遠くの恋
カラン、一昔前の入店音をさせながら、ドアが開く。日が長いこの季節は夕方になろうかというのに、まだ昼間のように明るい、少し暗い店内はお客様とともに外のまぶしい光が入ってきた。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ。」
ここは東京から電車で30分ほどの町にある、駅近くの喫茶店だ。喫茶店とは言ってもお店は夕方前に開店する、お酒もおいている、だからバーといったほうが近いのだろうか。平日の夕方前、夕飯を求めてくるお客にしては少し早い入店であるが、ウェイターの由美子は水とメニューを持っていく。お酒のメニューではなく、ちょっとした食事が載っているメニューを上にして渡した。
「ズズッ・・・あ・・Aセットとホットコーヒーで」
鼻水をすすりあげる音に、由美子が思わず顔を上げると、目と鼻の頭を真っ赤にさせた50前後とみられる女性がいた。
「かしこまりました。」
由美子は不自然にならないように目線をそむけてから離れた。注文をキッチンにいるオーナーに伝え、改めて女性を盗み見るように観察した。旅行用とみられる小ぶりなスーツケースに動きやすい綿の濃いベージュのスカート、クリーム色のブラウスにグレーの薄いカーディガンを着ている。靴は踵の低い布製のものだ。恥ずかしそうに茶色の手持ち鞄から出したハンカチで涙をぬぐった。ハンカチは少しだけレースがあしあわれた白いもので、きちんとアイロンがかかっている、もしかしたら、ちらりと見える花模様の刺繍は本人でしたものかもしれない。
このお店では、夕飯代わりに来店する客も多くメインを3種類から選べるセットメニューを用意している。惣菜、ご飯、味噌汁、漬物が付いていて、今日のAセットのメインは親子丼だ。和風のだしがしっかりしみた玉ねぎと肉厚の鶏肉を半熟の卵でとじ、あつあつ白いご飯の上に載せる。今日の副菜にはほうれん草とおからのあえもの、味噌汁の具はねぎと豆腐だ。
「オーナーあの人大丈夫でしょうか」
「なんだよ、詮索すんなよ。おい盆用意しろ。」
「あ、はい。今やります。」
炒めた玉ねぎと鶏肉をフライパンに入れ、梳いてあった卵を流す。すばやくかき混ぜ、火を通してから、ご飯をよそったどんぶり鉢の上にのせていく。その間、由美子は味噌汁と副菜の小鉢を用意しながらオーナーの手際のよさに感心していた。
実はこの店のオーナーの自慢はコーヒーだ。ただ、由美子からすると、このコーヒーよりオーナーの作るご飯のほうがおいしいと思っているから、うまくかみ合わないものだ。
注文を聞いてくれた女性が離れるのを待って、かばんからハンカチを取り出した。泣き顔であっただろう顔はなるべくみせないようにしたが、気づかれてしまっただろう。
涙を拭きながら、蒔絵は自分の人生と今日のことを思いだしていた。蒔絵には2人の子供がいるが、この春から下の娘が大学進学を機に実家出てしまった、その兄である息子も数年前から仕事で別の土地で暮らしている。夫は単身赴任で2年前からここに一人で来ていた。残された蒔絵は一人、広い一軒家で生活していた。夫は典型的な仕事人間で今でこそ丸くはなったが、昔は亭主関白で妻の蒔絵は一人で2人の子供を育てた。蒔絵は、決して強い女ではなかったが子供を育てることに一生懸命だった。今はすでに子供も自立し、子育ては終わってしまったのだ。母という仮面がはがれ、一人でいると何もなくなってしまったかのようにさみしさが増した。そうなると、東京で単身赴任している夫のもとに頻繁に様子を見に来ているのだが、ここぞとばかりに愚痴ばかりが出てしまう。夫のほうは、慣れない東京での一人暮らしの中、会った妻には泣かれ、愚痴を聞かされ、情緒不安定な様子を見せられ限界を超えた。今朝「もう帰れ、こんな面倒なやつだったとはしらなかった。」と言われたのだった。
蒔絵はとても驚いて、そして怖くなった、20年以上連れ添った夫婦だったし、夫がどのくらい怒っているのかはわかっていた。予定より少し早かったが、今日帰ることにした。
しばらくは放心してしまっていたようだ、気が付いたら、日が高く上っていた。あわてて、部屋の掃除を終え、帰宅する夫のために夕飯を作り、自分の荷造りをした。しばらく朝に夫に言われたことを考えていた。涙があふれてとまらなかった。早く家をでないと夫がかえってきてしまう、自分の家に帰るも、遅くなってしまう。冷静に考えて泣き顔のままだったが、家を出た。夫のマンションから出るとすぐに近くからご飯の匂いがしてきた。時刻は16時半をすぎたところ。いつの間にこんな時間になっていたのだろうか。蒔絵はとたんに自分の空腹を感じた。今日一日は夕飯の準備をしていてもとても、何か食べられる気分ではなかった、匂いは2件隣の飲食店からしているようだった。少し古い感じがするが、飲食店のようだ、開店している。電車に乗れば新幹線に乗るまで40~50分は何も口にできない、お店の看板には16:30~0:30とある、いくつかの食べるものもおいてあるようだ。少し自暴自棄になっていたかもしれない、怪しい感じがしたが、空腹には勝てないし、近くのお店もよくわからない。蒔絵は店のドアを開けた。
