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私はいくつもの戦争を描いてきました。ノンフィクション作家として、戦争の悲惨さを無益さを、巻き込まれる人々の悲しみを描いてきました。
だけどあの人――宮本斬九朗との出会いだけは一度も描いたことはありあせん。
今日始めて、あの日を思い浮かべてペンを取ります。
作家としての欲望か、それとも記憶が薄れゆくのが怖かったのか。自分でも分からないけれど、私はあの人との出会いから別れまで形にして残そうと思います。
小説にして売り出そうというわけではありません。これはただの自分語りです。
二千四十三年三月三日、第三次世界大戦から十年後のあの日。アフリカ中部にある小さな国の貧しい町で、助けを求める私の前に、彼はヒーローのように現れました。
「お嬢ちゃん、ちょっと家まで案内してくれないかな」
私はナイフを持った三人組に囲まれていました。このとき私は十歳で、この地域では裕福な家の生まれでした。私の着ていた小綺麗な服を見て、この男たちが絡んできたのです。ですが私は金目の物を持っていなかったので、追いはぎをやめ、強盗をしようと企んでいるようでした。
「逆らうと……」
男は私の首にナイフを軽く押し当てました。金属特有の冷たさを感じ、私は恐怖のあまり声を上げることすらできませんでした。
「どうなるか分かってるよなぁ」
「ひいっ」
低い声が私を脅します。従わないとどうなるかはよく理解できましたが、従ったところでどうにもならないことも分かっていました。
誰か助けてくれないかとあたりを見渡しましたが、誰も彼も見てないふりです。
先ほどよりも強い力でナイフを押しつけられました。
私は家のある方を指さしました。
「さぁ歩け。嘘だったら承知しねぇからな。俺は拷問のやり方だって教わってるんだぜ」
ナイフを持った男に背中を押されました。首筋に伝わる金属の冷たさはもうありませんが、かわりに背中に何か鋭い物を突きつけられている感触がします。
男の発言が真実か分かりませんが、教わっていると言うことから元兵隊だったのでしょう。
まばゆい光か私を包みました。それがカメラのフラッシュだと気付けたのは、後ろから大きなカメラを持った男がやってきたからです。
背は高く筋骨隆々で、歴戦の強者のような顔持ちでした。そして一目で外国人と分かる肌の色――この町では珍しい黄色人種でした。
「へい、そこの兄ちゃん達。小さな女の子から金を巻き上げないと生きていけないってのはどんな気持ちだい?」
下手くそなアラビア語でカメラマンは言いました。
入国したばかりでこの国のことを知らないのだと思いました。ここ最近は特に治安が悪く、強盗殺人なども起こっていました。この追いはぎ達の持つナイフは脅しの道具ではなく、彼らは必要とあらば実際に人を刺すことを躊躇わないでしょう。
「あぁ、なんだお前は」
兵隊崩れ達はナイフをカメラマンに向けて、大きな声で吠えました。
「だから取材だよ、取材。犯すのか売るのか、もしくはその子の家に押し入るのかってとこだろ。そういうことをするのってどんな気持ちだ?」
「うっせぇよ! どこのどいつだがしらねぇがなぁ。ここはお前の国のようななぁ、平和なところじゃねぇんだよ」
一人が右から、もう一人が左から挟み込むように歩いて行きます。最後の一人は私の背にナイフを突きつけていました。
「とりあえず身ぐるみ全部置いていってもらおうか」
当たり前と言えば当たり前の流れです。この町では金を持っていそうな人は襲われてしまいます。そしてこのカメラマンはお金を持っていそうに見えました。もし持っていなくてもカメラはそこそこの値段で売れます。
襲う理由としては十分です。
「おい、それ以上よるな」
「なんだ、怖じ気づいたのか? 金目の物さえ置いていけば見逃してやるぜ」
そう言ってナイフを片手に詰め寄ります。だけど次の瞬間にはナイフはカメラマンの男の手に渡っていました。
ナイフを奪われた男は唖然として、自分の手と相手の手に渡ったナイフを交互に見ていました。驚くのも当然でしょう、端から見ていた私でさえ、何が起こったのか全く分からなかったのですから。
「早く答えてくれないか、取材にならないだろ」
ナイフに回転をかけて真上に投げ、危なげなく柄の方をキャッチする。そんなことを繰り返しながらカメラマンは言います。
「…………てめぇ」
兵隊崩れ達は目で合図をし、今度は二人同時に両側からにじり寄りました。
「だから近づくなって、反撃しないといけなくなるだろ」
くるりと体と回転させ、弧を描く見事なハイキック。振り向きざまに体重を乗せた肘打ち。ものの一瞬で兵隊崩れ達が二人も地面に倒れ込んでしまいました。
「てめぇ、それ以上動くな!」
私の後ろにいた男が、再び私の首にナイフを押し当てました。のどのあたりに冷たい感触がしました。
首から血を流して倒れる自分の姿が脳裏に浮かび、体の震えが止まりませんでした。
金属の鋭い冷たさが、声も出なくなるほど恐かったです。
「お嬢ちゃん、目をつぶってくれないか」
私はカメラマンに言われるがまま目をつぶりました。
すると目をつぶったままでも分かるぐらい強烈な光がまぶたを叩き、私は思わず両手で目を覆いました。たぶん私の後ろの男もそうしたでしょう。
響き渡る鈍い音。人が人を殴る音。おそるおそる目を開けて振り返ると、私にナイフを突きつけていた男は、額から血を流して倒れていました。
「怪我はないか? お嬢ちゃん」
私は首を何度も触って怪我がないか確かめました。幸いにもどこにも傷はありませんでした。
「大丈夫……です」
「良かったな。嬢ちゃんは運が良い」
カメラマンの男はかがみ込んで兵隊崩れ達の首に小さな電子機器を取り付けています。それは脳から出る電気信号の一部を乱し、四肢を動かなくさせる機械です。手錠の方が安価ですが、この機械は小指の爪ほどの大きさなので、携帯に便利なのが利点です。そして何より歩くことすらできなくなるので、目を離しても大丈夫なのが取り柄なのです。
十年前といえどこの頃はすでに技術はかなり進んでいました。特に第三次世界大戦のおかげで……いや、大戦のせいで兵器産業は今とさほど変わらぬ程度まで進んでいました。先ほどの兵隊崩れを無力化した強烈な光も大戦中に開発された物の一つです。
「嬢ちゃんの家はどこかな? この辺は物騒だからな、送っていってやるよ」
私は家のある方を指さしました。はっきり言ってこの男の人は目立つので、一緒に行くと余計に危ないような気もしたのですが、この人なら何があっても大丈夫だと思えたのです。たとえ銃を持った兵隊に囲まれても、何十人ものテロ集団に襲われても切り抜けてしまいそうな気がしました。
「OK。鞄とってくるからちょっと待ってろよ」
どうやら鞄を置いて、私を助けに来てくれたようでした。彼の鞄はもう持ち去られてしまっていると思いました。ここは治安の悪い町です。一分でも目を離せば荷物はどこかへ消えてしまいます。
ですが意外なことに彼は鞄を持って戻ってきました。一目で高級品と分かる、丈夫でデザインの良い、キャスター付き旅行鞄でした。何か盗難防止用の仕掛けがあったのでしょう。チェーンで固定したぐらいでは防犯にはならず、鍵などかけていても意味がない物騒な町です。盗難を防ぐ、さぞ効果的な仕掛けが施されているのでしょう。あの鞄には触れないようにしょうと心に決めました。
「それじゃ、行こうか。お嬢ちゃん」
彼は私の背を押しました。彼は私の家を知らないのだから、私についてくるしかないのです。ですが私は歩み出しはしませんでした。その前に伝えなければならないことがあったからです。私は振り返って言いました。
「……あり……がとう」
