第1話 お誘い
僕、こと渕上三郎はディスプレイの画面とにらめっこしていた。
金曜日の午後3時過ぎ。
あと少しで定時という時間帯だ。
ディスプレイの画面には会社で開発したゲームのプログラムコードが表示されている。
クライアントからバグではないか?と問い合わせのあったコードを調べているが、他人が書いたコードと言うこともあり解析に時間が掛かっていた。
ゲーム好きが高じて就職したゲーム会社ではあるが、この手のバグ取り作業はあまり好きじゃない。
そもそもバグ取り自体好きというやつはいない。
それで給料もらっているんだろ?と言われればそれまでだ。
だが、モチベーション高くやれないという事実は変わらない。
そんな僕に
「渕上さん、わかりそうですか?」
と僕の机にコーヒーを置きながら隣席の女性が聞いてくる。
指宿多恵。僕の2年後輩だ。
目はぱっちり、鼻筋も通っていて、やわらかそうな唇をしている美人さんだ。
今は髪を後ろで束ねているが、ほどくとゆるやかなウェーブの長髪が肩甲骨あたりまで届く。
性格も温和で、よく気が利く子だ。
なんでこんなブラックな会社にあんないい子が。と言ったら部長に「うちをブラックと言うな。」と怒られた。
うちの会社では中途採用、新人に限らず徒弟制を取っている。
中途採用者でもゲーム経験者は会社の仕組みがわかるまでだから短期間だけど。
指宿さんは入社時に僕が面倒を見て以来、ずっと僕と一緒のプロジェクトに入っている。
そろそろ独り立ちする?(僕と別のプロジェクトでやってみる?)と部長から聞かれたこともあったそうだが、気心しれてる人と仕事したいです。と断ったらしい。
ちなみにそれは指宿さん本人からではなく、部長から聞いた。
同期からは「あなたに気があるんじゃないの?」と言われたが、
気心知れてる=好意がある
とは限らないということを四半世紀と少しの人生経験で痛いほどわかっている。
「うーん、多分ここらへんだろうなってところまではわかったんだけどね。」
とマウスで該当箇所を反転させながら目を抑える。
「ちょっと見せてもらっていいですか。」
と指宿さんが自分の椅子を少しずらして僕の席まで移動してきた。
ふわっと、柑橘系の香りがしたのは彼女がつけている香水だろう。
「ちょっと借りますね。」
指宿さんはおもむろにそういうと僕のマウスを掴み、僕が反転させていた部分を展開し確認し始めた。
ちなみに該当箇所を反転させてからずっと僕の右手はマウスの上だ。
僕の手の甲に彼女の柔らかい手の感触が伝わってくる。
「えっ、えっ?」
と思わず声をあげてしまうが、指宿さんは気にした様子もない。
「ちょっと!指宿さん!?」
と彼女を見ると、彼女もこちらを向いていたらしく、すぐ近くにその顔があった。
「どうしました?渕上さん。」
と小首をかしげて無邪気に聞いてくる。
「いや、な、なんでも。」
と顔に見とれていたことがばれないように画面を向き直る。
すると指宿さんがおもむろに、
「すいません、私のミスみたいです。」
と僕の手を握ったまま謝ってきた。
◇◇◇◇◇
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それでは失礼します。」
と言って、会社携帯の通話を切る。
昨今世間をにぎわせている病気のせいで、これまでだったら直接お詫びに伺って障害報告すべきところを報告書のメール送付と、電話でのお詫びで許されたのはありがたかった。
今回は指宿さんのミス以外にも変更仕様に矛盾が生じていたことが原因だったので、それほど強く追及されずにすんだ。日ごろから無理難題に答えてきたかいがあったというものだ。
隣の席で心配そうに見ていた指宿さんにオッケーサインを送る。
彼女は”自分で報告します。”と言い続けたのだが、相手社員に少しセクハラ気味に声をかける人がいて、彼女が困っているのを知っていたので、僕から相手のリーダー(セクハラ社員の上司)に連絡を取る形にした。
相手リーダーが一番無理難題を言って来る人なのだが、昨今の個人情報漏洩だの、各種ハラスメントには自社内にも厳しい人なので、こんな時には頼りになる。
「お客さんには了承もらえたよ。ひとまず最初の仕様に戻すことになった。週明けまでにやっとけばいいから、もう指宿さんは帰りなよ。」
と定時を少し回った時計を見ながら言う。
週末はいろいろしないといけないことがあるので、今日中にやるか。
と1人で思っていたら
「いえ、そういうわけにはまいりません。私も最後までやります。」
と有無を言わさぬ口調で指宿さんは宣言した。
◇◇◇◇◇
修正、検証、適用と毎度の手順を行い、修正作業が完了する。
特に問題はなかったがそれなりの作業だったので、外はすっかり暗くなってしまった。
「遅くなりましたね。渕上さん、帰りましょう。」
とお客さんへの対応完了報告メールを送っている間に戸締りなどを行っていた指宿さんが言う。
”暗くなるから帰りなよ”と言ったがきいてくれなかった。
”女の子なんだからあんまり遅いと危ないよ”という発言はジェンダー平等が叫ばれる昨今、言っていいのか悪いのか良くわからない。
などと益体もないことを考えながら、カバンに荷物をしまうと一緒に会社を出る。
「こんなご時世なのに、会社に来ないと仕事できないもんかねぇ。」
とネオンが少なくなった商店街を駅に向かって歩きながら言う。
本当だったら在宅勤務で完結するはずだが、情報漏洩などのセキュリティリスクや、個人用回線の不安定さなどのために、まだうちの会社の在宅率は高くない。
「今の状況だとしょうがないですねぇ。でも私は家だと仕事に集中できないかもしれないので、会社に通う方が良いです。」
と指宿さん。
メリハリをちゃんとつけられそうだがそうでもないらしい。
「この時間だとご飯屋さんも閉まってるんですね。」
「そうだな。しょうがないから今日もコンビニ弁当だ。」
そう僕がぼやくと、商店街をながめていた指宿さんは僕の方を振り返り、
「じゃあ、うちで夕ご飯食べていかれませんか?」
と言うのだった。