【掌編】親離れ
「おふくろの味」という言葉がある。結婚した女性が家庭に入ることが常識だった時代なら、通じた言葉だ。
今では女性の社会進出が普通になりつつあるので、そのうち死語になるかもしれない。「おやじの味」なんて言葉も出てきそうだ。
しかし、僕にとって家庭の味というのは「おふくろの味」であり、断じて「おやじの味」ではない。
僕は今、三十三歳。独身でひとり暮らしをしており、ちょっとした料理は自分で作る。総菜を買ってくることもできるが金がかかるし、かといってレトルトばかり食べていては健康を害する。
そんなわけで自炊が基本なのだが、実は少し困ったことになっている。
「おふくろの味」が、再現できなくなるおそれが出てきたからだ。
これに関しては、親父にも相談した。しかし「いずれそういうときが来ることはわかっていただろう? 俺もそうだった。じたばたせず、お前はお前がおいしいと思うものを作ればいいんじゃないかな」といわれた。
たしかに親父のいうことは正しい。しかし、慣れ親しんだ「おふくろの味」を味わえなくなるなど、考えただけでぞっとする。
おふくろは二年前に亡くなったが、そのときはたった二年で「おふくろの味」が再現できなくなると思いもしなかった。
ひとり暮らしには少し大きい冷蔵庫を見やる。ブーン、という低い音が、消えゆく「おふくろの味」を嘆いているようだった。
冷凍庫を開けて、ため息をつく。
おふくろが亡くなってから、「おふくろの味」を絶やすまいと、俺は出汁のもとを冷凍保存した。しかし最近、、僕が知っている出汁が出ていないのだ。
出汁のもとの劣化はさけられない。そう結論づけるよりほかなかった。
僕は、次善の策を取ることにした。
結果は惨憺たるものだった。なにを試しても、「おふくろの味」にはならなかった。
「おふくろの味」は出汁が全てを決めていた。おふくろは常に時間をかけて出汁をとっていた。僕も同じようにしたが、やはり出汁のもととなるものがちがうと、同じ味は出ないようだ。
当然といえば当然だが、考えうる限りの手を尽くした結果がこれでは、落ちこむなという方がおかしい。
嘆いて、惜しんで、現状を変えることはできないことを受け入れた僕は、親父を自分の部屋に呼んだ。
「めずらしいな、料理を振る舞ってくれるなんて」親父は嬉しそうにいった。
「最後の『おふくろの味』を、親父といっしょに味わいたくてね」
親父は少し悲しそうな顔になった。「なんだか、母さんがこの世から完全に消えてしまいそうな気がするな」
「湿っぽいのはやめよう。ほら、座って座って」
親父がテレビを観ているあいだ、僕は解凍しておいた出汁のもとを鍋に入れた。直径三十センチほどの小さな肉。これが出汁となるのだ。
出汁がしっかり味わえるよう、野菜を入れたスープを作ろうと思っていた。それ以外は、僕のつたない調理技術でできるものを用意するつもりだった。
インターフォンが鳴った。ドアを開けると。警察手帳を持った背広姿の男がひとりと、制服警官が二名、立っていた。
「このあたりで中年の女性が四名、誘拐される事件があったのですが、あなたが犯人ですね」
「なんのことですか」無表情に返す。
「監視カメラにあなたの姿が映っていたんですよ。それに、あなたの捨てたゴミ袋の中から、女性の遺体が見つかりました」
刑事はちらりと部屋の奥を見やり、
「『おふくろの味』ですか。私も、味わったものです。母は両手がふやけるまでお湯につけて、出汁をとっていました。ときには風呂に入って、全身で。幼いころはなにをしているのかと不思議に思ったものですがね」刑事の双眸が鋭くなった。「ですが、他人を出汁のもとにしちゃいけません。それも無理やり。挙句の果てに殺してしまうなんて、それで『おふくろの味』を再現できると思ったんですか?」
刑事はかぶりを振り、
「いずれそういうときは来るものなんですよ。こういうのをなんていうから知ってます? 『親離れ』っていうんです」
(了)