1 抜け殻は今日も彷徨う
中原中也、春日狂想に曰く。愛する人を失った人間は、自殺しなければならないらしい。それでも業が深く、死に切ることが出来ないならば、奉仕の気持ちになることだと。
生憎と、私にはそれが出来そうもない。寝ても冷めても頭の中は、幸せな記憶と最期の瞬間とが交互に入れ代わり立ち代わり。まるで波の振幅のように、躁と鬱との境界を行ったり来たりする。心の在り様は流動的で、いくら当人がその手綱を握ろうとしても、結局本人はそれに勝てない。理性的である、というのもまた心の在り様の一つだからだ。
そんな状態が正常な訳もなく、段々とささくれ立つ気分さえも萎えて、萎んで、最後は何も感じなくなっていく。無力と時間が、振幅する心の上がり下がりを殺す。感情を、殺す。
だから、もう一度だけ思い直す。
奉仕の気持ちになんて、なれる訳がない。
出来るくらいなら――最初から悪魔と、契約なんて交わさない。
私には、顔がない。頭がないというのが正確なところか。身体は性別通りの燕尾服めいた装いに、身に纏うは吸血鬼の伯爵めいたマント。胸の中央の穴は赤い宝石と銀装飾で埋められ、黒く鋭く研ぎ澄まされた両手の、左手の中指には銀の指輪が一つ。闇の中、夜も輝く血の色が、どこか抉り取られた目玉を思わせた。
頭部は、甲冑。頭がない変わりに、その位置にはさも当然のように、前面の開いた甲冑のようなものが装着されていた。両方の耳かこめかみか、その当りから空へ向けて、二つの角が起立する。
全身を焼いた緑の炎が、私の姿をそう変化させた。
『――炎よ』
凄まじく、普段の自分とは乖離した、成熟した男の声。いくら成長しても、こうはならないだろう。
銀色のライターを取り出し、私はそれを点火する。燃える光は碧く、そしてそれだけで周囲の光を奪い去る。街灯の電気による光源さえ奪い取り、夜道は暗黒に包まれる――。
――「夜」は、魔境だ。
中間世界なんていつから呼ばれ始めたのかは知らないけれど、なかなか的を射た表現だ。気にする人間は気にするし、気にしない人間は気にしない。だが「夜」は、歴として存在する。
from dusktill dawn、人間はそこから逃れる術はない。旧時代なら、家の中に閉じこもり、魔境の住人たちに襲われないよう身を震わせているか、あるいは成す術もなく蹂躙されるか。
奴等は、分かりやすい形で姿を現さない。
そして、「夜」における私達人間も、本来の姿では居られない――。
暗黒の視界の中、慣れたその光景を前に私は躊躇わず、一歩踏み出した。
踏みしめる地面が、ぬちょぬちょと液体の滴る何かであっても、気にせず踏み進める。蹄のような足先の感触の気持ち悪さなど、一年も昔に磨耗した。今では日常風景となっている。
人の作る光――「プロメテウスの火」では、この世界をまともに歩くことさえままならない。道標として使えるのは、この「証の火」だけだ。だからこぞって、誰しも「夜」に身を置く存在はこれを光源とする。
少し歩けば、見慣れた街並。民家があることは甲冑に響く音の反響を聞けば、もうなんとなく分かるようになっていた。そしてその中に、手元と同じく緑の光を灯す建物。ライターで照らせば、看板は「喫茶『魔女工房』」と書かれている。
その魔女工房に、私は足を踏み入れた。
「はいはいどうも、いらっしゃいま――って、バロンさん! お久しぶりです」
こちらに駆けて来る、エプロンドレス姿の少女。本来の私と同じくらいの年齢だろうか、とするならば高校生だ。髪は短く、横に長く尖った耳に、耳当てのようなものを付けていた。
『マスターは居るか』
「はいはい、ちょっと待っていてくださいねー」
手元の伝票に何某か書き込んでから、彼女は店の奥へ駆けて行く。カウンターに座りながら、私は店内の客層を見回した。店内には、ニ種類の存在が居る。「夜」に居るか、居ないかだ。前者は私や彼女のように、自分の居場所に自覚的で、何某か「人間ではない姿」をとっている。
対して後者は、一目で理解することが出来る。例えば今、私の隣のカウンターで飲んでいる二人の男女。夜は酒も提供しているこの店で、女がうつらうつらしてるのを気遣うように男が何事か言っている。彼らの周囲に泡のようなものが浮いている。泡は、彼ら彼女らが口に出しているのと居ないのとに関わらず、そんな肉声をかき消す勢いで心の在り様を「音」にしてさらけ出していた。女は、大学院生らしい。数年間付き合っている恋人が仕事ですれ違い気味で、当て付けのようにデートを断る。そして男は同じゼミの付き合いで、彼女を虎視眈々と付け狙っているようだ。
