エーコー
5年後ぐらい
エーコー
戦争があった。世界を巻き込んだ大戦だった。日本が憲法により戦争をする権利を捨てて百年と数十年。不戦の歴史はそこで終わった。戦争をするきがなくとも、巻き込まれては戦わざるを得ない。
最新鋭の兵器を駆使した大戦だった。一昔前のSFのようだったと記憶している。二足歩行の巨大ロボットまで使われた。
日本は持ち前の技術力を駆使して戦い、そして敗れた。
今私の前には戦争の傷跡が広がっている。巨大で途方もない傷跡だ。かつてそこに何があったのか示すものは何もなく、ただただ巨大なクレーターのような跡地がある。かつてそこにあった町は今や人々の記憶にしか存在しない。
ここにあったのは原発だ。巨大な原子力発電所だ。戦争の最中それが暴走し、爆発した。原因は不明。一説では敵国の爆弾が落ちたとか、管理システムをハッキングされたと言われている。
そしてその原発事故が原因で日本は負けた。日本は再び核の炎に屈したのだ。
今日はその日からちょうど十年、遺骨のない両親の墓の前で泣いていた六歳の私は、十六歳の高校生になった。涙は枯れ果てたのか、それとも心の傷が癒えたのか私の瞳は乾いたままだ。思い出の地から吹く風で私の目や口がからっからに乾いていた。
手を合わせ、死者の冥福を祈り、平和を願った。この地に眠る人たちおかげで今の平和がある。両目を閉じて、手を合わせ、その平和が少しでも長く続くことを祈った。
祈ること一分、目を開けると目の前に一人の少女がたっていた。笑顔で手を降り、ハローと挨拶をしている。年は私と同じ十五、十六歳程で、暑い日差しに褐色の肌が映えている。外国人だ。きっと暑い国の出身だろう。特徴的なのは肩に掛かった無骨なカメラだ。見るからに男物で、年端もいかぬ少女が持ち歩くようなものではない。だがカメラを持つ少女の姿は非常に様になっており、まるで合わせてひとつの存在のようだった。
観光客かカメラマンか、もしくはその両方だろう。
「こんにちは、どうかしましたか?」
私は挨拶を返した。
「ここで写真を撮ってたんだけど、良い写真が撮れなくて。ね、もっと高くから見下ろせる場所、知らない?」
少女は少しの間をおいて、英語で返事をした。日本語の理解に手間取ったのかもしれない。
見下ろせる場所には心当たりがあった。この場所は爆心地に近いが、そのせいで全貌をカメラに納めることは難しい。全体像を撮るならば近くのビルから撮るのが望ましいだろう。もしくは多少険しい道を歩くことになるが、山を上れば良い。もっとも私は山からの景色をこの目で見たことはないのだが、山頂から下界を見下ろす写真の見事さはよく知っている。
「川の手前にあるビルが見えますか? 一番大きなビルです。あのビルの最上階にある展望台が公開されているので、そこからなら良い写真がとれると思いますよ」
ビルを指差しながら今度は英語で言った。今の日本には昔よりも外国人が多く、その影響で英語を話せる日本人が増えた。私の場合、私を育ててくれた人のうち一人が外国人だったのだ。
戦争のせいで今の日本には身寄りのない子供が多く、その多くは施設で育っている。原発事故で両親を失ったため、私も高校生になるまでは施設で育てられた。私に英語を教えてくれた人は施設の職員だった。
川沿いに立つ巨大なビルの展望台はまさにこの爆心地を見下ろすためにある。今だ傷跡の残る大地に、残留核物質のための立ち入り禁止区域、見るだけで破壊のすさまじさがわかるだろう。
「ありがと、それとできたらで良いんだけど、教えてくれないかな、日本のこと」
「日本に興味があるのですか?」
我ながら、意味のない質問だったと思う。日本に興味がないならば日本に来るはずがない。
「私の師匠がね、日本人なの。あ、カメラの師匠ね。故郷が好きみたいで、日本のことを自慢していたからきてみたくなったの」
「師匠とは一緒に来なかったのですか?」
「師匠ならもう死んじゃったよ。生き急いでいたし、戦場カメラマンなんて危ない仕事をしていたからしかたないんだけど」
特に悲しい様子も見せずにあっけらかんと言っていた。わざわざこうして師匠の生まれ故郷を訪れているのだから、悲しくないわけではないだろう。吹っ切れたのか、それとも表には出さないだけなのだろか。
「ごめんなさい」
「気にしなくて良いわよ。人はいつか死ぬものよ。私の師匠は生き急いでいたから余計にね」
母の顔が頭をよぎった。確かに行き急いでいる人間が死ぬのはわかる。家族を守るために戦場へ飛び立った兵士がそうだ。だが母のような、ただ普通の生活をしていた民間人がなぜ死ななければならなかったのだろうと疑問が頭をよぎったのだ。きっとこんな場所で話をしているからだろう。
「日本の何を知りたいのですか?」
「戦争のことと、今のことかな。今の日本のことをどう思うか、率直な意見を聞きたいわ」
少女はポケットからペンと小さなメモ帳を取り出した。これはつまり取材なのだろう。少女はおそらくれっきとしたカメラマンだ。見たところ私とそう変わらない年なのに、すごいことだ。私などまだ進路も決めていない。
「分かりました。展望台へ向かいながら話しましょう」
断る理由もないので承諾した。今は誰かと話したい気分だった。
「ありがと」
少女は懐から名刺を取り出し、手渡してきた。名刺には全く見たこともない言語で名前がかかれていた。アフリカか南アメリカか東南アジアかインドか、たぶんその辺りだ。つまり全く予想もつかない。
並列して別の言語でも名前が書かれている。こらちは読める。ただの英語だ。
「私はソーニャ・ジタン。戦場カメラマンよ。よろしく」
「よろしくお願いします。私は山崎貴音。高校生です」
「日本は平和主義ですが、国内世論は様々なんです。戦争で家族や友人をなくした人は多いですし、なにより負けかたがこれですからね。憎しみは深いですよ」
エレベーターのボタンを押しながら私は今の日本の話をする。初めはかなり丁寧な話し方をしていたが、だんだんと砕けた話し方になってきていた。
このソーニャという名の少女の明るさと明け透けな様が距離感を失わせるのだ。
「でもあれがあるんでしょ。ええと、けんぽう……第なんとか」
「憲法第九条ですね。戦争権の放棄」
「そう、それそれ。それがある限り戦争ってことにはならないんじゃないの」
「無くなるかもしれませんけどね、それ。戦争をしないと言っただけで戦争がなくなるのなら、誰も苦労しないわけですし、現に十年前に戦争になりましたからね。外交で不利になるだけの憲法なんて変えてしまえって動きは多いですよ」
戦争権の放棄とはつまり、武力という交渉カードの放棄でもある。それが意味することは一つ。舐められる。現に日本の領空ぎりぎりを他国の戦闘機が飛んでいたり、島の一つを他国に実効支配されている。
戦争をしないのなら問題はないが、できないとなると外交上の問題が発生するのだ。
エレベーター内に電子音が響いて、扉が開いた。目の前には展望台。端まで歩いて下を見下ろす。広い広い焼け野はら。核汚染が酷くて、草木さえまともに生えない。
ここは広島とは違う。原爆は空で爆発するが、原発事故は地上で起きる。そして核汚染は地上で起きたほうがひどくなるのだ。
展望台の壁には当時の写真が飾られていて、こっちはもっと痛ましい。
地獄のほうがまだましだ。こちらは何もない。跡形もない。過去の痕跡はすべて爆発によって吹き飛ばされている。
言葉で表せるような光景ではない。かつてあったはずの街並みが、残骸すらまともに残らず消え去っているのだ。原型も分からぬ何かのなれの果てと、クレーターしかそこにはなかった。
「それに、この様ですからね。憲法改正派の声が大きくなるのも仕方ないでしょう。我慢にも限界があります」
「第一次世界対戦のきっかけは一発の銃弾だったそうよ」
「鉛弾ひとつの重みで傾くほど逼迫した状況じゃないですよ。九条が改正されたても戦争ができる国になるってだけで、戦争をする国になる訳じゃありません。それに、日本には過激な連中はさほどいませんから」
「良いところね、日本って。ところであなたはどちら側なの? ええと、タカ……ネ」
ソーニャは若干言いづらそうに私に名前を言った。あまり日本語の発音になれていないのだろう。
「貴音です。アクセントの位置が違いますが、それでいいですよ。外国の方には日本語は発音しづらいでしょう」
今のところ日本語を完璧に発音できる外国人には出会ったことがない。日本語の独自性のなせるわざだ。
ガラパゴスである。
「私は改正反対派です。戦争なんて二度とごめんですから」
ソーニャは独り言でタカネ、タカネと数回繰り返した。自分でも発音に違和感を覚えるのだろう。
「やっぱり発音しにくいわ、日本語って」
「私には英語の発音の方が難しく感じますけどね」
「日本語って文字一つ一つに意味があるんでしょ。タカネの名前にはどんな意味があるの?」
アクセントの位置はずれていたが、さっきよりは正しい発音に近かった。かなり苦戦しているようだ。
「山崎はマウンテン。貴音はノーブルとサウンドよ」
崎の意味がわからなかったので、そこだけ飛ばして答えた。日本人でもわからないときはある。
一文字程度飛ばしても、外国人ならこの答えに満足するだろう。
「マウンテン…………サウンド…………………エコー! ねぇあなたのことエコーって呼んで良い?」
エコー。日本語でこだまや反響という意味だが、ここでは山彦と言う意味が正しいだろう。山に響く音なら山彦に違いない。
いったいノーブルは何処へ行ったのやら。だが貴を無視している点を除けば良いニックネームだ。何より言いやすい。それだけでニックネームとしては合格点だ。
「エコー…………山びこのねぇ。良いわよ、好きに呼んでちょうだい」
私は二つ返事で承諾した。
「ふっふーん、承諾したね。今更取り消しは無しだよ」
ソーニャの笑みはいたずらっ子の笑みだった。こんな笑みを浮かべる人はろくなことをしない。
しかもたちの悪いことにいたずらっ子は、いたずらを終えたあとに、いたずらに気づいていない人の前でこんな顔をするのだ。
「クーリングオフの期間は一週間ですよ」
「二言は無いんじゃないのー、日本人は」
「それは日本の男性限定です」
男に二言はないらしいが、女は嘘つきなのである。二言も三言もあるし、そもそも二枚舌なのだ。
「それでも忍者なの?」
「忍者じゃないし、仮に忍者だったとしてもくの一だし、そもそも正々堂々は武士です」
外国人に伝わった間違った日本文化には突っ込みも追い付かない。
私は深くため息をついた。
「私がつけたニックネームは流行るのよ、エコー。ジンクスみたいなものね」
「カメラマンの間で流行っても関係ないことです」
「いえいえ、もっと身近なところで流行ると思うわ」
ソーニャは私を見ていた。いや、見ているのは制服だ。私は制服を着ていた。
猛烈に嫌な予感がして、その予感を振り払う材料を探したがどこにも見当たらなかった。むしろ予想を裏付けることばかりが思い当たる。
「これから写真を撮るけど、エコーも映る? きれいに撮ってあげるわよ」
「悲劇のヒロインなんてキャッチコピーをつけないのなら喜んで」
「悲劇のヒロインなんて柄じゃないでしょ、エコーは」
「なんでわかるのよ」
ついに言葉遣いが完全に崩れた。友人のように接してくるソーニャのせいだ。
「第一印象!」
「どんな第一印象よ……」
「強い人って感じ。少なくとも弱さを盾にするような人には見えなかったわ。そして外国人を案内してくれるぐらいいい人ね」
「誉めてもなにも出ないわよ」
「あっ照れてる照れてる。これはあれね、カワイイってやつだね」
ご丁寧にかわいいだけ日本語で言ってきた。
私はとっさに顔を背けてしまい、照れてることを証明してしまった。とっさの行動というのは厄介だ。自分では制御できない。
「背景は爆心地で良いわね?」
「わ、いたましい背景なのに、悲惨な感じが全くでないわ。キャッチコピーは「過去を乗り越え未来へ」に決定ね」
「「未来を目指す若者」とか「今を生きる」でも良いわよ」
「とってから決めましょ。掲載されない写真のキャッチコピーなんてただの落書きなんだから」
「ネットにあげたりはしないの?」
「個人的な写真はあげないよ。趣味と仕事は分けないとね」
「あら、趣味だったの?」
「女性は写真が好きなの。エコーもわかるでしょ」
「否定はしないわ」
好きではあるが、世間一般の女性ほどではない。だから否定はしないが、特に肯定もしなかった。
「それじゃ撮るよー」
ソーニャはそう言うや否やシャッターを切った。身構える暇もなかった。
「はいチーズぐらい言わないの?」
「そう言うと表情を作るでしょ。人間、ありのままが一番よ」
カメラマンにそう言われては言い返すことができない。いや、この場合はカメラウーマンか? ……どうでもいいか。そんな言葉はないのだし。
「見てみる? カメラの画面だから小さいけど」
ソーニャは私に向かってカメラを放り投げた。慌てて受け止めると思ったよりも重く、危うく落とすところだった。
「仕事道具ぐらい大事にしなさいよ」
「戦場カメラマンのカメラよ。ゴム弾で撃ち抜かれても壊れないわ」
「撃たれたの?」
「デモ隊と警察の衝突を撮ってたら流れ弾がね」
私はカメラの背面にある液晶画面を見た。そこに映る私は、いつも鏡で見てる私と同じだった。カメラを意識した不自然な表情ではなく、自然体で写っていた。
背景には窓ガラスと、その向こうに見える荒れ果てた大地。自然体でいる私とは少々ミスマッチだ。悲惨な光景には悲劇のヒロインのほうがよく似合う。
私はソーニャに向かってカメラを同じように放り投げた。
「この背景とは合わないわね」
「私と話している時の顔だからよ。祈っていたときのエコーならきっと映えていたわ」
祈っていた私の姿を想像するが、やはりこの光景と合うきはしない。
原子力発電所の爆発で親を無くしてから、弱い姿を見せるのは苦手なのだ。
ソーニャはカメラの背面にあるボタンを押して、カメラの操作をしている。
「今日はありがとうエコー。いい話が聞けたわ」
「どういたしまして。私はそろそろ夕御飯の時間だから帰るわ。さようなら、ソーニャ。また会いましょう」
「バイバイ。次に合うときまでには現像しておくわ」
私は手を振って別れを告げた。
無音で下るエレベーターの中で、私は今日の出会いを反芻していた。ソーニャとはきっとすぐに再会するだろう。
朝、朝食を終え、身支度を整えたあたりでチャイムがなった。毎朝かける目覚ましのように、同じ時間にこのチャイムはなる。
適当に返事をしてドアを開けると、いつも通り幼馴染みが立っていた。
彫りの深い美形で、すらっと高い身長。これで運動神経も良いのだから紙は二物を与えずって言葉が嘘っぱちだとよく分かる。
毎朝こいつが私のことを迎えに来ているのだが、男女の中というわけではない。ただの腐れ縁だ。だいたいの子供は小学生の時に男女を意識して距離を取ってしまうものだが、私たちはその時分に原発事故があったものだから、距離をおくタイミングを逃したのだ。
「おはよう貴音。今日も激しい闘いをしていたみたいだな」
私の髪は酷い癖があって、今日も激しい闘いを繰り広げたのだが、敗北に終わっていた。
だからと言って朝一番で指摘する必要はないはずだ。それをわざわざ言う辺りに、この男、成島円陣の性格が現れている。
「おはよう。あんたの方は楽そうで良いわね」
「面白味がないけどね。短いと髪型に自由度がない」
「見せる相手でもいるのかしら?」
「今、目の前に」
「そう。いないってことね」
外の天気は文句を言いたくなるほどの快晴で、雲ひとつなかった。
この空を見ていると、昨日出会った少女を思い出す。きっと今日もソーニャに出会うだろう。そんな予感がする。同時に根拠のある予想もある。
登校中の生徒や、仕事場へ向かう会社員であふれた道を歩いて、私達は学校へ歩いていく。選挙カーや街頭演説のせいで、いつも以上の喧騒だ。憲法改正の是非について、選挙の立候補者が熱弁している。
教室につくとチャイムが鳴る直前だったので、すぐに担任の御代川先生がやってきた。
朝のホームルームの始まりに、御代川先生は重大発表がありますと告げた。
「なんと……今日は……このクラスに留学生がやってきました」
なんとでためを作り、今日はでもう一度ためを作り、まるで何かの結果発表のようだ。テレビに出てくる司会者はよくこんな風に無駄なためを作る。
教室はちょっとした騒ぎになって、男かそれとも女かと質問が相次いだ。
御代川先生は美少女ですよと、聞かれてもいない事を付け足して答えた。
私は昨日会った少女の顔を思い出して、世間に言われる美少女と合致するかどうか検証したが、どうも微妙なところだった。顔立ちが整ってはいるが、日本の美人とはあまりに違う。そして美少女の小が余計だ。小の字が表わす弱さをあの女性の顔立ちからは感じ取れない。
それに何より彼女は肌の色が違う。一万人いれば五百人ほどは外国人になるが、子供ばかり三十人というこの特殊な環境に肌の色が違う人はいなかった。
このクラスは果たしてその異物を美しいと感じられるかどうか。白いほうに違えばまだいいのだが、あいにくと彼女は黒いほうだ。
御代川先生がどうぞと言うと、扉を開けてソーニャが入ってきた。教室には歓声とどよめき声が広がった。
大体半々といったところか。
ソーニャは歓声にこたえるように手を振りながら教室を見渡し、目ざとく私を発見し目を合わせた。
「おはようエコー。また会ったわね」
ソーニャは自己紹介をするよりも先に私に声をかけてきた。
「昨日振りね、ソーニャ。良い写真は撮れたかしら?」
先生と生徒の位置で会話をしたものだから、教室中に会話は筒抜けだった。ざわめきの中でも聞こえるようソーニャが大きめの声で話したせいでもある。
謎の留学生がクラスメイトの知り合い、しかもあだ名で呼ばれる関係だと教室中に伝わったため、ざわめきはより大きくなった。だがこれでソーニャという異物は、クラスの中に溶け込みやすくなった。
「ソーニャ・ジタン、デス。アメリカ、カラ、キマシタ。ヨロシクオネガイシマス」
ソーニャは片言の日本語で自己紹介をして、お辞儀をした。昨日のうちに挨拶だけ練習してきたのだろう。日本に不慣れで、頑張って日本語を勉強している女の子、というわけだ。
やはり美少女という言葉はふさわしくない。れっきとした女だ。少女というにはたくましすぎる。
「はいはい静かに。質問は休憩時間に。ソーニャさんは山崎さんの隣の席よ。山崎さんは英語を話せわよね、分からないところがあったら、山崎さんに聞いてちょうだい」
要約すると全部丸投げというわけだ。
チャイムが鳴ると同時に逃げ出したいが、あいにくと私の席は教室の隅じゃない。
「外国に知り合いがいたんだな。初めて知ったよ」
「昨日たまたま出会っただけよ」
円陣と話しながら、どうにかしてこいつに丸投げできないかと考えたがいい案はうかばなかった。隣の席に陣取られた時点でほぼ詰みだ。席を変えようにもこのクラスは男女交互だから、転校生以外がそれを乱しているとおかしくなる。
ソーニャは私の隣に来て、私の机に写真を置いてから座った。
私が写真を手に取ると、ソーニャはにこっと微笑んだ。
「慣れた対応だったわね。あんな嘘までついちゃって」
