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妄想日記  作者: 緒方
2/5

輪廻転生


 その日は、土砂降りだった。


 ついさっきまでは晴れていたのに。翔が家を出る直前になって大粒の雨が降り始めた。明日、関西に直撃する台風の影響らしい。


 翔はオートロックの内側でしばらく雨を眺めた後、ため息をついて自動ドアを抜けた。雨は軽々と庇を超えて、傘を指す前の腕へ容赦なく降りかかってくる。煩わしさを感じながらも、そのまま傘を指して歩き出す。マンションの前の横断歩道を渡って数歩歩けば屋根のあるバス停だ。それまでなるべく足を濡らさないよう、慎重に歩を進める。


 バス停に着くと、スーツを着たサラリーマンらしき人物がひとり待っていた。こっちは夏休みも半ばに差し掛かっているというのに、いまだに仕事をしているとは気の毒なことだ。その隣に並び傘を閉じる。


 バスが来るまであと数分。雨は勢いを増すばかりだった。


 屋根があるとはいえ、多少の雨は吹き込む。スマートフォンをいじる気にはなれなかった。意味もなくバスの時刻表を見つめながら、ぼーっと昨日のことを思い出す。



──佐藤、この小説、今度の文芸コンクールに出してみないか?


 顧問の吉永にそう勧められた。文芸部として活動してはや半年、コンクールに出すなんて考えもしなかった。自分のよく見る夢をただ書き起こしただけの、何の変哲もないファンタジー小説。描写が丁寧で、読み手の想像力を掻き立てると、吉永はそう褒めてくれた。素直に嬉しい。ほかの人にも認められてみたい、そういう気持ちもあった。だが、二つ返事ではい出しますとは言えなかった。


 もともと引っ込み思案な性格だというのはある。臆病なのだ。認められたいと思いつつも、なんの評価もされなかったら。きっと応募したことが恥ずかしくなるだろう。悔しいのではなく。そういう小心で卑屈なところが翔にはあった。


 それに、そもそもそこまで小説が好きなわけではないのだ。きっと人並程度には読むけど、趣味が読書とは言い難い。ただ、文章を書くことが好きなだけだった。日記のような独白文や、今回みたいに夢を書き起こしたものなど、ひそかに自分だけのノートに書いては読み返していた。

 でも、それだけ。高校生になって、部活に入らないのは寂しいと思って入部したけれども、絶対に文芸部でなければという意思もなかった。特に興味があることもなく、比較的自分に向いていそうだから入ったに過ぎない。そんな気持ちの部員が、文芸コンクールに参加していいものなのだろうか。


 そしてもうひとつ、なんとなく、夢を書き起こしただけの内容はずるい気がしたからだ。翔にとっては本当にそのまま書き起こしただけで、創作したという実感がほとんどない。それなのに、小説として応募するなど、場違いな気がしてならなかった。


 応募締め切りは九月上旬だから、焦って決めなくてもいいと吉永は言った。そんな深く考えなくていい、参加することに意義があることだから、とも。きっと、ほんとに深く考えなくていいんだろう。大賞を目指しているわけでもない。翔だって、実際重くとらえて悩んでいるわけではないのだ。ただ、なんとなく腰が重かった。



 いつまでに決めようかな。


 腰が重いと言いつつも、頭の中は応募する方向で妄想がはかどった。夏休みの課題と言われてさらっと書き起こした文章ではもったいない。どうせ出すならもう少し手を加えたい。


 物語の舞台は、魔法の使える中世ヨーロッパのような仮想世界だった。古城で暮らす貴族の少年が、様々な魔物と戦い英雄になるまでの物語。

 何故か、翔はこの夢をよく見た。ゲームもほとんどしないのに、妙に鮮明に、そして繰り返し見るのだ。夢の中の翔少年は魔法を使わない。どうやら剣を武器にして魔物のようなものと戦っている。夢の中でさまざまな人に出会っている気がするが、大半は顔を覚えていなかったり、家族やクラスメイトの顔だったりする。夢なんてそんなものだ。

 ただ一人、いつも同じ人と会うような気がしていた。同じ年の頃か、はたまた年長者か。男か女かさえも分からないが、同じ場所の夢を見るように、同じ人の夢も何度も見ているように感じた。



 振り止まない大粒の雨音に飲まれて、思考がどんどんと現実から離れていく。




「あの」




 突然、声をかけられた。

 隣に並んでいたサラリーマンだろうか。透き通る声。どこかで聞いたことがある気がする。


 ぱっと横を振り向くと、相手の顔が見えない。屋根の下なのに、男は傘を指したままだった。


「あの」


 もう一度、声をかけられた。


 すっと、傘の下から腕が伸びる。




「こっちに来ますか?」


「え?」




 瞬間、身体が宙に浮いた。


 落下している。



 なんだ?何が起きた?



