押し掛けお嬢様は死神を連れてくる
家賃は、管理費込みで四万五千円。築年数はそれなりだが、ちゃんと風呂もトイレも付いている。なんと床下収納まで付いている。一階だけの特典だ。ただ、この床下収納、フタを開けると基礎のコンクリートが直接見えるという変わった作りになっていた。疑問に思ったので不動産屋に電話で聞いてみたら、丁寧に説明してくれた。
「そのアパートは床下全部がコンクリートで覆われていますので、耐震性に優れております。昔の家屋のように湿気も上がってきませんし、シロアリも発生しにくいのです。だからご安心ください」
淀みない回答に「分かりました」と言って電話を切ったものの、何となく違う気がして、床下収納は使っていない。
設備に多少疑問はあるが、立地は文句なしだ。静かな住宅街で、周りに面倒な住人もいない。
職場までは、徒歩二十分、電車四十分、最後に徒歩三分。”徒歩”を”駆け足”に変えれば、一時間を切ることだってできる。
駅前には小さいながらもスーパーがあるし、駅の反対側にはコンビニだってある。周辺にカフェ、ファーストフード、娯楽施設の類いはないが、それを気にしたことはない。だって、使わないから。
社会人になって六年目。残念ながら、給料は新人の頃とほとんど変わっていなかった。余計なことに使うお金などあるはずがない。
昇給? それはどこの国の言葉だ?
右肩上がりの成長? それはこの国の借金のことか?
我が社は常にギリギリなのだ。
そんな会社だが、俺は結構気に入っている。人間関係は良好だし、仕事も楽しい。
平日は、会社との往復で過ぎていく。休日は、午前中に家事を終えて、午後はネット、散歩、たまに友達と遊ぶみたいな感じ。
平凡だけど平和な日々。毎日を無事送れていることに俺は感謝していた。
だけど。
何となく。
本当に何となくなのだが、最近思うことがある。
何か、変化がほしい
それを神様に願った覚えはないのだが、ある日突然それはやってきた。
暖かな春の日差しが心地よい土曜日の午後。
掃除と洗濯を終え、カップラーメンで昼食を済ませた俺は、窓を開け放ったまま、スマホでぼうっと動画を見ていた。
ふいに、一枚の花びらが画面の上に舞い降りる。春風の可愛らしいイタズラだ。画面から視線を外して時計を見ると、時刻は十四時過ぎ。
「散歩でもしてくるか」
立ち上がって窓を閉めると、スマホをお尻のポケットに突っ込んで、俺は玄関を出た。
途端。
カッカッカッ!
甲高い靴音が聞こえた。驚いて横を向いた俺の視界に、真っ赤なドレスの女が飛び込んで来る。
「お願い、助けて!」
突然の出来事。
だが、迷ったのは一瞬だった。
一切の状況分析をすっ飛ばして、俺の中の”男”が瞬時に答えを出す。
「こっちへ!」
玄関を開けて女を導き入れると、俺は急いでドアを閉めた。
顔の横をきれいな髪が流れていく。華やかな香りが鼻腔を刺激する。
なんていい匂い……
部屋に駆け上がる女を目で追いながら、俺は深く息を吸い込んだ。
直後、外に大勢の靴音が響く。
俺の部屋は、三つ並んだ部屋の真ん中だ。その三つの玄関が一斉に叩かれた。
ドンドンドン!
「ごめんください!」
「開けろ!」
「失礼します!」
どの声がどの部屋に向けられたのか全然分からなかったが、その勢いは俺をビビらせた。
「このアパートにいるのは分かっている!」
「見たからな!」
「見たんだからな!」
完全にバレているという事実が俺を弱気にさせた。思わずドアノブに手を掛ける。
「バカ、なんで開けるの!」
女が声を上げたが、少し遅かった。
ちょっとだけしか開けるつもりはなかったのに、隙間から現れたごつい手が思い切りドアを開放する。チェーンを掛けるべきだったと後悔しながら、俺はノブを握ったまま外に引っ張り出された。
黒スーツに黒サングラス。俺より身長も横幅もでかい男が上から見下ろしている。周りを見れば、似たような男が何人もいた。
間抜けだと思いながらも、いちおう聞いてみる。
「あの、どちら様で?」
「この部屋に女がいるだろ!」
ビクンと体が跳ねた。
怖い。すごく怖い。
それでも、俺の中の”男”はギリギリで踏ん張った。
「い、いませんよ」
「嘘をつくな! 香水の匂いがプンプンしてるぞ!」
俺の肩越しに男が部屋を覗き込む。
部屋の間取りは1Kだ。手前に台所、奥に居間がある。女が咄嗟に台所と居間の仕切りを閉めたらしく、奥までは見通せない。
だが。
やばい、靴!
