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セクシュアリティ・クライシス

作者: 戸高一

大学を卒業して、就職して。社会人生活も落ち着いてきたころ、これからの安定した生活には「結婚」が求められていることはわかっている。でも、もうひとつ、俺には向き合いたいことがある。自分のセクシュアリティ。「普通」ではないのは分かっている。でも、ゲイとは言い切りたくないし、とりあえずバイとして落とし前をつけている。曖昧な俺のセクシュアリティ。無論今まで、自分以外誰にも口外したことはない。



 「今日のデートというか、デートモドキも、パッとしなかった」

 大学の頃から曖昧な距離感であった女友達のリカコと別れてから心の中で自分に言い放った。というのも、ランチ後にカフェに行こうとする彼女を振り切って、急用があるからと嘘をついて夜の映画はキャンセルした後だ。ランチ中、スルスルとパスタを啜って、小指を立てながらアイスコーヒーを飲む彼女を見ていると、急に1人になりたくなった。自宅のソファーでダラっとしながら、ウイスキーを啜っている方がよっぽど楽しいし、根拠なく生産的であるかのように感じられる。ふいに発生した冷静な所感が、水に炭を広げたように薄く全身に染み渡っていって、気がつけば言葉となってその場の「ドタキャン」をリカコに伝えていた。

 予想外だったことは彼女の反応は原稿でも用意されていたかのようにその提案をすんなりと受け入れたことである。全く、怒っているようではなかった。「そっか」と言うなり、また会いましょうと言うような女友達に使うような言葉を、まるでサラダに塩を振るかのように手短にのべ、俺らは席を立った。

 新宿駅の別れ際、俺はせめての罪滅ぼしで「またね」と言うと、相手は「楽しかった、ありがとね」と言って、人混みに消えていった。それがもう会うことがないという示唆であるのは明らかであった。

 俺は心の中で「さようなら」と「ごめんね」を続けて、人の海の中をジグザグに進んでいった。

 人混みの中で自分の恋愛感情を見つめなおす。そうしてやっぱり面倒臭くなって、卒業旅行先でダウンロードしていたゲイの出会いアプリをクラウドから再びダウンロードをした。

 遅かれ早かれこの瞬間が来ることは、わかっていたことだ。

 2年前に筋トレを成功した時の顔を切り取った筋肉を強調した写真を2枚載せる。そして3枚目には会社の飲み会で司会を勤めているスーツ姿を載せて締めておく。男に好かれるであろう写真を選ぶのはなぜか自信があった。おそらく秘密主義なはずの世界の中で、秘密を守れそうそうな、だけど細マッチョさと無邪気さも兼ね備えた27歳を伝えられれば「中の上」の存在にはなれると思う。

 誰と会えなくても実際はよかった。会いたいと言われてから考えたり、体よく断ったりする、そんな駆け引きが面白かった。中央線は神田駅に止まる。1人でフラッと入りやすい店の多い日曜夕方の神田駅。

 「10分待って何もなければ、パチンコ裏の汚いラーメンでも食べて帰ればいいや」と思いながら、ダークな背景のアプリをスクロールした。


「ここのコンビニで会いませんか?」

 8分目のところでメッセージが入り込んだ。久しぶりに聞く通知音に戸惑いながら、通知設定を無効にし、相手のプロフィールを覗き込む。1枚目は青いセーターを来た爽やかな笑顔の写真、2枚目はスーツでスました顔をした健康的な小麦色の肌をした二重の男だった。

 コンビニで待っていると、明確なアパートの住所が送られてきた。コンビニから2個建物を挟んだアパートの8階の部屋番号のようだ。噛んで一つになっていた2個のキシリトールガムを丁寧に包んでゴミ箱にほおり、歩を進め、いつもより胸を張って歩いている自分の姿勢が分かった。

 部屋に入ると、写真よりも肌が白くて、柔らかな印象の同世代の男が立っていた。部屋の照明は薄明るく灯されていて、意図的であることがわかった。しかし、彼のパンダを思わせるような二重の目とその右側の下方にある黒子に俺は愛着が湧いた。チャーミングなのだけれど、どこか寂しそうなその姿に、「当たりだな」という判断が下された。

