3話 匂いを嗅ぎたい
ずっと、あの人のことを考えてしまう。
騎士団長としての仕事中も、家に帰ってからも、食事をしている時も。
頭からあの人のことが離れなかった。
あの日……初めて、あの人に出会った日。
私は、あの人の家に無断で入り込み、あの人の匂いが感じられるものを何個か盗んでしまった。
主に下着……少し欲張って枕も盗んだ。
その日、家に帰ってから、私はとあることに気づいた。
家にあの人の匂いが着いた物を置くと、どうしてか、多幸感で脳がいっぱいになってしまう。
脳の奥から『幸せ』という快楽物質が、ドバドバと溢れ出てくる。
中毒性のある麻薬のような、使うだけで心臓がドキドキして止まらなくなるような。
私は何度も何度も、あの人の匂いを吸い込んで、その度に脳の容量がオーバーする程の多幸感を得た。
その行為を重ねる毎に、あの人の匂いを堪能する回数と時間は増え、あの人の匂いが足りなくなってしまう。
私の匂いと中和されて、いずれはあの人の匂いが感じられなくなってしまうのだ。
それは困る。
その行為は、私にとって生き甲斐なようなものになっていた。
だから、新しい、あの人の匂いが必要だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「はぁ……はぁ……はぁ……」
あの人の匂いが足りない。
足りない。
あの人の……あの匂いが……。
絶対に耐えられないであろう禁断症状が、私を容赦なく支配する。
「ごめん……なさい……」
私はガンガンと痛む頭を抑え、自分の家の扉を開く。
「もう一度……あの人の……匂いを……」
頭の中で、あの人に対する罪悪感と、あの人の匂いへの欲望がひしめき合う。
あの人の家に無断で入り、物を奪ってしまう罪悪感は確かにあった。
それでも、それ以上に、その罪悪感を埋めつくしてしまうほど、私はあの人の匂いに取り憑かれていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
深夜。
あの人は恐らく寝ているはず。
今なら、あの人の家に忍び込んでも気づかれない。
騎士団長になる過程で、気配を殺す技術も、音を全く立てずに歩く技術も完璧に習得していた。
多分、この時の為に私は、その技術を会得したのだろう。
「本当に……ごめんなさい」
私はあの人の家の玄関をゆっくりと開ける。
もちろん、鍵が必要な扉だった。
それでも、魔力で遠隔操作ができる私には容易に突破できた。
ダメだよ……。
私みたいな悪い女が、こうやって入り込むかもしれない。
あの人が悪いんだ……。
こんな簡単に、入れちゃう家に住んでるから……。
私はそう自分を正当化しながらも、扉をゆっくりと開く。
扉を開け、私が家の中に入った瞬間だった。
あの人の匂いが、一気に鼻腔の奥まで吸い込まれる。
「─────っっっっっっっっッッ♡♡♡♡♡!?!?!?!?」
あまりの匂いの過剰摂取に、私の脳はバチバチっと異常な電気信号を発した。
あまりの多幸感に、声を上げそうになる。
自分の口を手で塞ぎ、何とか声を抑えるも、その場で膝から崩れ落ちてしまう。
最初に家に入り込んだ時は、こんなに幸せを感じられなかった。
今は……入るだけで気絶しそうなほどの多幸感に襲われてしまう。
「はぁっはぁっはぁッ……♡」
数分間、私は地面にへたりこんだまま、過呼吸のような状態になる。
呼吸が荒くなる度に、あの人の匂いが何度も何度も脳を破壊する。
そして、またそのせいで過呼吸に陥る。
最悪のループに私は入り込んでしまった。
「はぁ……はぁ……♡」
何とか冷静を取り戻し、私は息を整える。
私はゆっくりと立ち上がり、何とか歩き始める。
脳からドバドバと溢れ出る幸せを制御するために必死で、足音を消す技術なんてちっとも役に立たなかった。
そのため、ギシギシと床が軋む音が鳴ってしまう。
起きちゃったら……どうしよう。
もう……その時は襲っちゃえばいいか。
気絶させて、拘束して、そこから考えればいいか。
そんなことを考えながらも、あの人の家をゆっくりと歩く。
「あった……」
あの人の衣服が収納してあるクローゼットがあった。
私はそこまで歩く。
「……んん……パン派…………じゃ……な……」
次の瞬間、部屋の奥の方から誰かの声が聞こえてきた。
暗闇に隠れた部屋の奥を、目を細めて見てみる。
そこにはベットと、そこで寝ているあの人の顔があった。
この声は……あの人の寝言……?
き、気づかなかった。
あそこで寝てるんだ……。
今、寝てるんだよね。
寝てるなら……ちょっと悪戯しても……バレない……?
理性がすり減った頭で、私は最悪なことを考えてしまう。
理性のブレーキーはとっくに外れ、気づくと、あの人が寝ているベットの目の前まで歩いていた。
「かわいい……」
あの人の寝顔は想像通り、最高だった。
映像を記録する技術があるのなら、何でもするから欲しい。
そう思ってしまうほど、目の前には私にとっての絶景があった。
ずっと、眺めているうちに、どんどん時間が過ぎる。
狂おしいほど愛おしい。
そんな人が目の前で眠っている。
「…………………襲いたい」
私は無意識にそう呟いてしまった。
いやダメだ。
そんなことをしたら、一線を超えてしまう。
あの人が不幸になるようなことは、ダメだ。
でも、でも、でも……。
「やっぱり、襲おう……」
私は長い葛藤の末に、そう決断した。
こんなことしてるけど、私は世間的に見たら可愛いし、一生彼を養う覚悟と自信がある。
きっと、彼も私のことが好きになってくれるはずだ。
私は幸せになれるし、彼も幸せになれる。
それは私にとっても、彼にとっても幸せ。
そうだ。
何を怖がってるんだ?
もしも彼が拒絶するなら……ちゃんと私が矯正してあげればいい。
私は覚悟を決めて、彼に手を伸ばす。
その瞬間だった。
私の目の前に太陽の光が見えた。
「は……!?」
もう、太陽が登り、朝が来ていた。
「も、もうこんなに時間が……」
彼の目の前で体感時間が狂っていたのだ。
深夜にその忍び込んだとはいえ、もう5時間以上が経っていた様だった。
私は自分の愚かさに気づき、伸ばした手を引っ込める。
「仕方ない……」
私は襲うことを諦め、下着とタオルだけを抜き取り、彼の家から撤収した。
私の頭には、一線を超えたかった安心感と、超えたかった後悔が残った。