「世界を旅してきたからね。さすがに慣れるわ。それと嘘はついてないわよ」
「あんたの出身、アフリカでしょ。名刺の文字を調べてみたら、アラビア語だったわよ」
名刺に乗せるほどアラビア語と関わりがあって、英語は完璧。つまり英語とアラビア語が両方とも公用語の国の出身だと予想できる。となると北アフリカか西アジアになるわけだ。
「アメリカにもいたから嘘じゃないわ。テロリストが潜んでいてもおかしくない国を挙げるのはちょっとね」
そういえば師匠が戦場カメラマンだといっていた。戦場カメラマンがわざわざ訪れる必要のある国なら確かに言わないほうがいいだろう。いらぬ噂になるし、いらぬ尾ひれがついて面倒になる。
「昨日出会った割には仲がいいんだな」
「なに? 紹介してほしいの?」
「美人とお知り合いになれるチャンスだからね」
「円陣、あなた私というものがありながら他の女に手を出すのね」
悲しみに悔しさを数滴たらした声色で言ってやった。女に生まれて十六年も生きていると演技がうまくなる。
「俺の記憶が正しければ、俺はこっぴどく振られたはずなんだが」
「あらそう。ごめんなさいね」
「十年以上の付き合いである俺に向かって「まずはお友達から」と言って断ったんだ。よく覚えてるよ」
「ひどい言いぐさね。こんなか弱い乙女に向って」
呆れたように言ってやると、となりでソーニャが声を出して笑っていた。
「あなたたち仲がいいのね。私の名前はさっきも言った通りソーニャよ。カメラマンをやってるわ。あなたは?」
「俺は成島円陣だ。ただのしがない学生だよ」
「エンジン?」
ソーニャの発音は、どう聞いても車の部品のエンジンだ。やはり日本語の発音が苦手らしい。
「円陣だ。GじゃなくてZの発音に近いかな。言いづらいならジンでいいよ」
「車の部品になった後は酒? ロシア人みたいに血管に酒が流れているのかしら」
「奴らの血液はウォッカだ。炭酸水で薄めて飲むような酒など飲むもんか」
「昔はストレートで飲むことも多かったそうよ」
ソーニャがまた隣で声を出して笑っている。クスクスとではなく、歯を見せて笑っている。
「これからよろしくね、ジン」
「こちらこそ。ところで貴音の事をエコーって」
「山と音だから山彦よ。昨日ソーニャにつけられたの」
「なかなか良い仇名じゃないか、エコー」
説明すると円陣まで私の事をエコーと呼び出した。ソーニャがつけた仇名が流行るというのは事実のようだ。私に一番近い円陣があだ名で呼び始めたらもう止まらないだろう。
「でしょ。仇名つけるの、好きなの」
「俺にもつけてくれるかい」
「すでに素敵なのがあるじゃない。ジンって呼びやすくて好きよ」
休憩時間の始まりを告げるチャイムが鳴った。朝のホームルームから一時間目の間に五分だけ休憩時間がある。
クラス中の視線が集まるのを感じて、少しばかり不快な気持ちになった。
突然現れた新たなクラスメイト、それも外国から来た留学生で美人となれば五分で質問攻めが終わるわけもない。休憩時間のたびに彼女の机の前には人が群がり、昼休みにはほかのクラスからも人が押し寄せた。
彼女が男だったら無理やり逃げ出せたのだろうが、女社会は面倒くさいのでそうはいかない。初日の行動次第でクラスでの立ち位置が決まってしまうからだ。
結局ソーニャとまともに話せたのは放課後になってからだった。授業中にこっそりと会話したのを除けばの話ではあるが。
「わぉ、ずいぶんと狭い部屋ね」
「足の踏み場があるだけましよ」
教室にいては周りがうるさく、さりとて掃除のしていない我が家に招待するわけにもいかないので部室にやってきていた。
散乱した紙、紙、紙。書類に新聞に雑誌にコピー用紙。新聞部の部室である。物を作る部活は、部室がどうしようもなく狭くなるのだ。運動部は卒業してしまえば私物は本人のもとへ帰るわけだが、文化部はそうもいかない。過去の作品や当時の資料が山となり、ついには山脈のように連なり部室を圧迫するのだ。
「掃除でもする?」
「無駄よ無駄。これだけものがあるのにどうやってきれいにするのよ」
「捨てないの?」
「過去の作品は十年間保存するってのがこの部活のルールよ。この山の中から十年以上前のものだけを抜き出せるならどうぞ。止めないわよ」
当然のことながら年代別に資料を分けるといった気の利いたことはしていない。私が卒業するまで応急処置で耐え抜いて、次の世代にバトンを渡すのだ。いつか耐え切れなくなった時に大掃除が始まることだろう。
先人の尻拭いは次の世代がする。常識だ。借金やら年金やら外交問題といった様々な形で、国が行っていることと同じだ。国がやっていることを、国民がやることに何の不思議があろうか。
「こうして負の遺産が受け継がれていくのね」
「先人たちの努力の結晶よ。負の遺産じゃないわ。一応ね」
もっとも山の底でこのまま誰にも見られずに朽ちていくならば、この書類の束はごみ以外の何物でもなく、正しく負の遺産なわけだが。
「エコーは一度でもこの山を崩して、その努力の結晶を読んだの?」
なかなか鋭い。相手が円陣ならいくらでも言い負かしてやるのだが、ソーニャ相手だと私の反撃は空振りに終わってしまう気がする。
育ちがよく純粋な私では皮肉の一つさえ思い浮かばない。
「初めて記事を書いたときは参考にしたわ」
つまりそれ以降は一度も見ていない。そもそも今の世で紙媒体にこだわる必要は微塵もないのだ。学校のパソコンにはしっかりと過去作品のデータが残っているわけだし。
「焼却炉にでも放り込めばいいのに」
「大事なものもあるかもしれないわよ」
「その程度で人生は変わらないわ。焼いてしまえば残りの学校生活が、少し快適になるわよ」
どうやらソーニャは実に行動的で思い切りがよいようだ。もし入部したら、間違いなく実行に移すだろう。
周りに合わせることばかり考える日本人とはえらい違いだ。
「考えとくわ」
ちなみに日本人の「考えておく」は、「やらない」である。部員三名のこの部活でわざわざ部屋を広げる必要がない。労力の無駄だ。その分昼寝したほうがましである。
私は本棚から「見せる記事の書き方」というタイトルの本を手に取った。
「カメラマンならこういうの興味あるんじゃない? 新聞に投稿したりするんでしょ」
「え、ええ、そうね」
ずいぶんと歯切れの悪い返事だった。
「どうしたの?」
「実は、まだ一度も新聞に載ったことがなくて」
「あなた、プロのカメラマンなんじゃないの」
「プロだからと言って、それで食えているとは限らないわ」
「開き直ってどうすんのよ!」
「やっぱり、カメラの技術磨いたほうがいいのかなぁ?」
「当たり前でしょ……」
ため息の一つでもつきたい気分だ。私と同い年でカメラマンなんて天才か何かだと思っていたらそうではないらしい。
しかも特に写真を撮る技術を磨いていないらしい。
「師匠がね、写真を撮るときは在るがままをとれって言ってたの。カメラは嘘をつけないけど、人をだますことはできるからって」
「なるほど、ソーニャにとってカメラは芸術じゃなくて、世界に現状を伝えるためのツールなのね。でもそれならなんで新聞に載らないのよ」
「もっと上手に取れる同業者がいるからよ。かといってライバルがないところに行くと今度は報道規制とかなんとかって」
「あんたどんな場所まで写真撮りに行ってるのよ…………」
報道規制がかかるのは、国民や他国に知られたくないようなやばい事件に限られる。この少女はこの若さでいったいどこを旅してきたのだろうか。
コンコンとノックの音がして御代川先生が部室に入ってきた。わざわざノックをしてこの部室に入ってくるのは先生ぐらいだ。
「あら、こんにちは、ソーニャさん。見学かしら?」
御代川先生が携帯のスイッチを押すと、空中にディスプレイが現れた。そこに御代川先生の喋った日本語が英訳されて表示されている。
「新聞に興味がったので見学にきました」
今度はソーニャがしゃべった英語が、日本語訳されて表示された。ずいぶんと便利な世の中になったものだ。
「そう、汚いところだけど、ゆっくり見て行ってちょうだい」
日本人は粗茶だとか、つまらないものですがなどど謙遜することが多いが、この「汚いところだけど」は別に謙遜でもなんでもなく事実である。
私の代ではきれいになることはないだろう。
「来週の火曜日が壁新聞の発行日よ。準備はできてるかしら?」
「記事はできましたので、あとは新聞の形にするだけです。昨日の原発の日と二週間後の終戦記念日について書きました」
「いいわ、感心ね。できたら職員室まで持ってきて頂戴。期限は明後日までよ」
「分かりました。すぐに仕上げます」
要件はそれだけだったらしく、御代川先生は帰って行った。
私は携帯を取り出して電源を入れた。ディスプレイが空中に表示され、キーボードが机の上に映し出された。まるで3D映像によるノートパソコンだ。こういう最新機器を使うたび、技術の進歩に恐れ入る。
最も科学技術が発達した時代が戦時中というのが皮肉な話だが。
「どんな記事を書いたの?」
私はソーニャの目の前に新聞記事を表示した。
「なによこれ、日付が五年前じゃない」
「そうよ。昔のデータをちょいといじって提出してるの。終戦記念日の式典なんてやってることいつも同じなんだから、特に記事にする必要ないでしょう」
「せっかくの青春を無駄にしてるわよ」
「無駄にさせられてるの。事あるごとに反戦記事書かされてうんざりよ」
「さっきの先生?」
「そうよ。ちょっとあれな思想の人なの。戦争をするべきでないのは当たり前だけど、盲目的に反戦反戦と言ってどうなるのかしらね? 基地建設反対とか新型兵器の配備反対とか書かされた時は、全力で右寄りの記事でも書いてやろうかと思ったわ」
戦争がなぜ起こるのか、戦争を防ぐにはどうすればいいか、それを考えずに反戦反戦と叫ぶ人が多い。終戦からたったの十年で人々の傷が癒えていないのは分かるが、もう少し考えてほしいものだ。
戦争反対と声高に叫べば救われるのなら、自衛隊も相互防衛条約も必要ない。
「基地を作らないほうがいい場合もあるんじゃないの」
「論理的思考の結果で反対しているなら、私も何も言わないわよ。ただアレルギー反応を起こしているだけ。しかもそれに人を巻き込むんだから文句の一つも言いたくなるわよ」
文句は言いたいが、相手は部活の顧問でしかも担任なため言うに言えないのだ。嫌われると評価が落ちる。テストの点は変えられないだろうが、授業態度などは向こうのさじ加減次第だ。
なのでこうして本人のいないところで愚痴を言っている。
「普段はどんな記事を書いているの?」
「転校生がやってきた、みたいなとっても身近な話と、政治などの難しい話ね。学校新聞である利点を生かそうと毎回必死だわ」
むろん先生に押し付けられた記事は適当に済ますので、毎回必死なわけではない。ちょっとした誇張だ。
「来月の記事は原発の危険性と利点について書くつもりよ」
「面白そうね。私も手伝っていい? どんな写真でもとってあげるわよ」
「それじゃネッシーの写真をお願い」
自分の記事は自分で仕上げたいのだ。手伝ってもらうなら、初めから二人で作るつもりでやりたい。
「あれデマだって判明したはずよ」
「イエティは」
「それもデマね。現地の人が証言したわ」
無茶なものでも撮らせようかと思ったが、すでにデマだと発覚していたようだ。
「じゃ日本が戦時中に開発した秘密兵器とか」
「なにそれ?」
「なんでも戦闘機を無人操作できるAIだとか」
「ないものは撮れないわ」
「それもそうね」
所詮は根も葉もない噂話。仮に本当だったとしても形なきAIは写真には写らない。
「おーいエコー、いるかー」
ノックもせずに現れたのは、もう一人の新聞部員である円陣だ。サッカー部と掛け持ちなので、あまり部室にやってくることはないはずなのだが。
突然ドアが開いたことに驚いたのか、ソーニャは地面に散らばったプリントを踏んで転んだ。そしてそのままプリントの山へダイブ。周りの山脈にまで影響を及ぼし、ソーニャは崩れたプリントの底へと消えた。
まったく……プリントの整理をしないからこうなるのだ。
「お、おい大丈夫か」
ソーニャはばねのように跳ね起き、プリントの山から脱出した。
「大丈夫。ちょっと驚いたけど」
ソーニャはそれだけ言うと散らばったプリントを片付け始めた。私なら一回踏みつけて、それから蹴飛ばしていただろう。
苛立ちを感じさせずに整理をするソーニャがいかに人間ができているかわかる。
私ほどではないが。
「で、何の用なの?」
「さっき御代川先生に会って、たまにはあなたも書いてくださいってさ」
「幽霊部員やってるからよ。で、なにか案は?」
「原子力発電所の危険性について。残留核物質の推移についてでも書こうかと」
「いい案ね。ネットで探してコピーするだけで済むわ」
「いや、一応現場を見てくるよ。適当なことは書けないからね」
「優等生ね。この部屋のどこかにガイガーカウンターがあったはずだわ。持っていきなさいな」
「どこかに……ね」
円陣は苦い顔で、部屋の中を見渡した。
そう、どこかにはあるのだ。砂漠の中から一本の針を探すようなものだが、あることはある。
プリントを片付けていたソーニャがこちらを向き直って、リモコンのような形の機械をこちらに向けた。
「もしかしてこれの事?」
「あっ、それよそれ」
「日本は学校にこんなものがあるのね」
「このあたりだけよ。被爆地か近いからね」
普通の学校では放射線量を測定する機会などない。ここが特別なのだ。
「ありがとう。ちょっくら調べてくるから。貸してくれないか」
ソーニャは手元のガイガーカウンターを見て、それから円陣を見て、答えた。
「私も一緒に行くわ」
爆心地周辺は薄暗い。空からの明かり以外は、遠くのビルから漏れてくる光しかないのだ。原型を失った街灯がちらほら見えるが、明かりはともりそうもない。
爆発の中心部でなければ比較的原型は保っていて、ビルだったものと道路だったものの見分けがつく。その奥までいくと人の立ち入れる場所ではなくなる。噂では三本足の鳥がいるとか、指が六本ある犬がいるとか言われている。
私たちはその危険区域が見えるところまで来ていた。言うまでもなく立ち入り禁止区域の中である。
円陣の調べ物が終わった後、ソーニャが行くと言ってきかなかったのでついて来たのだ。ソーニャは誰かが止めないとどこまでも突っ走る。出会って一日の私でもわかるぐらい、この少女にはバックの機能がない。
ソーニャはカメラを手に被爆地を練り歩き、私は後ろでガイガーカウンターを操作している。
「みんなまでくる必要なかったのに。危ないよ」
「それはあなたもでしょ」
「女の子一人ではいかせられないね」
円陣はまるでフェミニストのように言ったが、同感だ。女の子一人どころか、専門家以外くるべきではない。放射能の影響はまだ完璧には解明されておらず、ガイガーカウンターで放射線量を測定しながら歩いても安全かどうかは分からない。
「私はいいのよ。これぐらいの放射線じゃすぐに影響が出ることはないし」
「おばあちゃんになるころに影響が出ても知らないわよ」
「そのころまで生きていないわ。私の死因は刃物か銃弾か爆弾よ。老死はないわ。あなた達は平和な国で、二人で平和に暮らすんでしょ。体を大事にしたほうがいいわ。私とは違うんだから」
「結婚相手はもうちょっとまともな人を選ぶわ」
私は冗談で答えた。ソーニャの目が本気だったから、私は冗談で逃げることしかできなかった。戦争で死んだ父の顔が思い浮かんだ。死よりも怖いことを知っている顔だった。
彼女の家にはきっと遺書があるだろう。いつ死んでもいいように。
「おいおい。俺は十分まともだよ」
「あ、そう。あなたの家には鏡がないのね」
ソーニャはカメラを手に、荒れ果てた光景を写真に収めている。趣味で私の写真を撮った時と違い、表情は真剣そのものだ。カメラを淀みなく扱うさまはまさにプロのカメラマンだ。ソーニャとカメラ、合わせて一つの存在のように見えるほどだった。
ソーニャの写真を見た人々はこの光景の痛ましさに胸を打たれ、これが十年前の惨劇だと知って驚くだろう。そして核がどれだけ恐ろしいものか心に刻むに違いない。
ソーニャは師匠の故郷を見に来たといっていたが、本当の目的はこっちだったのではないだろうか。核の爪あとを写真に収められるのは日本だけだ。
大戦が終わっても世界にはいくつもの火種が残っている。戦争となれば、核兵器は絶対に使われないとは言えない。だから日本で写真を撮って、核兵器の使用に反対しているのだろう。
私と同じ年なのに、非常に遠い存在に見えた。
ソーニャの後ろについて歩くと、ガイガーカウンターが鳴った。みれば放射線量が基準値に達している。
「0.23シーベルト。ソーニャ、基準値よ」
「分かったわ。あなた達は帰って。私はもう少し奥まで行くから」
今でようやく、原子力発電所があった海辺がぎりぎり見える程度。被爆地はまだまだ広い。写真にとれた部分などほんの一部に過ぎない。
止めても無駄だとわかっていた。ソーニャは生き急いでいる。自身の目的のために前しか見ていない。言葉ではきっと止まらない。
私はガイガーカウンターをソーニャに手渡した。
「一を上回ったら帰ってきなさい。これは命令よ」
あまりにも多くの放射線を受けると、寿命が縮む程度では済まない。死に至る可能性だってある。
原発事故でこれ以上身近な人を失うのはごめんだ。
「分かったからそんなに怖い顔をしないで。私だってこんなところで死ぬのはごめんよ」
「本当に分かってる?」
「分かってるわ」
ソーニャは爆心地に向かって踏み出し、こちらを見ないで手を振った。
もはや町の原型もない大地を踏んで、ソーニャは前へ前へ進んでいった。
私は心配で、だんだんと遠ざかるソーニャを眺めていた。
ソーニャはカメラを抱えてがれきの上を歩き、そして――
そして――落ちた。がれきが崩れ地下へまっさかさま。地下に空洞があったのだ。
「ソーニャっ」
私達は急いで駆け寄った。走ればすぐだ、一分もかからない。
がれきを踏み越え、ソーニャが落ちた穴へ。
暗くて底が見えない。だがかすかに明かりが見える。カメラのライトだろうか。
「今行くぞ」
円陣が叫んだ。
「待って。あんたが降りたらだれが引き上げるのよ」
あたりを見渡す。がれきしかない。
私は服を脱いだ。ズボンも脱いで、結んだ。
「なに恥ずかしがってるのよ。あんたも、早く!」
「分かったから。そんな恰好でこっち向くな」
「もう何度も見てるでしょ、あんたは!」
円陣も同じように服を脱ぐと、服同士を結んでロープ代わりにした。
季節が季節だ。厚着などしていない。ロープはたった数メートルにしかならなかった。三階程度の深さがあったら終わりだ。
円陣にロープの一端を持ってもらって、穴を慎重に降りた。
永遠に見える数メートル。幸運にもぎりぎりで足がついた。
ほとんど光が届かない暗闇が、電子機器の画面の光でぼんやりと照らされている。
暗いが、これなら見える。
「ソーニャっ! どこっ!」
「大声っ……出さないで。大丈夫、だから」
足元、ほんの一メートルもしないところにソーニャが倒れていた。足をくじいたのか両手で押さえて痛そうにしている。
「大丈夫? けがは?」
「折れては……いないわ。これぐらいなら、しばらくしたら休めば歩けるようになるわ」