慌てて足下を見たが、女の靴は玄関になかった。
そう言えば、女が靴を脱いだところを見ていないような。
現状、匂い以外に証拠はない。
ならば、ここはごまかし通すしかない!
「この匂いは、俺のです!」
「はあ?」
男が俺に顔を近付ける。
「防虫剤の匂いしかしないんだが?」
鋭い。このシャツは、今朝衣装ケースから出したばかりだ。
「貴様に付き合っている暇はない。確かめさせてもらう」
男が一歩踏み出した。
その圧力に耐えながら、俺は決死の覚悟で立ち塞がった。
「不法侵入です! 警察を呼びますよ!」
叫びながら、ポケットからスマホ取り出す。
その行動は、意外なことに効果があったようだ。
「警察は、困る」
男が身を引いた。
「一旦出直す。全員撤収!」
男の声で、黒服達が一斉に引き上げていく。
全員が視界から消えたのを確認すると、俺はドアを閉め、鍵とチェーンを掛けた。
うえ~怖かった~
シャツが汗で肌に張り付いている。
心臓がドクンドクンと脈打っている。
深呼吸で気持ちと鼓動を落ち着かせてから、俺は部屋に上がった。そして、ゆっくりと仕切りを開ける。
すると。
「あなた、嘘が下手ね」
冷たい声がした。脱いだ靴を手に持った女が、呆れ顔で俺を見ている。
いきなりの上から目線にムカッとしたが、俺は反論できなかった。その通りだと思ったこともあるのだが、それより……。
「なによ」
「な、なんでもないです」
慌てて俺は目をそらした。
正直に言おう。俺は、女と付き合ったことがない。だからこういう風景に慣れていないのだ。
目にも鮮やかな深紅のフレアドレス。
柔らかくウェーブする亜麻色の髪。
肩口から伸びるしなやかな腕は、健康的な肌色。
はっきりとした目鼻立ちは、モデルか女優か。
そんな女が俺の部屋にいる。人生初のシチュエーションだ。
「と、とりあえず、お座り下さい」
俺は、一枚しかない座布団を差し出した。
「私、ドレス着てるんだけど」
「はい、そうですね」
「イスとかないのかしら」
「すみません」
困り顔の俺を見て、女はため息をつく。
「仕方ないわね」
つぶやきながら座布団を引き寄せると、女はその上にふわりと座った。
ドレスの裾がきれいに広がる。その姿は、まるでフォトスタジオに飾ってある写真のようだ。
「この靴、玄関に……」
「お預かりします!」
女から靴を受け取って、急いで玄関に置いてくる。
「何か飲み物は……」
「少々お待ちください!」
台所に行って、マグカップに牛乳を注いで戻る。
「どうぞ」
「……」
マグカップとその中身を見て、女が顔をしかめた。
「牛乳以外に何かないの? それと、器はせめて、グラスにしてほしいのだけれど」
俺はまた困ってしまった。
飲み物は、牛乳か水しかない。水は、当然水道水だ。
グラスは、以前はあった。だが、割ってしまってからは何を飲むのもマグカップだ。これなら熱いものも冷たいものもいけるし、何より割れにくい。
「すみません」
謝ってばかりの俺を見て、女は諦めたようだ。俺からマグカップを受け取ると、黙ってそれを飲む。
「……薄いわね」
「すみません、加工乳なもので」
牛乳は高いのだ。加工乳の方が数十円、時には百円以上安い。俺にとってはこれが牛乳だ。
文句を言いながらも、女はそれを全部飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。
