雑誌
雑誌が手から滑り落ちた。
「あっ」
朗らかな声が、大通りを通過する車に吸収されていく。その子は雑誌を追って道路に駆け出した。「危ないっ」慌てて父親がその手を引っ張る。間もなくして、車が目の前を通り過ぎた。雑誌の端がタイヤに敷かれ、ぐしゃぐしゃになる。
「なにやってるの!」とすぐそばにいた母親が叱咤した。それにも構わず、雑誌を落とした張本人はただただ残念そうによれよれの雑誌を見つめている。「あーゆうとくんがぁ」と落とし物を指さしながら、引き留めた父親に寄りかかったままだ。「ちゃんと前見なさい!」母親は目の合わない子供の顔をぐりんと引っ掴み、自分に向きなおさせると更に強い口調で叱る。「だってぇ」と素直にうなずかない少女に、父親も耳元で説教を始めた。「いまパパが手を引かなかったらどうなってたと思う?」
冬を潜り抜けたばかりの暖かい日差しが優しく住宅街に降っている。整地された土地に生い茂る柔らかい緑と、少し冷たさを残す大きな川。明るく未来のある光景。ざぁっと何台もの車が通り過ぎていく。信号はまだ赤のままだった。
女の子はちゃんと自分の過ちを認めたらしく、「もうしません」と親子の指切りをしていた。
ありふれた家族の姿を横目に、私の気持ちは深く沈み切っていく。景色が遠のく。
ふと大きな風が吹いて、木々がざわめいた。
ぱたぱたぱた、と聞きなれない音がしたかと目を向けると、あの子の落とした雑誌が地面をはいずりまわっているところだった。表紙の「ゆうとくん」が、からかうように見え隠れする。そのうちに、雑誌は取り戻す気にはなれない距離へ行ってしまった。
信号が青になる。女の子は母親に手をつながれながら、右左右を確認して威勢よく横断歩道を通り過ぎて行った。私も渡らなければいけない。けれど進みだすのが億劫で、意味もなく「ゆうとくん」を目で追いかけた。もう顔も判別できない。そのうちに信号はまた赤になった。
信号機を見つめながら、あの少女を思い返す。そういえば、なんで横断歩道を渡るときは右左右の順番で教えられるのだろう。小学校のときにもぼんやり不思議に思っていたが、流れていく車を見てすぐに分かった。日本が左側通行だからだろう。こうして自分が大人になったことに気づく。そして絶望する。どうして小学校のころからこういったことに気づけなかったのだろう。また、のどかな風景とのコントラストが深まっていく。
信号が、また青になる。渡ろうとすると風が吹いて、髪の毛が視界を覆った。うん、進もう。