この店に入ってきたのは初回らしく、雰囲気はどちらも悪くないと思っているらしい。全くそう思うなら、人の行きつけの場所でそんなことをしないでもらいたい。外に居る時の私もこの場所を利用する以上、こういった事案は店の空気を悪くするし、雰囲気を下げる。何より、目の前で見せられて気分の良いものではない。
私は立ち上がり、彼女の背後に回る。無論、向こう側は「こちらの存在を知覚できない」。
そして耳元に向けて、少しずつ、少しずつ囁いた。
――その男の視線は、お前の胸元に注がれている。
ぴくり、と女の眉が動く。目の前の男が狙うくらいには容姿の整った女だ。あどけなさの抜けない目元が、わずかに鋭くなる。
――その男は、酩酊しつつある君が昏倒するのを待ち続けている。
動きこそないが、彼女の周囲の泡の様子が変化する。わずかに警戒色を帯びたそれは、私の囁きが上手に行っている証だ。私は男の泡から、より明確にささやきを増やす。
――その男は、ハイエナだ。今か今かと、お前が無防備になるのを待っている。盛られた酒は、友好の証ではなく毒だ。尊厳を喰い散らかすための前座に過ぎない。
――行き先で組み伏せ、前後不覚のお前を男は犯すつもりだ。ブラウスを剥ぎ、胸をさらけ出させ、乳房の先を乱暴に引き口の中で遊ばせ、己の衝動のまま、恋人に捧げても居ない貞操を滅茶苦茶に散らかす。
段々と鬱陶しそうになってくる女に、男は一瞬舌打ちをして焦りだす。
――女癖が悪い事を承知で飲みに来たのは、自分の咎だ。だがこんな男に捧げてしまうほど、お前は程度の低い畜生ではないだろう。
チェックだ。目を閉じ、女は立ち上がる。男は慌てて彼女の手を掴み、後悔させないだの何だの、今日だけは全てを忘れてだの何だのと大声で言う。周囲の客の目を引いていることも分からずに。
――取り返しの付かない過ちなら、避けられるならそもそも起さないべきだ。
――言い訳さえあれば何をやっても良いという訳ではない。その業を背負えないなら、死ぬか、止めるべきだ。
渇いた打撃音。強烈な響きは平手の一撃。私の囁きを受けた女が、警戒心を引き上げられた彼女がついに限界を向かえたのだ。一撃により男は数歩後退。その隙に足早に抜けていく彼女。それを追いかけようと動いた彼に、私は足をかけた。引っかかり、転倒する男。そのまま背中に足を乗せ、動けないようにする。
女が扉の向こうにでてしばらくしてから、私はようやく足を離してやった。男は不可解なものを見るような目で周囲を観察するが、やがて「表」の店員が何事か男に言い、彼は慌てて勘定を払って出て行った。表の店員の移動するのに合わせて、私は身を交わさない。彼女は私の体を「透過」して、そのまま歩き去った。
「――魔人らしさが板に付いてきたじゃないかしら。バロン。
やってることは普通だけど」
声の方角を向けば、そこには成人女性が居た。乱雑に切られた黒髪。鋭い刀を思わせる容姿。身長はモデルのように高く、しかしスタイルはグラマラス。それを第二ボタンまで開けたワイシャツと黒のパンツルックスに包み、カツカツとタップダンスでも踊れそうな靴を踏み鳴らして、店の奥からやって来た。
彼女は「夜」にあって普通の人間の姿を保っていた。だが、さして不自然なことではない。「夜」に出入りする存在は三つ。私のような「魔人」か、招かれた一般人か。そして彼女のような「魔術師」である。魔術師は姿を変えずとも「化生に憑かれない」ため、そもそも肉体が変化しないのだ。
カウンターに座る私に、彼女は手前で珈琲を振舞った。指を鳴らすと独りでに機材が動き、豆を回し、液体を注ぐ。数分とかからない所作だが、これだけで充分彼女が凄腕であることが伺い知れる。物理法則から離れれば離れるほど、魔術は実現が難しいからだ。
無駄に高い技能を見せつけながら、私の前に一杯置く。生憎持ち合わせがないと言えば、サービスと返された。
「なんだかんだ、貴方は『らしい』ようにはしてるわね。ま、強いて言えば、さっきのは店の外でやれって話だけれど」
『外に出たら一巻の終わりだと思うが』
「ま、そうかしら。だけど、何と言うべきか? インキュバスとかに唆されてる訳でもあるまいに、どうしてこう盛ってる輩が多いのか。オルレアンの頃からそうだが、クレバーにリスクマネジメントできないものか人間というものは。つかの間の安息で三大欲求が解放されるのも判るけど、だからと言って程度というものがあるだろうに。何のための知性なのか――。
おっと失言だったかな? いや、そうね。それが分かればそもそも悪魔から声をかけられることもあるまいに――」