「ありがと」
にこりと笑ってカップを戻す。その笑顔に、俺はドキリとした。
台所でマグカップを洗って戻ってくると、改めて俺は女の前に座った。自然と正座になったのは、たぶん緊張していたせいだろう。
「それで、その、どうして逃げていたんですか?」
疑問はたくさんあったが、とりあえずその中の一つを聞いてみた。
すると。
「答える義務はないわ」
まさかの回答拒否。
でも、ここで怒れないのが俺の弱いところだ。
事情は話してくれそうにないので、質問の角度を変えてみる。
「この後どうするんですか?」
「……」
今度は回答なし。
小さくため息をつきながら、俺は考えた。
ここに女がいることは、黒服たちにバレている。アパートを出れば、即座に確保されてしまうだろう。
だからと言って籠城も難しい。我が家にある食料を総動員しても、二人で三日が限界だ。いや、その前に、俺は月曜日から普通に仕事がある。
考え込む俺に、女が言った。
「何とかしてちょうだい」
それは無茶振り過ぎる。
「そう言われても……」
「イヤなの! とにかく私は絶対にイヤ!」
意味不明なことを主張された。
事情は分からず、この先についてもノープラン。常識的に考えれば追い出してもいいと思う。あるいは警察を呼んでもいいくらいだと思う。
それでも、俺はそれをしようと思わなかった。
この時俺は、会社の先輩の言葉を思い出していた。
「女を見た目で選ぶのはバカのすることだ。美人なだけの女なんて、三日で飽きちまう」
二度の離婚を経験し、現在三度目の新婚生活を送っている強者の言葉だ。聞いた時には妙に納得したのだが、今はそれを全力で否定させてもらう。
美人が三日で飽きるなんてあり得ない!
俺は、女が美人というだけでこの状況を受け入れてしまっていた。
美人の魅力は、理性も常識も吹き飛ばしてしまうのだ。
「とりあえず、着替えませんか?」
しばらく部屋に留まるにしても、逃げるにしても、ドレスでは動きが取りづらい。それに、今日は暖かいとはいえ、さすがにノースリーブでは寒いだろう。
「俺の服でよかったら貸しますので」
そう言ってから、失敗したと思った。
泊まりに来た彼女ではないのだ。見知らぬ男の服なんて着るはずがない。
これは、ちょっと引かれたかも
ところが。
「そうね。そうさせてもらうわ」
女はあっさり頷いた。
「い、いいんですか?」
「あなたが言ったんでしょう?」
「ですよねー」
あはははと笑いながら俺は立ち上がる。そしてタンスからシャツとジーパンを取り出した。
「ドレスはそこのハンガーに掛けておいてください」
「分かったわ」
服を受け取りながら、女がにこりと笑う。
この笑顔は本当に心臓に悪い。毎回ドキリとしてしまう。
「俺はあっちにいますので、終わったら教えてください」
台所に行くと、俺は仕切りを閉め、背を向けて正座した。
後ろから衣擦れの音が聞こえてくる。それだけでどうしようもなくドキドキする。来週の健康診断で、心電図に異常が出ないか心配になってきた。
やがて音が止み、女の声がした。
「いいわよ」
俺がそろりと仕切りを開ける。
女は、膝を抱えて座っていた。
白いシャツにブルージーンズ。俺がいつも着ているものだ。それなのに、女が着ているだけで全然別物に見える。
俺は、その姿に見入ってしまった。
「ところで、何かいいアイデアは思い付いた?」
女の声で俺は我に返った。