ナイフで脅された恐怖がまだ残っていて、思うように声が出ませんでした。首筋に伝わるナイフの冷たさをはっきりと覚えていました。目をつぶればナイフでのどを掻き切られた私の姿が頭に浮かびます。
「お礼なんかいいさ。そのかわり取材にはちゃんと答えてくれよ」
カメラを抱えて彼はそう言いました。
「…………はい」
私は小さくうなずきました。
私は歩くと、そのすぐ後ろに彼はついてきました。彼は強面でとても強そうに見えるので、端から見るとお嬢様とボディーガードのように見えたことでしょう。ただボディガードの方が良い服を着て、さらに首からカメラがかかっていることだけが不釣り合いですが。
「お嬢ちゃんはこの町の出身なのか?」
「……はい」
「でも嬢ちゃんは他の人たちとは雰囲気が違う気がするんだよな」
彼は町の人たちを眺めて言いました。その時通っていたのは貧しい人達が住む地域なので、私と違いぼろぼろの服で、疲れた顔で、生気のない瞳の人がたくさんいました。スラム街よりはましですが、治安はあまり良くありません。その上、栄養失調やはやり病で死ぬ人も多かったはずです。
あまり近づきたくない場所ですが、国の至る所にこのような場所があり避けては通れぬ場合もありました。
「私は……裕福な方ですから」
「なるほどねぇ」
彼は何度か頷きました。それから町の様子、人々の様子などを質問してきました。どうやら彼はこの町に来たばかりのようです。私は子供で、世間のことなどほとんど分かっていなかったので、彼の質問にはあまり答えられませんでした。町のみんながそわそわしていると伝えただけでした。
彼は残念そうなそぶりも見せませんでした。彼は何も期待してなかったのだと思います。ただカメラマンとしての癖のような物で、聞けるならとりあえず聞いておこうとしたのだと思います。情報というのは時に全く予想もしない所から飛び出す物だと彼は考えていたのでしょう。
「たくさんの兵隊が歩いているのを見たことはあるかい?」
他の質問とは違い、その質問をしたときだけ彼の表情は真剣でした。十歳の時の私でもこの質問の意味と意図が分かりました。なぜならこの国、スルトという名の小国は戦争中だったからです。彼は戦争のまっただ中、最も戦争らしい光景、血と硝煙の臭いあふれる殺しあいの光景を、燃える家を、死にゆく兵士を、悲しみに暮れる民間人を、そのカメラに納めに行くのでしょう。そのために必要なのは次の戦場の情報であり、それを予測するための兵士の情報なのです。
「大通りで出会いました。戦車とかも一杯あって……まるで…………」
まるでこれからどこかの基地を攻めるかのような……そんな軍隊でした。兵士達は殺意に満ちた目をしていて、銃は血が出るのではないかと思えるほど強く握りしめられていました。とてもじゃありませんが、守るために集められた兵には見えませんでした。
「その時に巨大な人型ロボットは見なかったか。五階建てのビル……いやあの小さな丘ぐらいの大きさだ」
小さいといっても丘は丘。彼が指さした丘は最低でも大人八人分ぐらいの高さがありました。その大きさのロボットというとそれはものすごい大きさでしょう。私はそんなもの見たことも聞いたこともありませんでした。この国は、というよりはアフリカ全土は第三次世界大戦の主戦場とはならなかったため、その兵器に関する知識が広まってなかったのです。軍の関係者は知っているでしょうが、私みたいな民間人では知っている人はほとんどいなかったでしょう。子供ならなおさらです。
私は首を横に振りました。彼はそうか、と残念そうにつぶやきました。
ここで彼との会話は一度途切れ、これ以降ほとんど会話することなく家に着きました。
ですが私はこのとき聞いておくべきだったのです。その巨大なロボットとは何か、何のために作られ、どんな機能があって、どんな欠点があるのか質問するべきだったのです。
それを聞く機会は何度もあったのに、一度も聞かないまま過ごしてしまったのです。
もしきいていたならこの先に起こった悲劇にも立ち向かうことができたかも知れません。少なくとも何もできず、状況に流されるだけに終わることはなかったでしょう。
私の一つ目の失態でした。
家に着いたとき、日は沈み始めていました。あと二時間もすれば暗い夜がやってきます。夜は危険です。夜は犯罪者の時間です。夜が来る前に戸締まりをきちんとしなければなりませんが、この時間ならまだ間に合うでしょう。
「ここが嬢ちゃんの家かい?」
「はい。そうです」
このときにはナイフで脅された恐怖から大分立ち直れていたので、普通に受け答えすることができました。
「良い家じゃないか。ま、俺の家ほどじゃないがな」
「どんな家なのですか?」
いつもはこんなに丁寧に話すことはないのですが、彼は命の恩人と言ってもいい人ですので、失礼の無いように気をつけて話していました。また他の同年代の人と同じで、子供扱いされるのが嫌だったという理由もあります。
「二階建ての小さな家なんだけどな、夏は涼しくて、冬は暖かい。そして何より仕事から帰ってくると、できたての暖かい夕飯がいつもあった」
昔を懐かしむような表情で、どこか遠くを見ながら彼は言いました。その言葉が過去形なのには気付いていましたが、私は何も言いませんでした。しかしこのとき私は、この国に来ているから、故郷のご飯を食べれないだけと勘違いしていました。この時分の私は、第三次世界大戦に巻き込まれた日本の惨状を知らなかったからです。
第三次世界大戦はこの時よりさらに十年前。彼は青春時代を戦争のまっただ中で過ごしていたのです。
「それじゃ俺は宿に戻るぜ。今度会ったときに取材するからよろしくな」
彼は私に手を振って、それから背を向けて歩き出しました。
「待ってください」
私は呼び止めました。しかし自分でもなぜ呼び止めたのか分かりませんでした。ただ気がついたら声をかけていたのです。
彼は足を止めて振り向きました。しかしとっさに言葉が出てきません。
「あの……ええっと…………夕食……食べていきませんか?」
そう言って私は彼を夕食に誘いました。取材に答えるだけでは、受けた恩に報いることができていないと感じたからです。思わず彼を呼び止めてしまったのは、それが理由だと自分で解釈しました。
「うまいのか?」
「自信はありますよ。だって腕の立つ人を雇っているんですもの」
私の家はそこそこのお金持ちだったので、家政婦を一人雇っていました。その家政婦さんがとても料理上手だったのです。掃除や洗濯もそつなくこなす優秀な人でした。
「なるほど。期待しておくよ」
楽しげでも嬉しげでもなく、先ほどまでとそれほど変わりない調子で言うので、あまり期待しているようには聞こえませんでした。そこで、どうして? と聞くと、故郷の味をこえる物は無いからな、と答えてくれました。
「それって、どんな味なのですか?」
「口で説明するのは難しいな。今度機会があれば作ってやるよ、ただし材料費は嬢ちゃんにお願いするぜ」
「それぐらいかまいませんよ」
私は外国の料理は食べたことがなかったので楽しみでした。とは言っても実は知らないうちに、簡単な外国の料理は家政婦さんが作ってくれていたのですが。
「それじゃあ、行きましょうか。父さんが心配してるかもしれません」
「心配が足りなかったようだけどな」
「ボディガードを雇うわけにはいきませんもの」
家は裕福ではありましたが、何人もボディガードを雇えるような金持ちではありませんでした。それにボディガードをするような屈強な人は皆、戦争に行ってしまっています。
私は門を開け、庭へ踏み出しました。彼もついてきました。
「しかし大きな家だなぁ。俺だったら持て余すね」
「そうでもないと思いますけど」
「俺の故郷は狭いくせに人口多かったからな、みんな狭い部屋に済んでいたんだよ」