 そこはもう、バス停ではなかった。風の唸る音が耳を襲う。雨は降っていない。


 視界にあるのは、青空と、そこに流れる雲だけだった。



 驚きよりも混乱が先に来て、声が出ない。自分の身に何が起きているのか、状況がつかめない。


 背中から、落ちている。服がバタバタと、痛いほどの音を立ててはためく。

 落下の勢いで身体は思うように動かせない。どうにか姿勢を保とうともがくと、不意に、手首をつかまれた。ぐっ、と何かに引き寄せられる。


「離れないで」


 抱きとめられたのは、栗色の髪をした青年の腕の中だった。翔を引き寄せた勢いのまま、肩を組むようにして身体を翻す。なにがなんだか分からないままその横顔を見ると、優しい巻き毛の奥から、青年が優しく微笑みかけていた。




 その長髪は、不思議と優雅にたなびいていた。翔の服を引きちぎるように吹き荒れる暴風など、どこにもないように。




 思わず見とれていると、その青い瞳と目が合った。彼はまるで気の置けない仲であるかのように、くしゃっと顔を緩ませる。




「ちょっと強引だったね」




 くすくす、と青年は無邪気に笑った。




 そこでやっと、自分の意識を取り戻したように感じた。どうにか状況を把握しようと、必死に問いかける。


「どういうことだ?なんだこれは?ここはどこだ?」




 そうだ、ここはどこだ?何が起こっている?


 そして、お前は誰だ?




 しかし、青年は答えなかった。代わりにじっと翔を見つめる。


 身体は確実に落ちているのに、まるで時が止まっているようだった。




 肩がぐっと引き寄せられ、鼻がくっつくほど顔を近づけられる。




「ごめん」




 青年が、翔の頬をそっとなぜる。




「会いたかった」




 風の音は相変わらず、轟々と耳元を荒らす。


 青年の瞳に、悲しみがよぎった気がした。



「お前、誰なんだ?」




 頬を撫でる手を掴み取り、精一杯睨みを利かせる。


 しかし、そんなものまるで意に介さないとでもように青年はまた微笑んだ。




「また後で、ね」




 掴んだ手が振り払われると同時に、組んでいた肩もほどかれ、またしても宙に放り出される。




「うわっ?!」




 バランスを崩し、また背中から下に落ちていく。翔だけが勢いを増して、青年の姿は天の彼方に見えなくなってしまった。


 恐怖が全身を覆う。落ちる。でもどこに?何かにたたきつけられるのか?それともこのどこかもわからない空の中をただひたすらさまようのか?


 夢であってくれ。頼む。




 翔はギュッと目を閉じた。



◇◇◇◇◇



「兄ちゃん、乗らないの?」


 足元から声をかけられた感覚がして、目を開けた。長靴をはいた黄色いTシャツの少年と目が合う。



 そこはマンションの前のバス停だった。



「乗んねーならどいてよ」


 小学校低学年であろう少年は、まだ声変わりのしていないよく通る声で悪態をついた。この世に怖いものなどないとでも言うように、翔を一瞥してからバスへ乗車する。


 いつの間にか、バス停に戻っている。


「お客さん、乗らないの?」


 バスの運転手がかったるそうに声をかける。


「あ、はい、乗ります」


 慌てて定期を出してバスに乗った。ICカードリーダーがピッと鳴る。いつものバスだ。

 他に乗客がいないことを確認すると、バスは発車した。


 激しく揺れる車内で、翔は何にもつかまらず立ち尽くしていた。



 いったい、何だったんだ?さっきのは。まだ混乱している。

 夢でも見ていたのか?

 だが、さっきまでの出来事が夢だとは思えなかった。自分の手のひらをじっと見つめる。



 栗色の髪の青年。あの手を掴んだことを、鮮明に覚えていた。まだあの柔らかい感覚を覚えている。

 会いたかった、と彼は言った。翔のことを知っているような口ぶりだった。本当に?いったい、誰だったのだろう。



 つい先ほど自分の身に起こったことを反芻する。と、ばっと顔を上げた。そうだ、あのサラリーマンはどこにいる?最初に翔に声をかけてきたサラリーマン。

 勢いよくバスの中を見回したが、そこには長靴の少年と、女子高校生二人、杖を持った年配の女性一人しかいなかった。スーツ姿の男はいない。そんなはずはない。翔の前でバスを待っていたのだから、乗っていなくてはおかしい。


 もしかしてあのサラリーマンが、栗毛の青年だったのだろうか。


 と、バスの後方から、どっと笑いが起こった。女子高生二人の声だった。何か仲間内で面白いことがあったらしい。お互い笑いを堪えながらしーっ静かに、と騒いでいる。よく見ると、同じ学校の制服を着ていた。


 急に、こんなに空いているバスで、真ん中につっ立っていたことが恥ずかしくなる。そそくさと女子高生たちから一番離れた席に座った。

 通路を挟んで隣をみると、さっきの少年がいる。女子高生に対して睨みをつけながら、飽きれた風を装っていた。随分とませたガキだと、翔は思った。思わず見つめていると、少年の視線がこっちに向いてきた。慌てて首を回し、窓の外を眺める。



 日の光が眩しくて、思わず目を細める。久々に明るいところに出た感覚だ。


 雨は、すっかり上がっていた。セミが鳴いている。


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