はじまってない恋
「みなとさ、もしかして俺のこと好き?」
細面にフレームの細いメガネをかけた顔をこちらに向け、中身がなかなか減らないグラスを手に持ったまま、その男はそのとき唐突にそう聞いてきた。
「え?」
確か来週見に行く試合の予想をお互いに話していたところだった。
「え?」
「もしかして違った?」
同じ言葉しかでてこなかった私に向かって彼は恥ずかしがる様子もなく言った。思っていたのだが、この男は、自分の行動はすべて正しい、まるで自分は正の存在であるとでも思っていたかのようだ。
その男への冷静な評価とは裏腹に、その男の言葉で自分の体が熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が早くなり、血が勢いよく流れているのがよくわかっていた。まるでサッカーボールがゴールネットを揺らした瞬間を見たときの興奮のようだった。一瞬で軽いパニックに陥った私の目はあちこち泳いでいただろう。
「ごめん、何でもないよ。」
意外にもあっさりとその男は引いた。ただ、言葉では誤ってはいるが、悪びれた様子は全くなく、視線を私から外して前をみた。手に持っていたグラスを口に運び、少しだけ口をつけて中に入った液体を少し含み、グラスをコースタの上に戻した。彼の真意がわからず、とまどいながら横顔をじっとみつめていた私だが、彼の顔は普段と同じで、いつもの、あたりさわりない世間話を話すときと同じ顔をしていた。
私がその男と出会ったのは昨シーズンのはじめだった、ファンであるサッカーチームのオフ会のようなもので出会った。ちょうど中学から仲の良かったサッカー観戦仲間が結婚してしまい、一緒に観戦に行ける頻度が少なくなったこともあり、その男のグループに入れてもらうことになった。そのうち二人だけで観戦に行くことや、試合がない休日でも食事に行くようにもなった。男はおいしいごはんのお店をよく知っていたし、たまに見せるユーモアはおもしろかった、おとなしそうだが信用のおけそうな感じに安心感を持った。
さて、私は自分の性格について、大人になってある程度理解してきていると思う。高校卒業後、理系の学部にいき、生物化学関連の勉強をした。就職も飲料メーカーの研究職だ。昔から、物事には論理的な答えがあるべきだ、と思っていたし、特に国語の問いによくある“このときの主人の気持ちは”などと問うこと自体の意味が理解できず、つかみ所のない、感情というものが苦手だった。大学に入り、事実を人に伝えるという技術を鍛えるようになったが、今でも感覚や感情などを話すのもあまり得意ではないように思う。大学在学中のバイト先で2つ上の先輩から懐かれるようになったのだが、彼女は素敵な人がいただの、こういうことが好き、だの好きという感情をことあるごとに話す人だった。彼女の感情の豊かさは、自分の代わりにすべてしてくれているものかもしれない、とも思っていた。自分に持っていないものを代わりに表現してくれる、そんな彼女を少しいとおしいとも思っていたのだろう。
男との間に沈黙があったのは数秒だっただろうか、数分だったろうか。体はまだ熱く、目は相変わらず落ち着きがなく、あちこち見ていた、と思う。
沈黙を破ったのは私だった。
「うん、そうみたい。好きです。あなたと話しているのは楽しいし、とても安心する。」
唐突な問に相対するかのように、告白の言葉を一気に言った。これ以上にないくらいの鼓動の速さを感じていた。目はやっと彼の目をみて止まっていたが、目の前にあった彼の顔は薄く笑っていた。私は少しほっとして、つられるようにして涙を流しそうだったのをこらえ、唇の端をくっと持ち上げた。うまく笑えていたのだろうか。
「そっか、やっぱりね。」
一度言葉を切ってから続けた
「ありがとう。俺も君といると楽しいよ、楽しくなかったら、ご飯に誘わないしね。」
「そうなの。」
「そうだよ、一目みたときから、この子とは仲良くなれるなぁと感じてたんだから、俺の勘は結構あたるんだよね。」
「なにそれ」
思わず笑ってしまう。
「でもさ」
「ちょっと言いにくいのだけど、今そういうこと考えられない」
きたっ。
これ以上にないと思っていた鼓動の速さがさらに増したような気がした。だんだん、全身が脈うつような感覚に襲われ、このまま鼓動が止まらなくなるんじゃないか、と少し怖くなった。だから全身を停止させ、動かないようにして体が震えそうなのを必死に抑えていた。
「うん。そうだよね。ちょっと好きって言ってみたけど、流されたかもしれない。」
必死に落ち着こうとしていたと思う。落ち着いて、何度もそう心で叫んでいた。
「というかさ、君の誘導尋問だったよね。」
まだ心がざわついていたようだったが、嫌味が言葉をついてでていた。時間にしては一瞬だったように思うが、何度目かの沈黙が訪れていた。普段は沈黙が心地いいくらいの二人の関係なのに、そのときに限っては静けさに居心地の悪さを感じた。なんでもいい、扉を開ける音でも、外の風でも。この状況から逃げ出したくてたまらなくなった。
「実はさ」
びくっ体が震えてしまったかもしれない。彼がコトバを一瞬詰まらせた。
「ちょっと前嫌な振られ方しちゃって、しばらく彼女はつくらないことにしてるんだ」
