6 聖女来日の原因について
ヒロインの事情
ロンドンが霧の都と呼ばれていた所以は公害によるものだったが、現在、それとは別な理由で町全体が霧に包まれている。濃霧であり、先一メートルすらあやふやだった。
紅漂う古い都市。夜の光さえ遮り、街路に灯る明かりがほんのわずかに道行を照らしていた。
そんな中、強烈な光が夜の空に向けて放たれた。
「――――聖光砲」
閉ざされた世界に、たおやかな少女の声が響く。月目掛けて放たれた光は、霧に包まれた街を一瞬開放した。
古い町並の石畳の上に少女が居た。ブラウスもスカートも地味な印象の後姿だ。栗色の長髪が印象的だった。
右腕には、手甲のある細長い剣が握られていた。
剣は天に掲げられていた。
剣先から、光の筋が高く昇っている。それらは煙のように薄くなり、やがて途切れた。
「……さて」
剣を振り下ろすと、少女は目を見開いた。
欧系だけの顔立ちではない。どこかアジア系の雰囲気のある容姿だ。
十代中頃ほどの愛らしい顔を、強い信念で引き締めていた。
周囲を見て、嘆息。
「霧が張れども正体はつかめず……、いえ」
己の頭上に、剣を用いて円を描く。その動きに合わせて、頭上に光の輪が構成された。
大きな光輪の中心に剣を構えた。
「聖光剣――――抜刀ッ!」
光輪の光が剣に集り、一つの長剣を作りだした。
輝くそれを構え、退散した霧のない空へと『駆ける』。
彼女が居なくなると同時に、その場所に霧が再度集った。
その霧に向け、彼女は左の拳を向けた。
「抵抗するだけ意味がありませんよ」
その言葉が引き金だったか――濃霧が突如として、彼女に襲い掛かった。まるで悪魔の手のような、尖った五本指を持つシルエットへ変化して。
しかし少女は剣をふるい、それらの腕を軽々と壊す。簡単に消滅するあたり、所詮は霧ということだろうか。
赤い攻撃をかいくぐりながら、彼女は霧の中へ突撃していった。
紅の中、剣の光だけが見える。
「――――――――――――――!!!!」
「まぁ、心中は察しますが」
女性の絶叫が響く。ひらりと流すように、少女の声が微笑んだ。
金属同士がぶつかるような音。
女性のうめき声が、霧の中から響いた。
途端、視界を遮るものは雲散霧消する。
中からは少女と、ぼろぼろの格好をした女性が現れた。容姿はそれなりに美しかったが、どこかやつれており、生気が感じられない。右腕を押さえ、少女を睨んでいた。
「観念してくれませんか? 私とて、殺生は御免です。余計なカルマがつきますし、なによりここは”夜”ではないので」
女性に向かい、少女は困ったように諭した。手元の剣からは、光が失われている。
彼女の清んだ声に、女は唾を吐いた。
「何で、私ばっかりこんなことに……。元はと言えば、あの男が……ッ」
「貴女が殺した男性ですが、確かに同情の余地はありません。私も小娘とは言え同性ですから、どれほど貴女の殺した男が外道なのかも理解しています。遅かれ早かれ刺されたのは間違いないでしょうし」
「なら――」
「何故、貴女を追うのか。決まっています」
少女は、肩をすくめて言った。
「貴女の持つ“七十二の悪魔の指輪”の一つ――そして、その契約書が欲しいからです」
レイピアを握っていないほうの手を、ひざまずく女に向ける。
立ち上がりの手助けをするようなその左手を、女は払った。
「嫌よ……、嫌よッ! これは、私のクソみたいな人生の中で、唯一手に入れた力だもの。これを手に入れるために私は今まで生きてきたに違いないのだもの、奪われて、たまるものですかッ!」
羽織ものの懐から、彼女は銃を引き抜いた。
銃とは言っても水鉄砲である。形状や色からして玩具であることが分かり、実銃のそれには程遠い。
しかし少女には、水鉄砲が見た目通りの品でないことくらいすぐ見抜けた。
「――『握り潰せ』――!」
