アロハシャツとレモネード
「その仕事、受けるか受けないか。」
第一章:アロハシャツとレモネード
林森北路九條の奥にあるカフェを指定したのはジョイスだった。
このあたりは夜になれば台北に住んでいる日本人が沸いて出てくるけれど、昼間は近くの店の人たちか、やはり台北に住んでいる日本人くらいしかいない。
僕は彼らに顔を知られていない。日本人の大人は僕が出ているドラマや映画を観ていない。だからこのエリアのカフェは、ビジネスや、他人に聞かれたくない話がしやすい。
林森北路に並ぶ九つの路地を一條から九條と呼ぶことを、多くの台湾人が知らない。Googleの地図にもないその呼び方は日本人の間でだけ通じる。自分の暮らす街なのに、外国人にしか知られていない通称のあるエリア。ここなら台湾人には顔を知られていても、不意に写真を撮られてSNSに流される心配もない。
ジョイスが先に来ているのはわかっている。僕はどんな約束でも、時間通りに到着する習慣がない。30分前に電話が来て
「今日は話がある日よ。林森の九條で」
と念を押された。スマホを置いてバスルームに行き、着ていたシャツを脱いで上半身裸になった。
鏡を眺める。昼前に起きてシャワーを浴びてからスマホとタブレットしか見ていない、一昨日23才になった、自分の顔。
ディオールの洗顔料で顔を洗ってから、キールズのオールインワンを軽く塗った。水分が肌になじむのを待ってから、ディオールの日焼け止めを顔と首、耳の後ろ、腕や胸、脚にもすり込む。八月の午後四時の台北は、傾いた陽ざしが路地の裏にも差し込んでくる。日に焼けるのが嫌なのではない。高校1年、16才で初めての屋外撮影をした時、当時はマネージメント会社のアシスタントだったジョイスが日焼け止めを差し出し「塗って。」と言って以来、たとえ冬になっても、これは僕の習慣になった。
アロハシャツとハーフパンツを着た。アロハは東京のヴィンテージショップで買った。パンツは確か、セレクトショップの営業をしている友達に貰った。これを着てインスタにアップしれくれるだけでいいから、と言われて。今では僕のチーフマネージャーになったジョイスは、こういう小遣い稼ぎをちょっと嫌がる。友達だからいいでしょ。僕はあまり取り合わない。このアロハはインスタにあげていない。墨のような黒い地に、細長く赤い花。極楽鳥という名の花だと教えてくれたのは、このシャツを買った店の店員だった。これは何の花かと英語でたずねた僕に、彼はスマホを取り出して検索すると、画面を差し出して見せた。
自分で買ったもの、自分で選んだものは何一つ、僕は公開しない。画面や雑誌で僕は散々服を着せ変えられ、飯を喰わされ、飲み物のストローを咥えさせられ、犬を連れて走ったり猫を抱きしめたり、テーブルを蹴飛ばしたり、女の子にキスをしたりするさまを見せて来た。
だから自分のことは何一つ、僕を観ているだけの人に教える気になれない。
スマホでUberのアプリを開き、林森北路のカフェまで行く車を呼ぶ。決済はマネージメント会社に回るようになっている。3分で到着。僕はクローゼットの壁にかけたサングラスをひとつとり、棚の上から帽子もとった。リングやネックレスはしない。腕時計も、ちょっと考えてから、つけるのを止めた。アロハシャツが夕方の風に吹けば、それでいいや。
玄関でクロックスのサンダルを素足に履き、スマホとキーケースだけを持ってドアを開けた。スマホ決済以外の支払いの予定もないから、財布も持たなかった。IDカードの携帯は国民の義務だけれど、財布に入れたまま置いていく。
1フロアに4世帯だけのマンション。住人の承諾がなければエントランスもエレベーターのドアも開かない。23階からロビーまで、停まらなければラッキー。軽くそんなことを考える。エレベーターが途中で停まり誰かが乗ってくると、少しがっかりするのはどうしてだろう。