 ソファに座り、会話を始める。

 彼の名前はKというらしかった。俺はTだと伝えた。

 趣味の話や今日何をしたかを話しながら、俺は彼の膝をさすると、彼は俺の腿の上に頭を乗せてきた。ツーブロのようにジョリジョリしたサイドを撫でながら、その新しい感覚に俺は戸惑いを隠せなかった。実のところ、女の数も10に満たない俺にとって、男の1が記録されることがリスクであるかのように感じられた。スリルというような、楽しめる境地ではサラサラなかったのだ。

 薄暗い部屋のままで撫で合い、頬にキスをした。彼は手を一方的に握ってきた。俺は気づいていないふりをして、彼の胸板を撫でた。興奮と躊躇の綱の上を渡るような時間がソファーの上で過ぎていった。


 Kとはそのまま、薄暗さの中でキスをしたり、膝枕をして見つめあったりしたまま、時間が過ぎていった。まるでダークなジャズが流れているような、しかし無音で湿った時間が流れて、小一時間した後お互いに気まずくなって、俺は帰宅した。

 翌日、元々予定していた実家帰省の為、宇都宮に向かった。自宅から駅まで向かう上り坂、初夏の青々とした空に心が躍っていた。貯めていた小銭でグリーン車に乗り、2階の窓際に座る。神田駅を通過した時、Kのことを思い出した。悲しくも、切なくもない感情が電車と同じように心を通過する。目を瞑って昨晩のKとの時間を思い出す。段々と体が軽くなって、眠りに身を委ねることにした。

 宇都宮に着くと、祖母が杖をついて改札に迎えに来てくれていた。俺とばあちゃんは久しぶりに会うと必ずハグをする。小学生の時に2人で見たアメリカ映画で見たことをそのまま真似して、今でも続けている。

「暑いのによく来たよ。ほらおいで」

 つえを手放して不安定なばあちゃんを、俺は、優しく抱きしめる。

「昨日の夜は、男を抱いていたんだよ。クライマックスまではいかないけども」

 心の声が根拠なく発せられたが、当然のように漏れることは無かった。

 実家に着くと、両親と弟の姿があった。去年死んだ愛犬の墓石に少し苔が生えていた。当たり障りない家族の会話を取り交わし、一泊して、明日また神田を通過して帰る。せっかくの帰省なのに、俺は翌日の神田通過時に覚えるであろうKとの接近を心待ちにしていたのだ。

 夕食の時に、父と母が目を合わせながら、会話を仕掛ける。

「聞いた?高校の時の勇気くん、結婚するって。子供も同時だって」

「そっか。あいつずっと童貞だと思ってた」

俺は流石に家族の会話にふさわしくないと思い、気まずさを覚える。母がとっさに返す。

「やめなさい、食事中に」

食事中のマナーと彼が童貞であることの関係性は不明であったが、母は明らかに別の狙いがあるかのように言い返している。俺はそれすら考えることが面倒臭くなって、キャベツの千切りを頬張った。母を一瞥して、唐揚げに箸を伸ばした。

 また、心の声が漏れてくる。俺が昨日のこの時間男と絡み合っていたことは、食事中にふさわしくないのであろうか。性的な意味ではなく、自分の息子が新しい道に踏み入れている点で、話を進めることはできるのであろうか。

 ばあちゃんに目をやると、

「いいんだど、自分のタイミングで結婚を考えばよ」

 いや、そうじゃない。と思いながらも。俺は従順な孫を装って、コクン、とうなづいた。弟と親父の方には顔すら向けなかった。


 久しぶりの祖母を入れた家族水入らずの時間は、祖母の結婚についての発言の瞬間から、少し気まずい時間に変わったようだった。全員が当たり障りない話をして僅かな談笑をしながらも、俺には絶対結婚についての質問をしまいと、一致団結しているようだ。ばあちゃんは無論、何も言わず、誰も食べないベチャベチャのポテトサラダを少しずつ口に運んでいた。

 親父とビールを数杯飲んで風呂に入り、弟のパジャマで1人和室の中で、どこからか聞こえる虫のせせらぎに耳を澄ませながら、眠りに着こうとする。

 ばあちゃんの発言を忘れようとするのに反比例して、Kの部屋の玄関を開けた時の、彼の自信なく俺を視野の片隅に入れるだけのような瞳を思い出した。

 1人で眠るのが寂しい。初めての感情だった。

 性欲とか、人肌の恋しさへの欲求ではなくて、ただただまたKとソファの中でじっと見つめあって、現実の苦労とかもやもやした感情を全て忘れたかった。

「明日また会えないかな。夕方頃」

 すっかり使い慣れていたアプリでKとのチャットページに打ち込み、送信する。

 5分ほど画面を眺め、既読がつかないのを確認してから、深呼吸をして目を瞑った。

 翌朝、5時半だと言うのにばあちゃんは近所の人と賑やかに話していて、その声ですっかり目が覚めた。確認もしていないのに、小豆色のモンペのような作業着を着て話をしているだろうことは悟るように分かった。ばあちゃんがじいちゃんと草刈りとか、畑作業をしていたかつての姿を思い出す。じいちゃんは口少ない頑固親父だったから、ばあちゃんと夫婦らしい会話をしているところを見たことはない。