言葉と同時に、女は引き金を引いた。
発射された水流の色は赤。
途端、膨れ上がり巨大な手となる。目の前に立っている少女くらい握りつぶせてしまえそうなほど、それは大きく力強かった。先ほどの多くの手とは比べ物にならないほどの密度が、魔力がこめられたものであることが、少女には一目瞭然だった。
しかし、彼女はわずかに悲しい目をするだけだった。
「聖光砲……」
頭上に素早く光輪を描くと、レイピアの剣先を眼前の赤い手へ向ける。
光輪が高速で乱回転し、巨大な光の球へ姿を変え――。
「点火ッ!」
彼女の掛け声と同時に、その球が勢い良く撃ち出された。
光球は、疾風の如き速度で赤い手の平を襲う。
人差し指、中指、薬指のあたりまでの付け根に、最初に接触した。触れたと同時に、赤い霧はじゅわっと音を立て蒸発した。
爆発的な閃光を放ち、その光が熱へと変換される。
その余波はどんどん広がり、手全体を崩壊させていった。
そして終いに、巨大な手の根元――つまり水鉄砲にまで熱を伝導させた。
突然銃が熱くなり、女は悲鳴をあげ取り落とす。
投げ出された銃を手に取り、少女は検分する。
「……どうやら、これのようですね。水鉄砲とはまた何とも。いえ、霧を使う以上は妥当な代物なのかもしれませんけど」
右手にやけどを負った女は、もう自らが攻撃する術を持たないことを理解し、絶望した。
愕然とし両手をつく女に、少女は悲しげに微笑む。
銃をポシェットにしまうと、しゃがみこみ、女性の目線に自分の目線を合わせた。
彼女の顔を覗き込みながら、少女は言う。
「貴女、宗教は何を?」
「……悪魔と取引をした際に、もう二度と戻れないと覚悟はしています」
震える声の女性の両肩を、少女は掴んだ。
驚き見上げた女性。
向かい合う少女の顔は――それは、酷く美しい微笑だった。
「こう言っては難ですが、その心を忘れないことです。あなたは隣人を愛せなかった。……罪人を愛することが出来なかった。しかし例えそうであっても、今の貴女が何を思っているかが大事です。胸の内に渦巻くのは、破滅ですか? 後悔ですか?」
女性には、少女がまるで聖女のように見えた。
神々しさすら感じる慈愛に満ちた微笑に、女性の目からは涙が溢れた。
「――辛かったですね。悲しかったですね。裏切られて、捨てられて、頼るものもなく、ただただ途方にくれていたことでしょう。
大丈夫とはいえません。でも、今は泣いてください。私が受け止めてあげます」
女性は、少女に抱きしめられた。
こらえきれなくなった女性は、ただただ、あふれ出る感情のままに泣いた。
※
「ご苦労様です。ミルコティア」
老シスターに労われ、少女、ミルコティアは大きくため息をついた。
「……心が折れた人を励ますなんて、私の仕事ではありませんよ、シスター」
「しかし、それが必要だと思ったからこそ、その天使のように愛らしい仮面を被りなおして、抱きとめてあげたのでしょう? 狡猾で詐欺師めいたタカの爪を隠し」
にこにこ笑うシスターの言葉に、ミルコティアは半眼になった。
「何を言うんですか。私はあくまで、現実主義者というだけですよ」
「おや、そうでしたっけ? 利用できるものは利用できるとか前に言っていたような記憶が」
すっとぼける女性に、ミルコティアは頭を抱えた。
とある教会の懺悔室。
狭苦しい個室だが防音されており、声を気にする必要はない。
一仕事終えた後のミルコティアは、回収した物品をシスターに手渡すために来ていた。
栗色の髪を持つ少女――聖女のような微笑を携えていた少女は、その仮面を捨て去り面倒そうな渋面を作った。
「それで、ミルコティア。肝心の女性はどうしたのですか?」
「自首させましたよ。ええ。もともとの事件自体は、拳銃を海に流したとかいくらか言いつくろえるような事件でしたからね。
