スキンブレイカー
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
いやあ、もう10月だってのに、真夏日が多いと思わないか、つぶらや? ちょっと前なら、長袖がちょうどいい具合の季節だったのに、今じゃ昼間に汗をだくだくかきかねない気温と来ている。そろそろクールビズも10月まで期間延長とかしてくんないかねえ。
暑さといったら、イメージするのは汗、虫、そして垢だね。俺の場合は。特に最後のひとつなんか、風呂のような蒸し暑いところだと、余計に出てくる気がしねえか?
垢の正体を知らない小さい頃は、粘土みたいで面白いおもちゃだなって思っていたよ。こすればこするほど、肌の上、爪の中にびっしりと丸まってくる。消しゴムのカスを丸める、「ねりけし」と同じ感覚だったなあ。「こんび太郎」の話を聞いた時には、本気で作ってみようと、垢を溜めまくったっけ。
だがあることをきっかけに、俺は垢で遊ぶことを控えるようになる。というより、自分の身体をこすることに関して、かな。その時の話、興味があったら聞いてみないか?
暑い時期において、俺は蚊の類がめっぽう嫌いだ。家族の中で唯一のAB型の血液型を持つためなのか、めちゃくちゃ狙われる。
その日も寝ている間に食われたらしく、目が覚めて身体を動かし出すと、右のふくらはぎのあたりがむずむず。半ズボンで、布団を跳ね飛ばしながら寝ていた俺も悪いんだが、足を引き寄せてみると、内側部分の一ヶ所がぷくりと膨らんで、赤みを帯びている。
俺はかゆみにも弱い人間。すぐ我慢できなくなって、こりこりと爪でひっかき出してしまう。以前、親にひっかかない方がいいと注意されたことがあったが、いくら理屈を説かれたところで、目の前の不快感が消えてくれるわけじゃない。
足が発するシグナルのまま、数分はかき続けていたと思う。刺された箇所の周りから、黒めの垢がもりもり取れ始め、掛布団の上にこぼれだした。
一ヶ所のみからの採掘じゃ、たいした量にはならない。刺された箇所もかゆみより痛みが増して来たが、まだこちらの方が耐えられるというもの。かゆみは心地悪さだが、痛みは危険の信号。これ以上の手を出したらまずいと、俺自身に強く訴えてくれるんだ。
自然と手が止まる。他にやるべきことへと、意識が移る。じんじんと断続的に響くから、後悔も一緒に残っちまうのは難点だけどな。
それもいつもだったら、せいぜい数十分の辛抱。そこを耐えれば痛みもいくらか引き、更に放っておけばかゆみも引っ込んでいて万々歳。それが、俺の今まで得た経験の答えだった。
しかし今回は一時間経っても、痛みが収まらない。それどころか時間を追うごとに、かゆみの方がかえって増してくる始末。俺は部屋であぐらをかき、もう一度患部を引き寄せてみる。
蚊に刺されてぷくりと、周囲の皮膚よりわずかに白く盛り上がった丘疹部分。そのてっぺんに小さな穴が空いていて、透明でべたつく液体が流れ出ていたんだ。
かき壊したという認識はまだ、当時の俺にはない。ただ耐え難いかゆみを、何としても退治しなくちゃと、それだけで頭がいっぱいになった。
塗り薬は駄目だ。以前に患部の上に塗りたくった時、飛び上がりそうな痛みで半泣きになった記憶がある。明らかにひっかいてとがめた部分のせい、ひいては傷をつけた俺自身が原因だ。
だが自分にとって都合の悪いことは目を背けたり、変にねじ曲げたりするのが、人の性質。俺には薬が、痛みを増すだけの厄介者のように思えていたんだ。
だから俺は、自分が信用している「手」に頼り続けることにする。
網戸から入ってくる涼しい風を受けながら、俺のひっかきは第二ラウンドへ移行。にじみ出る液をティッシュで拭いながら、俺は自分なりにかゆみを飛ばすため、またも患部に爪を立てる。今度は垢以外にも、件の液も出てくるから、その都度ティッシュで拭う。
「雨が降ってきそうなら、窓を閉めなさいよ〜」
母親がベランダから声を掛けてくる。早朝こそ晴れていたが、すでに空は黒い雲に覆われて、冷たい風が吹き出している。母親は外の竿に干してあるものを、中へ取り込む出す構えだ。
竿は俺が生まれる前から使い続けているという年季物。表面を覆う緑色の塗装はところどころがはげて、中の黒い鉄の芯がのぞき、更にその一部には茶色い錆も浮かんでいた。
ひっかいているところを見られると、突っ込まれるだろうことは想定済み。俺はベランダに背を向けて座り込んでいたから、母親からは俺の様子が分からないだろう。顔だけ振り返って返事をしながら、俺は足の「お世話」を続けていた。隣の部屋の壁越しに、屋内の竿へ洗濯物をかけなおしていく音が、しばしば響いてくる。
