2 求めよさらば
ヒロイン登場。・・・ヒロ、イン?
”夜”では願いが叶う、らしい。らしいというのは、私自身が今一度、お目にかかったことがないからだ。願うことは当の昔に終えて、未だそれは適わず。最愛のあの人をいくら想えど、胸に開けられた穴から零れる感情に歯止めが効くわけもなく、只この感傷が感傷として成立しているうち、磨耗する前に決着が着くことを祈るばかりだ。ヒトは本来、いつも孤独なものだ。
もっとも、だったら今私の目の前に集っている表の野次馬は何なのだという話でもあるか。それを無視して、私は進む。
私は今日も”夜”を彷徨う。表の建築物がゴシック調に、不気味なオーラを携えて歪んでいる様はそれはそれで面白味がなくもないが、それに時折、下級悪魔など魔物が這い回っているのが台無しにしている。民家一つとってもどこか洋館の、蝋人形でも飾っていそうなようにディティールが変化していたとしても、腐敗臭と転がる死体などは隠し様はない。
”夜”で殺された人間は、肉体こそ表に戻るが心までは帰らない。肉体に収まる精神が、逆転するのがこの”夜”。精神の醜さが姿形の醜さに繋がる世界で、今更何を言うべきか。”夜”において化生が食い荒らすものは肉体よりも魂が主だったものであり、逆に肉体を食い荒らすものが居るならばそれは”夜”に居ない相手だ。そして”夜”で肉体を食い荒らす存在がいるとすれば、ほぼ間違いなくそれは半分半分だ。表と”夜”と、双方に身を置く存在。奴のように、あるいは今の私のように。
魂、というものについては知らない。心とは別であるとマスターは言うが、その違いについてなど専門的に勉強する必要も感じない。ただ奴を殺せばそれで終わりだ。
そういえば――彼が言っていたか。悪魔は人間と契約を交わす際、奪い取るものは心の一部だと。契約で捧げた心の分だけ、悪魔は人間という器に自らの力を注ぎ込むことが出来る。だからこそ心全てを売り渡せば、自我が残らずとも最後は悪魔が願いを代行すると。
何故そんな妙な契約を交わすのかと聞けば、奪い取られたものを奪い返すため、と言っていたか。
「な、何だここは……」
そうして歩いているうち、珍しい声が聞こえた。”夜”においてこんな挙動不審な声を上げるものは二つに一つ。「見習い魔術師」か、あるいは「一般人」か。前者は最初に”夜”へ入ったことによる衝撃からの言葉だが、後者は紛れ込んでしまったか、無理やり連れ込まれたかはともかく、見るもの全てが恐怖の対象であるはずだ。
声の方へと歩く。場所は狭い道、街灯、電柱と塀の隙間。どうしてこんな場所を通ろうとしたのかは定かではないが、その場で転がるスーツ姿の男は、間違いようもなく只のサラリーマンだ。容姿がまだ”夜”により犯され変貌していない点からみるに、今、偶然ここに迷い込んだというところか。
「夢、か? いや、あるいは酔ってるのか――」
『――残念ながら、現実だ。ようこそ古の夜へ』
私の言葉に、男は飛び上がる。こちらを見てがたがたと震えが止まらないのは、当然の反応だろうか。首から下まではともかく、頭部に該当する物体がなければそれは人間でないと一目で認識できるはずだから。
壁に背を預けて勢い良く立ち上がり、男は逃げ出そうとする。私は蹄の足を差し出し、それを転ばせて遮った。漫画のようにぼやけた線を弧のように描いて転ぶ男。残像がこうしてコミカルに出るのは、おそらく男の中にあるイメージが反映されてのことだろう。
怯えながらこちらを見る男に、私はため息をついて言った。
『別にそのまま奥へ行っても構わんが、二度と帰ってはこれないぞ』
「かえ、る? ……へ?」
『見つけた相手が私で良かったな。魔物に見つかっていたら――』
話しながら、私はマスターから手渡された札をライターで燃やす。燃える魔法陣から表出する銀の光を私は懐から取り出した拳銃に纏わせた。その銀のリボルバーを回転させ、私は背後に迫って来ていたものを撃ち抜いた。一見すれば黒い靄だが、そこに眼と大口を開けた牙を確認すればそれが本能を持つ魔物の類であることを理解することができるだろう。赤紫の血を眉間から噴きながら、魔物はその場に倒れ伏す。倒れると同時に私はライターの碧い火を落し、全身を燃やしてやった。
