大人の恋
その日、都内にあるビルの一室で顔を突き合わせている2人の女がいた。一人は細見のグレーのパンツスーツを着こなし静かにパソコンのディスプレイをみている。向かいに座るのは、ゆるく編まれた白のニットにジーンズという格好をしている。見た目から受ける印象よりもおさない服装だ。
「うーん。失恋話ね。」
パソコンを覗き込んでいた女がゆっくりと顔あげながら、言った
白いニットの女、素直で恋に一途で、夢みがちな彼女が、満を持してこの出版社に持ち込んできたのは失恋を題材にしたショートストーリーだった。名前は橋田由美子。どこかで聞いた脚本家のような名前に負けて、小説家としての腕はいまいちとしか言いようがない。今、小説読んでいたのは野山薫、由美子が持込した出版社の中堅編集者だ。出版社のなかでも一番かたい内容を扱う文芸雑誌の編集部に所属している。もうすぐ編集長補佐にでもなるだろうと思われる立場にいるが、いまだに若手の持込に対応している、すでに趣味のようなものらしい。最初に由美子が小説を持ち込んできたのは2年前、小説家を目指し始めるには少し遅い年齢で、さらにいまだに恋に恋しているような女だが、20代中盤から小説持込を始めるなどの振り切った感や、何度不採用にしても持込を続ける粘り強さと、楽天的ともいえる前向きな姿勢を持った彼女を薫は単純に好きだと思っていた。
つい今まで、おとといメールで送られてきた彼女の作品を読んでいた。読む時間がないから、と言っていたのだが、今回は短いから、となかば強引に打ち合わせを承諾させられていた。確かに由美子の言った通り、小説は短いものだった。それは失恋したことを認められない女の話だった。そして最後はその認めない意思の強さから本当に復縁してしまう、という話だった。小説の内容はまるであらすじを書いてあるだけのようなものだったから、すらすらと読むことができたが、内容も頭を素通りしていくようだった。きっと由美子は失恋がどういうものかわかっていないのだろうから失恋したことを認められない女にしたのだろうか。失恋を認めなかったら振られたことにならない、なんてそんな絵空事のような内容にいらだちを覚えてきた。恋愛というのは目の前におきる現実を認めることからはじまるだ、ということを教えたかった。
その日は12月某日。校了日は月末になるため、11月の校了明けすぐに忘年会が行われるのが通例だった。忘年会とはいうが、ようは気が重くなるような、時代おくれの接待につきあわされて懐も気持ちも寂しくなる季節だった。その日は誰が集めたどんな会だったかさっぱり忘れてしまったが、いつも見るメンバーとは少し違う者たちが集まっていたように思う。
「ビール飲みますか」
隣から話しかけてきたのは、中肉中背の薄い顔をした軟弱そうな男だった。ほとんどのメンバーが校了上がりだということだったのだが、その見た目はきちっと整えられており、育ちの良さと生来の神経質っぽい感じを思わせた。
「はい、ありがとうございます」
すでに1/4ほどになっていたグラスにピッチャーからビールを注いでもらう。
「えっと、野山さんでしたよね。」
男は誰だったか、見ためからすると、少し下のようにも思うが記憶にはなかった。
「ごめんなさい、私ずっと自分の編集部か作家さんのところにしかいなくて」
「あ、覚えてないですか、残念だな。」
少し残念そうに笑いながら、自己紹介をしてくれた彼は、フロアが違うライトノベル雑誌の編集員だった。聞くと、数年前に当時担当であったライトノベル作家が文芸雑誌に別名で投稿したらしい、ということで投稿作品を探しにきた際に私と会ったことがあるらしかった。ちなみに、その投稿作品は残念なことに佳作にも選ばれなかったらしい。
「今はどなたを担当されているのですが」
「今は主に今年の新人作家を担当してまして。」
「そうですか、お忙しいですか。」
「いえ、そんなことはないですよ。ただシリーズ化して展開を目指すならもう少し設定に深みがほしいと思っているところでして。」
「そうなんですか。ライトノベルといえば、人物キャラクターの強さが際立ますよね。」
「はい、そこなんですよ。人物や基本設定はおもしろくできているのですが、最近の読者は目が肥えてますからね、もう少し伏線とか妄想的な恋愛要素とかがあるといいと思っているのですが。」
「なるほど」
「現実的な線からなかなかでてこなくて」
「現実の恋愛っていうのも結構ドラマチックなものですよね」
「え、あ、まあそうですか?野山さんはドラマチックな恋愛をされてきたのですか。例えば?」
「あ、いえ私などは特に。でも聞くじゃないですか、一目ぼれだとか、昔の思い人との再会だとかそういうの。」
「なるほど、確かに一目ぼれ、というのもある意味ドラマチックな展開ですよね。」