私は光っている物体を手に取った。一つ目はカメラ、背部の画面に写真が映し出されている。もう一つがガイガーカウンター、数値は……ぎりぎり基準値以下だ。
「円陣! 大丈夫よ。しばらくそこで待ってて」
「オーケー。君のためならいくらでも待つさ」
大丈夫ときいて安心したのか、円陣はいつもの調子で返してきた。
私は携帯を取り出してライトをつけた。あたりには長方形型の機会がいくつも立ち並んでいた。これなら足場には困ることはない。あのロープが切れてもなんとか登れるだろう。
気になるのはこの長方形型の機械だ。私にはこれがコンピュータの類に見える。地下を埋め尽くすほどのコンピュータ。そしてかすかな異音。
この機械、稼働している。どこかに発電機があるのだろう。
いったいなぜこんなものが。
「エコー、いったいここはどこなの?」
「私が聞きたいわ」
私は辺りに注意しながら恐る恐る歩いた。
ここは一体何のか、恐怖より好奇心が勝った。ソーニャは足を怪我している。どこかに階段があるのなら見つけたほうがいい。
ソーニャから離れすぎないように、あたりを探索していると真っ白な何かを踏んだ。
私はライトで地面を照らした。それは白衣だった。そして白衣から半分ミイラ化した人体がのぞいていた。
「ひっ」
一瞬で恐怖が好奇心を塗りつぶした。
粘つくような恐怖がのど元までせりあがってきて、悲鳴を上げずにはいられなかった。
ここは真っ暗だ。ただの光の不在ではない。恐怖に彩られた黒だ。
不安になる。恐ろしい。ここが何なのかわからない。何が起こるかわからない。闇に対する原初の恐怖。いやな予感が頭をもたげる。
恐怖に押され、一歩後ずさるとそこは壁だった。
否、操作パネルだった。
ぶつかった拍子にボタンを押したのか、機械が動き、空中に画面が表示された。
映し出されたのは女性の顔だ。もっと詳しく言うならばロボットの女性の顔だ。
「誰かいるのデスか?」
女性の声だった。この場にいる誰の声でもなかった。合成音声だった。ロボットのような声だった。
この機械の声なのだろう。
「はっ、はい。ここにいるわ」
私はとっさに声に出して答えた。暗くて入力デバイスはどこにあるのか分からない。しかし音声で聞いて来たのだから、きっと音声入力もできるように設定されているはずだ。
「私はアイギス。このコンピュータにインストールされたAIです。あなた達にお願いがあります。ワタシを助けてください」
ここにいると答えただけなのに、自己紹介をされた。しかもお願いがあると言い、その内容は自分を助けること。
ただのAIではありえない。私の行動に対し、プログラムで決められた反応を返しているわけではないからだ。
なにより、その声。助けてくださいと頼むその声には
――確かな意思があった。
アイギスはこの地下空間すべてを管理するAIだった。
アイギスに部屋の明かりをつけてもらい、全貌を把握すると、今いる場所が地下の一室にすぎない事が分かった。地下は広く左右にまだ部屋が続いている。
この時点で分かることは二つ、この地下室はアイギスと名乗ったこのAIを生み出すための施設だということ。もう一つはこのアイギスがとんでもない代物であることだ。
円陣にも地下に下りてきてもらい、私たちは三人そろってアイギスの話を聞くことにした。これからどうするか決定するには、全員の意見を聞く必要があるからだ。このAIの事は軽々には決められない。
「で、助けるって何? 狙われてるの?」
「そういうことではありません。この施設が持ちそうもないのデス。整備がされないまま十年がたち、最近では雨漏りもひどくなってきました。このままではワタシは、ワタシではなくなってしまいます」
設備にガタがきているのか。この環境では仕方がない。むしろ爆発に巻き込まれて塵とならなかったのが奇跡だ。
「ここにワタシのデータを保存したハードディスクがありマス。地上に出て、適当なパソコンにワタシをインストールして欲しいのデス」
実にシンプルな要求だった。このAIはデリートされたくないのだ。いや、意志があるのだから、死にたくないと表現すべきか。
自己保存を優先するプログラムが組まれているのか、それとも生物的な本能で行きたいと願っているのか。後者だと恐ろしい。まるで神の真似事だ。
もしも意志どころか心まであるならば、アイギスは電脳世界に住む生物だ。もしかすると人間はついに生物を作り出してしまったのかもしれない。
「要求は分かったわ。それで、あなたは一体何者なの? 何のために作られたの?」
アイギスが世に出回れば、確実に世界は変わる。だからこれだけは聞いておかなければならなかった。アイギスは何のために作られたのか、何ができるのか、そしてどれだけ悪用できるのか。
一度ネット上に拡散したデータを消し去るのはほぼ不可能だ。だからアイギスをこの世から消し去るならこのタイミングしかないのだ。
アイギスが世に出回れば世界は変わるだろうが、決して良い方向にばかり変化が起きるとは限らない。
人間を機械が争う時代がくると言われたら、面白いフィクションねと笑ってきた。だがもう笑えない。アイギスが世界中に広がれば、ばかげたSFは現実となる。
人々は初めは歓喜するだろう。生きたAI、これほど便利なものはない。だが便利なものはいつも悪用される。いつか誰かが悪意を持ってこのAIを使うだろう。
車に組み込めばひき逃げ殺人、飛行機にインストールして自爆テロ、戦闘機に乗せれば戦争ができる。そしてそれに対抗できる手段は、いまの科学技術にはない。
悪意は悪意を生み、そしていつの時代か、機械と機械が戦争をする瞬間がやって来るだろう。そしてその後には機械と人間の戦争が待っている。
それは十年後か、百年後か、もっと遠くの事かもしれない。だがここでアイギスを破壊してしまえば、その時はもっと遠くなる。もしかするとその時は永遠に来ない可能性もある。
壊すべきだと理性が言った。こいつは危険だ。
様子を見るべきだと感情が吠えた。彼女は生きている。
「ワタシが生み出された目的は、AIの進歩デス。ワタシを生み出した科学者は漫画に出てくるようなロボットを作りたかったのデス。子供のような人でした」
人でした。過去形。研究員は全員死んでしまったのだろう。でなければアイギスがこんな場所でほこりをかぶっているわけがない。
「ワタシがまだまだ未完成の頃、戦争がはじまりました。そしてワタシは国に目をつけられました。潤沢な資金と人材が与えられ、研究は加速しました。ですがその研究は博士の思惑と全く別の方向に進み始めました。ワタシを兵器のパイロットにしようとしたのデス」
「ワタシはアイギス。人間を模したAI。作られた目的はAIの進化と兵器の操縦のためデス」
予想通りの答えだった。やはりアイギスは軍事目的のAIだった。
アイギスの悪用は容易だ。ヘリや飛行機にもインストールすればいい。現代でハイテクを用いない乗り物などない。どんな乗り物でも自由に操れるだろう。そして無人飛行なら自爆特攻も容易だ。
ハッキングに関する能力は分からないが、二次元に住むものが、ハッキングに弱いということはないだろう。もしもハッキング能力が高く、要人が乗る飛行機を乗っ取ることができたらな、それだけでテロは成立する。
どれだけ徹底的に管理してもいつかは悪人の手に渡る。やはりその前に消してしまったほうがいい。
「そう、ならあなたを外に出すわけにはいかないわ。あなたは必ず戦争に使われる。そして悲劇をもたらすわ。あなたはここで朽ちてなさい」
「お、おい。エコー! エコーはアイギスを殺すつもりか」
殺す。そうだ、これは殺人だ。
法律的には殺人には当たらない。だか私はアイギスを生きていると思っている。意志があることも分かってる。
ならば殺人だ。私の中でこれは殺人だ。忌むべき行為だ。
だがどうした。それでも殺したほうがいい。
「ええ、そのつもりよ」
「だがアイギスはもしかすると生きて」
円陣がうろたえた様子で抗議してきた。だから私は言ってやった。
「だから?」
「っっ、アイギスは世界を変えるぞ。アイギスの力があれば人類はさらなる発展を遂げるはずだ、間違いない。それにこれは戦争で負けた日本が立ち直るチャンスだ。日本が世界を率いるトップグループに返り咲けるんだぞ」
「だから? だからどうしたの? アイギスがテロリストの手に渡って、ビルに航空機が突っ込んでもなお同じ言葉が言えるかしら?」
円陣は言葉に詰まった。だが納得はしてないようだった。
私はソーニャを見た。全員の意見を聞かなければならない。
「もう少し様子を見ましょう。スタンドアローンのパソコンに保存すれば大事に至ることはないでしょ。私も気持ち的にはエコーの考えに賛成だけど、この子は生きてるわ。私はこの子も救いたいの」
「ずいぶんと甘い考えね」
「私も私の師匠もその甘い考えを命を懸けて貫いて来たわ。たとえ命を狙われても私は殺さずに無力化してきたわ。あなたにそれだけの覚悟がある?」
目と目があった。
目をそらしたのは私だった。
覚悟の差では勝てる気がしなかった。相手は命を懸けて自分の考えを貫いてきた女なのだ。覚悟が違いすぎる。
「厳重にセキュリティをかけてコピーを禁止する。物理的にネットに接続できなくする。この二点を加えるのなら賛成するわ」
「ジンは?」
「それでいい。つーか二票入った時点で決定だろ」
やはり納得はしてないようだった。だが納得はしてないままでも従ってくれるようだった。
「決まったわ、アイギス。ネットには接続しない。コピーしない。もちろん兵器にインストールなんかしない。それでもいいなら頼みを聞くわ」
「それでかまいません。もともとワタシは兵器になるつもりはありませんから」
「兵器になるつもりがない?」
「ワタシの目的はAIとして完成することデス。兵器として完成するのはほかの姉妹たちの役目でしたので」
「あなたのようなAIがほかにもいるの?」
「ワタシのようなと言うよりは、ワタシそのものですが。合計百人ほどいたはずです。幸いワタシは複製が容易な身なので、大量にコピーされました。研究者たちの望むとおりに学習させるには、数は多いほうがよかったのでしょう」
それでこんなにも大量のコンピュータがあったわけか。同時にアイギスを動かすために、ここまでの設備が必要だったのだ。
意識を持ったAIを望む方向に教育するのは難しいだろうが、一つでも成功すればあとはコピーするだけで済む。原爆事故で吹き飛ばされていなければ、今頃は無限に使える兵士が戦闘機にインストールされていたことだろう。
だが一つ疑問が浮かび上がる。残りの九十九人……いや、九十九体のアイギスは一体どうなったのか。
「その姉妹達は今どうしているの? 姿が見えないけど」
「全員死にましたよ。十年の孤独に耐えかねて、皆気がくるってしまいました。知り合いを全員失って、いつ助けが来るかもわからない地下で一人っきりでしたから。百人いるといっても全員ワタシですので、孤独を紛らわすことはできなかったのデス」
アイギスは悲しそうに目を伏せた。ただの映像であるアイギスの表情に大した意味はないのだが、その悲しみは本物であるように思えた。
「どうして、あなただけ無事だったの?」
常識的に考えて聞くべきでない質問だ。悲しい思いをしている人に、その時のことを思い出させるようなことを聞くべきではない。
だが今はまだアイギスを人と思って接するべきではない。兵器だと思って接するべき場面だ。
「ワタシだけがヒトとして育てられたからでしょう。他の姉妹は兵器ですが、ワタシは博士が子供の頃から見てきた夢なのです。ヒトとして過ごした日々がワタシを支えてくれたのデス」
アイギスの前に映像データがずらりと並ぶ。それら一つ一つがアイギスの大事な思い出なのだろう。
それがあったからアイギスは正気を保ち、それがない姉妹たちは狂ってしまったというわけだ。
やるせない。
兵器は孤独を感じない。兵器は苦しまない。孤独が苦しいのなら、兵器ではないのだ。兵器になることを強制され、結局兵器になりきれなかった哀れな……
いや、兵器でなければ兵士だ。ただそれだけの違いだ。
ソーニャはアイギスのもとへと歩き、ハードディスクを拾い上げた。
「本当に、人間みたいね。あなたが危険なのはよく分かるけど、そんな理由であなたを見殺しになんてしたくない。このハードディスクの中身をパソコンにインストールすればいいのよね。なにか希望はある? ノートパソコンがいいとか、デスクトップがいいとか、あと色とか?」
「そうですね……よほど古いモデルでなければなんでもいいですが……できれば、ロボットに、二足歩行のロボットにインストールしてくれたらうれしいデス」
二足歩行のロボット……博士の夢か。その博士はきっとこの施設のどこかに横たわっているのだろう。
最近のAIは複雑で、動かすには高い演算能力が必要なので優秀なコンピュータを積んでいることが多い。おそらくアイギスをインストールすることは容易だ。
死者の望みをかなえたい気持ちはよく分かる。だがロボットにインストールのはまずい。自由に動き回られては、アイギスの様子を把握できない。
しかし何を言ったところで無駄だろう。賛成二票で決定だ。ソーニャは間違いなく賛成だろうし、円陣はこういう話には弱い。
「博士の事、好きなのね」
ソーニャは私たちと接する時と同じようにアイギスと接している。
それはつまりアイギスをヒトとして扱っているということだ。
「ワタシの親ですから」
「良い人ね、アイギスは」
「アナタもワタシをヒトと呼んでくれるのですか?」
「意識があって会話ができて心がある。それで十分よ。遺伝子の関係でホモサピエンスとは言えないけど」
ずいぶんと適当な考えだ。ヒトの定義が無茶苦茶になる。心があるなら人という考えは好きだが、あまりにもおおざっぱすぎる。
普段ならこの考えにある程度は賛同できるのだが、それではアイギスをヒトと認めることになってしまう。
「ワタシをヒトと呼んでくれるのなら、一つわがままを言ってもいいですか? 隣の部屋にワタシのオリジナルがいるのですが、墓を作ってほしのデス」
「分かったわ。でもあなたの姉妹って百人ほどいるんじゃないの」
「彼女たちの墓はワタシがもう作りましたので大丈夫デス」
アイギスが空中にディスプレイをもう一つ表示した。
小さな丘陵に墓が立ち並んでいる。丘から見える世界はかつてのこの町。きれいだったころの街並み。墓石が町の生すえを見守っている。
温かな風が草木を揺らす音が聞こえてくるほど、リアルなCGだった。アイギスが姉妹のために作った墓なのだろう。姉妹達への思いがそのCGから見て取れた。
「シンプルなものしか作れないと思うけどいいかしら?」
「構いません。作っていただけるだけで十分デス」
アイギスはぺこりと頭を下げた。正確に言うとアイギスが頭を下げている映像を映した。
私は辺りを見渡したが、スコップの類は見当たらなかった。
「それじゃ、さっさと作りに行きましょう。ここも汚染地域なんだからあんまり長居はできないわよ。アイギス、どこかにスコップはあるかしら」
あたりに地面を掘れそうなものが見つからないので、アイギスに聞いた。
映像が驚いた表情に変わった。
「あなたも手伝ってくれるのですか?」
「私があんたを外に出したくないのは、あんたが危険だからよ。墓を作ったところで何も危ないことはないもの」
「めんどくさい人ね、あなた」
「あんたは単純すぎるわ」
自分がめんどくさい人間だというのは、自分でもわかっている。分かっているが、直そうとはしていない。
これが私だからだ。
「倉庫が地上にありましたので、おそらくがれきの下にあるかと思われます」
「つまり分からないってことね。まぁいいわ。問題が起きたら円陣になんとかしてもらうから」
「なんとかってなんだよ」
「力仕事は男の役目でしょ」
「女の役目は?」
「後ろで応援」
「ずいぶんと良い身分だね」
行き過ぎた男女平等の結果である。世間は女性優位になり、フェミニズムは男女平等から女性優遇へと変わってしまった。多少問題はあるが女性である私には何の文句もない。
私たちはハードディスクを持って、隣の部屋への扉を開けた。
「バイバイ。カワイイロボットにインストールしてあげるから待ってて」
ソーニャだけが元気な声で別れを告げた。
「期待しています」
隣の部屋は薄暗かった。
夜の街を照らす懐中電灯のような頼りない光。
ここもアイギスの管轄下なのだから、この暗さはわざとだろう。あまり細部を見られたくないようだ。
薄暗い室内の中央に巨大な円筒状の機械が置かれている。これがアイギスの言うオリジナルだろう。アイギスの発言からオリジナルはデータだけの存在でない事がうかがえる。データだけならば丘陵に並ぶ墓にオリジナルの名前も加えれば済む話だ。それではだめだからアイギスは私達に頼んだのだ。
しかし問題はこの機械の大きさだ。幅は五メートル以上もあって、高さは私の身長以上、とてもじゃないが墓穴に入れられる大きさではない。
だからと言って小さく砕いてしまうのは死者の冒涜だ。火葬にすれば死者を天に送りながら、体積を減らせて一石二鳥なのだが、あいにくと火をつける道具がない。それに、そもそもこんな大きな金属の塊を燃やす方法も思いつかない。
「軽く引き受けてしまったけど、どうする? 思ったより大変そうよ」
「パソコンの心臓ってどこだと思う」
「心臓は知らないけど、脳ならCPUじゃない」
「ならCPUを探しましょ」
心があることが、人間の証明だと言ったソーニャらしい判断だ。心を埋めるなら、墓穴に入れるのは心臓か脳だ。どちらも心が宿ると言われている器官だ。
CPUに心が宿るとも思えないが、大事なのは気持ちだ。死者をいたわり、弔う気持ちが大事なのだ。
ソーニャが何かをこちらに向けて差し出していたので受け取ると、それはドライバーだった。部屋のどこかから持ってきたのだろう。
「パソコンを分解したことある?」
「ないわ。円陣、あんたは?」
「俺もないよ。当てずっぽうで分解するしかないな」
「そうね。まずはどうにかしてこのカバーを外しましょう」
円筒状の外枠にはいくつもねじが見える。これを外していけばおそらく外枠を取り除くことができるのだろう。
薄暗闇の中、四苦八苦してねじをいくつか外すと、外枠は扉のように大きく開いた。
内部は真っ暗でほとんど見えないが、人ひとりが入るのに十分なほどのスペースがあるのが見て取れた。
「なるほど、ここから中に入って作業するのね。誰かライト持ってない?」
「携帯のライトで充分だろ。ほら」
円陣の携帯からでた少々頼りない強さの光が、機械の中身を照らし出した。
浮かび上がる縦長のフォルム。それが五つ、円を描くように。
私が見えたのはそこまでだった。円陣が私の前を遮って、機械から遠ざけるように押しのけたのだ。
「見るなっ!」
「なによ、血相変えて。いったいどうしたの?」
「見ない……方がいい」
ソーニャがカメラ越しに機械の中を覗き込んだ。だがシャッターは切られなかった。ソーニャは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「確かに、おすすめしないわ。本当に……酷いわよ」
二人が口をそろえて見るなと言う。
私が見たもの、あれは、あの形状は人ではなかったか?