「えっと、アイデアと言われましても」
「タイムリミットは十七時よ。それまでに何とかしないと、あいつらは力ずくで踏み込んでくると思うわ」
「そうなんですか!?」
俺が慌てる。
「やっぱり警察に……」
「それはだめよ。絶対にだめ」
どうしてと聞き掛けてやめた。どうせ答えてはくれないだろう。
「何か思い付いたら起こしてもらえる? 私、ちょっと眠るから」
「はい!?」
驚く俺を無視して、女が横になる。
「昨日あんまり寝ていないのよ」
呆気にとられる俺の目の前で、女は本当に眠ってしまった。
大胆というか、非常識というか。
小さく寝息を立てる女を間近で見ながら、それでも俺はここから逃げ出す方法を考えた。
俺の部屋は、三部屋あるうちの真ん中。出口は玄関か居間の窓しかない。
玄関を出ると、目の前はブロック塀。その上に目隠し用のフェンスが立っている。右に進めば通りに出るが、そこには男たちがいるに違いない。
左に進んでも、やはり塀とフェンスがあって隣家には行けない。アパートの裏をぐるっと回って、結局居間側に出るだけだ。
フェンスを乗り越えるのは、やめた方がいいだろう。薄っぺらいそれを乗り越えようとすれば、バキバキとスゴい音を立てて壊れること請け合いだ。男たちと隣人が黙っているはずがない。
玄関側に脱出の可能性はなかった。
では居間側はというと、隣家の外壁がすぐ目の前にあるためか、目隠し用のフェンスはない。境界のブロック塀は低いので、乗り越えるのは簡単だ。隣家の敷地を通って向こうの通りに出ることはできるだろう。
だが、当然そこにも男達はいるはずだ。考えられる逃走経路はすべて押さえられていると考えた方がよい。
押し入れに隠れてやり過ごすか?
子供のかくれんぼじゃないのだ。見付かった時の恥ずかしさはトラウマものに違いない。
じゃあ、壁を壊して隣の部屋に逃げ込むのは?
通り側の部屋には人が住んでいるが、反対の部屋は空室だ。
ボロアパートの壁は薄い。蹴れば確実に穴が空く。人が通れるくらいの穴を開けて、ポスターとかで塞げば……。
「向こう側からどうやって塞ぐんだよ」
女だけ逃がして俺が穴を塞ぐという手もあるが、男達が踏み込んでくればすぐにバレるだろう。不自然なポスターが疑われないはずがない。
その前に、壁を壊すなんて俺の良心が許さなかった。
「これ、詰んでないか?」
スヤスヤと眠るきれいな顔を見ながら、俺は唸った。
時刻はすでに十六時。タイムリミットは近付いている。
俺は、自分の部屋からの脱出という理不尽な命題を必死で解こうと、脳みそをフル回転させた。
「あの、起きてもらってもいいですか?」
無防備な寝顔に声を掛ける。すると、驚くほど素早く女は目を開けた。
「今何時かしら?」
「十六時半です」
「いいアイデアを思い付いたの?」
「まあ、何となく」
体を起こした女に、俺が作戦を説明する。
「運と度胸が試されるって感じね」
「じゃあ、やめておきますか?」
「いいえ。私、そういうの嫌いじゃないわ」
「では、さっそく準備を」
互いに頷き合って、俺たちは行動を起こした。
「大家と不動産屋に話は付いたのか?」
「問題ない。合鍵も入手した」
「よし。時間がない、やるぞ」
外の声がやんだ。時刻はちょうど十七時。タイムリミットと同時に男達が動き出す。
カチリ
玄関の鍵が開けられた。しかし、当然チェーンは掛けてある。
だが。
バチン!