14階でエレベーターが停まった。僕はサングラスをかけたまま、表情を消す。ドアが開き、犬を抱いた中年女が乗り込んでくる。僕を見ても一瞬目を見開いただけで、すぐに自分の犬に甘ったるい声で話しかけ始めた。落下する狭い箱の中で、僕に自分の声を聴かせるように。ドアが開く。中年女は当然僕がボタンを押して自分を先に出すと思い込んでいる。僕は期待には応えない。腕組みをしたまま壁にもたれ、お先にどうぞともいわず、中年女が先に出るのを待つ。中年女も何も言わず、金のかかったカジュアルな服で仁愛路へ犬の散歩に出かけていく。僕は壁にもたれたまま、彼女の肩越しに僕を見ている犬にだけ少し微笑みかける。香水臭くなくて助かった、とため息をつきながらエレベーターを出た。
車は玄関の前にいた。
「李さん?」
30くらいに見える運転手の男は、僕が適当に使った偽名で問いかけた。
「そうです」
「林森北路ですね」
「そうです」
僕は愛想よくそう答えた。車は仁愛路の並木道へと静かに滑り出した。
今日、ジョイスは新しい仕事の話を僕にする。
話があるといってあのカフェに呼び出す時は、大抵そうだ。電話かSNSでもいいじゃないか。一度そう尋ねてみたけれど、
「会える場所にいるのに、会わずに仕事の相談をするの?」
ジョイスは不思議そうに尋ね返してきた。
香港人と日本人のミックスで、東京や香港、ロンドンで学生時代を過ごしたジョイスは、英語と中国語、日本語と広東語、なぜかフランス語も話す。
「頭の構造どうなってるの?」
出会ってから二年目くらいの頃に聞いてみると、
「私もわからない。ただ、相手の母語が反射的にわかるから、それにあわせる」
ジョイスは真顔でそう言った。
「じゃあ、夢は何語で見るの」
まだ17か、18才くらいだった僕は、年上のジョイスに無邪気に好奇心を向けた。
「夢は見ないのよ」
ジョイスは少し微笑んでいた。悲しそうには見えなかった。
先週、決まりかけていた映画の話しが流れた。スポンサーが逃げてしまい、製作会社が奔走していたけれど、今決めなければもっと損害が大きくなるという段階で、計画は白紙になった。
ジョイスはため息をつかなかった。良くあることだ。僕は黙っていた。けれど内心、がっかりした。栓が抜かれて期待が流れ出し、それがすっかり出きった空間に、焦りがじわじわと湧きあがって行った。そして23才になった。10代でアイドルとして売り出した僕の俳優としての需要の潮目が、はっきりと変わり始めていた。6人グループでデビューして、歌ったり踊ったりCMにでたり、テレビドラマにも出演した。グループは3年もたなかった。今芸能界の仕事を続けているのは、僕ともうひとりだけ。他の4人は大学へ進学したり留学したり、アパレルの仕事を立ち上げたり、フライドチキンやタピオカミルクティのチェーンを始めたりしている。僕はもう、かつて同じグループで肩を組んだメンバーの誰とも、連絡を取り合っていない。当時から、それほど親しく付き合っていたわけでもなかった。たまたまスカウトや声をかけられて寄せ集められたボーイズグループだった。目標も達成感も共有することなく、ただそこに居合わせただけの縁だった。たまたま僕は、ソロで出たテレビドラマとCMが評判になって、それを見た海外のファンが増えた。日本や海外のように、はっきりとグループを解散することもなく、その存在はフェイドアウトした。まるで曳いていく波のように。僕はたまたま砂浜に残ったウミガメのように、俳優の仕事へシフトしていった。
運転手は無言だった。僕はサングラスと帽子を車の中でも外さなかった。真夏の夕方の日差しが、車の窓の外で輝いている。その荒々しさを、僕はよその国で起きている戦争のように眺めた。総統府の前を周りこみ、椰子の並木が途切れ、林森北路へと車は入っていく。あの映画が決まっていれば、ロケで南の島へ行けたのに。僕はサングラスの中でも、目を閉じなかった。ジョイスがどんな話をするつもりなのかはわからない。でも僕は、僕の芸能界でのキャリアに見切りをつける段階へ、動き始めるつもりでいる。今日、そのことを伝えるきっかけはあるだろうか。
車はカフェの正面で静かに停まった。気持ちの良い運転だった。僕は運転手に
「ありがとう」