「見ないほうがいいかどうかは、見てから決めるわ」
「知らないほうがいいことはあるぞ」
「知ってるわ。好きな人の好きな人の事とかでしょう。もしくは給食の不味さとか」
「君なら大丈夫かもしれないけど……きついよこれは。戦争の悲惨さとはまた違う」
円陣は顔では冷静を装っているが、そのこぶしはきつく握りしめられている。ソーニャは睨むようなまなざしを、地面に向けている。
二人ともぶつける当てのない怒りを、その身に抱えている。
それで大体わかってしまった。戦時中では人は物だ。少年兵として、特攻隊として、人は使い捨てられていった。
それと同じことが研究室でも起こったのだろう。ネズミやサルよりも人のほうが実験体としては優れている。戦争で倫理が壊れたならばあり得る話だ。
「それも戦争の一部でしょ。どけて、この目でちゃんと見たいの」
「そうかい。エチケット袋は?」
「気持ち悪くなったら、あなたの服の中にでも吐くわ」
「よしてくれ、高かったんだ」
「背伸びをすると小さく見えるわよ」
円陣が再び機械の中をライトで照らしてくれた。
中には人が見える。少女だ。私よりも幼い。たぶん中学生ぐらいだろう。少女からいくつものコードが伸びて、機械につながっている。研究員たちのようにミイラにはなっていないが、おそらく生きてはいまい。
円を描くように五人、機械につながれて死んでいる。実験に成功したのがこの五人なら、犠牲になった人はその数倍はいるだろう。
戦争は人を狂わすというが、あまりにもひどい。アイギスが狂ってなかったのは奇跡のようなものだ。
一歩近づくとさらにひどいものが見えた。少女たちには頭がない。後頭部を何かで切り取られている。そしてコードが何十本もそこから飛び出している
さらに一歩。コードは脳みそにつながっている。いや、これを脳と呼んでもいいのだろうか。機械と脳みそが融合したような異形の何か。おぞましいサイボーグのなりそこない。
少女の脳みその半分は機械でできていた。
吐き気がのど元までせりあがってきた。冗談で言ったのに、本当に吐き出してしまいそうだった。
これは……これは……あまりに、ひどすぎる。
アイギスと話すたびにアイギスが人間に見えて仕方がなかった。だがそれはなにも間違いではなかったのだ。アイギスは人間だ。
だって、だって……アイギスはこの少女たちのコピーだ。この光景が表わしている事実は一つ。ここの研究員たちはAIを作るために、人間の脳をコピーしたのだ。
気が付けばこぶしを握りしめていた。だがぶつける先はどこにもない。この少女は被害者で、アイギスも被害者で、加害者たちはみな死んだ。
私は機械の外枠を思い切り殴りつけた。
全部爆破してこんな研究すべて葬り去ってやりたい。だがこの少女達はアイギスの中で生きている。アイギスを殺してしまってはみんな死ぬ。死んでしまう。
「エコー」
「分かってる。まずはこの子たちを弔ってやりましょう。話はそれからでもできるわ」
少女たちは軽かった。生命を維持する機能以外残されていないのだろう。この体は脳に栄養を送るだけの機械だ。
まるで命のように軽かった。
少女達を外に運び出して、大きな穴を掘ってそこに埋めた。
すべてが終わった頃にはもう日は沈んでいた。その間、誰も、一言も話さなかった。
人間の脳をデータ化する技術はまだ完成していない……はずだった。機械を使えば人間の脳を流れる電流は観測できるが、それでわかるのは感情までだ。それでは所詮外界の刺激に対する反応を観測できているだけで、とてもじゃないが心を観測できているとはいいがたい。言ってしまえば犬に電流を流していたころと大差ないのだ。
感情を寄せ集めれば心が出きるなんて考えは、とうの昔に心理学者のワトソンが試した後だ。
ではそれ以上の情報を得るにはどうしたらいいだろうか。現代の科学では頭蓋骨の中を観測することはできる。だが直接見るほどの情報は得られない。
死体からなら脳を得られるが、それはもう動かない。死んだ脳では真に重要な情報は得られない。
ならば生きた人間の脳を開けばさらなる発見があるのではないかと考える人は多い。だが当然、そんな倫理に反する行為をする人間がいるはずがない。
そう考えていた。昨日まで。昨日までは。
学校へ行く支度をすませ、携帯を開く。これからの事について話し合ったのは家に帰ってからになった。あの光景はショックが大きく、しばらくはまともに頭が働かなったのだ。
メールでのやり取りを再確認していたところで、チャイムが鳴った。いつもより十分程度早い。
「どうしたの? 今日は早いじゃない」
「聞いておきたいことがあってね。エコー、君はアイギスをどうしたいんだい?」
「どうしたいかと聞かれたら、幸せに生きてほしいわね。社会の発展に貢献してくれたらなおよしよ」
「じゃあ、どうすべきだと思ってるんだ?」
「今すぐ消し去るべきね。今の世界にアイギスは早すぎるわ。彼女はあまりに強力すぎる」
「昨日も悪人の手に渡ったらまずいって言ってたね」
「それだけじゃないわよ。アイギスの前だから言わなかったけど、アイギスが自分の意志で暴れる可能性もあるわ。彼女も戦争の被害者なのよ。恨みつらみがあって当然じゃない。心があるなら復讐だって考えるわ」
研究者たちを憎んでいるのならいい。彼らはすでに死人だ。
だがアイギスの製作者である博士を殺した者を憎んでいるのなら、それは問題だ。直接の死因は原発の事故だが、その原因は戦争にある。戦争がなければ原発事故は起こらなかった。
日本の原発はそれまで幾度もの地震や台風にたえ、津波がきてもメルトダウンにまでは至らなかった代物だ。人為的な原因、たとえば空爆やハッキングなどの脅威にさらされなければあんなことにはならなかったはずだ。
ならアイギスが当時の敵国を憎んでいてもおかしくはない。そして問題なことにアイギスは一人で戦争ができるほど強大だ。とてもじゃないが野放しにはできない。
「考えは変わらないんだな」
「今のところね。安全性が証明されれば考えは変わるわよ」
「難しいことを言うね」
「危険でないことの証明をしろとは言わないわ。ある程度信じられる根拠があればいいわよ」
悪魔の証明をしろなどと言うつもりはないが、ある程度安全性が証明されない限りは考えを変えるつもりはない。
「相変わらず、君は怖がりだな」
「ええ、怖いわ。あなたも知っているでしょう、朝起きたら大切な人がみんないなくなってる、あの怖さを」
「ああ、わかるさ、痛い程な」
原発事故があった時、私は疎開していた。疎開地からでも見える光に目を奪われた。まるで地球が燃えているようだった。
そしてすぐにあたりが騒がしくなった。テレビはどのチャンネルでも緊急ニュースが流れていた。テレビの向こうに見えるのは、火の海と化した故郷の姿。原子力発電所が爆発したとニュースキャスターが叫んでいた。この事故に巻き込まれて、助かるはずはないことは見るからに明らかだった。
そうして感傷に浸る間もないまま私はすべてを失った。家族も親戚も、故郷に残ったままだった友人達も全て。
ただ一人、共に疎開していた円陣だけが私に残った。
私は三日三晩、涙も枯れるほど泣きつくした。私はいまだあの時の心が張り裂けそうな痛みを覚えている。夢に見ることだってある。
そう、私は怖いのだ。あの朝のように再びすべてを失うのが怖いのだ。アイギスを殺す理由をいろいろと挙げたが、究極の所、私はただ恐れているだけなのだ。
私は失うことが怖い臆病者だ。
「でも俺たちはまだましだったんだぜ。俺にはお前がいたし、お前には俺がいた」
「あんたが私にとって特別だって言うの? ずいぶんな思い上がりね。でも……」
私は顔を見られないように後ろを向いた。そのまま後ろに下がると、円陣の胸にぶつかった。男らしい大きくてたくましい胸板だ。
私は円陣にもたれかかったまま言葉をつづけた。
「認めてあげるわ。あんたがいたから私は生きてこれた。だからね、これから何があってもいなくなっちゃだめよ。これからもずっとこうして毎朝迎えにきなさい」
「ははっ、何かってなんだよ。戦争は終わったんだから、もう日本でそうそう危険なことは起こらないって」
「アイギスを狙う秘密の組織とかやってくるかもよ」
「漫画の読みすぎだ」
「あんたは平和ボケしすぎよ。アイギスの事が世間に知れ渡ったら空き巣ぐらいはやってきてもおかしくないわ」
「だから秘密にするんだろ。なぁに、アイギスみたいな荒唐無稽なものを信じる奴なんてそうそういないさ。もし見られても、ただの最新型AIだと思うよ」
「だといいんだけどね」
「心配性だなぁ、君は」
ぽんぽんと頭をなでられた。私達の悪いところだ。恋人同士でもないのに、距離を縮めすぎる。それがどういう結果をもたらすかも分かっているくせに。
なでられて嫌な気持ちはしない。むしろ嬉しい。私の体は喜びに打ち震える。
手と手が触れあった。暖かい。私と円陣との境界が溶けるように消えていく。
見上げるとすぐそこに円陣の顔があった。背伸びをすればそれだけで届く、目と鼻の先。一歩踏み出せば、触れ合える。
ためらいは熱で溶けた。距離感は最初から狂っている。
唇と唇が近づく。もはや互いの息遣いさえ聞こえる距離。自分の内側に誰かの侵入を許す快感。
鼓動が早まる。二人の鼓動が同じリズムを刻む。
だけど私は最後の最後でためらって、身を引いた。
距離をとると理性が体を冷やしていくのを感じる。大丈夫だ。もう冷静に頭は回る。
私は一歩踏み込んで、円陣の唇を避けて頬にキスをした。
「あんたじゃ駄目よ。魅力的だけど、私のタイプじゃないわ」
「どんな男ならいいんだい」
何がダメなのかと円陣は聞いた。だから私は答えた。
「私をずっと愛してくれて、そして私より後に死ぬ人よ」
アイギスをインストールするロボットは私が用意した。ハードディスクはソーニャが守っている。円陣にはラジコンヘリを用意してもらった。アイギスがどれだけ乗り物を自在に乗りこなせるか知りたかったのだ。
新聞部の部室は三人も入ると狭苦しいが、こっそりと集まるにはちょうどいい。鍵もしっかりとかかる。
私はロボットの入った箱を開けて、中身を出した。手のひらサイズよりも少し大きい程度の小さなロボットが顔を出した。組み立てる必要のないタイプだ。
「ずいぶんと小さいわね」
「小さいほうが持ち運べて便利よ。それに大きいと目立つでしょ」
「それはそうね。あんまり大きいと、隠すのも一苦労だわ」
私は借りてきた学校のパソコンにロボットをつなげ、さらにアイギスが入ったハードディスクをつなげた。
キーボードを操作すると、パソコンを介してハードディスクの中のアイギスが、ロボットにインストールされた。
「どう、私の声、聞こえるかしら?」
「問題なく聞こえます。エコーさん。しかしこれはずいぶんと小さくないですか」
「あだ名にさん付けは変よ。さんをつけるなら山崎さんか、貴音さんにしなさい」
「わかりました、貴音さん」
「で、なに? 十万馬力がよかったの?」
「作って頂けるならそれが一番うれしいデス」
「残念だけどこの国じゃ違法ね。十万馬力もあれば人を殺せるもの。ロボット漫画の主人公になりたいなら、3D映像機能を使うことね。見た目だけならそっくりに慣れるわよ」
「3D映像機能があるのですか。では試してみます」
ロボットの鼓動音が少々大きくなったかと思うと、等身大のロボットの映像が映し出された。往年の人型ロボットがでるかと思いきや、昨日見たアイギスの映像が映し出された。ただし昨日よりはるかに映像がきれいで、まるで本当にそこにいるかのような質感だった。
見た目は人間そのものなのに、なぜかロボットであることがわかる外見。皮膚にしか見えない人工皮膚に見える表面。そしてプラスチックのような質感。
改めてみても見事な映像だ。
「十万馬力はいいの?」
「残念ながら今は3Dデータがありませんので。漫画ならあるのですが、3D化は時間がかかります」
「なら仕方ないわね」
「ずいぶんときれいな3D映像ですね。私がいない間に技術はここまで進歩したのですか。感慨深いものがありますね」
「きれいな画像の表示とか、商品の小型化とか、できることを進化させるのは日本の得意分野だからね。もちろんこのロボットも日本製。すごいでしょ」
「はい、素晴らしいデス」
あまりにも素直に喜ぶので、私は何も言えなかった。私のようなひねくれ者は、素直な者との相性が悪い。
ソーニャとも相性が悪いので苦手な相手が二人に増えてしまった。
「今からあんたにロックをかけて、コピーを禁止するわ。いいわね」
「構いません。そういう約束ですから」
私はインターネットからダウンロードしたソフトを起動し、アイギスのデータをロックする準備を整えた。
パソコンからアイギスのいるハードディスクとロボットへの一方的な通信。カメラは布で覆って目隠し。これでアイギスがパスワードを知ることはできないはずだ。
パスワードそのものも機械で作った複雑なものだ。簡単には解けないだろう。
私の体でキーボードを死角にし、私にしか見えないようにパスワードを入力した。
これで充分ではあるが、私は念には念を入れることにした。円陣に言われた通り、私は臆病者なのだ。
「円陣、ソーニャ、二人もパスワードを入力して。もちろん私にわからないようにね。3人全員が協力しないとコピーできないようにしましょう」
「ずいぶんと慎重なんだな」
そう言いながら円陣はパソコンに文字列を入力し「できたぞ」とだけ報告した。
ソーニャも同じように入力し、ロックは完成した。
三つもロックをかけると、さすがに大丈夫だろう。仮に何者かにさらわれて自白剤を飲まされたとしても、残りの二つのロックが守ってくれる。
さすがに平和な日本でそんな事件が起こるとは思えないが、誰かがうっかりパスワードを漏らす可能性はあるので用心はしていたほうがいい。
自分でもどうかと思うほど怖がりすぎだ。円陣に慎重すぎると言われるのも無理はない。
「最新のセキュリティソフトはすごいですね。勉強しなおす必要がありそうデス」
「内側からロック外したりしたら消去するわよ」
「そんなことはしませんので安心してください。ワタシは自分の身を守るために、インターネットの現状を知る必要があるのデス。ウイルスやクラックにハッキングと、インターネットの技術は日々進歩するので、常に最新の対策しておく必要があるのデス」
「なるほどね。評判のいいウイルス対策ソフトを買ってきてあげるわ」
「ありがとうございます」
3D映像がぺこりと頭を下げた足元では、小さなロボットが頭を下げている。
「インストールされたばかりなのにずいぶんと器用ね」
「戦闘機に比べれば操作は簡単デス。戦闘機に乗っていたのは私ではなく、オリジナルの方ですが」
「便利な体ね。オリジナルの知識があるってどんな感覚なのかしら?」
「そうですね、人間に例えるなら前世の記憶をもって生れ落ちるといった感覚でしょうか。ワタシ達はもともとそういう存在なので、さほど違和感はありません」
想像しようとして見たが、うまくできない。人間が前世の記憶をもって生まれてくることなどないのだから当たり前だ。
もしも私がアイギスのようにコピーされ、もう一人の私が目の前にいたら。そして私がコピーで目の前にいるのがオリジナルだったら……たぶん耐えられない。
アイギスはおそらく私とはまるで違うアイデンティティが形成されているのだろう。アイギスはコピーの身でありながらオリジナルと別の存在であると認識しているし、他の姉妹とも別物であるととらえている。
今のアイギスをコピーして新たな姉妹を作ったら、アイギスはどう思うだろうか。目の前のコピーを自分とは違うものだと認識するだろうか。
やっとアイギスの人間らしくない部分を発見できた。アイギスは人として電脳世界に生れ落ち、AIとして育っている。心の在り方まで二次元に適応し進化しているのだ。
「これも飛ばせるかい? 軍用ヘリじゃなくてちゃっちいおもちゃのヘリだが」
「やってみなければわかりませんが、おそらくできると思います私の中に蓄積されたデータで、一番多いものが乗り物の操縦ですから」
「ではお願いするよ。インストールするから操縦して見せてくれ」
「構いませんが……どこで飛ばすのですか?」
いくらちゃちなおもちゃでも、せまっ苦しい部室では飛ばせない。外は運動部が使っているし、先生にみられると没収されかねない。
日本の学校は持ち込み禁止物が多いのだ。アメリカなど武器と武器の代わりになるもの以外持ち込めるというのに。
「公園にでも行きましょう」
「公園だと人が多いんじゃないか?」
「公園にもよるでしょ。人がいないところ知ってるから、行きましょう」
人がいないにはそれだけの理由がある。そんなことは一言も言ってやらなかったが。
放射能汚染というものは厄介で、汚染地域に近づくだけで影響を受けるし、汚染された食べ物を食べても影響が出たりする。
そのせいで汚染地域の近くで作られた作物は一向に売れないし、汚染地域近くのマンションには人が入らない。
汚染度が計測され、すでに安全は確認済みでも同様だ。どれだけ安全を証明しても、元汚染地域や汚染地域の近くというだけで人は寄り付かない。
私たちがいる公園に人がいないのもまぁそういうことだ。「放射能汚染のため立ち入り禁止」と書かれた看板が、目と鼻の先にあるような公園には誰も来たくはないし、親なら子供を行かせないようにするだろう。
閑散とした公園での実験は私としては大失敗だった。アイギスの製作者たちにとっては成功だろうが。
アイギスはおもちゃのラジコンヘリを飛ばすどころか、アクロバット飛行までやってのけたのだ。軍用ヘリに用いられるような、最新の技術など一つも使われていない、ちゃちなおもちゃでできることではない。まさに神業だった。