金属の断ち切られる音がした。男達はなりふり構わない手段に出たようだ。
「突入!」
いくつもの足音が部屋に飛び込んでくる。
こりゃあ、後で掃除が大変だな
そんなどうでもいいことを俺は考えた。
「いないぞ!」
「押し入れにもいない!」
「ドレスが脱いである!」
「窓だ! 窓から逃げやがった!」
怒号が響く。
「周囲は全部固めてある。この一角のどこかいるはずだ。探せ!」
大きな声で指示が飛んだ。男達が外に飛び出していく。
音も声も聞こえなくなったことを確認して、俺はフタを開け、床からそっと顔を覗かせた。
「第一段階成功です」
下に声を掛け、急いで床から這い出る。
「埃まみれになったわ」
文句を言いながら女も出てきた。
使っていなかった床下収納。それが初めて役に立った。
「第二段階、いきます」
「いいわよ」
俺も女も、すでに靴は履いている。女には俺の靴を貸してあった。サイズは全然合わなかったが、紐をきつく絞ってあるので、脱げることはないはずだ。
ドアスコープで外に誰もいないことを確認すると、俺は一息に玄関を開けて外に出た。どうせ見付かれば終わりなのだ。ここは開き直るしかない。
手で合図をして後ろに女を待機させ、通りの様子を窺う。男達が左右の家に入っていくのが見えた。
瞬間、通りから男達の姿が消える。
「今です!」
鋭く言って俺は飛び出した。ちらりと後ろを振り返り、女がついてきていることを確認すると、迷うことなく向かいの一軒家の門扉を開けてその敷地に飛び込んだ。
男達は、アパートのある一角を封鎖している。その一角から出ることができれば、逃げられる可能性はあるはずだ。
一軒家の横を抜けて裏に回る。塀を乗り越え、隣家の庭を駆け抜ける。住人に見付かったら大騒ぎになるだろうが、この際そんなことは気にしていられなかった。
敷地を抜けた俺たちは、音を立てないように内側から門扉を開けると、見事反対の通りに出ることに成功した。
そっと門扉を閉め、振り返った俺に女が言う。
「あなた、なかなかやるわね」
その顔はやけに楽しそうだ。
笑う余裕などない俺は、渋い顔をしてから早足で歩き出した。計画では、このあと駅に向かうことになっている。電車で女を逃がす予定だ。
「第三段階です。行きましょう」
俺が言った。ところが、それに返事がない。
振り向くと、なぜか女が突っ立ったままでいる。
「ごめん。ちょっと、やっちゃったかも」
笑うその顔が、歪んでいた。
「足首、結構痛い」
「えっ?」
俺も顔を歪めた。
どんなに紐を締めたところで、元々サイズが合っていないのだ。そんな靴で走れば、足首を捻る危険があるのは当然のこと。
「歩けますか?」
「ゆっくりなら」
びっこを引きながら女が歩き出す。俺も並んで歩き始めた。
「駅までどれくらいだっけ?」
「俺の足で二十分です」
女は弱音を吐かない。だが、一歩進むごとに歯を食いしばっている。よほど痛むに違いない。
その横顔を見つめた俺は、決断した。女の前に背を向けてしゃがみ込む。
「俺が背負っていきます」
女は答えなかった。
「時間がありません。さあ」
催促されて、女は遠慮がちに体を預けてきた。
「いきますよ。せーの!」
立ち上がり、しっかりと背負い直して俺は歩き始める。
女は、思ったよりも軽かった。だが、その存在感は半端ではない。
暖かな体温と華やかな香り。そして、時々背中に当たる柔らかな二つの物体。そのすべてが俺の気持ちを乱れさせるに十分な破壊力がある。
だが、そんなことに気を取られている時間は短かった。俺はすぐに悟ったのだ。
人を背負って歩くのって、結構きつい
女を軽く感じたのは最初のうちだけだった。あっという間に重みが増していく。
この状態で駅まで歩き切る自信はなかった。足腰というより、まず腕がもたない。何度も背負い直すが、女の位置がだんだん下がっていくのをどうしようもなかった。
ふと、背中から声がする。
「私ね、ヤクザの一人娘なの」
「ヤクザ!?」
俺の声がひっくり返った。
もしかしたらとは思っていたが、改めて知らされるとさすがに動揺する。
「今夜はね、パパが決めた婚約者との食事会なの。相手は、海外の組織の跡取り息子。いけ好かないマザコン男よ」
どうやら親父さんは、インターナショナルに活躍しているヤクザらしい。
「好きな人もいなかったし、まあいいかなって思ってたんだけどね。だけど、やっぱりイヤだなって思ったの。だから逃げ出した」
これまでとは別人のように、その声は弱々しい。
「私は自由になりたかった。自分の人生は自分で決めたいって思った。でも」
女が、俺の肩に顔を埋めた。
「やっぱり、無理なのね」
それきり女は黙ってしまった。
親が結婚相手を決めるとか、海外の組織とか、俺にはまるで縁のない話だ。だから、女の気持ちが分かるなんて言えない。
だけど。
なりふり構わず逃げ出すほどに。
俺みたいな男に助けを求めるほどに。
この女の「イヤだ」という気持ちは強いのだ。
今日会ったばかりの、ヤクザの一人娘だという女。
我が儘で自分勝手で、何を考えているのか分からない女。
普通なら迷うことなどないだろう。これ以上関わる必要なんてない。いや、これ以上関わるのは危険だ。
そう思うのに。
理性はそう叫んでいるのに。
俺の中の”男”が、理性を強引に押さえ込んだ。
ここで逃げたら男じゃないだろっ!