何か納得したような彼を見ていると、次の料理が運ばれてきた。二人で話しているうちに他のメンバーと距離ができてしまったらしい。目の前に置かれた焼き鳥は、二人で食べてしまってよさそうだ。
「あ、串外しますよ。」
私が串をはずそうと手を伸ばすより早く、彼が串を外してくれた。
「ビールもどうぞ」
いつの間にか空いていたグラスにビールをついでくれる。
「あ、ありがとう」
何気に気配り屋のようだ、割と男性社会であり、昔堅気の上司が多い職場だったので、なんとなく、彼の気遣いな態度に慣れない、むずむずした感じがあったが、初めてに近い感覚にだんだんと年甲斐もなく、お姫様扱いされているような心地よさを感じていた。
会がお開きになり、次の店へいくもの、会社へ戻るもの、自宅へ帰るもの、それぞれ散り散りになっていった。薫も自宅に帰ろうと一人駅に向かおうと歩き出そうとした。
「あ」
その途端に足元がぐらついた。体を打ち付ける、と思ってこわばらせたが、予想に反して体は弾力のある暖かいものに触れて安定した。
「大丈夫ですか」
ぶつかった何かのほうに向くと、先ほどまで話していた彼だった。結局あのあと30分ほど二人で話した後、トイレから帰ったメンバーや旧知の先輩社員と話を初めてしまい、彼とはそれきりになっていた。その彼がまた、近くに寄ってきていたようだ。
「あ、ありがとう、助かった、危なかったわ。でもごめんなさい、私ったら。」
手を借りて体制を整え、恥ずかしさから少し下を向きながら言った。
続くねぎらいの言葉が聞こえるかと思ったが、代わりにふってきたのは何かを探るような視線だった。思わず顔を上げると視線がかち合った。目を離してはいけないと感じた。周りの音が消え、彼の口が動くのが見えた。やたらスローモーションなその動きに合わせて、優しい声が静かに聞こえた。
「俺、野山さんとだったらいいかな。野山さんは?」
不思議な問だった。しかし自然と黙って彼の手を握っていた。
朝になると、彼はいなかった。その後、彼とは会わなかった、連絡先を交換していなかったが、社内のシステムからメールアドレスやデスクの番号は検索できたはずだが、私も、彼からも連絡はなかった。
「あの・・・」
声をかけられた薫は我にかえった。目の前には不安そうな顔をのぞかせながら由美子は薫が読み終えて感想を言ってくれるのを待っていた。
普段ならば、仕事中にプライベートなど思い出すことも少ないのだが、どうもあまりにも現実らしさのない話にひっぱられてしまったらしい。読んでいた小説がどうしようもなく、あっさりと心を取り換えた女を表現したものだったからかもしれない。
「やっと、恋愛はいいことだけじゃないと気づいたみたいだしいいんじゃない。」
それは小説に対しての感想なのかそうではないのか、濁しながら軽く由美子に返す。由美子は裏など一切ない、というようなうれしそうな顔を見せた。小説の中で夢をみているからこそ、この子は現実を知らず、見ずに行動ができるのかもしれないな、と自分の行動力のなさを“大人である“ことを使ってうまくごまかしたようだ。
もう一回ゆっくり読んでからまた連絡するわ、とごまかして打ち合わせを切り上げた。エレベータまで由美子を見送ってから編集部の自分のデスクに戻り、椅子に背もたれる。
あのあと、一度だけ彼の夢をみた。夢の中の彼は言った。
“君は僕との関係は終わったと思っているかもしれないが、二日酔いで、置手紙を残しそびれたのだ。”
その言葉で目が覚めたとき、私は自分のことをなんて浅はかな人間だと思った。自分と彼の続きがあった、そういう今を望んでいた。あのとき選んだのは今後を期待できない方法だった、実際、書置き一つもなく、あの日彼はすぐに仕事に戻ったらしい。いずれにしてもこの現実を選んだのは自分だった。
「失恋したときってどう乗り切るのかしら」
誰かに答えを求めて口に出したのか、ただの独り言なのかわからないが、騒がしいオフィスではそんな女の声を聞くものはいなかった。
「おしゃれな写真」
由美子はよく持込をする出版社の担当の人とは最近ではSNSで連絡を取りあうまでになっていた。彼女のIDは個人のもののようだが、こっちのほうが簡単でしょう。と言って個人の私にあわせてくれている。
彼女のSNSのトップページの写真がどこかの山で撮ったと思われる風景写真に代わっていた。すがすがしいまでの青い空と光をうまくとらえた山々は冬晴れの中悠然とそびえていた。冬であるにもかかわらず背筋がのびるような威厳と水水しい新鮮さは撮った本人を思い出させた。思わず“いいね“を押してしまったが、二人の関係に自信がない私はあわてて取消しようして、もう一つ“いいね”押してあるのに気が付いた。同じ薫さんの写真を気に入ったどこかの誰かがいることをうれしく思いながら、自分のいいねを取消すのをやめて、そっとSNSのページを閉じた。