で、貴方に、深く、関われるあの子にね」
「あら、まるで私に恋をしている乙女のような言い振りね」
少女はからかうように言う。だが、老女はその軽口を真面目に受け止めて、真剣な表情をして考え込んでからゆっくりと答えた。
「そうかもしれないわね。……いいえ、きっとそう、そうに違いないわ。私、貴方のことが大好きだった。心から慕っていた。愛していた」
「気持ちが悪いくらい素直な反応ね。大体アナタ、さっきは私のこと傲慢で嫌いって言ったじゃない」
少女の言葉に、アグネスは苦笑いした。アグネスは懐かしむかのように少女の赤い瞳の先にいる過去の自分を見つめた。
アグネスは立ち上がって窓辺に近づく。窓から下を覗けば、広場の中央に鎮座するシスターの像がアグネスを見上げていた。
「ええ、私は大嫌いだったし、貴方のことを心の底から恐れていた。貴方は我儘で奔放で、私が何を言っても聞いてくれたことなんて一度もなかった。貴方は何があっても頭は下げない。目上の者を敬わない。古参のシスター達だけでなく、エルヴィラ様にさえも、貴方は平然と意見を言って反抗する。その傲慢さが怖かった。粗暴で野蛮、口は悪いし態度は誰よりも大きい、はっきり言って関わり合いになんてなりたくなかった」
「だけど、あの子以外では、アナタだけよ。直接私に口煩く文句を言ってきたのは」
「私には立場がありましたからね。誰かが貴方を諌めなければならなかった。当時は嫌な役割だとつくづく思いましたよ。そうでもなければ、きっと私は貴方には絶対に近寄らなかった」
言葉を一つ、一つ、漏らす度にアグネスの胸が一つの感情で満たされていく。
「だけど、貴方と関わることで、何で誰もが貴方を無視できないのか理解できた。皆、貴方を恐れていたし嫌っていた。だけど、誰もが貴方のことを目で追っていたわ。憧れ、だったのかもしれないわね。何者にも何事にも捕らわれることのない自由な貴方を」
置き去りにした過去を、アグネスは取り戻そうとするかのように過去へ目を向け続ける。必死に追えば、過去を取り戻せると信じて、彼女は過去の自分を探しながら言葉を綴る。
「貴方は誰との間にも、線を引かなかった。誰との間にも溝なんて作っていなかった。それらを引いていたのも、作っていたのも私達だった。難民と関わる貴方を見て、私はそのことに気が付くことができた」
振り返りながら、アグネスは自嘲気味に笑う。
「救いを求める難民達、だけど彼等が本当に求めていたのは救いなんかじゃない。彼らが求めていたのは、一人の人間として平等に扱われること。貴方以外のシスターは、難民を難民として接していた。可哀想な人々として、憐れな人々として」
そこでアグネスは言葉を止めた。彼女の心は郷愁で満たされている。彼女は全てを忘れている。立場も。責任も。過ぎ去った多くの時間と。遠くに置き去りにして来た過去との埋められない溝を。
少女の背後にいた二人のエルフは目を瞠った。二人は自分達の目前で何が起きているのか理解できなかった。先程までソファに座っていたはずの疲れ果てた老女の姿はどこにもなく、十代後半の大人びた顔立ちをしたシスターが思慕の笑みを浮かべて立っていた。
今、二人のエルフの瞳に映る物をなんと表現すれば良いのだろう。
夢、幻。
もしくは奇跡。
だが、冷酷に現実だけを捉える少女の赤い瞳だけが、ノスタルジックに惑わされ浸る一人の老女の姿を捉えている。
アグネスは理解しているだろうか。今、自分がどんな表情をして微笑んでいるのかを。彼女が自分の身に起きている現象を理解できることはない。
時間を忘れてしまっている今の彼女では、不可能だ。
そして、彼女が求める物は、永遠に手に入ることはない。
決して。
過ぎ去った過去が戻ってくることはないのだから。