装を確認し、残弾を見る。当たり前だが、あと五発。
腰を抜かした男のうめき声に肩をすくめ、私は言葉を続ける。
『……言うまでもなかったか?』
「あ、あ、あ、あなたは――」
『バロン、と言うらしい。私のネーミングではないがな』
再度腰を抜かした男に、立てるか確認をとる。何度も頷きながら、男は立ち上がった。まだこちらを見る目は恐怖が混じっているが、目の前で明らかに怪物めいた存在を蹴散らしたのが功を奏したのだろうか。怯えながらも、こちらに会話を求めてきた。
「ここは、何なんですか……?」
『ミッドワールド、あるいは単に夜と呼ばれている』
「ミッドワールド?」
『中間世界、”幽界”と”現界”との境界にあるとか言われているか。西洋式に言えば「元」煉獄だ。東洋風に言えば陰、日本ならば「人工の光」が入る前の夜といったところか』
「え? え? え?」
『分からなければ構わない。私も理解は中途半端だ。とにかく危ないということさえ分かれば良い』
さて、帰るぞと私は男に言う。銀のライターを取り出し「証の火」を灯す。その光を数秒じっと眺めて、しかし男は私の腕に縋った。
『どうした』
「あ、あの……、すみません。ここって、あの、死後の世界、とかなんですか?」
『さあ、な。悪魔だの幽霊だのはよく居るが』
「――ッ」
そして、男は私に「待ってください」と言った。こちらを見上げる目には、真摯な感情が宿っているようにも見える。真剣な、何か思い詰めたようなその色は、どこかかつての自分を見ているようにも思った。
「あの……幽霊がもし、あのえっと、成仏できていなかったりするんなら、ここで会えたりしますか?」
『何だ。会いたい相手でも居るのか』
「……はい」
男は絞るような声で言う。
「…………妻、です」
『……』
「一昨年、急にでした。それで、もしかしたらなんですけど……、あの、俺全然そういう感覚とかなくって、確認できなかっただけかもしれないんですけど、でも――」
『そうか』
私はどう対応すべきか、数秒迷う。迷うが……、しかし、これは少し見過ごせないところだった。
本来ならば、”夜”で生きることが出来ない存在は、外部に戻してやるのが定石である。だが、男の言うところのその願い程度なら、確かに私ならば叶えてやれないこともない。「証の火」を灯して歩けば、まず間違いなく男を外敵から守りつつ、”夜”を歩くことが出来るのだ。
そして、その目的もまた――。
『……良いだろう。ただし、後で対価を貰う』
「――あ、ありがとうございます!」
私の漆黒の両手をとり、男は喜びの声を上げる。既に頭部のない相手と会話しているという事実は、男の頭の中から抜け落ちているようだった。何とまぁ現金というか、視野が狭くなっていると言うべきか……。いや、しかし男の「現状」を鑑みる、それは仕方のないことなのかもしれない。
『ところで、あまり長く触れていると蒸発するぞ』
私のそんな一言に、男は慌てて身を引いた。
※
”夜”の建物は、基本的に歪む。例えば喫茶店「魔女工房」のように、それなりに魔術だの何だのに精通した人間が手を加えない限り、大本になった様式を拡大して膨張して、入り組んだ形へと変貌する。和風建築ならあばら家のように荒れ果て、洋風建築ならモンスターでも出て来るような雰囲気に。生憎見たことはないが、中華や他のもっと別なものでも、何某か別な姿形をとるのだろう。
そこへ行くと、この国の建築の大本は明治期のハイカラ調から余分な造型を省いていった流れが、歴史的背景にでもあるのか。建物建物が、ことごとく装飾の施された、しかし同時に禍々しい雰囲気のものへと変化しているのが笑える。マンションや集合住宅など、もはや原型を留めない城のような形へと変貌してしまっているのだ。