「どこの出身なのですか?」
「ん、日本だよ日本。国名ぐらい聞いたことあるだろ」
遠い遠い東の海に浮かぶ島国だと聞いたことがありました。自分とは全く関係ない、これからも関わることのない遠くの国だと思ってました。
「はい。名前だけなら」
「良い国だぜ。機会があれば来てくれよ。嬢ちゃん。二十年後ぐらいにな」
「ソーニャ」
「ん?」
「私の名前」
嬢ちゃんと呼ばれるのは子供扱いされてるみたいで嫌でした。私は早く大人になりたかったのです。大人とはどんな物かよく知りもしないのにです。ただ大人になればもっと自由に生きられると、そう思っていました。
「ソーニャか。良い名前だな。俺は斬九朗。宮本斬九朗だ」
一言で感想を言えば、変な名前、です。呼びにくいし覚えにくい、何よりもその発音が実に奇妙でした。
日本語の発音は英語ともアラビア語ともかけ離れていて、私には非常に発音しづらいものでした。十年後の今でも日本語はうまく話せません。
「ザァンキュロウ?」
「違う、ざ、ん、く、ろうだ」
「ざんきゅろう」
「惜しいな。ざんくろうだ。リピートアフターミー。ざんくろう」
下手くそなアラビア語のなかになぜか流暢な英語を交ぜて彼は言いました。スルトは英語とアラビア語が公用語ですが、片方しか話せない人も多いです。彼はそう言った人に取材するために、最近になってアラビア語を覚えたのでしょう。
「ざん……く、ろう。」
とても言いづらい名前です。もっと言いやすい名前にしたらいいのにと思いました。そう思ったことで閃きました。
名前が呼びづらいのならニックネームで呼べばいいのです。
「ザック」
「ん?」
「貴方のことをザックって呼んでも良い? 貴方の名前、呼びづらいんですもの」
ざんくだからザック。とても呼びやすくなりました。個性的な名前からどこにでもいるような一般的な名前になりました。
「ザックか、……うん、格好良くてスタイリッシュな名前じゃんか。気に入ったぜ」
嫌がるかもしれないと気にしてましたが、彼はこの呼び方が気に入ったようです。格好良いとスタイリッシュは意味がかぶっているような気がしますが……。
後に知ったことですが、彼は斬九朗という名前が古くさくて嫌だったそうです。でも親からもらった名前だから大事にしなければならないと困っていたそうですが、ザックは斬九朗という名前からとったニックネームですので、親からもらった名前を大事にしながら、格好良い名前を名乗れて嬉しかったそうです。
「普通の名前だと思いますが」
英語圏では普通の名前ですし、アイザックやザカリーといった名前の方々の愛称は一般的にザックなので、私には格好良いとは思えませんでした。だけど彼が気に入ってくれたのは何よりです。
「日本人は英語の名前が大好きなのさ。ドイツ語ほどではないけどな」
英語のよさは分かりませんが、ドイツ語の名前に憧れたことがあります。つまりは外国の言葉は格好良く聞こえると言うことなのでしょう。人間という物は自分に無いものに憧れる生き物です。なら自国にないものに憧れるのもおかしい話ではないでしょう。
ドアを開けて家に入りました。ただいま、と言うと家政婦さんがやってきました。
「お帰りなさい、お嬢様。そちらのお方は」
「郊外の方で追いはぎに襲われたの、でその時に助けてくれたのがこの人」
私は彼を指さして言いました。
「ザックだ。カメラマンをやってる」
早速彼はザックと名乗りました。気に入っている言葉は嘘では無いのでしょう。
「これはこれは、お嬢様をありがとうございます」
ザックは丁寧にお辞儀をしました。それからこちらを向くとさっきまでの表情が嘘だったかのように険しい表情になりました。
「危ないから遠くまで行ってはいけないと言われたでしょう。貴方に何かあると私の責任にもなるのですよ」
「すみません。これからは気をつけます」
この時は脅された出来事がトラウマになっていて、頼まれたって郊外の方には行きたくないと思っていました。ずっと安全なところで暮らしていたいと思っていました。
しかし十年後の現在ではカメラを片手に危険区域を走り回っているのですから、人生とは不思議なものです。
「それではご飯にしますよ。ザックさんはどうしますか」
「私なんかが一緒でかまわないのですか」
「かまいませんよ。一人分増えたところでたいした手間ではありませんし」
「それでは頂かせていただきます」
ぎこちない言葉でそう言ってザックは頭を下げました。
「かなり変ですよ」
「そう言うな。丁寧な話し方は慣れてないんだ」
「カメラマンなのに? 取材相手に失礼な言い方をしてはいけないのでしょ」
「俺が取材相手を怒らせた回数を聞かせてやろうか?」
自慢げに言うことではないと思いましたが、口には出しませんでした。たぶん言っても意味はないでしょうし、私が言うことでもないでしょう。
それから二人でリビングに向かうと、両親はすでに座って待っていました。
ザックとの出会いについて話し、勝手に郊外に行ったことを謝り、ザックと両親が自己紹介を終えた時に料理が運ばれてきました。
「ザックさんは戦場カメラマンと言うことでよろしいのですかな?」
「はい。スルトとラザウィル共和国の戦争の惨状を世界に伝えるために来ました」
「立派なお仕事ですな。戦場カメラマンになったきっかけはやはり」
「はい、お察しの通り第三次世界大戦がきっかけです。世界中を苦しめたあの戦争の後にも、まだあちこちで戦争が起きていると知って国を飛び出しました」
父さんとザックが話をしています。丁寧な話し方で、まるで大人の会話と言った感じで私が入る余地はありませんでした。
「ザックさんはこの戦況をどう見ますか」
「はっきり言ってしまうと、このままではスルトは負けますね」
父さんは少し落ち込んだ様子でしたが、焦ることはなく落ち着いていました。自国が負けると言われてその程度の反応なのは、ある程度予想できていたことだったからでしょう。
この時の戦況はかなり不利でした。小国のスルトでは軍事大国のラザウィルを相手に戦争をして勝てるわけがないのです。
しかし挑まれたなら受けるしか無く、始まってしまっては勝つしかないのです。負けてしまうと多額の賠償金を払わされたり、不利な条約を結ばされたりしてスルトは非常に苦しい状態に陥ります。なのでなんとしてでも負けるわけにはいかないのです。
「やはりそうですか。ではどうすればいいと思われますか?」
父は真剣な目でザックに問いました。スルトはこの戦争が初めての戦争です。第三次世界大戦には参加していませんでした。
スルトには戦争の経験が無く、知識も足りません。戦場を渡り歩いてきた戦場カメラマンなら良いアドバイスをくれるかも知れないと考えたのでしょう。
父は政府の役人でした。この国を率いるものの一人として、この状況をどうにかしようとしていたのでしょう。
「旧ロシアの国々に助けを求めることですね。ラザウィルはヨーロッパの国々と仲が良い。スルトを助けてくれるとなると旧ロシアの国々でしょう」
「……しかし」
「すでに助けを求めていることは分かっています。そしてスルト国内に眠るレアアースの輸出を求められていることも」
「スルトの経済は現在、資源の輸出で成り立っています。旧ロシアの国々の要求する金額でレアアースを輸出した場合……おそらく経済が破綻します」
私は話に加われない代わりに、できる限り耳を澄まして聞きました。この二人はテレビで流れている情報よりも、さらに深いことを話しているように思えたからです。
「しかしそれしか方法はありません。ラザウィルはBWVを購入したようです。しかしスルトはまだBWVを手に入れてないでしょう」
「どうしてそんなことまで」
「戦争反対派同士常に連絡を取り合っているので。さすがに機密情報は手に入りませんが、BWVぐらい目立つ物ならすぐに情報が入りますよ」