「そんな貴方を私は愛していた。他のシスター達も。エルヴィラ様も。皆……貴方を心から愛していた。あの子だって、貴方を心から愛していた」
アグネスは郷愁に捕われ続けたまま、黙して座する少女を見つめた。まるで縋るように、救いを求めるように。
灼熱と燃える少女の赤い瞳は、無情にアグネスの希望を焼き尽くした。
少女の瞳を見てアグネスが実感したのは、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の長さである。
その瞬間、魔法は解けた。
「……貴方は……本当に……」
少女の背後でずっと沈黙を保ち続けるダークエルフは、自分が目の当りにした事象を理解できなかった。ダークエルフは自分の見ている光景が信じられずに、何度も目を擦って目の前にいる大教母アグネスを凝視する。ダークエルフの視界には、先程までの若く美しいシスターの姿はどこにもない。あるのは疲れ果てた老女が一人窓辺に立っているだけだ。
「貴方は、本当に酷い人」
アグネスは思慕に満ちた眼差しで少女を見つめた。その視線を受け止める少女の瞳の先には、老女が置き去りにした過去がある。それだけでアグネスは心から祝福を受けたような気分に浸れた。
アグネスは再び窓辺から見下ろせるシスター像を眺めた。
「……満足したか……ですか。貴方らしい、酷い言い方です。ですが、そうですね、。私は満足してしまった。彼女の像を作った瞬間、私は自分に課した責務を果たせたような気がした」
アグネスは胸を抑えた。広場のシスター像を見ると、アグネスの中に一つの思いを込み上げて来るからだ。
「私はあの子が大好きだった。あの子を心から愛していた。笑顔が素敵で、気分によっていろんな顔を見せてくれるあの子を。いつも元気で、眩しくて輝く様な明るさを持っていた。ただ、ちょっと騒がしすぎるところがあったけど、あの子が近くにいると自然と幸せな気持ちになれた。どれだけ辛いことがあっても、悲しい時があっても、彼女が隣にいれば笑顔になれた。誰とでも仲良くなれる不思議な子だった。貴方だってそう思うでしょ?」
窓ガラス越しに映るシスター像を、アグネスは愛しそうになぞる。少女は寂しさで消えてしまいそうなアグネスの背中を静かに見つめている。
「あの子こそ本物の聖女。戦争で荒廃した暗い世界に光を灯す希望の存在、だった。だからこそ、私はガストラ帝国のことを絶対に許さない。どんな形でもいい、彼女が望まない手段を用いてでも、私は彼女が歴史の彼方に忘れ去られてしまうことを受け止めることができなかった」
ガストラ進攻の際、一人のシスターが難民の為に命を捧げた。まだ十代の少女は、侵略してきた軍勢の前に一人で立ち向かった。
少女は必死に平和を訴えた。だが、容赦なく少女の命は奪われた。
だが、シスターが作った僅かな時間のおかげで、多くの難民の命が救われた。そのシスターの善行は各地で語り継がれる紅蓮の戦乙女の伝説の一部として残されている
「もし彼女が生きていれば、きっと私はあの子の補佐を務めていたはず。そして、たまに訪れた貴方と三人で楽しく昔話をしていたでしょうね」
アグネスの心はまだ過ぎ去った日々の思い出の中に囚われていた。少女は冷静に老女のそんな幻想を打ち砕いた。
「過去は過去、『かも』は『かも』、今は今よ」
リアリストの冷酷な言葉に、アグネスは現実の無情さに打ちのめされた。ノスタルジックに酔いしれていたいアグネスは、彼女を現在に呼び戻そうする少女を抗議するかのように睨んだ。
だが、やがて表情を緩める。埋められない物は、何をしたって埋めることはできない。アグネスの理性はそれを痛いほど理解している。
「そうですね。所詮は老女の古ぼけた妄想でしかありません。きっと、明日から私は今よりももっと老け込んでいるでしょうね。貴方のおかげで嫌という程、見ないようにしてきた過去を見つめ直させてもらったので。なんだか、とても疲れてしまいました。自分がこれほどまでに老いたなんて知りたくもなかったのに」