プルルルル
電話の呼び出し音が鳴った。女性のもののようだ
「はい、高倉です。」
“・・・さん?・・です。”
「ああ、こんにちは。」
ズズと一回鼻をすすり、涙声を打ち消した外向きの声で電話にでた。なかなか透き通った声で、20代のような響きがある。
“今日は・・・・・・”
「ええ、まだ東京で」
“そう・・お菓子・・・・・・来な・・”
「あら、そうなんですか、いいですね。ええ、ぜひ。・・・そうなんですよ。・・ええ、今日の夜には。・・・まぁそうなんですか。」
少し声が弾んだ。
「それはいいですね。楽しみだわ。そうだ、東京のお土産、何がいいかしら。・・あら、そう。ええ、明日伺う前に一度電話しますよ、14時くらいですね、はい、はい、はい、では明日。」
相手の声も少し漏れ聞こえてきて、二人は何かの約束をしたらしかった。電話を切った彼女を見ると、少しばかり口元が笑っているようだ。由美子は電話が終わったタイミングを見計らって出来上がった料理を持っていく。女性がこちらに気づいたように顔を向けた。まだ少し目が赤いようにも思ったが、涙はでていなかった。
「お待たせしました。Aセットの親子丼です。ごゆっくりどうぞ。」
「ええ、ありがとう。まぁおいしそうだわ」
「コーヒーも今お持ちしますか。」
「ええ、お願いします。」
料理ののったプレートをそっと前に置いて、次のコーヒーを出そうカウンターに戻った。ちらりと壁にかかった時計をみると、時刻は17時前。まだお客は彼女だけだ。
「申し訳ありません、お待たせいたしました。コーヒーです。」
「大丈夫よ、ありがとう。ほんとに、おいしいわ。こちらお酒を出すお店のようだけど、ご飯の味もいいですね。」
昨日の夜にきれていたポーションの補充をしていなかったせいで、ストックから砂糖やミルクを取り出すのに時間がかかってしまった。由美子が少し時間が空いてコーヒーを持っていくと、彼女のほうから話しかけてきた。かなり時間が立ってしまっていたのか彼女の前にあるお皿にはすでにあと数口を残すのみだった。
「ありがとうございます、作った者も喜びます。」
「あら、あの方ね。」
なんていいながら由美子がカウンターの方をちらっとのぞくと、オーナーが聞きつけたのか顔をちらっとのぞかせた。
「久しぶりよ、自分で作っていない料理を食べたのは。」
言いながら、最後の一口を食べていた。由美子はゆっくりとした動作で水を継ぎ足して置いた。
「ふう、おいしかったわ。」
「ありがとうございます。」
彼女のほうも由美子と同様に、ゆっくりとした動作で今継ぎ足したばかりの水を飲んで彼女は一息ついた。
「ごめんなさいね、入ってきたとき、驚いたでしょう。少し取り乱してしまっていて。」
「いえ、お気になさらず。ご飯をおいしく食べていただけたみたいでよかったです。」
「ええ、ほんとにおいしかったわ。」
「実は夫と少しもめてしまってね。」
「そうだったんですね。」
「もともと、勤め先で夫と出会ってすぐ結婚して、それからは、あの時代は夫につき従うのがよしとされていたから、もめるなんてあまりなかったのよ。だから少しショックで・・・。」
「そうだったんでか、それはお辛いですね。」
彼女は急に話はじめた。まだほかにお客も来ていない。由美子は相槌を打ちながら、彼女の話を聞いていた。
「そう、それで、それは失恋を味わった気分だったわ。」
「失恋ということは旦那さんのことがお好きなんですね。」
女性は少し面食らったように、止まった。
「・・・あら、あはは。まあそれもそうね。」
少し恥ずかしそうに答えた彼女は、由美子から目線をそらして何か納得したようにうなづいた。蒔絵は思っていた、私はこのくらいの年には何を考えていただろうか。今の夫と出会ったとき、私はなんとなくでついて行っていた気がしていた。それでも今、私はちゃんと夫に恋していたみたいだ。
「でも、もうしょうがないわね。もめてしまったのは変わらないのから、どうにかしなきゃいけないわね。子育てと同じ、正しかった道なんてないのね。それが現実よ。」
「素敵ですね。」
「あら、そう?全然素敵な話じゃないわよ。おばさんのみじめな愚痴。っとあら、おしゃべりがすぎたわ。恥ずかしい。」
「いいえ。全然。」
そして、もう一言「本当においしかった」と付け足すと代金を置いて席をたった。コーヒーは一口だけ残っていた。入ってきたときからすでにあの人の心は次に向かってしまったようだ。扉を開けてでていくとき、外はやっと夕暮れ様子になっていた。大したことではない、友人と楽しく遊んで、おいしいものを食べて、そうして再び明るくなり自立した妻をみて、夫は戻ってきるだろう。