BWVとはいったい何なのか疑問に思いました。二人はそれについて真剣に深刻な表情で話していたからです。話の内容を聞く限り、戦況を一変させる何かであることは分かりました。
「……やはり、このままでは」
「前線は後退を余儀なくされるでしょう。このあたりも占領されるかもしれません。国境からそう離れているわけではありませんから」
父さんが思い詰めた表情で考え込みました。それもそうでしょう、住んでいる町が占領されるかもしれないと聞いて不安にならない人はいません。
「…………ザックさん……しばらく家に泊まっていく気はないかね」
「どうしてですか」
「この町が占領されたとき、私が無事である保証はない。私はただの民間人ではないのでな。……そこで、何かあったとき娘をお願いしたいのじゃ。そのかわり家賃はなし、食費だけいただければいいです。受けてくれますか?」
「なぜ私に?」
「貴方は信用できそうだと思ったからですよ。貴方は戦争を憎んでおる。そして悪事もきらいじゃろう。それになにより、娘を助けてくれた」
「……分かりました。その代わり一つお願いがあるのですが」
「何じゃ」
「二ヶ月、いや状況によっては三ヶ月をこえる長期の滞在を許して欲しいのです。そのかわりというわけではありませんが、家賃はお払いしようと思っています」
「かまいませんが、どうしてまたそんなことを。一カ所に腰を据えるより、あちこちを転々として自由に動き回る方が仕事に向いているでしょうに」
「まぁそうなんですが、この国はそれほど広いわけではないので、足があればどこにでも駆けつけることができます。だけど一番の理由はこれですね。飯がうまい。まるで料理店のような味ですよ」
ザックが笑顔で言うと父さんも笑って、私も笑いました。
「我が家の家政婦はそれが自慢ですからな」
父さんが自慢をして、家政婦さんは気恥ずかしそうに微笑みました。
食事が終わって、ザックは空き部屋に通されました。一階の物置の隣で、私の部屋の近くでもあります。私は取材の約束もあるので、彼の部屋に向かい、部屋をノックしました。
「どうぞ」
ドアを開けて中に入りました。部屋の中にはたくさんの機材が置かれていました。その中のいくつかは分解された状態です。機材の整備をしているのでしょう。
「ソーニャか。レディーがこんな時間に男の部屋に来るもんじゃないぜ」
「取材は良いの?」
「そんな物いつでもできるさ。それに……ソーニャはまだあの時のことを思い出すべきじゃない。酒の肴にできるぐらい落ち着いたら、その時にでも取材するよ」
取材に答えるためには、その時のことを鮮明に思い出さなければなりません。男達の声を、ナイフの冷たさを思い出さなければなりません。できることなら思い出したくありません。だから私はそれ以上何も言えなくなりました。
「何をしているの?」
仕方が無いので、話題を変えました。我ながら無理矢理な変え方だったように思えます。
「武器の整備だよ」
「武器? カメラじゃなくて」
「カメラは撮れたら大丈夫さ。今の技術ならちょっとぐらいフィルムが破けても復元できる。だけど武器は……ちょっとの差が生死を分けるからな。命あっての物種さ」
確かに言ってることはもっともですが、カメラマンとしては違和感があるように思いました。カメラマンは皆、最高の写真を撮るために全力を尽くしていると考えていたからです。しかしザックは写真なんか撮れたらいいという考えでした。カメラマンらしくないというのが私の感想です。
ザックは慣れた手つきで、大小様々な武器を分解し洗浄し組み立てていきました。屋内ですので、動作チェックは行わないようです。
「これは何なのですか?」
私は小さな半球状のガラス片を指さしました。
「ああ、それはコンタクトレンズの一緒だよ。小さなメガネと思えばいい」
「目が悪いのですか」
「残念ながらそれにそんな機能はないよ。それは遮光体と暗視ゴーグルを兼ねた代物だ。ま、簡単に言うと明るくても暗くても前が見えるようになる代物ってわけだ」
それがどれだけ高性能な代物かはよく分かりました。それが大きなゴーグルなら驚きはしません。それは私の爪と大して変わらないぐらいの大きさなのです。いったいどうすればこんな小さな物に、そんな機能をつけられるのでしょう。
「念のため言っておくが、近距離でフラッシュバンをくらっても問題ないぐらい高性能だからな」
私は余計にこんがらがりました。つまりはザックが兵隊崩れ相手に使用したような、強烈な光で相手の視界を封じる兵器を使われても、問題なく前が見えると言うことなのですが、このときの私では理解できませんでした。そもそもフラッシュバンがどのような物なのか知らないので、理解しようがなかったのです。
「ま、分からないならそれで良いし、その方がいい」
彼はそれから整備に集中し、静かに黙々と作業を続けました。邪魔をするのも悪いので私は静かに様子を見ていました。
どんどんと窓を叩く音がしました。窓の外を見てみると一人の少年がこちらを除いています。短髪で大きな目が特徴的で、第一印象は野山をかけずり回る元気いっぱいの男の子でした。そして実際に第一印象通りの元気いっぱいで体力の有り余った少年です。
「こんばんは、アンソニー。こんな時間にどうしたの?」
私が窓を開けると、猿のように身軽に家の中に入ってきました。
「こんな時間じゃないと会えないだろ。朝から夕方までずっと農作業なんだから」
「そんなに働いているのによくここまでこられる元気があるわね」
アンソニーは私を見つめて言いました。
「君がここにいるからね」
格好付けた言葉に対して私は何も言いませんでした。アンソニーはキザな言い方が好きなのか、時々こんな言い方をしていました。問題はそんなキザな言葉を言っているのが虫取り網と虫かごが似合う少年だと言うことです。似合ってないとしか言いようがありません。
「その言葉はバラの花を片手に言う物だぜ、少年」
ザックが言っている事は間違ってはいないのですが、アンソニーがバラの花を片手に頭を垂れる姿を想像して吹き出しそうになってしまいました。
「なんだよこいつは」
アンソニーが唇をとがらせて言いました。
「戦場カメラマンのザックさんよ。しばらく一緒に住むことになったの」
「……戦場カメラマン……ねぇ」
アンソニーは害虫を見るような、とまではいきませんが、何か嫌な物を見るような目でザックを見ました。それが見間違いではないと、不快感を隠そうともしない声が告げていました。
しかしザックは全く気にした様子もなく、作業をしながら平然と答えました。
「良い仕事だろ。ちょっと危険なのがネックだがな」
「何が良い仕事だよ、戦争を食い物にしてるだけじゃねぇか」
その言葉でなぜアンソニーがザックを嫌うのか理解できました。アンソニーはこの戦争で大好きだった父を亡くしています。だからアンソニーは戦争に関わるもの。銃、爆弾、地雷、爆撃機といったありとあらゆる武器から、軍事キャンプ、軍服、武器工場、武器職人、兵士に政治家まで、戦争に関わる何もかもを憎んでいました。戦争を写し、金を稼ぐ戦場カメラマンも例外ではなかったのでしょう。
ザックはぴたりと作業をやめ、ザックの方を向きました。ザックは笑顔のままでしたが、今までとは違う種類の笑みでした。
「良いこと言うじゃねぇか、少年。戦場カメラマンなんてさ、いない方が良いんだよ」
いない方が良いとザックははっきりと言いました。戦場カメラマンである自分自身を彼は否定しました。
「なんでそんな仕事してんだよ」
「戦争が始まったからだよ。戦争が始まると、俺たちを呼ぶ声が聞こえるんだよ。この惨状を、苦しみを世界に届けてくれって声がな、戦争なんて早く終わってくれって声が聞こえるんだよ。だったら……動かないわけにはいかないだろ」
