4 正午の”夜”
昼間の喫茶「魔女工房」は、客足がそんなに多くない。
ここの収益の大半が夜、アルコール解禁になってからというのが何とも言えないところだ。マスターはそう嘆いていけど、少なからず彼女のワイルドな物腰からして、そこは仕方がないんじゃないかな、と思う。
今日も今日とて、特に面白くもなさそうな表情で適当な長さの黒髪をなで付けてレコードを取り替えていた。服装からして飲食店の服装じゃないのはいつも通りのマスター。ワイシャツに黒いすらっとしたパンツ。胸元は二つ三つ開けていて、わずかに花の香り。視線は鋭く刀のようで、なんとなく近寄り難い雰囲気だ。
これが夜になると何一つ変わらなくても違った意味合いで店に合致しているのだから、いっそ喫茶ではなくバーにしたらどうだろう。高校生の自分が指摘する話ではないのだけれど。
それは別にして、まるでジャズバー? とかみたいに昼間からかかっている楽器音楽は、頭があろうとなかろうと心地よい。思えばあの人も、ここで音楽の趣味が変わったというのだから、マスターは本当、良いセンスしている。
だからといって、そもそもの主目的を忘れている訳ではないのだけれど。
自分以外に居た一人の客がトイレに入ったのを確認した瞬間、ライターを開き「証の火」を灯す。次の瞬間、慣れた様に視界が変化する。魔女工房の中にも証の火が灯してあり、また魔術的な仕様があるため見た目にかわりはない。だが窓の外を一瞥すれば、その時点で既にここが”夜”だということが分かる。ケタケタと不気味な笑いを上げる化生が、窓ガラスに張り付いて真っ暗な外に跋扈しているのだ。
”夜”に、昼夜という概念は存在しない。常に薄暗く、仄暗い。元からして境界的な世界であるためか、”夜”には太陽の光は届かない。空中に、光何かがあるというのは分かるが、例えるならそれは曇り空に太陽光が入り込むような、相当に分厚いフィルタを通した光だと言える。悪魔が焼かれることもなく、私も安心して魔人の姿を晒すことが出来るのだった。
そして、バロンとなった私を見てマスターはあからさまにため息を吐いた。
「今、私は表に居るのだけど?」
『済まない』
「欠片も謝意を感じのよね……。まあ仕方ないといえば、仕方ないというか」
もうちょっと余裕のあるようにするべきだったかしら。マスターは諦めたようような声を出した。
とんとん、とカウンターを叩くと、棚の上から万年筆と手帳が落ちてきた。つまりは筆談をする、ということだろう。昼前、アルバイトがこの時間はまだ居ない以上は仕方がないことかもしれない。マスターまでこちらに入り込むと、表の店版をする相手が居なくなるということだろう。
魔術師としてマスターがどれほどの階位に居るのかは、私も教えてもらった事がない。そもそも私が”夜”に出入りするようになって、一番最初に世話になったのが彼女なのだ。激情のままに暴走する私を「可愛がって」打ちのめした後、”夜”の歩き方、魔人の力の使い方に始まり多くのことを教わった。恩師と言える。そんな彼女が積極的に語りたがらないことを、おいそれと聞くのは素の自分として筋が通らないので、やっていない。それにより己の業がポジティブ側に傾こうと、人間としての付き合いがある相手に対してはそれなりに筋を通したいのが私だった。
もっとも、それとこれとは話が別だが。
『教剣を持つ輩に襲われた』
トイレから出てきた婦人が、珈琲のお替りを注文したタイミングだったが、私は気にせず話を続けた。一瞬マスターの頬が引きつったが、カウンターの裏側にペンと手帳を置き、ぱちんと指を慣らす。そのまま珈琲を淹れながら、彼女は魔術で手帳にメッセージを書く。液体をぽたり、ぽたりと垂らしながら、彼女はこちらに手帳を寄越した。
――It would be so. With that, What would you like to hear?