そう言いながら、アグネスは少女の対面に座り直した。微笑む彼女には、長く生きた者だけが持つ疲れ果てた独特の雰囲気が漂っている。彼女の笑みは、諦観からくる抗う気持ちのない無気力な人間の笑みであった。
少女はそんなアグネスの気持ちに棘のある言葉を投げつけた。
「それで、こんな意味のない思い出話をする為に、私を呼びつけたんじゃないでしょうね?」
優しさの欠片も無いリアスト一色の言葉に、辟易とした様子でアグネスは一枚の写真を取り出した。
「旧知の縁を頼って、貴方にクエストの依頼を申し込ませて頂きます」
少女は差し出された写真を手に取って眺めた。それはシスターの服を来た一人の少女の写真だった。亜麻色の髪に、エメラルドグリーンの瞳が印象的な、美しい顔立ちをした少女だ。
「一週間前、一人のシスターが行方不明になりました」
写真の少女は、シスター服に身を包み貞淑にして厳かな雰囲気がある。しかし、写真に写る少女のエメラルドグリーンの瞳が物語っている。活発な好奇心に輝く瞳から、少女はアグネスの心情を色々と察することができた。見るからにアグネスの手を焼くようなシスターだ。天真爛漫とした笑みからして、修道女としての教えである『清貧・貞淑・従順』を守るような娘には見えない。
含むような笑みを浮かべて少女はアグネスを見た。
「アンタの手に負える様な子じゃないでしょ」
「貴方よりは大分マシですよ。それに手を焼く子ほど可愛いですしね」
アグネスは母親のような微笑みを浮かべる。
「彼女は何を勘違いしたのか知りませんが、彼女は一部の難民達を引き連れて『外界』へ渡るつもりです。恐らくは、難民達を外界へと亡命させるつもりでいるんでしょう」
「ふ~ん、なかなかに面白い子じゃない」
少女は写真に写るシスターの、天真爛漫な笑みと好奇心が躍動するエメラルドグリーンの瞳に、ある一人のシスターの姿を重ねていた。
「いかにもここの常識に収まらなそうな子ね」
少女の脳裏に浮かぶ人物と、写真のシスターとは似ても似つかない。だが、少女にはこの写真のシスターが何を考え、何を求めているのか理解できた。まだ一度も会った事もなければ話したことも無い相手なのに、少女には写真のシスターが何を求めて外界へ渡ろうとしているのか。この赤い瞳を煌々と輝かせて笑みを浮かべる少女は、写真のシスターのことを手に取るように理解できた。
「ユイガ、彼女を見つけ出して欲しいの」
縋るように願うアグネスには、家出娘を心配する母親のようだ。
そんなアグネスの願いに少女は答えた。意地悪な笑みを浮かべて、写真をアグネスに見えるように提示して少女は聞いた。
「それで? 見つけだした後はこの子をどうするればいいの? ここに連れ戻せばいいのかしら? 大人しく連れ帰るような子じゃないわよね。その時は無理やり、力づくで?」
少女の含みのある問いかけに、アグネスは親愛に満ちた笑みを浮かべて答えた。まるで母親が子供に向ける、愛情に満ちた表情だ。
少女の問いかけの裏にある言葉は、これまでずっとアグネスが自分に問い掛けて続けて来た言葉だ。その問いかけに対する答えは、アグネスの中ですでに決まっている。アグネスは写真に写るシスターを愛おしそうに見つめながら、これまで『彼女』から求められ続けて来た答えを少女に託した。
「ユイガ、お願い。彼女を――――」
まだ誰も知らない。
運命が動き出す時はいつもそうだ。
いつも当事者達がいない所で、勝手に動き始める。
くるくると。
クルクルと。
狂狂と。
ようやく物語が動き出します。次回はジニーが魔導列車に乗るシーンからスタートします。
ファンタジー小説らしく、戦闘シーンなどを描いていきます。