そんな中、私は「証の火」をライターで灯しながら、夜を歩く。背後についてくる男は、怯えて居るのか物音、足音一つ立てない。当たり前と言えば当たり前だが、一応「そこまで怯える事はない」と言ってはある。
証の火――詳細は私も知らないが、マスター曰く、これは煉獄の火なのだそうだ。ゆえにこれに照らされ、燃やされたモノはその本性現すことになる。そして、魔境の住人を死に至らしめるほどの力を持ちはしないが、彼等からすれば酷く眩しく、熱く、とてもじゃないが近寄りたいものではないらしい。威力は低いが普通に身を焦がし、長時間続ければ当然、死ぬ。
私はどうなのかと言えば、一応は魔人だからか、それとも眼球どころか頭部自体をこの姿の際は消失しているからか、びっくりするほどその手の問題とは無縁でいられた。
さてしかし。背後の男の指示通りに歩く私だが、これでも一応はここ未曾木市の住人だ。日中、人間の姿で活動している時間帯。というよりも私自身の人間側の生活は、ここで学生をしているのだから、必然道筋を辿ると、ある程度はどこに向かっているかの予測が立つ。問題なのは……、背後の男が、向かう先が”夜”においてどれほど危険な場所なのかということを理解しているかということだ。
たどり着いた場所は、駅前からさほど距離が離れていない。中央病院だ。私も昔はそれなりにお世話になった(無論、悪魔と契約などする以前の話だが)。本来なら白い、高さの中途半端なビルディングであるはずだが、その変容度合いはひたすらひどい。
「な、な、な……」
背後の男が言葉を失うのも理解できる。何せ赤い壁に白抜きの卍模様を持つこの建物、全体が既にきしみ、痛々しいような鳴き声が外からでも聞こえる。病院、学校、会社、遊園地。”夜”において多くの残留思念が……「切り取り」が残っている場所は多かれど、生死がより直結している分だけ、ここの方がより濃く残りやすい。
背後の男を促し、私は火を前方に据えて、歩く。
「あ、あの……、バロンさん? 病院ですよね、こ――」
『――おかーさんいたいよ! いたいよ! いたい、いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい――』
「ひっ!?」
声を上げて身を縮ませる。当然の反応ではある。私とて得意という訳でもない。単純に「抜け落ちている」から問題になっていないだけで、これは文字通りお化け屋敷も真っ青だ。
『関わらないことだけが対処法だ。気を散らさず、目的のことだけを考えていろ』
「かかわらない?」
『切り取りは、過去の断片だ。強烈な想いが、その時の映像を断片的にこの世界に焼き写す。時間と共に雲散霧消していくものだが、濃ければ濃いほど周囲を引きずり込む。囚われれば、私でも抜け出すのは苦労する』
「幽霊とか、何が違うんですか?」
『幽霊が意識であるなら、切り取りは記憶だ。意識には連続性があるが、記憶は断片で時間が止まっている。要するに身動きが取れなくなって、鉱物のように考えるのを止めることになるぞ』
「なんかジョジョ第二部、最終決戦みたいなこと言いますね……」
『世代か?』
「一応は……って、読むんですか貴方!?」
『例えとして出したが、生憎だな。アニメは見たが』
「はぁ~……」
私の風体とその在り方からして、漫画本を読んでいたりアニメを見ていたりする様を想像できないのだろう。かく言う私自身、この姿のままそんなことをしている訳ではないので同意だ。シュール極まりないだろう。
手術中、とボロボロのランプが付いた扉を通過して、私達は上の階に登る。エレベータは使えない。使っても構わないのだが、もしかすると”夜”と表とが混線する可能性もなくはないし、あえて心霊映像のようなものを残す必要もない。最悪、マスターに証拠隠滅を依頼せねばならなくなるので、"夜"での懐事情もまたシビアだ。
だが――果たして、男の妻が入院していた部屋の扉を開ければ、そこには誰も居ない。表の患者が入院しているばかりである。そして珍しいことに、この部屋は「切り取り」の声が聞こえなかった。