『……止めてくれ。今日は道具を買いに来た』
「ああ。そうね」
再び指を弾くと、彼女の周囲に木箱が出現した。大きさはハードカバー書籍ほどだろうか。彼女はそれを手に取りカウンターに置き、開いて中身を見せた。白い小さな紙に魔法陣の描かれた呪札。緑色のケースに入ったインクのようなもの。
『支払いは?』
「いつもどおり」
私は手を差し出し、炎を放つ。しばらく燃え盛った後、私の手には欠けた水晶のようなものが、三つほど存在していた。彼女はそれを受け取り、吟味する。しばらくして「確かに」と言った。
私は木箱を手に取り、再び点火する。青い光が消える頃には手元には何も残って居なかった。
「しかし、下級の名前もないような程度からこれを作るのもまた面倒だろうに」
『そういう性分だ』
「私は儲かるから構わないけど、身を壊すよ? 復讐は蜜の味だが、カルマは身を助けないぞ――少年」
立ち去る私にそんな声をかける彼女。そんなことを気にするなら、はじめから私は「魔人」などなっていない、悪魔と――契約なんてしていない。
表に出れば、先ほどの室内が嘘のように再び暗黒に包まれている。注意すれば、さざめく風に混じり、ぎしぎし、けたけたと気色の悪い音が混じる。これも夜を渡れば聞き慣れるものであるが、それにしては音が近い。ということは――嗚呼、都合が良い。
私は足を進める。向かう先は下級悪魔の声の方角。夜を往く魔物は、人間の心の在り様、感情の振幅に反応して寄り、唆す。唆された人間は無力にも畜生の類となるが、これは別に奴等が悪いと一概に言いきれない。そもそもそんな思考をして、実行に移すべきかどうかで迷うのが悪い。平和な社会を害する一番のものは、結局は人間の悪意だけなのだ。
そして、嗚呼、さっきの男と女か。男が女の腕を掴み、壁に背中を叩き付ける。そしてそのまま自分のイチモツを出し、彼女の足に這わせていた。第三者からみれば、彼女の感情が気持ち悪いしかないと一目で判断が付くが、男の中ではまた別な回答があるのだろう。それに従い、男は女の服の胸元のボタンに手をやり――。
私は、男の周囲に浮かぶ泡一つ、紐のようなものが付いたを「割った」。
途端、電流でも浴びたかのように男の身体が震える。崩れ落ちる男と、身体を抱きしめる女。私は彼女に、お前が身の危険を感じて殴った、と囁いた。こちらの姿は見えずとも、声の意味を理解し、咀嚼し、自分の思考とする女。すぐさま携帯電話で、通報をする。
さて、これで終わりではない。紐が付けられていたということは、その先に悪魔が居る。悪魔は人間を弄ぶわけではなく、こうして自らの糧としているのだ。そうでなければ、夜を超えて生存することは難しい。
私は、空中に浮かぶ紐を掴み、思い切り引いた。魔人ならではの人間離れした腕力で引かれた結果、相手は地面に叩き付けられる。胴体は子供ほどの大きさだが、腕や足の長さが尋常でなく、全長2メートルを超える私に追いすがるほど。背中にコウモリの羽根の生えた悪魔。手には槍を持ち、額から上の頭がばっさり消失している。中身から液体が漏れ、腐臭が漂った。比較的、下級悪魔の中でもテンプレートな一体のようだった。
私はライターを取り出し、零れた液体の箇所を燃やす。物理的には影響のないこの「証の火」は、スピリチュアル的、つまり魔境の住人には充分効果的である。下級悪魔は悲鳴を上げて起き上がり、空中に飛び立ち逃げようとした。逃がすわけもない。すぐさま尾を掴んで、地面に叩き付ける。蹴り飛ばし、うめく相手のそれを無視して顔面を踏みつけた。
ぐしゃり、と簡単に潰れる。足の裏が溶けるような音がする。蹄の足のその箇所を、そろそろ火が消えそうな液体の跡の上に持って行き、焼いて浄化した。
放置しておけば、悪魔の死体はまた別な化生が喰らうことだろう。だから私は、躊躇いもなく化生の心臓のあたりに手を伸ばした。べりべり、という音と共に、内側の骨を破り、臓器の生暖かさを潰し、目的とするものを取り出した。
結晶の欠片のようなものだ。大きさは5センチもない。それを燃やして仕舞い、私はその場に背を向ける。私が立ち去ったことに反応してか、周囲に蠢いていた何者かがすぐさまその死体を掻っ攫い、がつがつと、ぐじゅぐじゅと、色々なものを撒き散らしながら食事をしていた。
『……さて、今日はどこを回るか』
道具も改めて揃えたので、私は今日も日課の奴の捜索にあたる。
だが、結局成果はまた得られないままだった。
なお作者的には「てとてさん」と同一世界の作品です。あっちの方にも関係者がちらりと・・・?