正直、”夜”で処理されたのでしたら私は率先して動きもしなかったと思います」
言いながら、ミルコティアは視線を下に向ける。
テーブルの上に乗っている新聞の見出しはこうだ。
『悪徳放蕩男に鉄槌下る――引き金を引いた女性達の苦悩』
「弾痕も弾丸も発見されないというのが強いて言えば問題のある部分ですから、その調整を頼みますよ、シスター」
「了解です、ミルコティア」
恭しく頭を下げたシスターに、ミルコティアはため息を一つ。
何か? と聞かれて、やるせない笑みを浮かべた。
ポシェットから指輪と水鉄砲を取り出すと、口を開く。
「……同性として、今回の件はどう思います?」
「どうも思いません」シスターはきっぱりと言った。「いつも通り、人が絶望し、悪魔に魂を売った。ただそれだけのことです」
「でも正直……、私も、彼女のようなことをされたら正気で居られる自信はないです。だって、彼女の中にあった命は、愛と共に流れてしまったのだから――」
にこやかな笑顔のまま、シスターは嘆息した。微笑に、どこか母親が娘に向けるような心配が滲む。
「ミルコティア。前から言っていますが洗礼を受けなさい。そうでもしないと持ちませんよ?
かの哲学者とて、言っているじゃありませんか。“深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”と。貴女は人一倍、感受性が強いのだから……。仮にも正式でないとはいえ、聖女と呼ばれる所以はそこにあるのでしょうが。割りきりが出来ないようでは、いずれ貴女の心も破綻します。だからこそ、心のより所が貴女には必要です。でないと――」
「我等が組織の、あの裏切り者と同様になると? ……いえ、決してそうはなりませんよ」
ミルコティアは、眉間に皺を寄せる。「かの人は、その内に宿した野心を悪魔に付入られ、壊れて、狂ってしまいました。私にその手の感情はありません」
「そういうことを言っているのではなく――」
「私は、私の使命を受けた際に、主義として現実以外を見ることを拒否しました」
ミルコティアは、指輪を手に取る。
銅の指輪だ。オパールが埋め込まれており、小さいながら竪琴のような模様が彫られている。
「それは、私がいずれかの立場に甘んじてはいけないという意志です。大義名分を振りかざした殉教者にも、狂信者にもなってはいけない――」
その指輪を水鉄砲の上に乗せ、テーブルの上に乗っている箱の中に入れた。
「――義なき力は畜生の暴力ですが、なによりその義を保障するものが信仰であるというのを、私は信じることができないのですから」
御簾越しのシスターに向かい、テーブルの上の箱をそのまま押して送った。
受け取ったのを確認し、ミルコティアは席を立った。
その背中を、シスターが呼び止める。
「ミルコティア。お待ちなさい」
「何でしょうか?」
「次の仕事です。……世知辛いですが、休みはありませんね」
振り向き、苦笑い。ミルコティアは再び席に着いた。
「今回は日本に向かってもらいます」
「……何故こんな離れた場所から? 確かアジア方面には、こちらと提携を組んでいる組織がいくつかあったと思いますが」
シスターは肩をすくめた。「事情が二つほどありますが、第一に。提携はあくまで提携です。例え紙切れ一枚であっても書状の効力はありますが、所詮は紙切れ一枚です。お分かりですね?」
「ええ。……『歴史の裏側」に関係する組織における警察機構でもないかぎり、なかなか難しいでしょう。旧時代のように魔法で契約の拘束力でも持てればよいのでしょうが、現代はそういうわけにもいきませんからね」
自嘲気味にミルコティアは笑った。
彼女自身、常人に扱えない魔法のような能力を扱う存在ではあった。しかしだからこそ、それが本来の意味での魔法ほどに万能ではないことを充分自覚しているのだった。