「なんで居ないんだ? いや、絶対に恨んでるはずだろ――」
『恨み?』
「はい。だって妻は――、っ?」
そんな話をしていると、唐突に、私と男の肉体が、光線に打ち抜かれた。
男と私は、丁度真正面の立ち位置にいる。ゆえに必然、男の首のあたりを貫通した光は私の心臓の部分を焼く。
光がどこから来たのかと見れば、窓ガラスに私を抜けてぶち当たっていることから、実際の熱量を持たないものだろう。とすると――聖職者関係か。
振り返る私。喉を押さえてぜいぜいと息切れしたような呼吸を繰り返す男。
振り返った先、扉の向こうには、一人の少女が居た。少女、と言っても本等の私と同じほどの年齢か。ゆえに十六、七歳ほど。目には己の発した光で目を焼かれないようにするためかサングラス。黒いコートの足元からはストッキングが見える。栗色の髪に顔立ちは整っていそうだが、しかしその口は無表情に結ばれていた。
右手には、レイピア。光はどうやら、その先端から「魔術的に」放たれたものらしい。
背中には――白と、黒の羽根。
『何者か――と、一応無意味だが聞いておこう』
「通りすがりの美少女悪魔祓い、ということでどうか一つ」
お、おう。魔人の状態でありながら思わず素に帰ってしまいそうなことを、彼女は言い放った。何言ってんだコイツ。当の本人は私の背後の男を見て、蹲り呼吸が安定しない彼を見て、私の方に聞いてきた。
「食事のつもりか何か、でしょうか?」
『違うさ。まあ、成り行きだ』
胸元の穴から煙が未だ上り続ける私。男の喉下も、私と同じように風穴が開いているはずだ。
だがそんな男に対して、彼女は軽く言う。
「嘘でしょう。だってそうでもなければ――幽霊なんていくつも連れ歩かないでしょう、貴方たち魔人は」
「――ゆ、うれ、い?」
その言葉を聞いた瞬間、男は、思わず口を開き――そして気付いた。喉に穴が開いていても、呼吸ができ、思考ができ――痛みもないことに。
いや、それだけじゃない。おずおずと立ち上がろうとして、そして気付いた。男は自分の足元が、半透明を通り越しかけていることに。
「普通、夜に迷い込んだ幽霊はそのまま食べられちゃいますからね。だからこそ連れて歩いて来たと思ってたんですが、違いましたか?」
『余計なことをしてくれた、というのが正直なところだな』
――夜を歩いていても、表で起こった出来事はそのままこちらの世界でも反映される。向こうからの接触は困難だが、こちら側からの接触は容易であり、そして対象的に表で起こった災害や事故は防ぎようもなくこちら側に影響する。
だからこそ、男と会う直前に事故現場を過ぎったことを、私は忘れていない。そのまま「野次馬たちを貫通して」事故現場を堂々と歩いた事を、忘れる必要もない。
だからこそ男が現れ出た電柱が血みどろであったことも――その足元に、死体が転がっていたことも。
イメージが定着したせいか、男の姿が変化する。白い襦袢に三角が額に出現する。わざわざそんな姿になる必要もあるまいに、男の中にある幽霊のイメージがそのまま反映された結果だろうか。
もっとも、後一つ気付いていないことがあるのだが。
それとは無関係に、男は震えながら笑った。目元がわずかに潤んでいる。多少時間をかけて、そして受け入れたよう男は呟いた。
「俺、死んでたんだ……」
『現場を見た範囲では、一人でぶつかった背後からトラックで圧死、のようだったか。貨物トラックだったから、お前以外に死者は居ないだろう』
「それは……、良かったって言って良いんですかね?」
頭をかしげる男。
悪魔祓いを名乗る少女は、私に訝しげな目を向けたまま。特に何かをするでもなく、そこに立っていた。
『……個人的には付き会うと言った手前、せめて話くらいはしてもらいたいところなんだがな』
「話くらいって言っても、俺もう死んでるじゃないですか……。
あー、まあ……大したことじゃないんです」
そう言って、男はベッドの横の椅子に座る。そして肩を竦めながら、話を続けた。