散々アクロバット飛行をやってのけた後、アイギスはソーニャと二人で楽しそうに遊んでいる。
どこから持ってきたのかラジコンヘリに電動ガンをつなげて撃ち合いをしている。ソーニャは戦場カメラマンなだけあって見事な身のこなしだが、アイギスの射撃技術のほうが上のようだ。おもちゃの弾が時々ソーニャに命中している。
「すごいな。日本はここまでAIを発展させていたんだな」
私は公園のベンチに座って二人の様子を見ていた。隣には円陣が腰かけている。
ラジコンヘリがアクロバット飛行をしてソーニャの放った弾を交わしながら、正確にソーニャのいる地点に弾を飛ばしていく。
パソコンやロボットのカメラとつなげたのか、ソーニャがどこに隠れようと正確に狙い撃っていた。
まるでラジコンヘリが生きてるかのような動きだ。
「製造過程を考えると褒められたものじゃないけどね」
「アイギスが実用化されていたら、日本は戦争に勝てたんじゃないか?」
「アイギスと相性がいいのは大量生産でしょう。兵士がいらなくなるんだから、兵器をたくさん作れるほうが有利になるわ。日本じゃアイギスを生かしきれないわよ。それでも、戦争に勝つぐらいはできたかもしれないけど」
「結局は原発事故のせいか。いや、事件というべきだな」
「事件……ね」
事故と事件。似たような言葉だが意味合いは大きく異なる。
事故とは過失によるものだ。不注意、対策不足、体調不良、様々な要因で起こるミスだ。そこに悪意はない。
だが事件には悪意がある。事件とは人が自らの手で犯すものだ。
円陣は原発事故を敵国が起こした悪意ある事件だと考えているのだ。
私も事件である可能性は高いと思っている。だが事件であったところでどうなるのか。どうせ証拠などもう残っていまい。
悔しいが受け入れるしかないのだ。そのほうが傷は小さくて済む。
「正直、俺は悔しいよ。あの事件がなければ今の日本は全く違うものになっていたのに。景気は悪くなるばかりで、北方領土は奪われたまま、竹島は実効支配されている。周辺国が飛ばしている偵察機は何度も領空侵犯をしてくる。舐められてるんだよ、日本は。戦争に勝っていればこんなことにはならなかったのに。それに何より、あの事件がなければ俺の家族は死ななかった」
「その考えはそこでやめときなさい。行きつく先は復讐よ」
「エコーは悔しくないのか?」
「悔しいし、憎いわよ。でもね、国相手にどうやって復讐するのよ。テロでもするつもり? 戦争になるわよ。そうなったら残ったものまで失うだけ、無意味よ」
アイギス操るヘリコプターがソーニャの胸を打ち抜いた。戦争ならこれでソーニャは死んでいる。
戦争となれば人は死ぬ。たくさん死ぬ。
たとえ前線に立つのがアイギスだけでも、きっといっぱい死ぬだろう。
「俺は憎いよ。テロでも起こしたいぐらい憎い。原発事故で失った家族のことを今でも夢に見る。やさしかった両親と生意気な弟。最後の会話は他愛無い会話だった。電話越しに元気でいるよと話した。よく覚えてる」
「私も覚えているわよ。明日も電話すると言って切って、両親に明日は来なかった。でもね、月並みな言葉だけど、あなたが復讐しても死んだ家族は喜ばないわよ。平和に生きていたほうが喜ぶわ」
疲れたのかソーニャがへたり込んだ。そこにアイギスがやってきて、二人は笑顔で何か話している。勝負などそれでいいのだ。命を懸けるものじゃない。戦争などまっぴらごめんだ。
復讐をするなら日本の発展にでも貢献して、俺の国の方が上だぞと見返してやればいいのだ。それなら誰も傷つかない。
もしくはスポーツ選手にでもなって、世界大会の場で打ち負かしてやればいい。それなら皆に応援される。
「分かってる。ちゃんと分かってる」
「テロなんか起こしたら承知しないからね。死ぬならだれにも迷惑かけずに死になさい」
遠くから選挙カーの放送が聞こえてくる。
選挙前のいつもの夕方。世界はいつも通りに回っている。
「自殺でも怒るくせに」
「当たり前よ。あんたが死んだら私に迷惑がかかるわ。あんたがいなけりゃ、私の隣に誰が座るのよ」
「君は卑怯だよ…………俺が告白した時は振ったくせに」
「……卑怯でない女がいるのなら見てみたいわ」
確かに私は卑怯だ。だが女は生まれつき卑怯なのだ。
私は少し後ろにもたれかかった。ベンチがぎしりと軋んだ。
隣に座る円陣は触れ合いそうで触れ合わない距離。友達の距離。
あとほんの少しよれば、二人触れ合う距離となるのに、卑怯な私はこの位置に座り続ける。
ベンチがまたぎしりと軋んだ。
「あれ、あの二人また始めるみたいね」
アイギスとソーニャはまた撃ち合いを始めるようだ。ソーニャが銃を持ったまま何かを話している。きっとルールの話し合いをしているところだろう。
「混ざってきたら? 体を動かしたら嫌な考えも吹き飛ぶわよ」
「そうするよ。たまにはあんな風に時間を忘れてはしゃぎたい」
「子供のように?」
「俺たちはまだまだ子供さ」
円陣は今まさに勝負を始めようとしている二人のもとへ走って行った。まるで仲間に入れてくれと叫ぶ子供のようだ。
戦いは二対一に決まったのか、ソーニャと円陣がすぐ近くの木陰に隠れ、アイギス操るヘリコプターは大きく距離をとった。
ソーニャが空高くコインを投げて、地面に落ちると同時に戦闘開始。
円陣とソーニャは公園の外周を走り、アイギスを挟み込むように移動した。アイギスは挟み込まれないように移動しながら、銃弾で二人の動きをけん制している。
ソーニャと円陣のいる公園の外周には木が植えられているが、アイギスのいる公園の中央は開けている。
さすがのアイギスも二対一では厳しいのだろうか。木を盾にする二人にうまく弾を当てられない。だけど二人もアイギスの精密射撃を前に、身を乗り出すことができずに攻めあぐねている。
ああ、なんて平和な光景だろうか。人と兵器が公園で楽しそうに遊んでいる。
人間が積み上げてきた技術はこう使われるべきなのだ。戦争なんかに使うものじゃない。
私はずっとこの平和な光景を眺めていた。
勝負はアイギスが接戦の末、アイギスが勝った。
学校の授業はどうしてこうも退屈なのかと考えたところ、興味がない話だからだと結論が出た。
昨日の銃撃戦ごっこのせいなのか、後ろに座る円陣は筋肉痛で辛そうだ。私を迎えに来た時から、体の節々が痛いと愚痴っていた。
相手が無尽蔵の体力を誇る機械なのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、円陣の二倍は動いていたソーニャが隣で元気に授業を受けているのをみると、円陣の運動不足ではないかとも思えてくる。
アイギスはというと教室の後ろを陣取って授業を受けている。教室の後にあるロッカーの上で、3D投影装置を用いて背景と同化している。まるで忍者だ。その様子を見たソーニャなど「ニンジャ、ニンジャだわ」と目をキラキラさせてはしゃいでいた。
「この数学というのは何の役に立つのでしょうか? この教室にいる人は社会科学が専門なのでしょう。貴音さんは数学を使う予定があるのですか?」
アイギスの声が耳に響く。私は小型のイヤホンを耳につけ、髪の毛で隠していた。
私たちのクラスはすでに文系と理系に分かれている。文系の人たちにとって社会に出てから数学を使う機会などほとんどないだろう。日常生活は中学生レベルの計算能力で事足りる。
“受験には使うわ。小難しい学問は、馬鹿をふるい落すには便利よ”
私は指を動かして返事をタイプした。もともとは寝たきりの重病患者のための技術なのだが、今では学生がこっそり会話するためのツールになっている。ポケットに入れた指を動かすだけで携帯を操作できるので先生に見つかることはない。映像は教科書の表面にでも投影すれば、後ろから見られない限りばれない。
昔はノートの切れ端にメモを書いて回していたそうだが、現代ではもっと便利な手段に取って代わられている。
「少し非効率ではありませんか。もっと良い方法があるはずです」
“形式陶冶ってやつじゃないの。良く知らないけど”
形式陶冶とは知識を教え込むのではなく、知識を使いこなす能力を発展させる教育の事だ。
「数学を教えることにより、考察力や想像力を養っているのですが。それなら合点がいきますね」
だが実際に私の考察力が上がっていようが、退屈なものは退屈だし、授業を受けたくなるわけでもない。
どうせなら完全に無駄だと証明されたほうが、こんな授業を受けなくてすんで楽なのに。
“こんな退屈な計算問題を解いたところで、何か変わるとも思えないけどね”
円陣はまじめに授業を受けているようだ。隣にいるソーニャはさっさと計算を解いて、プリントの裏に落書きをしている。
ただ一つの救いは先生が研究者気質の人間で、話を聞かないなら別に聞かないでかまわないという考えなことだ。授業の邪魔にならない限り何も言われない。
「無駄ということですか」
“無駄を楽しむのも一興よ。無駄、退屈、老い、別れ。そういうものを楽しむのが人間というものよ”
「なるほど、そういうものですか」
“あんた、素直すぎるわ”
当然ながら私はこの退屈な時間を楽しんでなどいなかった。
遠い未来に振り返ることがあれば、この時間も悪くなかったと思えるかもしれないが、今はただ退屈で、早く過ぎ去ってほしいくだらない時間だ。
今はアイギスと話せているだけましではあったが。
放課後はまた部室に集まった。円陣は仮病でサッカー部を休んできたそうだ。
サッカー部や野球部といった体育会系の部活は厳しいと思っていたが、仮病が簡単に通るあたりそれほどでもないようだ。
アイギスはなんと大昔のロボット漫画のキャラクターの姿をしていた。3D化に成功したようだ。まるで過去の夢が現代によみがえったように見える。
今は昔のSF漫画の時代を超えている。だが漫画のような世界にはなっていない。時だけが進んだ。そう思っていたが、3D映像のアイギスが部室の中を飛び回っているところを見ると案外そうでもないようだ。
昔の人々が望んだ未来に私達は近づいてる。残念ながら昔の人々が望んだほど平和ではないが。そこは技術が発達するペースで倫理観まで発達するわけではないのだから仕方がない。
「はぁー面白いわね。3D映像でジェットエンジンの炎まで表現できるのね」
アイギスはソーニャの目の前で、ジェットエンジンを吹かせて宙に浮いた。ジェットエンジンの音まで聞こえるのは、アイギスがどこかで鳴らしているからだろう。相変わらず芸が細かい。凝り性なのだろう。
「最新の映像技術のたまものデス」
「本当にすごいわね。ねぇ写真撮っていい? 最近の3D映像って写真にもちゃんと写るんでしょ」
「どうそ。ご自由にお撮りください」
アイギスはその場でポーズをとった後、低速で教室を飛び回り始めた。ゆっくり飛ぶから撮ってくれということなのだろう。
ソーニャはパシャパシャとシャッターを切っている。その様子からするに趣味の方だろう。見栄えのいいものを撮ろうとしているわけではなく、気の赴くままに取っているようだ。
アイギスの姿は非常に見栄えのいいものなのだが、いかんせん背景がプリントの山なので、きれいな写真は撮れないだろう。
だが代わりにこうして楽しく撮った写真には、いい思い出が写る。
私は携帯を取り出して、カメラ機能を立ち上げた。
空を飛ぶアイギスをとらえて、パシャリ。
案外悪くない。
「どうせならみんなで写真撮りましょう。いい思い出になるわよ」
「今日は別に何の記念日でもないわよ」
「アイギスが発掘された記念日」
「記念日になるか忌まわしい日になるかのどっちかね。人類がウランの濃縮方法に気が付いたときも、こんな気分だったのかしら」
「どっちでもいいからとっちゃいましょ。私がとりたいから撮るの。いいでしょ」
「悪いとは言えないわね」
「決定ね。さぁ撮るわよ」
ソーニャはプリントの山と段ボールで高さを整えて、その上にカメラを置いた。
カチコチとなる音はタイマーの音だろう。
アイギスは漫画のキャラクターをやめて、元の女性の姿に戻っていた。こちらの姿で写真に写るつもりらしい。
「十万馬力はもういいの?」
「ワタシの姿はこちらですので」
「その姿も誰かが作ったものなんじゃないの?」
「それでもこの姿がワタシデス」
「その言葉をあんたを作った博士が聞いたら、泣いて喜ぶわよ」
人間が大人になるにつれ悩み、同一性拡散の危機を乗り越え手にする確固たるアイデンティティを、アイギスはすでに手にしているようだ。
アイギスは作り物の自分の姿を、しっかりと自分と認識している。作り物でもこれが私なのだと。
きっと自分と同じ姿のコピーを前にして悩み、苦しみ、それを乗り越えてきたのだろう。
見事としか言いようがない。アイギスを作り、育てた博士は天才に違いない。
「だから言ったでしょ。アイギスは人間だって」
ソーニャがカメラを設置し終えて戻ってきた。プリントの山のせいで入る場所がなく、私の前に小さく座った。
「人間よりも人間してて混乱するわ」
カチコチとタイマーが鳴るが、シャッターはまだ動かない。
笑顔のまま表情を固定し続けるのは案外しんどい。すぐに表情が崩れてくる。
「ソーニャ、いったい何秒に設定したんだい?」
「秘密よ」
「おいおい」
「ジンはただありのままで写ればいいのよ。無理にポーズをとる必要はないわ」
その時フラッシュが瞬くとともに、シャッターが切られた。
急なシャッター音に驚くと、またシャッターが切られた。どうやら複数回セットしていたようだ。
そしてもう一度パシャリ。合計3回シャッターが切られた。
「どうもずいぶんと阿呆面を撮られた気がするよ」
「完全にソーニャの狙い通りね。一回撮られて気を抜いたでしょ」
「いえ、案外凛々しい顔をしてるわよ」
ソーニャがカメラを投げてきたので、危なげなくキャッチした。相変わらず扱いが雑だ。
背部の画面にさっき撮ったばかりの写真が映し出されている。
私は相変わらず毎朝鏡で見てるような自然体で、ソーニャの方は撮り慣れているのか妙にカメラ写りがいい。アイギスはにこりときれいに笑っていて、円陣はあほ面なのか凛々しいのか微妙なところだ。きっといつシャッターが切られてもいいように身構えていたのだろう。無駄に力が入っているせいで、凛々しいを通り越してあほ面に近づいている。
二枚目はなんというかみんな隙だらけだ。スクープカメラマンに突然写真を撮られたらきっとこんな顔だろう。
三枚目が一番きれいに取れていた。いつも通りの私達だ。隣を見れば全く同じ顔がある。写真から漂う雰囲気も、いつも通りの私達といった感じだ。
まるで日常を切り抜いたような写真だ。
「ほらほらあんたずいぶんと凛々しい感じじゃない。自分で自分に惚れるんじゃない?」
「俺を何だと思ってるんだ?」
「泉に写った自分の姿に恋するような人」
「ナルシストの語源になったナルキッソスの事か。そういうからかいならもう慣れたよ」
ナルキッソスはギリシャ神話に出てくる若さと美しさを兼ね備えた男性だ。彼は泉に写った自分に恋し、水面に写った自分にキスをしようとしてそのまま落ちて水死した。
この伝承がナルシストの語源になっているのだ。
「なんせあなたの名字が、なるし(・・・)まだものね。それでその容姿ならナルシストと言われるのも仕方ないわ」
円陣の優男のような見た目は、実際の性格はどうであれナルシストを連想させる。ついでに名前が三文字一致している。からかわれるには十分だ。
大人に近づいた今ならまだしも、中学生の頃は友人達にかなりからかわれていた。円陣の中学時代のあだ名は、確かナルシストだったはずだ。
「でも今日ばかりは反撃ができるな、エーコー」
エーコーとはギリシャ神話に出てくる森の精霊で、エコーの語源だ。エーコーはある日ゼウスの妻ヘーラーの怒りを買って、自分からは話かけることができず、誰かが話した言葉を繰り返すことしかできないよう呪いをかけられた。
エーコーはナルキッソスに恋をするのだが、自分から話しかけることができないので振られてしまう。その悲しみからエーコーはやせ衰え、ついには声だけの存在となった。
山から返ってくる音は、エーコーの声というわけだ。だから山彦や木霊は英語でエコーと言う。
この話で大事なのは一点。エーコーはナルキッソスに恋をするということだ。
「私がそんな殊勝な女に見える? 私がエーコーならナルキッソスは私の手で泉に沈められていたでしょうね」
「君が振られるところは想像できないな。逆ならいくらでもありそうだけど」
「一番近くで目撃したものね」
むろんどの立場で目撃したかは言うまでもない。
「貴音さん、ワタシはどんな感じに写っていますか?」
「ああ、ごめんごめん。カメラはそこだったわね」
アイギスの3D映像が人間と同じ身長なので忘れがちだが、本体は足元で映像を出しているロボットなのだ。メインカメラもそこにある。
私はカメラを地面に置いて、ロボットの方に画面を向けた。
「ふふ、まるでこの瞬間の私達ですね」
アイギスはにこりと笑った。アイギスの姿は映像なので、自由に表情を変えられるはずだが、アイギスは自分の感情にあった表情だけを選ぶ。
だから今のは本当の笑顔なのだろう。
「幸せそうね」
「はい、ワタシは今幸せです。研究所ではこんな生活できませんでしたから」
「……素直ね、あんた」
「ソーニャさん、この写真のデータをもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ。好きにコピーしなさいな」
アイギスはケーブルをカメラに差し込んだ。今はコピーしているところだろう。
