1.3:それは純白の記憶②
「いったい何処の誰でいやがりますか、そこのお前」
開口一番聞こえてきた声は確かに可憐な少女のソレ。
しかし、言葉遣いはとてもじゃないが目の前の少女から発せられた言葉とはとても思えない。
親はこの子に一体どんな教育を施してきやがったんだ。
是非とも親の顔を拝んでみたいものだ。
「私が『誰だ』と聞いてるのですよ。聞こえないのですかお前」
むすっとした顔をしつつなおも少女は俺の名前を聞いてくる。
ともかく平常心だ平常心。
こっちは大人、相手は少女。
相応の受け答えをしなければ、とても良識のある大人とは言えない。
「ああ、俺の名前はヴェルっていうんだ。起きたばかりで突然だろうが、いろいろ説明————」
「ヴェルの名前覚えたですよ。ところでここは何処か知っていやがりますか、ヴェル? 」
————説明したいことがあるんだが。と続けたかったヴェルの言葉は、矢継ぎ早に繰り出された少女の了解と質問にかき消される。
語尾といい、態度といい、ただでさえ話がしにくいったらありゃしないのに、これ以上話を遮る要素を増やさないで欲しい。
だが、状況的に答えないというわけにもいけないのが悲しいところ。
会話の流れを完全に少女側が持っていっていることに、ヴェルは少し情けなさを感じた。
「ここは俺の家だよ。いいか、俺は君が地上で気絶しているところを助けて、君を介抱するために自分の家まで運んできただけだからな。誤解するなよ」
あれ、なんかこれ誤解されそうな言い方だったか?
少女に話を遮られないように、早口でしゃべることを意識しすぎたのが逆に誤解を招いている気がする。
恐る恐る少女の表情を読み取ろうとするが、少女のむすっとした表情のまま変わっていない。
ここまで来ると、自分の身の安全とは別のベクトルで怖くなる。
この少女、実は中身は俺より年上……はないよな流石に。
「なるほど」
ヴェルの必死の努力と心配は何処へやら、少女はそんなことなど気にしていないかの如く短い返事でヴェルに応える。
二度あることは三度あるのだ、どうせ次もすぐにまた質問が飛んでくる。
未来予知能力は持っていないから出来るのは心構えぐらいなものだが、するのとしないのとでは大きな違いがあるだろう。
さあ、いつでも質問してこい。
今度はちゃんと、冷静に、答えてみせる。
大人としての威厳を取り戻そうとするヴェルの心と裏腹に、少女からの問いかけはなかなか飛んでこない。
「おーい次の質問はないのか? 無いならこっちの質問にも答えてもらいたいんだけども」
待ちきれなくなったヴェルが少女にそう話しかけても、一向に少女は黙ったまま。
俺の問いかけの返事さえもしてこない。
仕方ないのでヴェルは手元のコーヒーを一口すする。
ぬるい。
少女が起きてから今までの間に少し冷えてしまったらしい。
まったく、せっかくの俺の楽しみが……。
未だに表情の変わらない少女は、ベッドの上でちんまりと座ったまま。
久々に部屋に静寂の時間が訪れる。
それからヴェルが残ったコーヒーを飲み干すまでの時間が経った。
やがて何を思ったかは知らないが、少女は首を小さく縦に振る。
そして、ヴェルに前とは違った声のトーンで、重々しく口を開いた。
「私は一体『誰』でありますので?」
…………
うん?
何かがおかしい。
飛んできたまさかまさかの質問に、ヴェルは思わず面食らってしまう。
これはあれであろうか。
現実にあるとは思いもしなかった、事故に巻き込まれた人がなる事があるという例の症状。
「ちょっと待て。『誰』って…………お前はクロエ=エーデルワイスだろう。 違うのか? 」
平生を何とか装おうとするが、無自覚に自分の素が出てしまうヴェル。
「と、言われても。私にはわからないのですよ」
少女が初めて見せる、困惑と不安のようなものがないまぜになった顔。
するはずのないと思っていた、素直すぎる少女の返事。
出来れば信じたくはなかったが、流石にこの様子だと信じざるを得ないだろう。
この少女、仮称『クロエ=エーデルワイス』はどうやら『記憶喪失』らしい。
ヴェルは少女……クロエの反応からそう結論付ける。
「お前……今までの記憶はどうしたんだよ?」
「それがすっぽり抜けてやがりまして。自分が誰だったのか、さっぱり」
ヴェルの核心を突く質問に、肩をすくめて返すクロエ。
これはもう確定的だ。
問題が思わぬ方向に大きくなってしまったことにヴェルは思わずため息をつく。
自分は誰だとクロエ自身が問いかけてきたのだ。
名前さえ知らない彼女から親元の情報を引き出すのは、ほぼほぼ不可能だろう。
人生は思わぬ方向に進むからこそ楽しいとは言うがここまでの物は求めていない。
代われる人がいるのであれば是非とも交代してほしい気分だ。
「ところで、さっき私の事をクロエだか何だかと呼んでやがりましたが 」
自分についての質問を切り出すのがどうも一番難しかったらしい。
クロエは前までの調子を取り戻し、ふと気づいたような仕草で問いかける。
「ああ、それが多分お前の名前だ。お前の持ち物が少なすぎたのもあって、それ以上の情報は求めても出ないし、俺は全然お前の事なんて知らんからな」
ヴェルはこれ以上、彼女自身に関しての質問は無駄であることを一方的に宣言する。
それにしても記憶喪失の遭難少女とは。
ここから親元を探すとしても、あちらから探していてくれなければ厳しい。
ギルドに何か情報があればいいが……多分絶望的だろうな。
「……へっくち」
何やら聞きなれない音が室内に響く。
音の主は自分ではないから自動的にクロエということになるだろう。
あ、とここでヴェルはあることに気づく。
……そういえばクロエはコートを一枚渡しているだけだった。
いくら地上が夏とはいえ、地下で裸でいれば勿論風邪をひく。
時間帯が夜ならなおさらだ。
驚くことが多すぎて、自分の事で精一杯だったらしい。
「ヴェル……何か着るものは……」
鼻声でヴェルの方を見つめてくるクロエ。
いや、こればっかりは本当に申し訳ない。
自分の配慮の足りなさを悔いるばかりだ。
「スマン……直ぐに服と毛布持ってくるから待っててくれ」
言うや否や、ヴェルは即行でクロエの服と毛布を見繕う。
この家は一人で住んでいたわけだから、服もヴェルの物しか存在しない。
勿論その服をクロエが着るとヴェルとの身長差が明白になる。
かなり折りたたまないと手が見えない袖。
ズボンはかなり絞ってやらないとストンと落ちてしまい、丈の長いカボチャパンツのようになってしまった。
下着は……流石に貸すことはできない。仕方ないから先日買ってあった新品の布を使うことで何とかそれっぽいものを錬成することに成功する。
一仕事終え、着るのはクロエに任せて疲れ果てたと椅子にもたれたまま卒倒し、爆睡するヴェル。
クロエもヴェルが寝たのを確認すると、ヴェルのベットの上ですやすやと、天使のような寝顔で眠る。
こうしてぽつぽつと点いている町の明かりが一つ消える。
地下から月は見えないが、家の中にある時計が示すには真夜中は既にとっくに過ぎており、朝の鐘を今か今かと待ち構えているのだった。