戦場カメラマンが必要なこの世の中が間違っているのでしょう。でも間違ったこの世界には戦場カメラマンが必要なのです。この世界の間違いを伝え正すために彼らは必要なのです。
もしも戦争が無くなったら彼は食い扶持を失うわけですが、その時は笑顔で再就職先を探すことでしょう。
「そんな声聞いたこと無いね」
「少年にはまた別の声が聞こえるのさ。俺には写真を撮る技術があった。生き延びるための格闘技の心得があった。だから俺は戦場カメラマンになったのさ。少年には少年のできることがあるだろう」
アンソニーは言葉に詰まりました。それから小さな声で、そんなもんねぇよ、とつぶやきました。
ザックはもう何も言わずに作業に戻りました。アンソニーは何か言いたげでしたが、ザックは気にせずに黙々と整備をしています。
アンソニーは諦めて、近くの椅子に腰掛けました。今は何を言っても言い負けるような気がしたからでしょう。
かといって黙るわけではなく私に話しかけてきました。そもそも彼は私と話をするために来たのです。
「そういえばさ、傭兵が三人も路地裏に転がってたって事件知ってるか。どうも最新鋭の機器で拘束されていたみたいだぜ」
話を聞いていたザックの手が一瞬止まりました。傭兵三人、最新の機器、なんのことかすぐに分かりました。私を襲った追いはぎ達の事に違いありません。
「……まぁいいか」
ザックはそんな独り言と共に作業を再開しました。たぶん忘れていたのでしょう。彼らは何時間も身動きがとれないまま放置されていたようです。通行人に気付かれなければ一日中放っておかれたことでしょう。かわいそうではありますが、自業自得としか言いようがありません。
「そいつら私を襲ってきた奴らよ。驚いた。現役の兵士だったのね」
傭兵をあんな目に遭わせてしまって大丈夫なのかと心配になりましたが、そもそも先に仕掛けてきたのは向こうです。やらなければやられるのですから仕方がありません。もし仕返しに来たとしても、こちらにはザックがいるので大丈夫でしょう。
「襲われただって! 大丈夫なのか? 怪我はない? ああ、僕がそこにいれば君を守ってあげれたのに」
「アンソニーがいても返り討ちだと思うわよ。相手はプロなんだから。それにその時はザックが守ってくれたわよ」
アンソニーは小さな声で毒づいてから、そっぽを向いたままザックにありがとなと礼を言いました。ザックは礼を言われるほどのことじゃねぇよ。と返しました。
「無事なようで何より。最新鋭の機器は東洋の代物だったのか」
「メイドインジャパンだよ。不良品の少なさに定評のある日本製だ」
ザックは自慢げに言いました。スルトでも日本製の物は品質が良いと評判でした。その証拠にスルトを走る車の六割は日本製です。ただ、そのほとんどは流れてきた中古品ですが。
「ふん、武器の質が良く立って何の自慢にもならねぇよ」
「自慢になるさ。殺すための武器じゃない、助けるための武器だぜ。殺傷力は皆無だ」
「銃だってあるじゃないか」
アンソニーは床に散らばった武器の中にある、一丁の銃を指さしました。確かに銃は基本的に殺すための武器です。
「ペイント弾とショック弾頭だよ。殺傷力のある弾は一つもねぇよ」
銃はあくまで遠くに、高速で物を飛ばす武器です。込める弾によって効果は変わります。ただ威力が高いので、たとえゴム弾でも当たり所が悪ければ人は死ぬと聞いたことがあります。でもおそらくですが、ここにある弾は何があっても人を殺さないようにできているような気がしました。
アンソニーは疑わしそうに見ていましたが、殺傷力があるか否かアンソニーには見分けることができないので、何も言い返せないでいました。
「おい少年」
「なんだよ」
「今月はあんまり出歩かない方がいいぞ。情勢が不安定だからな」
「情勢なんかいつも不安定だよ」
アンソニーはそう言い返しました。ザックの言葉を真剣に受け止めているようには見えません。
アンソニーはこんな治安の悪い町で、夜に出歩くような人なのです。
「あ、でもソーニャはしばらく出歩くなよ。兵隊達が仕返しに来るかもしれないだろ」
「大丈夫よ。外に出るときはザックについてきてもらうから」
「おいおい、僕のことも頼ってくれよ」
「ザックぐらい強くなったら考えてあげるわ」
小柄で非力なアンソニーなザックのようになるには、後十年はかかりそうです。ザックは勝ち誇ったような目でアンソニーを見ていました。アンソニーはそんなザックをにらみ付けていました。
「冗談よ。頼りにしてるわ、アンソニー」
「冗談はもうちょっとわかり言ってくれよ」
アンソニーはいつもの裏表を感じさせない、邪気のない少年らしい笑みを浮かべました。
アンソニーはちょっと変わったところもあるけれど、やはり普通の男の子だったのです。だからアンソニーと会うと冗談を言えるぐらい心が軽くなるのでしょう。
「それじゃ、俺は帰るわ。しっかり寝ろよ、ソーニャ」
「こっちの台詞よ。バイバイ、アンソニー」
アンソニーは窓から颯爽と出て行きました。まるで猿のように身軽な動きでした。
「大丈夫かな、あいつ」
ザックはただ帰り道だけの心配をしているのではなさそうでした。
「大丈夫だと思うわ。逃げ足は速いもの」
「そんなやつに限って油断するんだよな。ラザウィル軍に捕まらなければいいが」
「ラザウィルがここまで来るの?」
ザックはため息混じりに告げました。勘や予想ではなく、根拠ある予測を。
「十日以内にこの町は占領されるよ」
そして彼の予想通り、この日から九日後、ラザウィル軍がやって来るのです。
二日後、つまりラザウィル軍がやってくる七日前の事です。ザックが取材に行くというので、私もついて行くことにしました。
治安の悪い貧民街を避けて、町の外、東の国境近くにある危険区域の手前まで歩きました。
スルトとラザウィルの国境は東から南にかけて広がっています。つまり私たちが前線のすぐ手前まで来たのです。
それなりの距離を歩いたので、私はもう疲れ切っていましたが、ザックはまだまだ余裕があるようでした。さすがは戦場カメラマンです。
町は閑散としていました。危険区域のすぐ近くで、非常に危険なこともあって大多数の人は避難しているようでした。残っているのは逃げることのできない人々、つまり老人や怪我人、麻薬中毒者、行く当てのない貧乏人などです。
そのため寂れているだけでなく、非常に気味の悪い町でした。
「あまり離れるなよ」
「はい……貧民街より……怖いです」
「まぁ、そうだろうな」
このような町でもザックは臆することなく声を掛け、取材をしていきます。取材を断られることや、そもそもまともに会話にならない場合も多かったです。しかし声をかけ続け、様々な人の言葉をノートに書き記していきました。
「いつものことだが……暗い話ばかりで気が滅入るぜ」
「そう……ですね」
こんな状況では仕方がありませんが、明るい話など全く効きませんでした。
町の様子を写真に撮っている最中に、遙か前方を兵士の一団が通り過ぎていきました。様々な肌の色の人達が、似たような武器を持って、危険区域の中を歩いています。
おそらくスルトが雇い入れた傭兵の集団でしょう。正規軍なら全員が黒人であるはずだからです。
「ソーニャが見かけたのは、あんなやつらか?」
私は首を横に振りました。私が見かけたのは一糸乱れぬ動きをする、まさに正規軍と言った様子の軍隊でした。寄せ集めの集団ではありません。
「ううん。私が見かけた軍隊に、外国人はいなかったわ」
「正規軍か……無茶してなきゃいいがな」
そう言いながら、ザックはカメラを構えました。レンズは軍隊ではなく、その横――ラザウィル共和国のある方向を向いています。遠くにいる軍隊と、それらが向かっていく先を写そうとしてるのでしょう。