 一体、ばあちゃんは、じいちゃんと、俺とKがソファで見つめあったような時間を共有していたのだろうか。それとも、これは時代の違いで、結婚にこういうねっとりとした感情を求めていないのだろうか。はたまた、ソファで見つめあっていたことは、俺とKの間にある、このセクシュアリティの生きづらさがあるからこそ創造された、難民の団結に近い時間だったのか。

 朝で思考に無駄がない分、脳みそは裸になったように自分の深層心理と話し合っている。

 スマホでアプリのテキストを確認し、胸を撫で下ろした。

「俺も会いたいよ。17時以降なら空いてる」

俺は自然に笑みがこぼしながらも、もう後には戻れないのかな、と心の中で独り言を呟いた。

ばあちゃんの元気そうな声は、蝉のそれのように、甲高く和室の朝の静寂に響いていた。


 宇都宮から約2時間、グリーン車は東京駅までの行程で購入していたが、早まる気持ちを抑えられず上野で降りて、京浜東北線に乗り換えた。

 神田で降りる。階段を降りて、改札を出る。右に3度曲がって、真っ直ぐ1km程歩く。まるでプログラミングされたような足の運びをこなしている間、まるで感情の無いロボットのように、移動している。

 Kのドアの前で深呼吸した時、あれだけ会いたかった相手がこの金属板の向こういると思うと、また気まずく感じられた。そんな俺の心の中身をつゆ知らず、Kはゆったりとした歩音で近づいてきて、あっけなくガチャっとドアを開ける。

 お互い無言で目を合わせ、さっとお互いに目を離し、俺は玄関に入りながら後ろに回した利き手でドアを閉じた。

 ガチャン。という音とともに、Kの方からきつく俺を抱きしめてきた。俺も髪を溶かすように、優しく、しかし包み込むようにKを抱きしめる。まるで泣いているような呼吸の軽い乱れを整えながら、「きてくれてありがとね」と息混じりの声で呟いた。

 俺にとってはそれは心地の良いBGMのように感じられて、返答を必要としないのものとして受け取った。その聴覚的な刺激よりも強く目に映ったのは、1平方mの食卓に並べられたコンビニ惣菜の容器の数々だった。合計で3、4食を足るであろう容器がゴミといえども整然と並べられていた。きっとこの土日は家に出ずゴロゴロしていたのだろう。そう思うと俺は急にKが愛おしくなって、ベッドにKを押し倒していた。

 行為の後、Kが愛用しているというボディソープとシャンプーの泡をシャワーで洗い流した。意外なことに、風呂場に洗顔は置いていないようだった。

 一緒に暮らすと、こう言う些細に異なる部分が出てきて、話題にしていくのだろう。揉めることもあれば、興味深いものとして明るい話題のひとつになることもあるだろう。俺は少しでも多くポジティブに捉えて、後者の捉え方をしていきたいと思う。