約束、契約を破った相手は死ぬ。――過去にはそんな魔法も、呪いもあったかもしれない。
しかし現代においては、そんな魔法は実現不能なのである。
自分達の使う力が、そこまで強大魔法ではないという事実は、それなりに笑わせる。
シスターも、ミルコティアの意見と同じようだ。だからこそ、皮肉げに茶化した。
「まあある意味で、所謂魔術体系だとかいうのが失われたのは、ラッキーといえばラッキーだったのかもしれませんけれどもね。情報を自由に入手できてしまう今の時代、危険なものに蓋をするのではなく破棄してしまうというのも手ですから。その点、魔法はいくらかの例外を除いて死滅も同然ですからね。そもそも捜索すらできない」
「とは言いますけど、結構残ってるじゃありませんか」
「逆に言えば、昔はもっと多岐に渡ったと言うことですよ」
「それは……なんとも世知辛い」
御簾越しに、二人は苦笑しあった。
「ということは、やはり"72の約定"関係でしょうか、今回も」
ミルコティアの言葉に、シスターは首肯。「そういえば今回の指輪は……、ロノヴェーですかね? 裏側に十九と彫られていますし」
箱を開け、シスターは指輪を確認した。「それで、えっと……。はい。無論今回も、それにに相違ありません。我々の組織の主な業務はそれの回収ですから」
同じような仕事に退屈することもなく、ミルコティアは当然だとばかりに頷いた。
「よろしい。では、もう一つの理由ですが――予言がありました」
ミルコティアが、目を見開いた。「予言、と言いますと?」
「詳細は語れませんが、預言が下されました」
「私の命令でも、詳細を話せませんか?」
「ええ。というよりも、私も多く知らされていないので」
以前あった情報漏えいを防ぐためかと、とシスターはにっこり笑った。
その最大級の皮肉に思うところがあったため、ミルコティアは苦い顔をした。
シスターもあえて過去の失敗を追及せず、微笑むに留めておいた。
「……それで、詳細はなんです?」
「はい。流石にそれは教えられています」
ミルコティアは、身を乗り出した。
丸めたメモ用紙を転がされたのを受け取り、中を確認する。
――――東方の地で、大いなる2つの混沌が口を開けて待っている――――
「混沌、ですか……?」
いぶかしむミルコティア。シスターも弱ったように言う。
「これ以上の情報はないのです。私が教えられたのは、これには必ずミルコティア、貴女を向かわせるようにと」
「上がそう判断したということは、それなりに事態を重く見ているということなのでしょうね……。わざわざ私を指名するくらいですから」
メモをびりびりに破き、足元にあったゴミ箱に捨てた。
「分かりました。すぐ日本に経ちます」
「五分ほどで迎えが来ると思いますから、しばし入り口で待っていてください」
「相変わらず準備が早いことで……。では、また後日」
今度こそミルコティアは席を立ち、その場を後にした。
ミルコティアの背中を見ながら、シスターは足元から壷を取り出す。
真鍮の壷――表面に幾何学模様のようなものが彫られている――の中に、先ほど取り出した指輪を放り込んだ。
途端、水鉄砲がその姿かたちを変えた。
それは、一枚の羊皮紙だった。見たこともない文字で書かれた、おそらく一定の意味を持つだろう紙だった。
書名欄のような部分には、パール・マーロンと筆記体で書かれている。
ライターを取り出すと、シスターはそれを躊躇なく着火し灰皿の上に乗せた。
「――ミルコティア。我等『鍵の騎士団』一同、貴女に加護があらんことを祈ります」
彼女の背中が見えなくなるまで、シスターは聖なる言葉を呟き続けた。
まさかその後、その地にて。相対した魔人相手に片手を切断させられる羽目になるとは、彼女たちはついぞ想定すらしていなかったのだが。