深呼吸をする。
腹に力を込める。
そして。
「諦めるのは早いですよ」
俺の声に、女が顔を上げた。
「自由は、求めなければ得られない。あなたは、自由を求めて行動するべきだと思います」
「それって、具体的にはどうするのよ」
「分かりません!」
女が呆れているのが分かった。
構わず俺が続ける。
「今までのあなたの生き方では自由は得られなかった。だから、今までとは違う生き方をしなければならないんです」
「だから具体的には……」
「分かりません! だから、一緒に考えましょう」
「一緒に?」
女の驚く声がする。
「そうです!」
俺が女を背負い直す。
「まずは駅に行く。そして電車で逃げる。そのあと病院に行って足を診てもらったら、ご飯を食べながら作戦会議です!」
俺が前を睨む。
「あなたは自由であるべきだ。だから、俺はあなたを絶対に駅まで連れて行きます!」
痺れ始めた両腕に力を込め、重くなってきた両足に動けと命じながら俺は歩き続けた。
「あいつらに見付かったら、あなた、殺されるかもしれないのよ」
物騒なことを女が言う。
「知ったこっちゃありません!」
やけくそ気味に俺が言う。
「ペース、落ちてきてるわよ」
痛いところを女が突く。
「まだまだ行けますよ!」
強気な姿勢を俺が見せる。
話にならないと思ったのか、それきり女は何も言わなくなった。
俺も黙って歩みを進めた。
すれ違った主婦が不思議そうに俺たちを見ていたが、それを気にする余裕はない。
一歩一歩が異様に重かった。視界がだんだん霞んできた。
現実は、やっぱり物語のようにはいかないらしい。人にはちゃんと限界があるのだ。
もう、だめだ
ついに俺の体力が限界を迎えた、その時。
「いたぞ!」
終わりを告げる声がした。
「もういいわ。おろして」
俺が力を抜く。
自分の足で立った女が、駆け寄って来た男達に言った。
「おとなしく従うわ。私、いま歩けないから、車を回してちょうだい」
「は、はい!」
驚いたように返事をして、男の一人が無線で何かを言う。
「お嬢様、ドレスは……」
「このままでいいわ」
「それはさすがに」
男が何か言い掛けたが、ちょうどそこに車が来た。近くにいた男が、黒塗りの高級外車のドアを素早く開ける。
俺に向かって女が言った。
「いろいろありがとう。あなた、素敵だったわ」
にこりと笑って、女が車に乗り込む。ドアが閉まると、車はすぐに出発していった。
それを見送りながら、俺は微笑んだ。
それなりの達成感と、それなりの高揚感。そして、諦め。
近寄ってきた黒服に俺が言った。
「殺すなら、痛くない方法でお願いします」
覚悟を決め、唇をぎゅっと結んで男を見上げた。
「いい覚悟だ」
ドスの利いた声が降ってくる。
「だがな」
俺を見下ろす男が、笑った。
「お前、盛大に勘違いしてやがるぜ」
直後、数台の黒塗りワンボックスカーが到着する。
目を見開く俺の肩を、男が叩いた。
「ぶった切ったドアチェーンの修理は手配してある。修理代もこっちで持つから心配するな」
それだけ言って、男は車に乗り込んだ。ほかの男達もワンボックスカーに吸い込まれていく。
ポカンとする俺を放置して、車は走り去っていった。
「どういうこと?」
誰にともなく呟いて、俺はその場にへたり込んでしまった。
強烈な夏の日差しが照りつける土曜日の午後。
掃除と洗濯を終え、そうめんで昼食を済ませた俺は、とりとめもなくスマホで動画を見ていた。
少し前から隣で物音がする。空室だった部屋に誰かが引っ越してきたらしい。
可愛い女の子でも越してくれば、なんていう期待はしていない。こんなボロアパートの、しかも一階を選ぶ女なんているはずないからだ。