 その時、水道の調子が乱れたのか、一瞬冷水が流れ出し、全身が冷たく感じられた。ばあちゃんに幼少の時に水遊びで川の水を不意にかけられた時のことを思い出した。

 すぐまたお湯に戻る。俺はそそくさと全身を洗い流し、タオルで乾かしてから、Kが並べてくれた洋服に着替えた。

 リビングに戻ると、Kはソファで居眠りをしているようだった。

 俺が2歩だけソファに向かった時、Kがうっすら目を開け、暖かく口元を緩めるようにしながら笑った。

 予想だにせず、俺はまたプログラミングされたロボットのように玄関に向かっていた。Kは少し動揺しながら俺の背中に語りかけてくる。

「もう帰っちゃうの。ソファで映画でも見ようよ」

「いや、明日仕事早いから」

Kは少し黙った。俺は振り向く必要がないように、靴をゆっくり履いて、玄関から出た。

「ありがと。またな」

Kは黙ったままだった。

またプログラミングされたように神田駅に向かい、ホームで電車を待っている時、強い後悔が俺を覆い出した。自分でもなぜ冷淡な男を演出したのか分からない。

 電車は近づいてきている。俺は右手の拳を、左手の掌で覆いかぶせた。

 頭の中でひとつ確かなことは、あのシャワーで、Kと一生一緒にいられた場合の幸せな将来と、その裏に潜む鋭い危険性を同時に考え、危険性で頭がいっぱいになったことだ。


 翌朝、実家から帰った後の疲れを想定して、俺は午前休を取得していたが、特に疲れなく起床したので、出社することにした。電車に揺られながら、昨晩のことを思い出す。

 Kは行為とシャワーの後にそそくさと家を出た俺のことをどう思ったのだろうか。ソファに座ったまま、どんな感情で食卓の上のガラクタ容器を眺めたのだろうか。

 満員電車の中で、渦を巻くような思考を深めていくうちに、アプリでKとのトーク画面を開いていた。文字を打っては消し、打っては消し、それをただ繰り返す。

 率直な謝罪か、それは重すぎるから当たり障りない会話から始めるのか。

 今まで男へのテキストに要したことのない心労に、俺は動揺しながら目を閉じた。スマホをしまい、目の前をぼっーと眺める。疲れ切った中高年の男性がつまらなさそうに中吊り広告を眺めていて、何人かと目があった。その瞬間に、加齢臭が舞い込んできて、蚊取り線香の煙を吸った蚊のように神経が麻痺していく気持ちがする。

 Kという男性は心底から愛せるというのに、その他の男たちは裸すら見たくない気持ちになる。

 なにか浄化が必要である。気持ちのリフレッシュというより、自分の中に少しでも異性愛者の欠片が残っていることを確認したくなった。

 アプリを開こうとした画面に、大学の友人からタイミングよく飲み会の誘いのラインが入った。おれは、一目散に流行りの女優の顔画像をスクリーンショットして、そいつに返信した。「この子、かわいくね?」先程のテキストを何度も送りかねていた自分とは思えないほど、思いつきの言葉を即座に送信していた。こうして、少しでも自分を社会からのズレから正す必要があるような気がしたからだ。昨夜、シャワーから玄関に向かった時と同じ気持ちだ。Kは好きだが、それをまっすぐ受け止められない気持ち。

 電車はとっくに神田を過ぎていて、職場に近づいていた。

「これでいいんだ。いまはこれで。いいんだ」

 男らしいJPOPを聞きながら、中高年の男に囲まれた電車の中で、俺は自分を浄化していった。Kには当分連絡しないと根拠なく誓ったのも、このときだった。


 浄化は続けることで、いつか習慣と化していった。

 ジムの広告で見た男の裸の上半身を見かけた時、テレビ番組で見る同性愛者のタレントが騒いでいるのを目にした時、それらに内々に興味を持った自分に嫌悪感を持ち、「キモいな」と言い聞かせる。数週間続けることで、言い聞かせる必要もなくなってきて、汚物を見て目を背けるように、心から無関心であることをその対象に自然と押し付けるようになった。

 欺瞞で自分を塗り固めていることに対して心の疲れを感じないことはなかったが、社会の求める「普通」に自分を是正してくことで、いつか晴れて異性愛者になった自分が、女性と結婚し、明るい将来を築くことができればそれは相応な見返りであった。そしてそれが宇都宮の家族の幸せにつながるのだろう。

 満員電車に乗って通勤し、日が沈んでから退勤する中で、日に日に自分がその満員の中に溶け込んでいる感覚が心地よかった。ただし、神田を通過するときだけは、穏やかではないのも事実だ。はっとして曲の音量を上げたり、目を瞑って海で泳いでいる感覚に浸ったり、別に意識を背けるようにしていた。

 金曜日の夜に1人自宅でクラフトビールを空けた。スマホでニュースを漁る。とあるタレントが自死をしたらしい。明確な理由は公には不明だが、セクシュアリティが関係しているのは巷では明らかなようだ。飲んでいたビールはいつもよりも苦くて、その上炭酸がきついように感じられた。部屋の天井と壁の境目である角の部分を眺める。落花生を頬張り、ビールを流し込んで缶を空にした。一気に酔いが回ったのがわかって、心拍数も上がっているようだ。まぶたが重い。白いはずの天井が闇のように黒く澱んでいって、扉でも閉じるかのように眠りに落ちた。