私の嫌味はとくに効いていなかったようだ。何か自分のことを話しはじめた。私のほうは、なにか気の抜けたような気がして、すーっと急激に頭がさえていくのを感じた。熱くなっていた体に冷や汗をかき、体温をさげた。あの気まずい沈黙を破ってくれ、熱さから解放してくれた言葉に感謝した。鼓動が落ち着いていった。
「それ何々。何があったの!??言ってよ」
「いや、言わないよ。」
「いやいや、ここまで来て、私をふっといて言わないわけいかないでしょ」
「え、あ、そうだよね。じゃぁ」
「うん。」
今この瞬間に抜けてしまった穴を埋めるかのように、明るい声で世間話に戻っていった。私の体は急激に反応していたのだったが、その男の方はそうでもなかったらしい。私がせがんだ自分の恋愛話を始めた男だったが、その内容はよく覚えていない。確か、前の彼女がお金に困っていて、たびたび要求されたこと、その後彼女を信用できなくなった経緯、それがつらかった、だから今は恋愛できない、そんなようなことだったと思う。一代、悲哀恋愛記のように長々と語る間、私はいつもの自分に戻っていった。表面上だけでなく、精神的にも何もなかったかのような反応をしていた。さっきの興奮は夢の中の出来事だったかのようだった。男の長い長い話の途中で、私たちはお店を出、駅に向かっていった。歩く道すがら、夜風に体が冷えたのかもしれない、少し寒さを感じたことを覚えている。
外は真夏の厳しい日差しが照りつける時間帯にもかかわらず、涼しい店内に避難しにきている人はすくない。今日がちょうどお盆前の木曜日だからだろうか。
「その男性もすごい自信家なのか、思ったことを口にする正直者すぎるのか、すごいね」
今日は私の昔のバイト仲間である由美子が働いている喫茶店にきていた。周りがいうには年下だけどクールな私を年上だけど人懐っこい彼女が慕って、私たちはいいコンビだという。私は社会人になって職場に近いところに一人暮らししていたが、このお店の近くの実家にお盆ということもあり戻っていた。一人でいても暇なので、近くで彼女が働いているというこのお店にやってきたのだ。仕事を初めてから頻度は減ったがたまに連絡をくれる彼女は大切な友人の一人だ。
「その彼さ、少し前に彼女できたんだって。何が今は彼女作る気がない、だよ。完全に私をそういうふうに見てなかったってことだよね。俺の勘はよくあたる、って女か、っての」
「ちなみに、かっこいい人なの?」
「ぜんぜーん」
友人の由美子は自分では否定しているが、面食いだと思う。
「男にも勘ってものはあるんだよ、一目みて、この子はありか、なしかって感じるくらいには」
低めの声で一人の男性が話に入ってくる。見た目は大人らしいが口調はすこし子供っぽい、40代前半と言っていただろうか、少し枯れた風貌に、実際の年より少し上に思えるような落ちつきと貫禄を備えたこの男性はこの店のオーナーらしい。暑いなか熱いコーヒーをいれたカップを目の前においてくれる。
「一目でってことは、オーナーは面食いなんですね」
「俺の話じゃないよ、一般論だよ、一般論。」
隣に座る由美子が話に入ってきたオーナーを責めたててくれた。そのまま、ちゃっかり自分のコーヒーもいれてもらうつもりか、もう一つコーヒーカップをとりだした。
ふと、彼女の肩越しの壁にはお盆休みを知らせる貼り紙がしてあった。お盆は一人の利用が多いこのお店は売上が落ちるのだろう。お客が他に誰もいない店内のこの静けさがすべて包み込んでくれるかのように思えて言いたくなった。
「あ~私彼のこと好きだったんだってやっとわかったよ。でもなんであのときあいつがあんなこと言いだしたのかやっぱり全然わかんないよ。」
「自分の失恋話を聞いてほしかったとか?」
コーヒーカップをオーナーに渡しながら由美子がいう
「男はそんな話は女の子にはしないよ」
由美子からカップを受け取りながら、店長がいう。いいコンビじゃん。妬ける。
「じゃ、じゃあ、そんな話がしたくなるほど、みなちゃんのことを信用してたとか」
「じゃあ、それってやっぱり友達ってことだよね。」
「え、そっか。やっぱりそうなのかな。」
自分の発言が私に再び現実を突き付けているということはいざ知らず、本当に残念そうにしている彼女の顔をみていると、なんだが、どうでもよくなってきた。
「でもさ、失恋はさ、学ぶことばかりだよ。」
言い訳をするようにすらすらと言葉がでてくる。恥ずかしさからだろうか。隣にいる友人はそんな私の様子を気にすることもなく優しく笑う。この子はほんとにまっすぐでいい子だ。
「そういえば、これからどうするの?その彼とは」
「うーん、あの後もたまにご飯に誘われるんだよねー。」
「え、なにそれ、それで一緒にご飯行ってるの?」
「いやあー、やっぱり行かないとか言えなくて。」
「そうだよね、誘われたら、やっぱりうれしいよね。」
「みなとちゃん、それ大丈夫?次の恋探しなよ。」
「オーナーさん、それ大きなお世話です。オーナさんこそ、どうなんですか。」
「え、オーナー彼女いるんですか。」
「ちょっと、俺の話はいいよ。」
オーナーの男性はそそそくさと奥へ入っていった。
「・・・そういえばさ、あんたはどういう人が好きなの?」
なんだか頭にひらめいたことがあったので、話題を替えることにした。
由美子は昔から恋多き女なのだが、最近そんな話をすることも少なくなっている、もしかしたら恋以外のことにも目を向け始めたのか。
「う~ん、年齢は一回り以上離れるのは、ちょっとだめかな」