……何故に英語か。嫌がらせだろうか、流暢な筆記体で返答は書かれていた。見た目は完全に日本人のマスターだが、妙に手馴れている。そしてこれは、私の英語の成績を知っての所業だろうか。思わず素に戻りそうになるが、口調も含め魔人の体裁を維持する必要があるため、一度私は気を引き締めた。まあ、意味が分からない訳ではない。彼女から貸与される本や書類は、大概が横文字だったので、嫌でも訳す癖くらいは付いていた。
つまるところ「まぁそうかしら。で、何が知りたいのかしら?」という内容だ。
『相手についての詳細を知りたい』
カップを配膳し帰ってくる彼女に、私は頭を向ける。それと同時に左右に触れる角を軽く交わし、今度は手帳を手にとって返答した。
――Unfortunately, I don't have that.(生憎だけど、私もそれは把握してない)
『なんだと?』
――Let me ask , Why do you want that? (逆に聞くけど、どうして知りたがるのかしら?)
『恐怖とは無知から生まれる、とは貴女から教わったことだ』
――Let me put this way ,What will you do?(聞き方を変えるけど、知ってどうする)
走り書きに高圧的なニュアンスが含まれてきた。表面上は接客している時の微笑みだが、内心は相当苛立っているらしい。この質問に何故苛立つのか、こちらの方が理解できないのだが……。その旨を伝えると、彼女は軽く睨み付けてきた。が、顔も頭もなく悪魔甲冑しかない以上、折れるのは彼女の方が先だった。
――Tell me the appearance of the person. I'll check it.(容姿を。調べてあげないこともない)
『……事情は詳しくは聞くまい。
相手の容姿か……。年齢は私と同い年か、それ前後か。もっとも魔術師の年齢ほど宛てに出来ないものもないだろうが。髪は栗色で長い。容姿はそれなりに整っている。幻術の類はかけられていなかったから、これは間違いない。顔はモンゴロイド系、というより日本人のそれに近い気がする。ただ髪を染めている感じはしなかったから、ハーフかもしれない』
――What was a "Logic Sword"?(教剣はどうだった?)
『剣自体はレイピアのように細い。使用者の背中に、左右に白と黒の翼。形状は鳥類のそれだ。
そうだな……、それと、攻撃の際に光を武器にしていた、のか?』
私の言葉を聞いた瞬間、彼女は眉間に皺を寄せて、小声で呟いた。
――Lúcifer――
むろん、それは私に聞かせるつもりのない呟きだったろうが、私とて魔人。聴力は平常時でさえ人間の倍以上だ。拾ってしまったその名前は恐ろしく広く知られた名前だった。ビッグネームもビッグネームである。悪魔王、堕天使、宵の明星。さして詳しくない私でさえ聞き及ぶ名前だ。
だが、何故それを呟いたかの詳細を問い詰める事は出来ない。さすれば彼女は問答無用で私を叩き出すだろうからだ。雰囲気で既に見て取れる。口元だけは営業スマイルを携えながらも、眉間と目つきに剣呑さがにじみ出ている。相当イライラしているのだろう。
客の夫人が勘定を済ませて店を出るまで、マスターは一切その後、反応を示さなかった。ただ婦人を送った後、すぐさま店の外にでて扉を「close」に変更したらしい。
指を弾いた瞬間、”夜”における彼女の輪郭が少しだけくっきりと浮き出た。こちらに入ってきたのだろう。
「……調べてあげないこともないけれど、一言だけ言うとその相手、実働部隊の中ではかなり面倒な相手よ」
『実働部隊?』
「現状『教剣』を所持している組織は、さほど多くない。元々数があまりない物品だし。で、その中でも貴方が相対した組織は――『鍵の騎士団』。”72の約定”による契約魔人の討伐、および"約定"自体の回収を主な任務としている」
『……』
「つまり、ピンポイントに貴方の天敵ってことね」
思わず私は、自分の左手の中指を押さえた。
「『教剣』自体については前に話したから追加報酬はとらないけれど。ただ、これが何故魔人にとって致命傷となりうる武装なのかは、理解できている?」
『……前も言ったが、さっぱりだ』
「殴ろうかしら。
……端的に言えば、そうね。悪魔とは何か、という話になってしまうわね」
疑問符を浮かべる私に、マスターは肩をすくめる。
「聞こうか、魔人バロン。天使や悪魔を『あの形に固定する』のは、何か」
『……?』