と言って車を降りた。運転上手いね、という気持ちを少し込めたつもりだけれど、相手に伝わったかどうかはわからない。
夕方の林森北路は雨も降っていないのに道路があちこち濡れている。静かだった。夜の店はまだドアを閉じている。通りの向こうから、エプロンをした青白いカニのようなひげ面の男がだらしなく歩いてくる。路地裏にも日差しは容赦なく差し込んでいる。台北の真ん中で、ここは風が吹かない。僕のアロハシャツも、黙ったまま揺れることもなく、街の湿気に触れてぐったりと、僕の肌に寄り添った。
カフェへのアプローチ。テラスの石畳を踏んで歩き、ガラスのドアを開ける。灯りをつけていないカフェの内部は、外の容赦ない光から遮断された、別世界のようだった。フロアの床の上を歩いても、音は立たない。僕を見てはっとなり、いらっしゃいませと言いながら近寄ってきたウエイトレスに
「レモネード、甘くしないで、氷はいらない」
すれ違いざま目線は向けずにそう言って、僕はコーナーを曲がった奥にあるテーブルへと向かった。ドアからも、店内からも見えない場所に、ジョイスはもう来ていた。テーブルには冷たいコーヒーのグラス。中身は少しだけ減っている。
僕は黙って帽子を取りサングラスを外しながら、ジョイスの向かいに座った。
「サンドイッチも食べていい?」
「食べなさいよ」
ジョイスは微笑んだ。
「今日は何も食べてないの?」
「一昨日から何も」
「誕生日とはいえ、飲み過ぎたわね」
「楽しかったよ」
八德路にある看板のないバーを借り切って、パーティを開いてくれたのはジョイスだった。インフルエンサーとパーティピープルはお断りとあらかじめルールは決めていたから、僕よりも大人の落ち着いた人たちが集まった。僕は甘え切って、羽目は外さなかったのに、飲み過ぎてしまった。白紙になった映画のプロデューサーは来なかった。監督は少し顔を出してくれ、全く気まずい様子も見せず、ウイスキーを二杯飲んで、次に撮りたい映画の話をして帰って行った。
その映画の構想に、僕はいるの?
僕は少し酔っていたけれど、そう聞くことは出来なかった。
氷なしのレモネードを持って来てくれたのは、さっき注文をした店員とは別のウエイターだった。
テーブルに静かにグラスを置く手を見てから、僕はゆっくり彼を見上げ、
「サンドイッチは何が作れる?」
と尋ねた。
「クラブハウス、ハムエッグ、それからエビとアボカドサンドが作れます。ピーナツバターも」
ウエイターはメニューを見ずに、穏やかに答える。台湾の飲食店で、質問に答えられずにうろたえる店員にあたっても腹をたてたり呆れたりするのは無駄だし、ばかげている。だから僕は、彼の落ち着いた様子に感心していた。
背が高い。185センチはあるだろう。両腕を後ろに回し、少しだけ僕の方へかがみこむようにして話してから、自然な様子でゆっくりと背を伸ばした。濃く長い眉。黒く大きな瞳が、穏やかなまぶたの下にある。染めていない黒い髪を軽くバックに撫でつけている。薄くひげを生やしているけれど、まだ若い。でも、声が落ち着いている。
「エビとアボカドがいいな」
僕はウエイターを見上げたまま、そう答えた。
「少しお待ちください」
彼は微笑んで、早すぎも長すぎもしないタイミングでその場を離れて行った。
ジョイスは僕をじっと見ていた。
「何」
好みのタイプ?とジョイスは聞かなかった。僕が男や女を少し長く見ると、気に入ったのか、気になるのか、どっちにしてもジョイスはすぐに気が付いて、さらっと聞いてくるのだけれど。
ジョイスが何も言わないので、僕はふんと鼻を鳴らし、椅子に深くもたれた。
「で、今日は何の話し」
「映画よ」
「またスポンサーと追いかけっこか」
レモネードの酸っぱさに顔をしかめながら言うと
「絶対に逃げない」
「どうだか」
絶対なんて言葉ほど、僕らが生きる世界に似つかわしくない定義はないだろう。
「監督は誰」
ジョイスが短く答えた名前に、僕は少し目を見開いたけれど、何も言わず、彼女の言葉の続きを待った。
「彼は男の主役にGee、あなたを指名している」