「面倒な奴じゃないといいけどな」
呟いて、俺はごろりと横になった。そして、壁に掛かっている真っ赤なドレスを眺める。
あの日以来、そのドレスを毎日眺めて過ごしてきた。
「今頃何やってるのかな」
ドレスから目を外し、天井を見上げたその時。
「ごめんください」
ノックに続いて声が聞こえた。それは、女の声。
慌てて身だしなみを整えて、俺がドアを開ける。
直後、俺はあんぐりと口を開けた。
「私の名前は東堂蘭。東のお堂に花のラン。東堂蘭よ」
女がにこりと笑う。
「私の家、じつはヤクザじゃなくて、カタギの資産家なの」
「そ、そうなんですね」
どうにか返事をするが、いまいち状況が把握できない。
「私は東堂家の四女よ。もっとも、妾の子なんだけどね。兄弟は、姉が三人、兄二人、妹が一人、弟が二人」
「え? たしか一人娘だって……」
「それも嘘。ごめんね。でも、名前は嘘じゃないわよ」
女が運転免許証を見せてきた。
「それと、私、婚約を解消してきたわ。ついでにパパの会社も辞めた。この近所の会社に就職することにしたの」
今度は封筒から書類を取り出してそれを広げる。それは、内定通知書だった。
「言っとくけど、転職する時、パパのコネなんか使ってないから。ちゃんと応募して、ちゃんと面接を受けて合格したのよ」
聞いてもいないことをやけに真剣に主張してくる。
「これからはお隣同士、よろしくね」
やっと頭が回り始めた俺が、女に聞いた。
「足はもう平気なんですか?」
「大丈夫」
女が笑いながら足踏みをする。
「そう言えば、あのドレスはまだ取ってある?」
「あ、はい」
俺の答えを聞いて、女は満足げに頷いた。
「預かってくれててありがと。何なら、そのまま持っててもらってもいいわよ」
「いや、その……」
「まあ、邪魔よね。あとでちゃんと取りにいくから」
「……分かりました」
俺も頷いた。
「それと、あなたに借りた服と靴は、私がもらっておくわ」
「えっと、なんで?」
全部合わせても五千円ちょっとの安物だ。女が欲しがる意味が分からない。
首を傾げる俺の前で、女がなぜか頬を染めた。
「わ、私、あれが気に入ったのよ。お金は払うわ。十万円くらいでいいかしら」
「いや、そんなにしないです。っていうか、お金なんかいらないです」
「そう? じゃあもらっておくわね」
嬉しそうに女が笑う。
「でも、タダっていうのも悪いから、今度食事をご馳走するわ。レストランとかじゃないわよ。私の手料理なんだから」
「手料理!?」
本気で驚く俺に、真っ赤な顔で女が言う。
「なによ。私、料理は得意なのよ。絶対にあなたを満足させる自信があるわ」
いや、驚いたのはそこじゃなくて
「とにかく、荷物が片付いたらまた来るから」
急に慌て出した女が、くるりと俺に背を向ける。
と思ったら、すぐにまたこちらを向いて、俺に聞いた。
「ところで、あなた、名前は何ていうの?」
資産家のお嬢様。
スタイル抜群の美女。
行動力とバイタリティはピカイチ。
だけどこのお嬢様には、ちょっと天然なところがあるようだ。
呆れ、ため息をつき、そして俺は、微笑みながら女に答えた。
「俺の名前は……」
何か、変化がほしい
それを神様に願った覚えはないのだが、ある日突然それはやってきた。
平凡だった人生が変わっていく。刺激的な毎日がやってくる。
そんな予感が俺を笑顔にする。
「なんで笑ってるのよ」
「な、なんでもないです!」
慌てて答えながら、どこかで見ているかもしれない神様に、俺は、心の中で礼を言った。
押し掛けお嬢様は死に神を連れてくる 完