「質問の意図が分からないか。じゃあ言い方を変える。
天使や悪魔に限らず、”夜”に入り込んだ存在は総じてその本性に近い状態でここに顕現することになる。だが彼等化生の姿は、人間と異なり魔境を出たところで何一つ変化することはない。この違いは?」
『魔術師同様、魔力で姿を固定しているからだと覚えているが』
「そう。ではその魔力とは、どこから来るもの? 魔力とは精神力。我思う、故に我在りという奴。それを強化することで魔術師は姿を固定するが、対して化生からよく『結晶』を回収している君なら分かるんじゃないかしら」
『……確かに、知能が低い相手がそういう認識を己に持てているか、というのは怪しいな』
「つまり。彼等を固定する魔力は、彼等自身が持っているものではなく外部の、すなわち表における意識ある――、と、来客みたいね」
マスターがそう言った瞬間、入り口の下にある猫扉が開き、ストライプカラーの猫が侵入してきた。いや、厳密には猫とは呼べない。そのシルエットは曖昧糢糊としており、小型の家猫のくせに妙に表情の作り方が、見ていて小憎らしい。そして何より、扉から出た後の尻尾が著しく長すぎだ。
猫はにぃっと笑うと、私の席の隣までひとっとび。カウンターの椅子の上でごろりと寝て、マスターと私を見た。
「にゃあ。しばらくぶりだにゃ、バロン」
『相変わらず健勝そうで、猫男爵』
ひょうひょうとした声で挨拶してくる猫男爵に、私は少し溜息をついた。
彼の名は、猫男爵。あくまでも自称だが、私のバロンも契約悪魔による呼称を自称しているまでなので、そこはとやかく言わない。
この”夜”においては奇跡に近いレベルでしか出会えない、魔術師でも化生でもない「一般人」だ。そう、彼は”夜”に出入りしている「だけ」。夜に我々のように平然と出入りする、ほぼ唯一の一般人と言える。
私との付き合いは、案外と長い。気が合うという程ではないが、徘徊していると時たま世間話をしたりすることもある。バロンと男爵ということで、向こうも少し縁を感じているのかもしれない。もっとも私の方のスペリングは異なるのだが。
「にゃにやらビジネスのはにゃしの香りがしたので来てみれば、にゃるほどにゃ。
途中からはにゃしは聞いていたが、また変にゃことに巻き困れているにゃぁ」
”夜”における彼の立ち位置は、情報屋。下級悪魔にすら気付かれない「特殊能力」と呼んでも差し支えない忍び足と、幅広い情報網が売りである。これでいて表では普段テレビでよく見かけるというのだから、つくづくこの男だけ住んでいる世界が文字通り違う。違い過ぎる。
もっとも今回に関して言えば、彼にとって不得意な分野の情報であるためマスターの方に依頼を出したのだが。
マスターが置いた珈琲を尻尾で掴み、一口。見た目は猫だが別に猫舌ということはないらしい。そしてそのまま、どこからか取り出したキャップ付きタバコを口に加え、頼りない前足で猫パンチを繰り返してライターを使い点火した。
『……タバコは止めてくれ』
「酒とタバコと、どっちが酷いかというはにゃしなら、私は断然酒と言う。色々槍玉に上げられてはいるが、寿命の話をするならその早期にニコ中で死んでる人間の中で、酒を飲まずタバコ一筋の人間だけで集計をとること、若死にしている奴がアルコールと比べてどれくらい居るか、暴力的にゃ事件にゃど起すかということを並列にして語るべきだと思うが?」
『違う。臭いが残るんだ鎧に』
「にゃあ、私生活の方でバレるリスクが上がる訳か。悪かった。携帯灰皿持って来てるから、一本だけ。
しかしでも、その少女と戦ったのだろう? 殺した訳じゃないだろうがにゃ、情報をこうして知りに来るのだから。引き分けでもしたかい? 君が?」
『そんな目で見るな。……言い訳はしない』
「ふぅん。……でも、相手も無傷という訳ではあるまい?」
『右手を切り落とさせた』
「……」
男爵は、真顔で引いていた。
マスターは淡々と流しているあたり、やはり彼は表の住人なのだと理解出来る。生き方も、感性も大きく違うのだ。
「それよりも、はにゃしを続けてくれ。にゃにやら面白そうなことを言っていたにゃ? ここ境界都市における我々と怪異たちの姿が――」
「悪いが、気が削がれたね。また今度にしてくれ」
「にゃ」
そう声を上げて、彼はこちらを見て少しだけにやりと笑った。
あのタイミングで乱入して来たことには、何か彼なりに理由があったのだろうが、私はそこまで理由を掴む事は出来なかった。
猫男爵だけは、明らかに別世界観なノリです。