後ろから足音がすると同時に、何度か耳にした嫌いな音が聞こえました。
それは戦いの音であり、人殺しの音。拳銃のスライドが引かれ、弾が装填された際の音です。
「撮影は禁止だよ」
拳銃を握った手が後ろから伸びてきて、私の頭の横を通り、ザックの背中に銃口を押し当てました。
男が引き金を引くと、先ほどの音よりも嫌な音――火薬が爆発する音が響き、ザックの背中を銃弾が貫くでしょう。
だけどザックは意に介さず、シャッターを切りました。
「ヒッッ」
パシャリと響くシャッター音。起こりうる最悪の展開を怖れ、私は目を覆いました。
だけど撃鉄は倒れず、銃声はなりませんでした。
「女と子供と民間人は撃たないんだろ」
「できる限りだ。少年兵は撃つし、女でも敵兵なら撃つ。進入禁止区域の中から撮っていたら、君のことも撃たざるを得なかったよ」
おそるおそる目を開けると、ザックと兵士が楽しそうに談笑を始めていました。やってきた兵士とザックは知り合いだったのです。
それならば銃など突きつけず、初めから仲良くしてればいいと思うのですが、これが彼らの友情なのでしょう。二人は戦場で知り合ったのではないかと、私は思いました。
「ソーニャ、紹介しよう。こいつは王 弦月。見ての通り中国人だ。傭兵のくせに平和主義の変わり者でな。害はないから仲良くしてやってくれ」
「見ての通りって……アジア系の違いが分かるのは、アジア系だけだよ。アフリカの人にとって中国人も韓国人も日本人もみんな同じさ」
弦月の言うとおり、私には二人の違いが分かりませんでした。筋骨隆々で強面のザックと、細身で優しげな相貌の弦月。違いは分かるのですが、それが個人の特徴なのか、それとも人種的な違いなのか分からないのです。
「それもそうか。俺だって黒人の違いなんてほとんど分からないからな」
ザックは自嘲気味に笑いました。しかしザックは私よりはましでしょう。私は黒人の町に生まれ、ほとんど町の外に出かけることもせずに生きてきました。ザックのように世界を見て回ってはいませんでした。
「で、弦月、こいつはソーニャだ。ここいらじゃ裕福な方の家の生まれで、今俺はソーニャの所に居候している」
ザックが私の背中を軽く叩きながら、弦月に紹介しました。
ずいぶんと雑な紹介だったような気がしましたが、文句を言う前に頭を下げました。挨拶もせずに文句を言っていると子供みたいだと思ったからです。
「初めまして、ソーニャ・ジタンです。ザックとは西部の町で知り合いました。お二人は、どこで知り合ったのですか?」
気になったので聞いてみました。おそらく戦場と答えるでしょうが、二人がこうして仲良くしているので気になったのです。
殺し殺され殺し合う戦場で、人と人は仲良くなれるのでしょうか?
「ん~と、どこだったかな? たぶんロシア内乱の時だと思うんだけどなぁ」
「その前の石油戦争の時だよ。採掘現場で出会ったのが最初だよ」
あきれた様子で弦月が言いました。ザックはその見た目通り、豪快な所があるようで、で、どこで出会ったかなどあまり気にしていない様子でした。弦月はその反対で、細かいとこまでしっかりと記憶する人のようでした。
「ああ、思い出した思い出した。放火事件の時だろ。懐かしいぜ」
「あんな事があったのによく忘れられるな。あの時は寿命が縮まるかと思ったよ」
「すまんな。あの頃は俺も若かった」
「まさかテロ組織に取材に行くカメラマンがいるとは思わなかったよ」
「まぁなんとかなったんだからいいじゃねか。俺が集めた情報、役に立っただろ」
ザックと弦月が楽しそうに思い出話に花を咲かせたため、私の入り込む隙間はありませんでした。しかし二人の話は聞いているだけで非常に面白く、わくわくする内容でした。
まるで冒険譚のようでした。
必死の聞き込みで事件の真相を追う話や、人質を助けに行く話。どれもこれも小説のようなお話でした。
「思い返してみると、いろいろあったなぁ」
「君が無茶をしすぎなんだよ」
あきれた様子で弦月が言いました。
「ああ、すまんすまん。次からは気をつけるよ」
生返事にもほどがあります。次があっても、気をつけることはないでしょう。弦月も慣れていたのかそれ以上注意をすることはありませんでした。
「ところで正規軍の行き先を知らないか? 今日はそれを調べに来たんだが」
ザックが軍についての質問をしたとたん、友人の顔から傭兵のそれに代わり、首を横に振りました。友人相手でも口が軽くなることはなさそうでした。
「……軍事機密だ」
「……お堅いことで。ま、ここにいないって事は攻めに行ったんだろ。おおかた……BWVの導入に慌てて、壊しに行ったって所じゃないか」
またBWVが出てきました。巨大で人型のロボット。そしてそれ一つで戦局を揺るがす強力な兵器。いったいどんなものなのでしょうか、と疑問に思いました。
「分かっているなら聞かないでくれ」
弦月は硬い表情を少し崩して、やや嘆息気味に言いました。
「結果はどうなると思う?」
「何度も言わせるなよ。分かっているんだろ」
「…………やっぱり……そうなるよな」
ザックにしてはすこし勢いのない声で言いました。それでなんとなく、正規軍がどうなるか分かりました。軍事力はラザウィルの方が勝っているのです。
「それじゃ、俺は取材に行くぜ。弦月はしばらくここで勤務か? 今度はゆっくり昔話でもしようぜ」
「いや、ここの警備は今月いっぱいで終わりだよ。短期契約なんだ」
「お、そうか。なら家に帰って娘に会いに行けよ。なかなか会えなくて、寂しがってるんじゃないか?」
一瞬だけ、弦月の表情が陰りました。だけど彼が手で表情を隠したため、すぐに見えなくなりました。一瞬見えた暗い顔は、私の十年の人生で一度も目にしたことのない表情でした。子供の私では理解できない感情から来た表情の変化だったのでしょう。
「どうした?」
ザックも気になったのか、不安げな様子で聞きました。
「いや、来月からまた勤務なんだ。ラザウィルで、長期の仕事だから、戦争が終わるまで帰れないかも知れない」
子供に会えない親の気持ち。それは子供時代の私では、とうてい理解できないものです。
大人になった現在の私でも、完璧に理解できているとは思えません。親の気持ちは、親にしか分からないのです。
「そうか……すまなかったな」
「いや、いいんだ。前線に出る仕事ではないからね、戦争が終わればちゃんと会えるよ」
「軍事教練か?」
「いや、ハイテク兵器の整備だよ」
ラザウィルの軍事力は相当なものですが、軍事技術では先進国に後れを取っていました。
そこで最新兵器をヨーロッパの国々から輸入していたのですが、最新のハイテク兵器は説明書を見ただけで扱えるようなものではありません。その問題を解消するために、ラザウィルは最新兵器を扱える傭兵を雇っていたのです。弦月もその一人でした。
「良かったな。そこなら戦死はないだろう。早く娘さんに会えるように祈っとくよ」
ザックは弦月の背中を叩きながら言いました。最新兵器の整備ならば前線に出ることはありません。傭兵の仕事の中ではかなり安全な部類に入るでしょう。
「ありがとう。君の夢が叶うことも、祈るだけ祈っておくよ」
「じゃあな。俺はこれから取材だ」
「バイバイ。僕もそろそろ警備に戻らないといけない」
そうして二人は手を振って別れていきました。
ザックはいつ会えるかも分からない世界で、もしかするともう二度と会えないかも知れない暮らしをしているのに、また明日とでも言うように別れを告げました。
私も弦月に別れを告げて、町の中心へ向かっていくザックを急いで追いかけました。
ペンを置いて、コーヒーを入れるために席を立ちます。
私とザックの物語の、主な登場人物が揃いました。
戦争を終わらせたいザック。