「女の主役も指名?」
「女の主役はいない」
「ふうん」
ジョイスはまだ他に言うべきことがある。彼女は一気にものごとを話さない。勿体ぶっているのかと最初は彼女の話し方に慣れず、戸惑った。相手の理解を求める日本人独特のやり方だろうか?あるいは彼女のもう半分、駆け引きをする香港人の血だろうか。
「僕を名指しで、どういう話しなの」
ジョイスはコーヒーを一口飲んで、微笑んだ。
「BL」
「ビーエル?」
「男性同士の恋愛の物語」
僕は笑って、レモネードを一口飲んだ。最初の一口に比べれば、酸味は舌に馴染み始めている。飲み下して真顔に戻り
「その相手が、もうひとりの男の主役か」
「主役とは言えない」
「誰かを指名してるの?」
「オーディションよ。あなたに合う俳優を探す」
僕にあう俳優を探す。
つまりジョイスは、この映画は僕をメインにイメージした物語だと言っている。
「内容は」
「それはまだ。ただ、製作プロダクションは、あなたをイメージしている」
「曖昧だな」
「曖昧よ」
「そんな曖昧な話を持ってきたの?同性愛の映画を作る、それだけしか決まっていない」
「断るなら、早い方がいいと思う」
ジョイスはこともなげに言った。
「僕が断ったら?」
「映画は作られない」
僕がいきなり、生命線を握らされたわけだ。
映画に出ることを承諾した時の、ギャラのことを考える。流れた映画で不意になった、マンションのローン。映画を受ければ、しばらくは安心してあの静かな場所を手放さずに暮らせる。
そしてその先、僕は同性愛者を演じたキャリアを引きずるだろうか。香港や日本、アメリカやヨーロッパで、俳優が聖人やヒーローを演じても、本人とイメージを重ねられるリスクはもうない。ジャッキー・チェンがいい例だ。彼は僕が生まれる前に、画面の中で英雄を演じていた。今、彼は英雄を演じただけで、彼自身は英雄ではないと誰もが知っている。でもこの小さな島で、台湾で、僕は誰に何を言われるだろう?今日みたいに顔を隠して、僕を知らない人だけのエリアにこっそり来る、これからもずっと、そんな風に生きていくのかな。
「内容もわからないのに、ご指名ありがとうございます、と承諾できないよ」
僕はジョイスの目を見て言った。ジョイスも僕の目を見ていた。彼女は話し合う時、スマホをテーブルに置かない。通知を切って、バッグの奥にしまっている。必ず目の前にいる、生身の人間にだけ向き合う。
「やらないとは、一言も言わないのね?」
「可能性を最初からつぶしはしない。くだらない作品には出たくない」
「くだらないってどんな?」
僕は去年出た作品の名前をあげた。
「ただハッピーエンドに向かうためだけに時間を無駄にするラブコメディ」
「バッドエンドならどう?」
「時間の無駄なら、くだらないね」
「あなたは何をしたい?」
「何をって?」
僕はカウンターの向こうのキッチンの方へ首を伸ばした。僕のエビとアボカドのサンドイッチはまだだろうか。
「俳優として」
「そのことだけど」
僕はジョイスに向き直り、ちょっと微笑んだ。
「辞めようと思う」
ジョイスは黙って、僕の言葉の続きを待っている。彼女はあからさまに驚いて口をあんぐり開けたり、意味不明なことを叫びださない。考え直しなさいとか、あなたのために言うのよなんてきれいごとも、私の仕事はどうなるのという本音、台湾の女が安易に口にするあらゆる自分勝手な台詞を、ジョイスはこれまで言ったことがない。だから僕は彼女と仕事を続けてこられた。ジョイスは悲しそうにも見えなかった。ただ、ここ最近では見たことがないほど、彼女は瞳に情熱を灯していた。
少しの間、僕たちの間には音楽だけが流れていた。どこの国の言葉かわからないけれど、多分ラテン系の男性が歌う声。どこかで聴いたことのある、古いバラードだ。
ジョイスはゆっくりと微笑みを目に浮かべた。
「あなたと私のマネージメント契約は、あと1年半残ってる」
狡さの無い、正直でシンプルな事実。彼女はまるで猶予のように告げ、僕はため息をついた。
「監督とアポ取って。直接、話を聴きたい」