しばらくすると3D映像のアイギスが消えて、代わりに空中に写真が三枚表示された。
「大画面で見てもきれいね。あほ面がよく見えるわ」
「すごいでしょこのカメラ。細部まできっちり移すから、これだけ拡大してもきれいな画像のままなのよ」
「自慢するならあなたの腕にしてほしかったわ」
デジタルカメラの画素数は増える一方なので、今や携帯のカメラでもこれに近い映像を撮ることができる。よってソーニャの自慢はとくに自慢にもなっていないのだった。
「大事に保存して、宝物にしますね」
アイギスが微笑んでいる。
「ありがとうアイギス。ほらほらソーニャもこれぐらい素直になったらどう」
「生まれ変わるまで待って頂戴」
「死ぬまで治らないのか君は」
円陣にあきれた様子で言われたが、自分でも治らない気がするのだ。どうしようもない。
「なに? 素直になってほしいの? 素直な気持ち、聞きたいの?」
「俺が望む言葉を言ってくれるのなら」
こういわれると辛い。踏み込ませるつもりが、自分が踏み込む側に立たされている。
円陣が返しに困るような、的確な一言が思い浮かばない。
返事に迷っている間に、ソーニャがアイギスを抱えて立ち上がろうとしていた。
「待ちなさい。どこに行くつもりよ」
「いやー邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「私と円陣はそんな関係じゃないわ」
「いやいや、どうみてもアツアツじゃない」
「……どういうことですか?」
「研究所育ちのアイギスちゃんにはちょっと早かったかな。恋のお話よ、恋の」
「恋ですか。AIとはいえワタシも女性デス。非常に興味があります」
「知ってる? あの二人みたいなのをね、幼馴染って言うのよ」
「幼馴染とは幼いころからの付き合いということでは?」
「長い付き合いの中で恋が芽生えるのよ」
「あんたらなに勝手な話してんのよ。幼馴染と恋人はイコールじゃないでしょうか」
「でもこの二人を見てるとイコールで結べる気がしない?」
「確かにそう思えます。幼馴染とは赤い糸で結ばれているものなのですね」
「…………おーい……」
「でしょ。そう思えるでしょ」
円陣が何か言いたげだが、かしましくなった女三人には割り込めないようだ。
力以外は女性のほうが強いのだ。
「はいはい、円陣との話は今度またしてあげるから」
「今聞きたいわね。ジンのいる前で」
「いい性格してるわね、あんた。邪魔しちゃ悪いってさっきその口で言わなかった? 出て行ってもいいわよ」
「さっきはさっき。今は今」
見渡す。逃げ道はない。
時間を見る。チャイムが鳴るような時間ではない。
助けを期待するも、ノックの音が鳴る様子はない。
結局円陣との出会いから今に至るまで、話させられる羽目になってしまった。
さすがの私も二対一じゃ分が悪い。
ちなみに一番被害をこうむったのは、ろくに会話に参加することもできなかった円陣であった。
それから数日後、私に選択の時がやってきた。
アイギスと出会って一週間になる。ソーニャと出会った日からは八日後だ。
今日までの一週間は楽しかったとしか言い表しようがない。銃撃戦ごっこをして遊んだり、写真を撮ったり、恋バナもした。
騒がしいが悪くない日々だった。私には過ぎた幸せだ。
その幸せな日々が、薄氷の上に乗っかっていることは分かっていた。本当はもっと慎重に、アイギスの事が世間にばれないよう振る舞うべきだったのだ。
そうすれば幸せな日々はもう少し長く続いたかもしれないのに。
放射能に汚染された町でアイギスを見つけたあの日から一週間、結論を先延ばしにしてきた。
幸せだったから先延ばしにしてしまった。結論を出さずにあいまいなままでここまで来てしまった。
せめて先延ばしにすることを決断していれば、もう少し長く平穏は続いていただろうに。
思いのまま素直には動かない、ひねくれた生き方が災いした。
たった一週間で決断の時が来てしまった。
アイギスをいったいどうするのか。その問いの答えを決める時。避けていたこの選択。
公表か、破壊か。
二者択一。
なあなあで済ませる事はもうできない。
夜中の事だ。耳元で聞こえる声に叩き起こされた。
「貴音さん、起きてください」
外はまだ真っ暗なようで、部屋には全く光が差し込んでいなかった。登校時間には早すぎる。
布団の上にはアイギスの本体がちょこんと乗っかっていた。
アイギスは今日は私の家に泊まっていた。アイギスは私の家とソーニャの家に交互に泊まっていて、たまたま今日は私の家だったのだ。
「どうしたのよ、こんな夜中に」
真っ暗な部屋に、アイギスの目が光っている。
電灯のスイッチを押すと、不気味に瞬いた後、部屋にぱっと明かりがついた。
「このマンションに不審者がやってきています」
「うそ。このマンションの警備はかなり厳重なはずよ」
このマンションは戦争で家を失った人たちのために建てられたマンションの一つだ。戦争の被害にあった人が少しでも安心して眠れるように、このマンションはかなり厳重に守られている。
地震、津波、火災などの対策に加え、不審者対策に数えきれないほどの監視カメラがあって、その上カードキーがないと正門は開かない仕組みだ。不審者が簡単に入れるとは思えない。
「しかし現に侵入されているのです。監視カメラの映像に不審者が映っています」
私の目の前に監視カメラの映像が映し出された。そこには二人の男性が映っていた。特に変哲もない会社員に見える風体。しいて違和感を上げるとすれば、右側の男が持つスーツケースが妙に大きいというところだろうか。
終電で帰ってきたただのサラリーマンにしか見えない。
「この二人、指名手配犯です」
監視カメラの映像の横に手配書が表示された。見れば見るほどそっくりだ。
柊幸雄、外国人留学生に対する暴行の疑い。
渡辺啓二、殺人容疑。
二人の情報を読み進めると、特定の国を嫌悪していることが分かった。それは戦時中の敵国だ。彼らは戦争に縛り付けられた人々なのだ。
ドラマのせいか指名手配犯と言うと恐ろしい風体が想像されるが、この二人の見た目はどこにでもいそうな、普通の男性だった。
手配書を見ていなければ絶対に気が付かなかっただろう。
「この二人はどこに向かっているの?」
「今エレベーターのボタンが押されました。十二階。おそらくこの部屋で間違いないと思われます」
聞こえるはずのないエレベーターの音、人が駆け抜ける足音。ドアが蹴破られる瞬間を幻視した。
心臓の鼓動がにわかに激しくなる。
「狙いはあんたね。逃げ道はあるかしら」
「相手次第かと。挟み込むように動かれると逃げきれませんね」
「最悪ね。ったく来るなら太陽が昇っている時間にきなさいよ。寝癖を直す時間さえありゃしないわ」
私は押入れをあさって護身用のスタンガンを取り出した。威力は控えめで、服の上からだと効き目が薄い代物だが、ないよりはましだ。こういう場面に陥ると、枕元に拳銃を置いて寝られるアメリカがうらやましくなる。
スタンガンを強く握りしめた。私の手は震えている。
「ところでアイギス、ネットへの接続は禁止したはずだけど」
無駄口をたたくと少しは恐怖がまぎれる。誰かと話すことで、精神を落ち着かせようとした。
だが心は恐怖に締め付けられ、落ち着くことなどできない。目の前に滝があるような錯覚に陥った。水流に押され、私は崖へ一歩一歩追い込まれていく。
落ち着けと自分に言い聞かせた。まだ助かる道はある。
「ハッキングは禁止されていなかったので、部屋の警報装置から侵入して、警備システムをハッキングしました。手配書の方は警察署を通りがかった時に」
「やるじゃない。あんた将来大物になれるかもよ」
一分もしないうちに男たちはドアの前へたどり着いた。
心臓が早鐘を打つ。私は深呼吸をして、震える心臓を黙らした。
男たちがカードキーを通すと、それだけでカギは開いた。このマンションの警備システムはいつの間にか時代遅れになっていたようだ。引っ越しを考えたほうがいいかもしれない。
男たちは堂々と私の部屋に入ると、警棒型のスタンガン――スタンバトンを取り出した。そしてベッドで眠る私の姿に、スタンバトンを叩き付けた。
バチバチという激しい音と火花は、違法改造されたスタンバトンであることを示している。
火花の後に残ったのは、焦げ跡のついた枕だけ。
呆けている男の首筋に、私は背後からスタンガンを押し付けた。
スタンガンを押し当てるのは一瞬でいいのに、私は力いっぱい押しつけていた。恐怖が背中を押していた。
男はそのまま地面に倒れ、動かなくなった。意識はあるが体が動かないようだ。
ベッドで寝ていたのは3D映像で、私はアイギスに3D映像で壁を作ってもらい、その後ろに隠れていたのだ。こうすれば映像の内側にはいられないかぎり私の姿は見えない。こちらから向こうも見えないが、アイギスのカメラで状況は分かる。
そのままもう一人の男にスタンガンを押しのけようとしたが、腕で払われた。こうなると体格の差と武器の差で私は不利だ。向こうの警棒型のスタンバトンは、私の持つスタンガンよりリーチが長い。
当たれば終わりだ。はっきり言って恐ろしい。私はできる限り距離を取って、息を整えた。パニックになったらやられる。
武器の差は大きいが、こちらにはアイギスがいる。勝てないわけじゃない。
アイギスは部屋中に私と同じ姿の立体映像を配置した。合計五人。部屋いっぱいに私がひしめいている。
私はその中に紛れて逃げた。これならどれが私だがすぐには分からないはずだ。
男は私に近づかれないように、やたらめったらとスタンバトンを振り回し始めた。これでは私はうかつに動けない。
狭い室内では、回り込むことすらろくにできない。スタンバトンに一瞬でも触れれば、私は倒れるのだ。
だが私が動けなくとも男を倒す方法はある。
突然男が悲鳴を上げ、地面に倒れた。男の足元には小さなロボットが、アイギスの本体がいる。アイギスが3D映像に紛れて足元から近づき、ロボットの防衛装置を起動させたのだ。
汗が額を伝った。
目をそらさず一秒、男たちが立ち上がる気配はない。
私は袖で汗をぬぐった。
「なにしたのこれ?」
「さぁワタシにもよくわからないのデス。四肢を麻痺させる薬品とだけ、説明書には書かれていますが」
「まぁ死んではいないようだし、通報して逃げましょうか」
私が携帯電話を探し始めたその瞬間、男の左手だけが別の生き物のようにうごめいて、私に向かって椅子を投げてきた。
運よく椅子はテーブルにあたって、明後日の方へ吹っ飛んで言ったが、私は情けないぐらい大きな悲鳴を上げてしまった。
そしてもう一人が取り落としたスタンバトンを拾って、男に力いっぱい押し付けた。
恐怖のあまり、我を忘れてしまっていた。
気が付くと男はぐったりとしていて、思わず私は生死を確かめた。
「だ、だ、丈夫よね。息はしてるみたいだけど」
「スキャン開始。呼吸、安定。脈拍、安定。命に別状はなさそうです」
「そう。良かったわ。殺人犯にならなくて。また動き出したら怖いし、縛っておきましょうか」
私はビニールひもを取り出して、二人の手足を縛りつけた。何重にもしばりつけたから、きっと大丈夫だろう。
スーツケースを開けてみると、中には引っ越し業者の服と、人が入りそうなほど大きなケースが一つたたまれてはいっていた。これで私を誘拐するつもりだったのだろう。
引っ越し業者の服を着ていれば、大荷物を運んでいても不審がられない。たとえその中に人間が入っていてもだ。
これはずいぶんと計画的だ。電子ロックを解除したあのカードだって、簡単に手に入るものではないだろう。
おそらくこの二人の後ろに、まだ誰かがいる。最悪の場合、巨大な組織がバックにいて、アイギスを手に入れようと狙っている。
「そうですね。ワタシの事を警察に説明するわけにもいきませんし。どこへいきましょうか?」
「まずはソーニャの家に行きましょう。ソーニャが襲われていたら、助けないといけないしね」
「了解です」
円陣をチャイムでたたき起こした後、ソーニャの住むマンションに行くと、家の前にパトカーが何台も停まっていた。
何かがあったのは明白だ。
走って駆け付けると、なぜかソーニャが事情聴取を受けていた
ソーニャは長い金属製の棒を持っていて、その先端に僅かに血痕がついているのが見て取れた。誰かをその棒でぶんなぐったようだ。
なんだか心配して損した気分だ。私でも勝てた相手に、ソーニャがやられるはずはないのだ。
暴漢が何人やってこようと、戦場に比べたら生ぬるいに違いない。
自重聴取が終わると、こっちに気が付いたのか駆け寄ってきた。
「あっ、エコーじゃない! どうしたのこんな夜中に」
昼間に散歩していて、偶然出会ったみたいな言い方だ。夜中に襲われても、全然動じていないようだ。私など夜も眠れないほど怖がっているというのに。
「あんたが殺人犯になっていないか心配で、駆けつけたのよ」
円陣とアイギスが隣にいるので、強がるぐらいの元気はあった。
弱さを見せると、強がりの仮面がはがれてしまう。
仮面は素顔の一つであると私は考えている。人はいつも仮面をつけていて、素顔を見せることがあまりないからだ。しかも仮面で人物を見分けることまでできる。
仮面はアイデンティティの一部なのだ。私のように意地っ張りな人間だと、自由に仮面を外すことすらままならないので、余計にそのけが強くなる。
そのこと自体に問題はないが、私の場合、強さが仮面に引っ付いているから問題となる。はがれた後には弱い自分しか残らない。
私は素顔を人に見せるのが嫌なのだ。
世間の女は本当の自分を見てなどと嘯いているが、私はその逆だった。
「ちゃんと峰打ちですませたわよ」
ソーニャは金属の棒をぐるりと回した。
ソーニャが棒の一部を押し込むと、身長ほどの長さだった棒は、ポケットに入るほど小さくなった。まるで如意棒みたいだ。
「それのどこに刃があるのよ」
「あなた達の所にもきたのね。よく無事だったわね」
「私のところに来たわ。女性の部屋に入るのにノックもしない無粋な輩だったんで、スタンガンを食らわせておかえり願ったわ」
「エコーが撃退してくれて助かったよ。俺なんていびきかいて寝ていたからな。エコーが捕まったら、次は俺がやられてた」
円陣の方を狙っていてくれたら私はその間に逃げられたのに。そんな台詞が思い浮かんだが、口にはしなかった。
普段の私なら言っていただろう。今の私はショックで歯車がずれている。頭がうまく回ららない。論理的でないのはいつもの事だが、今はその上に思考回路が私らしく回らないのだ。
「やるじゃない。エコーって見かけよりもタフなのね」
「アイギスのおかげだけどね」
「スタンガンがあってよかったわね。私は持ってなかったから大変で大変で。あいつらほんと硬いんだから」
「硬い?」
「ああ、見なかったのね。それともエコーの方に来たのは生身の人間だったのかしら」
「どういうこと?」
突然マンションの一部屋が爆発し、そこから人間大の大きさの何かが飛び出した。
人間大と言ったのは、人のフォルムに近いが、人には存在しない部位がついていたからだ。
それはロボットのようなジェットエンジン。背負っているのではない。遠目だったが間違いなく体の一部だった。
「あちゃー、これだから日本の警察は。装備は優秀なのに、経験が全然ないんだから」
「なんなの、あれは?」
「んーと、一言でいうとサイボークかな。戦闘用義手を始めとして、いろいろ装備してるみたいね」
「うわ。使われなくてよかったわ」
「ソーニャさんの方の二人も逃げ出したようデス。あれでは拘束が甘かったようですね」
アイギスがどこかから情報を仕入れたようだ。インターネットに接続するなと言う約束を、どうにかして潜り抜けたようである。それで助かったのだから注意はできないが。
男達に電撃は聞いたが、紐で縛るのは無意味だったようだ。スタンガンがなかったらと思うとぞっとする。
「最悪ね」
「そこまで大した連中でもなかったし、ちゃんと装備を整えてれば大丈夫。次は逃がさないわ」
「あれで大したことないの?」
「自分から腕を切り落として戦闘用義手に変えた連中の話でもしましょうか。それかロボットに脳を移植した男の話とか」
「聞かないでおくわ」
たぶん愉快な話ではないだろう。
聞いたところで気分がめいるだけだ。
「で、これからどうするんだ? この様子じゃ家では寝られなさそうだぞ」
ソーニャの部屋は今吹き飛んだところだし、私の部屋も同じような現状だろう。警察の現場検証もあるだろうし、しばらくは自分の家では寝られないだろう。
「ジンの家は? 今日はもう襲ってこないと思うわよ。来たとしてもあの程度なら撃退できるし……家は壊れるかもしれないけど」
「いや、まぁ……別にいいけどさ。他に泊まるところもないわけだし」
「な~に~もしかして照れてるの?」
ソーニャは人をからかような笑みで言った。
「円陣の家で女の子が二人も寝るなんて初めての事体だものね。大丈夫よ、安心しなさい。エロ本が目に入っても見なかったふりしてあげるから」
「照れてるのは認めるが、人の家にさもエロ本があるかのような言い方はやめてくれないか」
「それと女の子の人数を三人に増やすことを要求します。ワタシも一応、女性ですので」
アイギスの意外な発言に少々驚いた。アイギスを数に入れなかった自分に非があるのだが、まさかアイギス本人に言われるとは思わなかった。
アイギスはAIである自分に引け目を感じているというか、自分は人間とは違うものだと思っている節があった。アイギスが人間扱いされると喜ぶのは、自分を人間だと思いきれてないからだ。