戦争に巻き込まれたアンソニー。
そして――
――――――戦争を糧に生きる弦月です。
弦月だけは戦争の被害者ではなく、不況の被害者でした。仕事はなく、人は溢れ、日々の糧にも困った人間が流れ着く先が、兵士や傭兵だったのです。
注いだお湯がフィルターを通り、綺麗な黒色になってぽたぽたと落ちてきます。最後の一滴が水面ではね、コップからこぼれ落ちました。
働かなくては家族を養えず、働いていると家族に会えないその辛さ。
平和を望みながら、戦争がないと生きられないその矛盾。
彼が抱えたものを理解するには私は幼すぎました。
こうして小説を書いているとどうしても考えてしまいます。もしあの時こうしていればとか、もしもあの時あそこに行かなければなどと。
そして…………もしも………………もしも、あの時、あんなことを言わなければ……。
苦いコーヒーに、ミルクと砂糖を入れて飲みます。一息ついたら、また書き始めましょう。
もしもは、存在しないからもしもなのです。どれだけ祈っても結末は変わらないのです。
今はただ、真実を綴りましょう。
太陽の光が肌を焼く非常に暑い日でした。その日、アンソニーとザックの三人で買い物をしていました。アンソニーは昨日で作物の収穫が終わり、今日は久しぶりの休暇でした。ザックはここ数日、ずっと私と行動を共にしています。
ザックは今この瞬間にラザウィル軍が攻めてきてもおかしくないと考えていたからです。
その根拠は私が見た軍隊です。ラザウィルとスルトでは兵士の数も、技術も、武器の質でも負けているので、今頃は全滅しているだろうとのことです。そしてラザウィル軍はスルトに軍を再編成する隙を与えないために、すぐさま攻勢にでるだろうと予測していました。
「どうしてお前がいるんだよ」
アンソニーが悪態をつきました。二人は仲が悪く、ずっとこんな調子でした。とは言ってもアンソニーが一方的に嫌っていて、ザック軽くあしらわれているだけですが。
「ボディーガードを任されたからさ。近くにいないと守れないだろ、それに戦況が不安定なんでな」
「どこが不安定なんだよ。そんな話は一切聞かないし、町の様子もいつも通りだぞ」
確かに軍が危ないとか、防衛ラインを突破されそうだとはこの時は全く聞きませんでした。それどころかラザウィル軍が攻めてきたとさえ聞きません。
「この状況から一気に形勢を変えるのがBWVなのさ」
「なんだよBWVってのは?」
「お前BWVも知らないのか? 第三次世界大戦後期の主力兵器だぞ」
「そのとき俺は一歳だぞ、しらねぇよ」
「ああ、そうか。それにこのあたりでは製造技術を持った国もないからな。……バイペッド、ウォーキング、ビークル。略してBWVだ。ま、見れば分かるさ」
直訳すると二足歩行の乗り物となります。確かに二足歩行という目立つ特徴があるのなら、見ればすぐに分かると思いました。
二足歩行のロボットはバランスを取るのが難しく容易には作れないと聞いたことがあります。ただ歩くだけでも難しいのに、兵器にまでしてしまうなんてなんて技術力なんでしょう。どうして……それだけの技術力を兵器開発に使うのでしょう。
「そんな最新の兵器を持ち出して……この戦争はいったいどこへ向かっているのですか」
「誰も分からんよ。ま、あえて言うなら破滅だな。ま、戦争はビジネスだからそこまで行き着きはしないけどさ」
戦争が行っていることは結局は人殺しです。なら向かう先が破滅でも何らおかしくありません。だけどその後に続いた、戦争はビジネスという言葉は聞き捨てなら無いものでした。
「戦争がビジネスってどういうこと?」
「簡単だよ。戦争をすることが自国の利益になるから、みんな戦争を始めるんだよ」
ザックは近くの店に行き、りんごを一つ買いました。
お金を払い、商品を受け取ります。
「今俺はお金を出してりんごを買った。これと同じように国は別の国から資源を買っている。例を出すと、石油とかレアメタルだな。さてここで質問だ、りんごの値段が高すぎたらソーニャはどうする?」
その質問に私は迷うことなく答えました。
「値引き交渉をするわ」
父が交渉をしている所を見たことがありました。私もいずれそういう事をしなければならないときが来ると思っていました。だから少しだけ勉強していたのです。
「相手が応じなかったら?」
「説得を続けるわ」
「それでも相手が応じなかったときは?」
私は答えることができませんでした。説得の方法を何個か考えましたが、相手が応じないことが前提なら意味がありません。
怒鳴り声が近くの屋台から聞こえました。店主と客が取っ組み合いのけんかをしているようです。
ザックは彼らを指さしました。
「ああなるのさ。相手が応じないなら、力ずくでうんと言わせるのさ。規模は天と地ほど違うけどな」
ザックはりんごにかじりつきました。
ようやくザックの言いたいことが理解できました。スルト国内ではコバルトやバナジウムと言ったレアアースが眠っています。これはそれを安く手に入れるための戦争なのです。
でも一つ疑問が残りました。
「この戦争は大使館爆破事件が原因じゃないの?」
そう戦争の理由です。この世の中には本音と建て前があることぐらい理解していますが、その建て前はどこからやってくるのでしょうか、と疑問におもったのです。昔の私はまだ世界の汚さをよく知らなかったのです。
ザックはりんごの種を道路に吐き捨てました。
「証拠は? スルトがやった証拠はどこだ」
大使館爆破事件はスルト国内のラザウィル大使館やその周辺にあるラザウィルの企業の工場、店舗が爆破された事件です。この行為に怒り、ラザウィルはスルトに宣戦布告しました。
スルト国内の事件ですが、爆破したのがスルトという証拠はありません。それに……確かめようにも大使館周辺は戦争開始後すぐにラザウィルに占領されてしまっています。
「ラザウィル自ら爆破したってもっぱらの噂だぜ。ま、どうせ真相は闇の中さ」
戦争をするために事件を起こす、そんなことがあり得るなんて考えがありませんでした。しかし説得力のある言葉でした。様々な理由で大使館は首都ではなく、スルト西部、ラザウィル共和国に近い位置にありました。戦争前は簡単に国境を越えることができました。ラザウィル軍は占領後、大使館周辺に大量の兵をおいていました。それらの事実がラザウィルの陰謀を裏付けているように感じたのです。
しかし何処にも証拠はありません。
証拠を探そうにも、そこは軍隊で守られています。
「真相は闇の中ってなんだよ。何のためにお前はやってきたんだよ」
戦争の真実を伝えるのが戦場カメラマンの仕事です。そのカメラマンのザックの諦めたような発言にアンソニーは怒りました。ザックが戦場カメラマンであると知ったとき以上に強い口調でした。
それはたきっと期待の裏返しで、アンソニーはザックが、戦場カメラマンが戦争を終わらしてくれるかもしれないと、心のどこかで期待したのかもしれません。
ザックは何も答えませんでした。その代わりザックはきつく拳を握りしめていました。彼だって真相を暴けるならそうしたかったでしょう。でもそれができるほど彼は強くなく、そんな自分をふがいなく思っていたのです。
突然の事でした。
巨大な爆音が鳴り響きました。突然の事態に私は耳を押さえてうずくまりました。それから先ほどよりは小さい……いや、遠いですが何度も爆音が鳴り響きました。爆音に紛れて何かの駆動音、そしてまるで大きな石が落ちたような音も聞こえてきました。
「少年、噂をすれば影って言葉しってるか」
「知るか、そんなこと言ってる場合かよ」
「日本のことわざでな、噂をするとな、噂されているものが来てしまうって意味さ。少年、BWVのお出ましだぜ」
ザックには分かっていたのです、爆音の間に鳴り響くこの音がなんなのか。それはBWVの足音と駆動音でした。