「――俺、丁度大病してたんですよね」
『大病?』
「ええ。で、あんまり助かる見込みがなくって。
で一事、様態が悪化したんですよ。で意識失って手術に入って――その時、俺に移殖された臓器が、妻のものでした。
丁度、俺が倒れたって聞いた妻が、職場から急いでこっちに向かって行ったらしくて。その時に事故を起してそのまま運ばれて来たんだそうです」
医者から後で聞いた話なんですけど、と男は苦笑い。
「脳死だったんだそうです。……で、まあアイツ、免許証のところにサインしてなかったらしくって。向こうの親が、俺が助かるなら娘も本望だろうってサインして、でゴーサイン。
だけど俺、いっつも聞いてたんですよ。アイツ、絶対に誰かのために自分を切り売りしないって。結構サイテーだって自虐して笑うんですけど、でも昔、指一本亡くした時に心底思ってたらしくて」
『だから、恨んでいると』
「はい。絶対恨んでます。脳死だろうが何だろうが、私は生きてやるぞー! って、ずっと言ってましたから」
なるほど、だからか。だから「気付けない」のか。後一つ、彼が気付くべきことに。
私はライターのギアを更に回して、火を大きくした。
「な、何です?」
『何が見える』
「?」
何を言われているか、よく分かって居ないらしい男。だが、周囲を見回して――自分の背後を見て、それにようやく気付いた。
「ゆえ?」
それが亡き妻の名前なのだろうか。彼の背後には、影が一つ。薄れて消え掛っているような、見えなくなりつつあるようなものでしかない。しかし火によって照らされた結果、「男と一緒に付いていて」「男から否定され続けていた」影は、彼女は、その輪郭を僅かながら取り戻し始めていた。
男が名前を呼んだ瞬間、それは一気に加速し――彼女の本来の姿を取り戻させた。
「まこっちゃん!」
「ゆ、ゆえ、お前何で――」
「……なるほど、ずっと一緒だったんですね」
悪魔祓いの言葉に頷く彼女。男は意味が分かって居ないようだ。
私は肩を竦めてから、噛み砕いて男に説明する。
『言い方は悪いが、彼女はずっとお前と一緒に居た。無論、踏みとどまる感情一つと共に。
だがお前は、彼女のその感情を否定していた――相反することを考えていた。結果、彼女が見えないようになっていたといったところか』
「み、見えないようになってた? いや、でも――」
「まこっちゃん。……、じゃなくて、まことクン」
男の妻だろう彼女は、彼の顔面を両方から掴んで、じっと目を見つめながら言う。
「――私さ、別に恨んじゃいないよ。まことクンのこと」
「で、でもゆえ、それじゃ――」
「いや、あの時言った言葉は本心だけどさ。確かに死んじゃったことも、脳死判定されて臓器配られたこともムカツクけどさ」
一発、夫たる彼にデコピンを入れて、彼女は笑う。
「愛する人の命助けられて、それに恨みを持つ奥さんなんて居る?」
「――――」
ぽろぽろと、男の両目から涙が滴った。
妻たる彼女は、男を抱きしめる。
男のしゃくりあげる声がしばらくの間響き、そして二人の影が段々と薄くなり――口付けを交わすあたりで、私達からは見えなくなった。
「事情は知らないですけど、良いお話なんじゃなですか? 良い夫婦みたいで、なんか羨ましいです。別にそういう相手とか居ませんが」
『……私も詳しく知っている訳ではないがな』
悪魔祓いの少女は、左目だけから涙を流しながら微笑んでいた。声音、態度、共に何一つ動揺のようなものは見当たらない。
そんな彼女は、悪魔祓いというよりもむしろ魔術師めいていると言うべきだった。感情の抑制、統制はそのまま魔力の統制に繋がるらしい。私のように根本からそれを失ったものとは違い、人為的に操作するそれは、合理的で現実的な方法論とも言えた。
そしてそれは、敵に回した時の厄介さに繋がる。
「さて、それでは――ぱっぱと貴方も、消滅させてあげましょう」
消えた幽霊たちの余韻に浸る間もなく、彼女は薄く微笑んで当たり前のようにそう言った。