カスミとツクバネ
「えっと…」
ツクバネはそこでふと気づいた。この少女の名前を聞いただろうかと。
御屋形様の襲来に押されて今まで聞きそびれていたが、そもそも彼女はここにきて一言も喋っていない。喋っていない彼女が異常、と言うより彼女を紹介すらせずに帰った御屋形様が非常識なのだろう。
「君、名前は?」
「……カスミです」
少し間を空けてから少女・カスミは答える。
「カスミ君は本当によかったの?…その…ここで暮らすことになって」
「…よく分かりません。小さい子たちを守らなくて良くなったからでしょうか。もうどうなっても別に構わないような気がするんですよ。…おかしいですよね?別に何かやけになるようなことがあったわけでもないのに」
「そっか」
それを聞いてツクバネは悲しくなった。
「ここで暮らすことには特に何も感じませんよ。御屋形様と呼ばれてるさっきの人に、無駄に力説されたことは、若干胡散臭かったですが」
「そっか…」
それを聞いてツクバネは同情した。主に御屋形様の秘書や部下に。
「そう言えば、さっきはなんでずっと黙ってたの?」
「…朝早くに突然押しかけられて、『付いて来て』とだけ言われて大慌てでしたくさせられて、何の説明もなくここまで連れて来られれば、不機嫌にもなります」
「ははは、」
ツクバネは言葉に困り愛想笑いを浮かべる。
御屋形様の強引さには彼も心当たりしかなく、カスミの陥った理不尽な光景がありありと思い浮かんだ。
「偉い方だとは聞きましたが、正直未だに信じられません」
「普通、偉い人は唐突に一人で予告なく来たりしないからね」
ツクバネとしても、迎えに来た大男の部下や秘書としても、彼には一所に、出来れば執務室に落ち着いて欲しいのだが、御屋形様が半月以上、抜け出してどこかに行かなかったことはないだろう。
「まあ、あの人はあれで結構すごい人なんだよ。あの身軽さも、色んな人と同じ視点を持てる点では、短所じゃなくて長所だからね」
「巻き込まれた側としてはたまったものじゃありませんが」
「はは、違いない」
軽やかに笑って晴天を仰ぐ。
「さて、それじゃあ屋敷を案内しようか。と言っても普段使わない部屋ばかりだから、多少片付いてないかもしれないけど」
そう言いつつツクバネは玄関に戻っていく。
「荷物はどれくらい持ってる?」
「えと、さっき家の中に持ち込んだもので全部です」
カスミが家の中に持ち込んだものと言えば、最初に持っていた大きめのバック一つだけ。
「ずいぶん少ないね。足りないものがあったら言ってね。…あ、言いにくいものもあるか。必要なものがあったらお金を渡すよ」
「…ありがとうございます。それで——」
「うん?」
礼を言ったカスミが続けたのは、取り残された当然の疑問だった。
「あの…それであなたは?」
「ああ、忘れてた。普段あまり人と話さないものだから、初対面の人間との会話を忘れてしまってね」
ツクバネは後ろ頭を押さえて言い訳する。
「儂はツクバネ、この先どうなるのか、君がいつまでここにいるかも分からないけど、いつか君が巣立つ時まで、その時まではよろしく」
そっと手を差し出し、ツクバネは笑う。カスミもまた、躊躇いがちにその手を軽く握った。
「まあ、合わなくて(・・・・・)『出ていきます!』って言って君がすぐに出ていくかもしれないけどね」
ツクバネは最後に情けない笑顔を残すのだった。
それから五年、カスミはこの屋敷に残り続けていた。
そして、封印は未だ解けていない。