どうにか液が止まり、かゆみが収まった時はもう昼近い時間帯になっている。拭ったティッシュを捨てるのが面倒で、丸めながら近くに転がしていたが、最初の方に使ったものは、液の乾いた後に「黄ばみ」がのぞいている。出てきたものが単なる水ではなく、体液だったことを裏付けていた。
絆創膏を貼るのも却下だ。あくまで自然体でいないと、親にばれる可能性が増す。俺の中でも痛みに対する後悔が、先ほどよりも増しっぱなしではあるけど。
だが夢中になってかいていたせいか、俺は気がつかなかった。ほどなく、腕からもかゆみが脳を刺激し始めてくる。見るとかいていた前腕の裏側に、蚊に食われた跡があったんだ。
しかも今回はひとつやふたつじゃない。フジツボが集まるように手首近くへ偏って、一斉にぷくりと膨らんでいたんだ。それはまるで、連なる山々のようにも思えた。
耐えられなかったよ。かゆみ的にも視覚的にも。俺はつい片手を伸ばして、これまで足にしてきたように、丘疹山脈のてっぺんをひっかき出してしまったんだ。
がりがりがり、と片道三回。滑り下りては、地面につかないロープウェイでまた頂上まで登る。そんなスキーのような動きで俺は爪を立てながらこすった。
その三回目の瞬間を、俺は忘れることができない。連なった丘疹たちのてっぺんたちが、爪のかかった端から一気にぼろぼろと崩れ、取れていったんだ。
転がしたティッシュたちの上に、たまたま横たわっていく丘疹たち。それがはがれた奥にあったのは、血というにはあまりに黒ずんだ肉。焼け焦げる一歩手前といった色合いだったんだ。
痛みはない。むしろ抜けるような涼しさが、傷口の上をなでていく。ミントやハッカを含んだ時、目や鼻の奥で感じるあの冷感が、今は腕の上を何度も吹き抜けていった。
これに風を当てたら、なお涼しくなるだろう。そう感じた俺は、ほとんど無意識に、腕を網戸の張った窓の方へ向けていたんだ。
ベランダの屋根でぽつんと音が跳ねたと思うと、雪崩を打ったように雨が降ってきた。そればかりか、これまで大人しかった風がにわかに勢いを増して、吹き付けてくる。
網戸の目をくぐって飛び込んできた雨粒たちは、僕の部屋の床、本、ティッシュたちを湿らせながら、ついには俺の腕へと届く。その一滴が、はっきりと患部の上で跳ねた。
とたん、俺の腕が猛烈に重くなった。先ほどの冷感が一気に消え去り、今にも火を噴きそうな熱が、俺の手首手前でぐらぐらと煮立っている。
すぐに右腕は、支えきれない重さに。とっさに左腕でカバーしようとしても間に合わず、床へ叩きつけてしまった。傷口には水分がにじんでいたけど、衝撃の割に液が飛び散ったりはしなかったな。だが代わりに、雨粒が当たった部分から、赤黒い肉が一気に黄色くなっていくのを、俺は見たよ。
だが観察を続けることは無理だった。血管の内側から、錐をひり出そうとしているかのごとき痛みに、俺はつい顔をカーペットに伏せ、声を漏らさないよう努めるので精いっぱいになる。
患部の熱は高まるばかり。更にはぐつぐつという音まで混じり、腕全体が俺の意思を無視して、勝手に二度、三度と跳ね上がったよ。
階段から足音が聞こえる。スリッパの調子から、おそらくは母親。先ほどの叩きつけた音が下まで響いていたのかもしれない。そして彼女が俺の戸を開ける、ほんの数秒前。
俺の煮立っていた腕は、動きを止めた。同時に腕全体から熱が引いたかと思うと、べちゃりと大きな音が背中を向けている方。ベランダの方から聞こえたんだ。
顔を上げると、ちょうど部屋をのぞいている母親の姿を認めたが、すぐに彼女はベランダを見て悲鳴をあげる。そちらを見やると、ベランダに面した網戸の中央に、黄色く大きな楕円形の染みがついていたんだ。
目からしきりに垂れ落ちる、黄色い液体。あの網戸に触れて間もないことを示している。それどころか、ベランダの床には黄色い何かが這い、手すりの下から、張り出した屋根の上へ移っていった、一筋の軌跡が残っている。そこから先は降り注ぐ雨によって流されてしまい、行方は判然としない。
俺の腕にはもう黄色いものも、黒いものも残っていなかった。ひどい擦り傷をした時に覗かせる、皮の下の赤いものがのぞくのみだった。絆創膏でフォローするには大きすぎる傷で、消毒液をかけられた後にガーゼを当てられたよ。もう、死ぬほど染みたけどな。
いきさつについて、俺は母親に尋ねられるまま答えたけど、あまり信用してもらえなかったよ。でも俺は、あれはこんび太郎と同じように、何かが生まれたんだと思っている。
錆が鉄と酸素が結びついてできたように、俺の血肉と雨粒が、様々なコンディションのもと、異様な反応を示したのだと。