 それ以降、酒は飲まないことにしていたが、高校の部活の結婚式で、シャンパンとワインを飲んだ。テーブルでの会話も弾み、大人数で飲む酒は最高に美味しかった。前回と同じく会場の天井と壁の境目を眺める。煌びやかなシャンデリアが境目をぼやかせるかのように照らしている。眺めているうちに、会場が暗くなっていく。俺は一瞬飲み過ぎた前回と同じ症状の再来であるかと焦ったが、この暗がりは演出のようであった。感動的なBGMと共に、式を締めくくる感動的な動画が流れた。涙を流す参加者の息をころす声が聞こえる。

 例の習慣づけがしっかり定着化していた俺は、自分もこの将来を迎えてやるんだという意気込みを言い聞かせた。他の参加者を眺める。

 2つ奥のテーブルに、おそらく健康的な小麦色の肌をした青年が真っ直ぐ画面を眺めて涙を流している。その肌はスクリーンから反射した光に照らされて青白くなっているように見受けられた。真っ直ぐに凛としたその目線は、Kがあの薄暗い部屋で俺を眺めていた目線にそっくりだった。

 俺の心の中で、堰き止めた水がダムを決壊させるようにKへの気持ちが一気に放出された。彼の目を見て、謝罪し、抱擁をしたい。その後はどうなるのかは分からない。とにかく、今の俺の心と体をKに委ねてみたい。

 動画は終わり、拍手に包まれた会場には明るい白みが戻ってきた。俺は、涙を拭いて、先輩に勧められたビールを飲み始めた。喉につっかえたが押し込む。そのせいか、まるで心臓が痛むかのように、胸にきつくつっかえた。


 披露宴の後、若干泥酔気味のふりをして2次会を断った。一緒に途中まで帰るよというお節介な女の知り合いの誘いを振り切り、改札を通過して、階段を登る。

 目の前を母親と少女が手を繋ぎながら登っている。

「ごめんなさい。ゆきちゃん、一回どきましょう」

 背後の俺を気にした母親は少女の腕を引いて、俺に頭を下げる。紳士服であるとはいえ、顔を赤らめた男に真っ直ぐな目で、俺に目くばせをする。

「あともうちょっとなの」

 ゆきちゃんは俺を左のてのひらの僅か数平方センチを、力づよく握りしめて、一緒に歩こうとした。

「ごめんなさいね。この子いつもパパとこうしてるから」

「いいんです。私の娘を同じことしますから」

 自分でも咄嗟に出た偽りの言葉への衝撃と、ゆきちゃんの小さくて強い握力に、自然と涙が込み上げてきた。

「あら、何か失礼しちゃったみたいね。ごめんなさいね」

俺はいえいえと手を横に振り、では、と声にならない言葉を唇で作ってホームの端まで歩く。手を離すとき、ゆきちゃんの爪が親指と人差し指の間に食い込んで、そして、離れた。

 左手と心の手持ち無沙汰の成り行きでアプリを開くと4分前にKからメッセージが来ていた。

「今何しているの」

俺はゆきちゃんの爪が食い込んだのとは別の手で、メッセージを返す。

「今から20分後、行っていい?」

すぐ既読がついた。15秒してから

「いきなりだね。いいよ、でも」


 霧雨が降る神田を歩いて、Kのアパートに入り、エレベーターを降りて、ドアを開ける。

 数週間ぶりの感覚にお互いが戸惑いを見せながらも、目をしっかり合わせて、やぁという呼吸をかわす。

 部屋はもう暗くなっていて、Kは俺のスーツを一枚一枚脱がす。軽くキスをした後、俺は耳元で呟いた。

「今日持ってきてないや、ゴム」

 Kは驚かずに、少し呼吸をした。

「そっか、じゃあできないね。ダメだよ。ダメ」

 薄着一枚のKは俺に背中を向けて、静止した。上裸のまま、俺は肘を重ねるようにして後ろから抱擁をする。

 プライドとか、恥ずかしさとか、そういう心の外側にある鎧みたいなものが、溶けて地面に落ちていった。そして、俺の体で、Kを守りたい。そう思った。

 Kは俺の左の掌だけを、ぎゅっと、大きく固く握った。

純文学小説家を目指しています。この話は自分の体験のほんの一部なので、ゆくゆくは長編にして書き上げたいなと思っています。

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