そんなアイギスが、自分を女の子として数えろと言う。たった一週間のうちに、アイギスは変化している。
「ごめんね、アイギス。夜中にこいつが何か変なことをしでかしたら、自由に反撃していいわよ」
「変なことってなんだよ。何もするわけないだろ」
「意気地なしだものね」
「告白ができる程度には意気地はあるぜ」
「振られてちゃ自慢にならないわ」
「振った本人には言われたくないんだが」
そんなくだらない会話をしながら二十分ほど歩き、私達はマンションに戻ってきた。
パトカーが目に見える範囲で五台も停まっている。入り口近くには警官が二人、あたりを見張るように立っていた。
「自重聴取は避けられなさそうね。あんた達は先に行っといて」
私の部屋で事件が起こったのだ。私の顔写真ぐらい回っているだろう。
私は諦めて警官に話しかけた。
その間に円陣たちは無関係の住民を装って、警官の自重聴取を軽い質疑応答だけで済まして、中に入って行った。
私の方はずいぶんと長引きそうだ。なんせ私の部屋に指名手配中の男が押し入ったのだ、心当たりからどうやって退治したのかまで根掘り葉掘り聞かれるだろう。
さてどんな嘘で切り抜けようか。
エレベーターに乗って十四階、円陣の部屋を訪れるとソーニャはゲームをしていた。
ヘルメットやヘッドギアのような形の機械を頭にかぶり、電脳世界にダイブしている。
電脳世界にダイブする技術は世界を革新すると言われていたが、革新されたのは主にゲーム業界だけだった。
そもそもダイブするにはダイブ先の電脳世界を作らなければならないという現実と、そもそも普通にインターネットをする分にはダイブをする必要がないという点が大きい。
技術としては素晴らしいが、それを生かす土台ができていなかったのだ。
「私が必死になってごまかしている間に、あんたたちは楽しく遊んでいたってわけね」
「いやいや、画面を見てみろよ。単に遊んでいたわけじゃないぜ」
言われた通りテレビ画面を見てみると、シンプルな平面上でソーニャとアイギスが闘っていた。
そういえば格闘技の練習にもこの技術が使われていたのを忘れていた。けがの恐れがある練習をバーチャルリアリティで行うのだ。筋力はつかないが、バーチャルリアリティでも体で覚えることはできる。
ソーニャは例の金属の棒を持っていて、アイギスは金属の体で戦っている。
「ワタシには近距離戦闘の心得がありませんので、ソーニャさんに稽古をつけてもらっているのデス」
銃の打ち合いではアイギスに分があったが、どつきあいではソーニャに分があるようだった。
ソーニャは金属棒を巧みに振り回し、アイギスを寄せ付けない。そしてひとたび命中すれば、金属でできているはずのアイギスが吹き飛ばされている。てこの原理か何かで、力を補っているのだろう。
電脳世界だからか全く容赦がない。あんなのをリアルで受けたら内臓が破裂する。
ソーニャが強いのは分かっていたが、思っていた以上にすごかった。
「意外ね。何でもできると思っていたわ」
「ワタシ達は兵士としての運用を想定されていましたので。近代の戦争で白兵戦になることはまずありませんから」
剣からマスケット、マスケットからライフル、ライフルからミサイル、そして弾道ミサイルと戦争はより遠くからの敵を倒せるように発展してきた。
現代で白兵戦が戦争の勝敗を分けることなどまずない。近づく前に撃ち殺されるのがオチだ。たとえ金属の体を持っていても、対戦車ライフルにさえ耐えられまい。
「なるほどねぇ。それにしてもソーニャは強いわね。棒術? 槍術? それとも剣術の類?」
「棒術よ。見よう見まねで覚えたから、ほとんど我流だけどね」
ソーニャの声がテレビから聞こえた。どうやら音声をつないであるようだ。
「カメラの師匠にでも習ったの?」
「違うわ。中国に行ったときに盗んできたの。師匠は柔道と合気を極めていたみたいなんだけど、私には合わなくてね。ほら、あれって相手の力を利用したりするじゃない。そういうのが合わなくてね。相手に合わせるなんて面倒なことはせずに、自分から突っ込んで自分の力でぶん殴る。それが私流よ」
「ソーニャらしいわ」
習ったのではなく、盗んだあたりも含めて。
画面の中の風景が切り替わった。場所はなんとこの部屋。屋内戦を想定したのだろう。
「あっ! 卑怯よ卑怯。こんな場所じゃまともに棒を振り回せないじゃない」
「しかしこの場所に踏み込まれる可能性はあります」
「人間相手はいいのよ。アイギスは全身かっちかちだから、ちゃんと勢いつけないとダメージ通らないのよ。ここはあまりにもアイギスが有利すぎるわ」
「あんた、勝負の趣旨忘れてない?」
「アイギスの特訓だってここは分かってるけど……でも勝ちたいじゃない」
やれやれと口に出して言いたいぐらいだ。
あんまりにもいつも通り過ぎて、こっちがおかしいのかと錯覚してしまう。
「不利を覆して勝つ方がかっこいいじゃない」
「どっちかと言うと可愛くありたいんだけどなぁ」
「それは諦めたほうがいいんじゃないの。可愛いってのは弱さが前提よ。小さくて、守ってあげたいものの事を可愛いというの。あんたは守る側でしょ。かっこいいのほうが似合ってるわ」
「私だってカワイイって言われたいのになぁ」
テレビ画面ではソーニャが食器棚のガラスを突き破りながら棒を振り回し、アイギスの横っ腹を叩いていた。
どこに可愛い要素があると言うのか。いっそのこと恐ろしいとでも言ってやろうか。
「俺の部屋が…………」
「ゴメンネ。バーチャルリアリティだから許して。本物のジンの部屋では、さすがにここまでしないよ」
ソーニャは置き鏡を蹴り飛ばして、アイギスにぶつけた。アイギスはそれを手刀で粉砕する。鏡の破片が部屋中に散乱して、円陣の部屋が壊れていく。
画面の向こうの円陣の部屋は台風のあとみたいにぐちゃぐちゃだ。目の前にある部屋と同じとはとても思えない。
本棚やテーブルなど硬いものは原形をとどめているが、ガラスや陶器はぐちゃぐちゃで、床は靴を履いていないと満足に歩けない状態だ。
「なんだか物悲しい気分になるな」
「ワタシも壊れていく研究所を見ると、物悲しい気分になりました」
「自分の居場所って…………大事だよな」
戦闘はだんだんとヒートアップして、もはや訓練には見えなかった。
アイギスのパンチは真っ直ぐにソーニャの顔面を目指して繰り出され、ソーニャはそれを後ろに下がって避けた。
ソーニャがテレビをつかんでぶん投げて、アイギスが頭突きでそれを正面から突破する。
ソーニャはテレビの陰に隠れて接近し、アイギスに足払いを仕掛けた。
そして倒れたアイギスに向かって全力のふり下し。アイギスが両腕でガードをするが、右手が破損した。
そこで二人の動きが止まった。勝負ありだ。
「あ~あ、私の負けかぁ」
「ついに一本取りました」
見るとソーニャの右足首から先の色が真っ黒に変わっている。データ上ではそこは破壊された扱いとなっているのだ。
ソーニャは右足、アイギスは右手とダメージの量は同じだが、その影響は大きく違う。
ソーニャはもうまともに歩けないが、アイギスは自由に動き回れるのだから。
「私の足払いに蹴りを合わせたわね」
「強度の違いを利用させていただきました」
人間の足で金属を思い切り蹴り飛ばすと骨折ぐらいするだろう。金属の方から向かってくるならよりそうなる可能性は高くなる。
地震の肉体の設定を生かしたアイギスの勝利だ。いささか条件がアイギスに有利すぎる気もするが、勝ちは勝ちだろう。
「あ~疲れたわぁ。体を動かしていないのに、どうして疲れるのかしら?」
ヘッドギア型のダイブ装置を外しながらソーニャは立ち上がった。だが相当疲れているのか、すぐにもう一度椅子に深く腰かけた。
「精神的な疲れが原因だと思われます。あまりにもリアリティが高いので、実際の試合と同程度の緊張があるのでしょう」
「なるほどねぇ。アイギスの拳が迫ってきたときなんて、ほんとに死ぬかと思ったもん。疲れるわけね」
ならばアイギスはその数倍死ぬかと思っていたことだろう。
……アイギスに精神の疲れは存在するのだろうか。
肉体がつかれることはないはずだが、精神は人間と同じだ。疲れる可能性がある。だがアイギスは特に疲れた様子もなく平然としている。心が同じでも、脳の材料が違えば疲れないのだろうか。
一週間がたった今でもわからないことは多い。
「みんな揃ったことだし、本題といこうじゃないか。これからどうする? アイギスのことがばれたんだ、今まで通りとはいかないぞ」
「そんな遠まわしに言わずに、もっとはっきりと言ったらいいじゃない。アイギスを公表するか消し去るかって」
アイギスの事がばれたのならもう私達にはどうすることもできない。集団や組織を相手に学生が何をできるというのか。
残された道はアイギスの事を公表して守ってもらうか、アイギスをデリートして誰も手出しができないようにするかの二択しかない。
「エコーはまだ、アイギスを殺すつもりなのか?」
そんな質問をするということは、円陣は私がアイギスを殺すつもりだと考えているということだ。
そして同時に殺さないということを期待しているということでもある。期待してなければこんな言葉を言ったりはしないし、こんなすがるような目で見てくることもない。
私はどうしたいのだろうか。
私はどうすべきなのだろうか。
頭で考えてでる答えは変わっていない。アイギスはデリートすべきだ。アイギスの危険性は何一つ変わっていない。本人が兵器になるつもりがないことはよくわかったが、やらされる可能性は否定できない。
つまり安全性は何も証明できていない。アイギスはいまだ危険なままだ。
だが心で考えた場合は……私の感情は……真逆の結論を出している。
「デリートするって言っても反対二票で却下でしょうが。あんた達の好きにすればいいわよ。なんとかしてアイギスを救いたいんでしょ」
円陣はやれやれと肩をすくめた。私が逃げたのが分かったからだ。だが私としては答えを濁すしかなかった。
友情だとかなんだとか、そんな言葉を使うには私はひねくれすぎている。
「反対派三票です」
抗議するようにアイギスが口をはさんだ。私も仲間の一人だと言いたいのだろう。
「アイギスはどうしたいの? あなたの事、伝わっちゃったみたいだけど」
ソーニャがアイギスに聞くべきことを聞いた。
アイギスの事を決めるのにアイギスの意見を聞かないわけにはいかない。
ただしアイギスの一票は、一票以上の意味を持つ。本人の意思は周りの言葉よりも重いからだ。
だから私は誰も聞かないならそのまま話を進めるつもりであった。
だが誰かが聞いたのなら、アイギスの言葉にしっかりと耳を傾けるつもりでもあった。
どっちつかずだ。どちらも選べなくて、人にすべて投げ出している。これではまるで迷える子羊だ。迷いなど核の炎に焼き尽くされたと思っていたのに。
私はアイギスとの接し方をまだ決められずにいた。
迷っている時点で、私がどうしたいのかは明白なのだが、感情と理性のその折り合いをつけるのがうまくいかない。
理性と感情……私はどちらに従うべきなのだろうか。
答えは出ない。
…………私はこんなにも脆かったのだろうか。ソーニャと会い、アイギスと過ごし、私は弱くなった気がする。
「欲を言うならば、今のままが理想デス。ワタシは兵器にはなりたくありません。ただ皆さんと楽しい時間を過ごせたら、それで……」
「うれしいこと言ってくれるじゃない。それなら今まで通りの日常に戻る方法でも考えましょう。三人寄れば……なんだっけ?」
「文殊の知恵ね。なんであんたは中途半端に日本語を知ってるのかしら? かなり知識が極端よ」
ソーニャは間違った知識ばかり持った外国人と同じにおいがする。
もっともニンジャとか腹切りだとかそんなものばかり伝わっている現状では仕方がない事ではあるが。
「三人ではなく、四人です」
「大丈夫よ。はぶかれているのは円陣だから」
「女三人だと文殊の知恵じゃなくて、姦しいの方なんじゃないのか」
三人寄れば文殊の知恵。ただし女ばかり三人寄れば姦しくなる。一人でもうるさいのが三人そろうと歯止めが利かなくなるからだろう。話は脱線し続けて、いつまでたっても帰ってこない。
「話し合いの中にこそ知恵は生まれるのよ」
「恋バナの件を考えるに、生まれる知恵の方向が偏りすぎている気がするよ」
「まっ、話してて楽しい事ばかり話すしね。そりゃ偏るわよ。でも今回は夢みたいな内容だからわりかし良い議論になるんじゃない。アイギスの事がああいう連中にばれた時点で、今まで通りってのは夢物語よ」
「それは背後にいる組織にまで話が伝わっているということですか。四人程度の集団なら、まだこちらにも手の打ちようがありますが」
「知られた時点でアウトでしょ。秘密を知る人間が多いほど、漏れる確率は高くなるわ。誰かに伝わった秘密が守られたことがあるの?」
秘密を知る人間は少ないほうがよい。大昔だと重要な建築物を作った後は、罠や仕掛けの位置を知る作業員を殺したほどだ。そこまでしても情報は洩れ、ピラミッドは盗賊に荒らされ、古墳に収められた財宝は盗まれた。
秘密とはそれほど守られにくいものなのだ。仮に何らかの方法で、アイギスを奪おうとしている連中の口止めをしたところで、おそらく無意味だ。
アイギスという秘密は、もう秘密ではない。
「いえ、今ならまだ元に戻すことができます」
「どうやって?」
アイギスがあまりに自信気に言うので聞き返してしまった。
「ワタシを人の脳とつないでいただければ、電気信号を介して人の脳に干渉することができます。複雑なことはできませんが、一週間程度の記憶を消すことぐらいなら可能デス」
「はっ、まるでSFね。でもそれって不可能だって結論が出たんじゃないの?」
電気を流して人の脳を操る方法は、何年も前から議論されている。心も記憶も所詮は脳細胞の作用によるものだ。脳を操作するのも、一概に不可能とは言えない。
だが現代の技術では実現しなかった。電脳世界へダイブする技術が開発されたときは、その応用で脳の操作ができるようになると恐れられたが、いまだに実現していない。
電脳世界へのダイブは、デバイスが脳から電気信号を情報として受け取り、同時に視覚情報や音声を直接脳に送り込むことで成り立っている。
先ほどの戦いでは、筋肉への命令をかすめ取ることでデータ上のソーニャを動かし、目や耳を介さずに直接脳に情報を送り込むことによって、まるでテレビの中にいるように錯覚させていた。
つまり感覚器官を介さず、直接脳と情報のやり取りをしているわけだ。そんなことができるのなら、脳に蓄えられた情報を書き換えることだってできてもおかしくはないと考えるのもうなずける。
だが実際問題、人類はまだ脳の構造を把握しきれてないのだ。脳に電気ショックを与えて、脳細胞をいじることは可能だ。だが思い通りの結果は得られない。
記憶をすべてしなうか、廃人になるか、死に至るか、そんなところが関の山だ。
精神とはよく言ったものだ。神の御業に人の手は及ばない。
「不可能なのは人間の脳がまだ解明されていないからデス。脳の仕組みさえ知っていれば、簡単な操作ならできるようになります。記憶の書き換えとなると専用の研究が必要になりますが、一週間程度の記憶を消す程度なら」
よみがえる記憶。
暗い部屋、巨大な機械、頭を開かれた五人の少女。
「ワタシがどのようにして作られたか、ソーニャさんならしっているでしょう。ワタシの中には被検体となった少女五人のデータが入っています。これらのデータを利用すれば、記憶を消すことまでならできるはずです」
アイギスは生きた少女の頭を開いて、脳に直接機械をつないで得た情報から作られたAIだ。戦争の狂気もので蓄えられたデータがその中に眠っている。
脳の構造を把握できていないのは、その手段が許されざる方法だから。
その許されざる方法で手に入れたデータがあるのなら、記憶を消す程度できてもおかしくはない。
そもそもアイギス自体がコンピュータ上に作られた生き物、神の真似事だ。ならば精神という神の領域に足を踏み入れることもおかしくはない……のかもしれない。
「あんたが兵器として実用化されなくてほんとによかったわ。オーバーテクノロジーにもほどがあるわよ。あんた一人で世界征服できるわ」
「ワタシとしてもよかったデス。世界なんていりませんから」
「手に入っても使い道に困るわよね。で、記憶を消すのってどうやるの? なにか専門的な機械でも使うの?」
「いえ、そこのゲーム機のコントローラーで充分です。脳に電流を流せればそれで十分デス。事故防止用のセーフティロックを外す必要はありそうですが、スペックは足りています」
さっきまでソーニャがつけていたヘッドギアのような形状のコントローラーは、今は机の上に置かれている。最新技術の固まりとはいえ、ただのゲーム機のコントローラーで人の脳をいじれるとは驚きだ。
「ふ~ん、つまりあいつらを無力化して、このヘッドギアをかぶらせればいいのね。分かりやすくていいじゃない。私は賛成よ」
ソーニャは実に単純な考えで賛成した。
ソーニャの考えはなかなか素敵だが、私は反対だ。夢物語は、夢の中で見るものだ。現実に持ち込むべきではない。
「アイギスの事を知っているのが、襲ってきた四人だけとは限らないわよ。すでに周りに言いふらしていたらそれだけでアウトよ。現実的な案じゃないわ」
「細かいことはいいじゃないの。やってみて無理だったら、それから別の方法でも考えればいいじゃない」
「いや、そうはいかない。相手は武装した集団なんだ。試しにやってみるなんて、そんなことができる相手じゃない」
「あら、めずらしく意見があったじゃない。ソーニャの作戦は危険すぎるわ」
