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第三話 大物崩れ

享禄四年 (一五三一年) 四月 播磨国 飾東郡 御着城 小寺氏館


 父はここ最近不機嫌だ。それもそのはずだろう。

祖父の仇である浦上村宗に従っている状況だからだ。そしてその浦上から兵を出せと呼ばれた。適当な理由をつけて引き伸ばしているようだが、もう厳しいのだろう。 


 では此処で浦上の状況を説明しよう。浦上は細川高国の要請で上洛しているようだ。そして今現在摂津の池田城を落とすと、京を守っていた細川晴元の兵が突然引き、京を高国が取る事が出来た。此処からは細川晴元派もとい堺公方側は三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍1万5千と阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千が、摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し、一進一退の攻防が続いていた。これを中嶋の戦いと言う。


享禄四年 (一五三一年) 五月 播磨国 飾東郡 御着城


そして父は今月に細川高国への援軍として出陣するようだ。だが、父の機嫌が四月の時より妙に良いのだ。


「すぐに帰って来るであろうが城を頼む」と言って父は出陣して行った。

いったい父は何を企んでいるのだろうか。


享禄四年 (一五三一年) 六月 播磨国 飾東郡 御着城



 結論から言おう。父は勝って帰って来た。だが、細川高国側としてでは無く堺公方側としてだ。

 父は細川高国を裏切っていたのだ。今思えば父の機嫌が良かったのは。裏切るつもりだったからだろう。

 戦の趨勢はこうだ。六月四日に神呪寺に着陣していた赤松軍と共に高国・浦上軍を背後から攻撃した。この攻撃に細川高国軍は動揺し、浦上に従っていた国人達が、「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」『備前軍記』と裏切りを誘発した。そのような状況で赤松軍が高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗とその宿老島村貴則を始め、侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」『細川両家記』と書かれるほどの敗戦であった。


三好元長が前線に出てくる中嶋の戦いからの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後から、続いて正面の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた。


その数日後浦上村宗は三好軍に捕まり自害した。浦上村宗が捕まるときに出来た逸話がある。尼崎で高国を捜索した三好一秀は瓜をたくさん用意し、近所で遊んでいた子供達に「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言うと子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという計略が逸話として伝わっている。


この一連の戦は周りでこう呼ばれた。「大物崩れ」と、これは大物である浦上村宗が死んだのと戦のあった地名が合わさってつけられた。






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