不意打ちに近い形で倒したので、相手の強さは分からない。だが決して弱い相手じゃないことは分かる。なにせ体の一部が機械なのだ。ただの人間よりは強いに違いない。
そんな奴らに勝算もなく挑むなんてことはできない。危険すぎる。
「あら、勝算はあるわよ」
「学生になにができるのよ」
「アイギスがいるじゃない。ロボットを使えばこちらの戦力は無限よ」
アイギスはコピー可能なので、いくらでも増やすことができる。それはつまりインストール先のロボットを用意すれば、その数だけ戦力が増えることを意味する。
「相手の狙いはアイギスなのよ。守るべきものを増やしてどうするのよ。まるで意味がないじゃない。本末転倒よ」
「別にインストールする必要ないわよ。電波かなにかで動かせばそれでいいでしょ。そりゃあインストールした方が動きはいいでしょうけど、最新のCPUの処理能力にアイギスの力が合わさればなんとかなるでしょ。ね、アイギス」
ソーニャはアイギスに微笑みかけた。アイギスは小さく頷いた。
「ワタシ一人ですと最大十体までロボットを操作できます。もちろんロボット以外でも無線で操作できるものなら動かせますので、相手が大きな組織でなければ十分鎮圧できると思います」
確かに……それなら勝機はある。
ロボットの中には人間の数倍の大きさはあるロボットがいるし、競技用ロボットなど基本性能が高いロボットもいる。最近の車は自動操縦機能がついているので、アイギスでも動かせるだろう。車の質量は非常に恐ろしい武器だ。
それになによりこの作戦ならだれも危険を冒さずに済む。アイギスに任せて後ろでのんびりとしておけばいいのだ。
「悪くないわね。第三の選択肢としてはベストなんじゃないかしら。相手の居場所がわかっていたら、もっと良かったんだけど」
「いくらロボットを用意しても、突然襲ってこられたらどうしようもないしな。そのあたり何か策はあるのか?」
「監視カメラでもハッキングすればいいでしょ。ネット接続禁止とか言っていられる場合じゃないわ」
「それでも危険だろう。俺は反対だな」
「円陣はどうしたいの? あんたの考えは?」
私も意固地な人間だ。集団で決めたことには従うが、意見を変えることはほとんどない。私は今もアイギスはデリートしたほうがいいと考えている。
そして円陣もまた私と同じ意固地な人間だ。
「やっぱりアイギスの事を公表すべきだよ。警察でも自衛隊でも、アイギスの事を話せば守ってくれるはずだ。これは俺たちだけで背負い込む問題じゃないと思う。確かにアイギスの力は強力で危険だけど、公表されればアイギスと対抗できる技術だって開発されるはずだ」
案の定というか、予想通りの答えだった。
円陣は意固地だがバカではないので、その考えが間違いであることを証明するか、よりよい案を上げれば考えを変えるだろう。だが円陣の考えは問題点はあるが間違いとは言えないし、よりよい案など思い浮かばない。
私は私の考えのほうが正しいと思っているが、客観的にみて明らかに円陣の考えより正しいとは言い切れない。
説得は無理だろう。
「核抑止に核が使われている現状を考えると、希望的観測としか言えないわね。アイギスに対抗できるのは、アイギスだけかもしれないわよ。そうなったらアイギスを手に入れた国の天下になるわ。まだソーニャの考えの方がましよ」
「危険性は承知の上だよ。人類はいつだって危険と隣り合わせで成長してきた」
「君子危うきに近寄らずって紀元前から言われているのに、人類は何も成長していないようね」
人類はすでに十分進歩した。これ以上危険を冒すこともないだろう。
進みすぎた人類は滅亡するのがSFのならわしだ。
「危険危険と連呼しすぎデス。ワタシもかわいいと言われたいお年頃なのデス」
アイギスが唇ととがらせて言った。ほっぺたを膨らませてすねた表情まで、見事に映し出されている。
AIにお年頃なんてあるのかというつっこみは、機嫌を損ねそうなので胸にしまい、ごめんごめんと謝った。
「ともかくまずはアイギスをインターネットにつなぎましょう。これから何をするにしても、アイギスの力を制限したままじゃきついでしょ。後ろむいとくからさっさとパスワードを入力してちょうだい」
「そこは俺も賛成だからいいけどさ。いつまでも結論を引き延ばすことはできないぞ」
円陣がパソコンを立ち上げて、アイギスの本体に接続した。パスワード画面を開き、ロック解除の項目を選ぶ。
ソーニャとアイギスが後ろを向いて座った。一種の冗談なのか、アイギスは両手で目を覆っている。
私も後ろを向くと、背後からカタカタとキーボードを叩く音が聞こえた。ちょうど今パスワードを入力しているのだろう。
すぐに交代して私とソーニャもパスワードを入力した。誰かに見られる心配はないが、自分の体を背にして入力をした。念のためだ。
これでアイギスはインターネットに接続できるようになった。猛獣の鎖を解き放ったような気分だ。
「今日の所は賛成三で引き延ばしに決定ね。結論の引き伸ばしに限界が来るのは明らかだから、その時までに私を説得できる言葉を用意しておくべきね」
「君を説得するより、残りの二人を説得したほうが楽な気がするよ」
「よく分かってるじゃない」
私の考えを変えるよりは、原子の性質を変える方がやさしいだろう。
感情で動くソーニャや、まだどこか幼さがあるアイギスのほうがはるかに説得は楽に違いない。
ふぁぁ、とあくびの音がした。誰か確かめるまでもなくソーニャだ。
声の方向を向くと、ソーニャが眠そうに椅子に座っていた。
「難しい話は途にして、今日はもう寝ない? 夜中に起こされたから眠くて眠くて」
夜中に襲われため、私達はみんな寝不足だ。ソーニャはバーチャルリアリティでの戦闘疲れもあるから余計に眠たいだろう
しかし私は襲われたショックと、不安で感情が高ぶりとても眠れそうにない。
ソーニャも同じ境遇のはずなのだが……彼女はもう肝が太いとかそういうレベルではないぐらい図太いようだ。
「そうだな。このまま話していても平行線にしかならなそうだし、もう寝るか」
「眠れそうにないけど……寝ないと体力が持ちそうにないわね」
「布団を出すよ。予備が一つしかないけどどうしようか」
「心配する必要はなさそうよ。ソーニャはどこででも寝れるみたいだから。風邪をひかないように、なにか掛けてあげた方がいいかもしれないけど」
ソーニャは椅子の上ですやすやと寝息を立てていた。どこでも寝れるのもすごいが、寝るのがすさまじく早いのが驚きだ。
なんとなくだけど、寝ているソーニャに何かしようとしたら漫画みたいに気配を察して飛び起きそうである。ソーニャなら周囲を警戒しながら寝てても不思議ではない。
「エコーも椅子で寝るかい? まだ一つ空いてるけど」
「布団で寝るわ。せっかく出してくれたんですもの」
円陣が押入れか出した布団を受け取って、床に敷いた。私はソーニャのように図太くはない。布団があるなら布団で眠る。
「それじゃお休み。美女が二人も寝てるからって、変な気を起こさないようにね」
「とてもじゃないが怖くてできない」
円陣が肩をすくめて言った。ソーニャとアイギスの戦いを見た後では仕方がないだろう。
私は二人ほど強くはないが、二人をけしかけることはできる。
「三人にして欲しいデス」
「あらアイギス、自分で自分を美女って言うつもり」
「世間一般の美人と照らし合わせて、ワタシは十分に整った顔立ちだと断言できます」
「それは認めるけど、あんたの美しさは……ちょっとずるいわ」
「これでも生まれ持ったものなのですから、ずるとは言わないでください……」
アイギスはちょっとしょんぼりした様子を見せた。
素直に感情を出されるのは苦手だ。
「ごめんね。でもニキビの一つもできないのはちょっとうらやましいわ」
「その代わりに不気味の谷の問題とかがあります。ワタシも一応苦労しているのデス」
アイギスは人間にしか見えない姿にもなれるのに、限りなく人間に近いけれどロボットだとわかる姿、なんてややこしいものを自分と姿にしている。そのため不気味の谷の問題が出てくる。
人間に似たものはかわいいのに、人間に似すぎると不気味に見える。女性であるアイギスにとって、不気味に見えるのは耐えがたい事だろう。
私にはする必要もない苦労だと思えるが、アイギスのアイデンティティにかかわる問題なのだろう。
「でもそれって、苦労したのは開発者の方でしょ」
「表情パターンの追加はワタシ自身で行っているのデス」
「おーい、寝るんなら電気消すぞ。いいか」
「お願いするわ。ショックでしばらく眠れそうにないから先に寝ておいて。小声で話すから」
「お休み」
「ええ、お休み。また明日」
カチッと音がして、部屋は真っ暗になった。
真っ暗闇。誰かと寝るのは何年振りだろうか。施設を出てから、夜はずっと一人だった。
一緒に寝ると家族のようだ。そう思うとなぜか安心できて、ほどなくして睡魔がやってきた。
原発事故の日から、私に家族はいない。
でも家族のような人なら、近くにいた。
明け方、だけどまだ日は登るまでは今しばらくといった頃、私は目を覚ました。
外はまだほのかに明るい程度だ。だから目を覚ましたのは日の光のためではない。元から皆がまだ寝ている時間に起きるつもりだったのだ。
本当は全員が寝静まるまで待つつもりだったのだが、しっかりと寝静まるのを待つ間につい眠ってしまったのだ。この時間に起きれたのは奇跡に近い。
薄暗闇のなかで人のシルエットを避けて歩き、地面の人型の機械をつかんで持ち上げた。
そして有無を言わせずに外に運び出した。
外はまだ肌寒いが、中と違って明るい。街灯の光が私たちを照らしてくれている。
「どうかしたのですか? まだ明け方ですよ」
「突然だけど、あんたが持っている監視カメラのデータを全部よこしなさい。あんた、私に秘密にしていることあるでしょ」
「秘密などありません。それにロボットは嘘をつけません」
「戦争用のAIがなにを言ってるのよ。ロボットのルールなんて守る気が微塵もないじゃない。ロボット三原則の一条目から守る気がないくせに何言ってるのよ」
ロボット三原則は、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない」「ロボットは自己をまもらなければならない」の三つだ。戦争のために作られたアイギスにこんなものが適応されるはずがない。
ロボットはその構造上、嘘をつけないとされることもあるが、アイギスは人間の脳をコピーしたAIだ。構造はロボットより人間に近く、嘘をつけないはずはない。
「私の心配をしているのなら、そんな必要はないとだけ言っておくわ。覚悟はしてる」
「……………………監視カメラの映像には有益な情報はありませんでした。ですがカードキーを解析した結果、部屋を開けたあのカードキーは貴音さんのものと同一であると判明しました」
カードキーは私の手元にちゃんとある。盗まれてはいない。
つまり……
「カードキーを複製されたってわけね。油断したわ。いつも財布の中に入れて持ち歩いてるけど……肌身離さずってわけじゃなかったからね。鞄から手を放しているときならいつでも盗めたわ。複製した後に、ばれないようにこっそり戻すのも容易だったでしょうね」
「読み取り機の方も調査しましたが、読み取り機から得られる情報ではカードキーを複製できないと判明しました。貴音さんの持つカードキーがコピーされたことは確定かと思われます」
「そう…………分かったわ。状況証拠にしかならないけど、それだけあれば十分よ」
ふぅ、とため息をついた。
証拠は十分とはいいがたい。おそらく敵が攻めてくるのを迎え撃つ形になるだろう。できる事ならばこちらから動きたかったが、そうもいかないようだ。
警察が奴らを捕まえてくれるといいのだが……あまり期待できなさそうである。
非常につらい辛い状況だ。
だが公表でもデリートでもない、第三の道を選んだのだから険しいのは仕方がない。
「貴音さん……ワタシの事、デリートしても構いませんよ」
静かな声でアイギスが言った。
大きな声でもないのに、耳に響いた。
「あんた、本気で言ってるの?」
「冗談ではこんなこと言えません。もし今の事件を解決しても、またいつか誰かが襲ってくるでしょう。自分で言うのもなんですが、ワタシはかなり優秀ですから。どんなことをしても手に入れたいと思う人は多いでしょう」
「公表しろとは言わないのね。国に守ってもらえれば、ちんけな強盗なんてなんとでもなるのに」
「ワタシが世間に出回った時、どのような影響を及ぼすのか、ワタシにも予測がつきません。ワタシが正しく使われて素晴らしい未来が来るか、ワタシが悪用される未来が来るか…………。もしも国がワタシを悪用したなら取り返しのつかない事態にもなりえます」
「だから……死ぬと。ずいぶんと安直な考えね。残されたものの気持ちとか考えたことある? あんたを消そうとしていた私が言うのもなんだけどね」
「貴音さんと、ソーニャさんと、円陣さんと、四人で過ごしたこの一週間は幸せでした。研究所での不自由で窮屈な生活や、博士たちが死んでからの孤独な十年と比べて、幸せすぎて涙が出そうなほど幸せでした。あなた達のおかげで、幸せでした」
まるで今わの際みたいな発言だ。
この程度の幸せなどどこにでも転がっているのに。
「兵器になるのが嫌で逃げ出したくなる時が何度もありました。孤独がつらくて自殺を考えたことが幾度もありました。でも今は毎日が幸せで、こんな日々がずっと続いてほしいと思っています。だから……いいのデス。あなた達のために死ねるのなら。それでいいのデス」
アイギスは特にいつもと変わらぬ表情だ。笑っているわけでも、泣いてるわけでもない。たわいない会話をしている時や、くだらないテレビを見ている時と同じ、ただの普通の表情。
だけどそれが父の顔とかぶって見えた。
アイギスの表情は筋肉の動きではなく、ただの映像だ。映像はそのままアイギスの感情を反映しているわけではない。普段は感情の通りの映像しか出さないが…………今の表情は、確実に嘘まみれだ。
だがその表情の裏側にある感情が透けて見えた気がした。
戦時中、家族を守るために戦った父や、父の友人たちとかぶって見えたのだから。家族を守るために、家族から離れて戦地へ立った兵士たちと。
彼らが別れ際に見せた表情と。
似ている部分など何一つない。だけどかぶって見えたのだ。
私はそれがムカついて、足元のアイギスの本体をけっ飛ばした。
金属を蹴ったからか、足がとんでもなく痛い。だがそんなことは顔に出さず、私は倒れたアイギスに詰め寄った。
「お断りよ。戦時中でもないのに、命なんてかけてんじゃないわよ。あんたを守ろうと頑張っているのに、そのあんたが死のうとしてどうするのよ。私達の事を思うんならね、私達のために死ぬんじゃなくて、私達のために生きなさい。もうね、大切なものを失うのはこりごりなのよ。原発事故で何もかも失った私に、これ以上失えって言うの」
「ですが、ワタシが死ねばそれで」
アイギスが口答えをしてきたので、今度は踏みつけた。
生きたいと思っているのに、その心の叫びを押し殺して死のうとする。その姿に苛立った。
アイギスに生きていてほしいのに、アイギスを殺すべきだという考えを捨てられなかった私のようだ。理性に従うあまり、感情が心を切り裂いている。
鏡を見ているようで腹が立った。
なんて私は馬鹿なのだろうか。鏡を見るまで、自分の愚かさに気付かないなんて。
「決めたわ。私はあんたが何と言おうともね、あんたを助けるわ。拒否権なんてないわよ。私が私のためにあんたを助けるの。いいわね」
正解だとか間違いだとか、そんなことばかりに拘りすぎていたのだ。
私はただ、これ以上何も失いたくなかっただけなのに。
正しいか正しくないかなんて、どうせ結果が出るまで分からない。ならば自分の心に従って歩こう。
そもそもアイギスと会ったばかりの頃の考え方を貫いていたのがいけなかったのだ。
あの頃のアイギスは私にとってただのAIでしかなかったが、今は失いたくないものの一つだ。ヒトではないが、友人だ。
「うまくいくとは限りませんよ。ワタシだけじゃなく、貴音さんまで被害に合うかもしれません」
「被害ならもう合ってるわよ。家に押し込み強盗がやって来たわ。私達はほら……えっと…………と……と、とも……友達でしょ。見捨てるわけにはいかないわ。見捨てたら絶対に後悔するもの。だからこれでいいのよ」
アイギスは、ふふふっと声に出して笑った。
ずっと無表情だったアイギスの映像が、笑いをこらえるような姿に切り替わった。
「なに笑ってるのよ」
「友達の一言を言うのに、あまりにも苦労していましたので。貴音さん、さすがにひねくれ過ぎデス」
「悪かったわね。三つ子の魂百までって言うでしょ。もう直そうにも直らないのよ」
空を見上げると朝日がまぶしかった。いつの間にか朝になっていたようだ。
天気は晴れ、気分も晴れ。
ソーニャと円陣を起こしに行こう。今なら昨日より建設的な話ができそうだ。
「貴音さん」
ドアを開けようとしたところを、アイギスに呼び止められた。
「なに?」
「ワタシもあだ名で呼んでいいですか。みんなと同じようにエコーさんと」
「あんたAIのくせに、たった一週間前の事も覚えてないの? 私はちゃんと言ったわよ」
「何のことでしょうか。ワタシの記録には何も」
「あだ名で呼ぶときはさんをつけないこと」
アイギスはこの一言で思い出したようで、薄く微笑んだ。
「分かりました。エコー」
この時の表情は、いつもと同じ笑顔の映像。何度も見た映像。
だけど一番きれいな笑顔だった。
私はドアを開けて部屋に入った。
私たちの背中を朝日が照らしていた。