爆音は四方から聞こえてきました。それはこの町がすでに包囲されている事を示しています。
「さて隠れるぞ。少年、このあたりで爆撃を防げそうな場所は」
爆音や悲鳴がうるさく、ザックは大きな声で叫ぶように言いました。
「そんなものあるかよ!」
「ならこのまま待機だな。このあたりに工場や基地は?」
「あ、工場? 工場なら隣の大通りを真っ直ぐ徒歩三十分」
「なら流れ弾の心配はないな、人混みから離れるぞ」
ザックが私をその太い腕で持ち上げました。
「キャアッ」
情けない声を出してしまいました。
ザックは私を抱きかかえて路地へ避難しました。アンソニーもなにか愚痴を言いながらついてきていました。
ザックが私を下ろしたときには、すでに人だかりは暴徒と化していました。半狂乱で叫び続ける人。わけも分からず逃げ惑う人。殴り合う人。騒ぎに紛れて盗みを働く人。さきほどまでの平和な光景が嘘だったかのように思えるほどひどいものでした。
「なんで……こんなことに」
アンソニーは真っ青な顔で、信じられない物を見たかのような表情で、暴徒と化した民衆を見つめていました。それは目を覆ってしまいたくなるような光景でした。でもアンソニーは唇をかみ、必死にこらえながら、目をそらさずにその光景を見つめていました。
「戦争なんてこんなものさ」
ザックだけが普段と変わらぬ様子でその光景を見つめていました。戦場を渡り歩く彼にとっては見慣れた光景だったのでしょう。
アンソニーはザックの胸ぐらをつかみあげました。
「どうしてこんな事になっているんだよ。守備隊はどうしたんだ。なんでいきなり町まで敵がやってきてるんだよ」
「守備隊なら敵の本隊と今まさに戦闘中だ。ここにいるのは別働隊だよ。ほら、見えるだろ」
ザックが指さしたのは町の北西部、教会のある方向でした。そこに目を向けると遠くに巨大な人間のような物が三つ見えました。人間よりもはるかに角張ったそれはまるで人型のロボットのようでした。そしてそれはようにではなく、まさにだったのです。
「あれがBWVだ。見えてないだけであと何体かいると思うぜ」
「南側の国境はジャングル地帯だぞ。あんなとこを抜けてきたのかよ」
BWVがいるさらに向こうにはうっそうとしたジャングルが広がっています。そこに道はなく、通り抜けるのはかなり困難なはずです。だけど通り抜けてしまえば、そこは見張りの兵士しかいない、攻め入るのに絶好の場所となるのです。
「なんのための二足歩行だと思ってるんだ。ジャングルも山も川も海でさえあいつらは越えてくるぜ」
二足歩行ゆえに、道路は必要なく、どんな地形でも踏破できるのがBWVの強みです。スルト軍はそれを知らず、対策ができていなかったためこのような事態に陥ってしまったのです。
一機のBWVがこちらに向かって走ってきました。小さな点にしか見えなかった機体が、みるみる大きくなり、その大きさに息をのみました。
「お、おい逃げなくて良いのか」
「大丈夫だよ。目的はどうせ工場さ。そうでなかったら補給路を断ちに行ってるかだな。俺らはただ通り道にいるだけだよ」
私たちが避難した先は大通りに近くの路地でした。BWVが道幅の広い道を選んで走っていたので、こちらに向かっているように見えたのです。
ザックは何度も写真を撮っていました。パシャリ、パシャリ、無機質な音が喧噪の中で小さく響きました。
爆撃と銃撃の音に紛れて、悲鳴が風に乗って聞こえてきました。この瞬間に何人も、何十人も、もしかしたら何百人も死んでいっているのでしょう。
ですが私たちには何もできません。ただ唇をかみ、目をそらさずに見ていることしかできなかったのです。
パシャリ、パシャリと無機質なシャッターの音が響きました。
人々は悲鳴を上げて逃げていきます。ですが逃げずに立ち向かっていく人たちがいました。町の中で警備をしていた兵士達と自警団の人たちです。
全員で三十人くらいだったと思います。彼らは三列に並び、各々の武器を構えました。
BWVの全身が見えました。人間をそのまま巨大にしたような形で、腰にはホルスター、右手にはマシンガンのような銃、全身を覆う強固な装甲と、漫画に出てくるロボットそのものでした。
兵士達が一斉に手に持った銃を乱射しました。しかし一秒に何十発という連射を前にしてもBWVは怯まず、それどころかスピードを上げて突っ込んできました。BWVの前ではただの銃など豆鉄砲と変わりありません。
誰かがミサイルを打ちました。銃が効かなくても、戦車さえ一撃で破壊するミサイルならダメージを与えられるかもしれません。ですがなんとBWVがその攻撃をかがんで躱したのです。これがBWVの二つ目の強み、機動性の高さです。BWVは搭乗者の神経と直接つながっているため、素早く、正確に動くことができるのです。戦車ならば、脳が命令し、手が操縦桿を動かし、戦車が動きますが、BWVは手を動かすというプロセスを省けるのです。
物陰からミサイルランチャーを構えた数人の兵士が現れました。わざわざミサイルを躱した理由は、あたると危険だからに他なりません。ですが四方から、しかも物陰から隠れて打てば普通に考えて避けられるはずがありません。ですがBWVは普通ではないのです。
兵士達は二つの失敗をしました。一つ目はBWVの背後が死角だと思ったことです。確かにBWVは人型をしています。ですが目が人間と同じ位置についているわけではないのです。BWVは六個のカメラと熱感知スコープで景色を見て、高度のコンピューターで解析し、三百六十度の視界を確保しているのです。後ろから襲っても物陰から襲っても不意打ちにはなりません。
二つ目の失敗は内部に搭載された機器に気がつかなかったことです。
BWVは親指で人差し指の側面を押しました。すると背中からアンテナのような物が飛び出し火花を散らしました。
同時に兵士達の持つミサイルランチャーからも、火花が散りました。
飛び出したミサイルはたったの一発、アンテナからの電磁攻撃の直前に発射した一発だけでした。残りは全て発射装置を破壊され、ミサイルが飛び出すことはありませんでした。
そしてBWVの電子攻撃はミサイルの発射装置だけでなく、周囲の電子機器は全て壊してしまいました。テレビやラジオ、そして電子制御されている全ての武器が壊されたのです。
唯一撃てた一発も当然のようにかわされ、兵士達はもう打つ手がありません。ただ蹂躙されるのを待つだけです。
そして民間人相手ならいざ知らず、兵士相手に加減をする敵ではありません。手にした銃を兵士達に向かって乱射しました。逃げる兵に向かっても迷い無く発砲しています。それはもはや戦いではなく虐殺でした。
スルト軍とBWVでは技術力に差がありすぎました。竹槍でライフルに挑むようなものです。勝ち目など初めからどこにもなかったのです。
兵士達を倒し終わると、何事もなかったようにBWVは走り去りました。走り去るその背中には傷一つありません。それはたった一分の出来事でした。
BWVが去った後はまさに死屍累々、撃たれた兵士達と巻き込まれた民間人が血を流して倒れていました。
死への恐怖で固まった体から、敵が去った安堵で力が抜け尻餅をついてしまいました。BWVが去った後も体の震えがとまりませんでした。
ザックが怪我人のいる方へ駆け出しました。私も怪我人を助けに行かなければと思い、立ち上がろうとしましたが、体が思うように動きませんでした。
アンソニーがザックの後を追って走り出しました。どうにか立ち上がれた私はアンソニーの後を追って走り出しました。
ザックはいつも持ち歩いている大きなかばんの中から救急箱を取り出して手当を始めていました。
「だれか救急車を、いやだれか力のあるやつが病院に連れて行ってやってくれ」
この騒ぎでは警察も消防もなにもかも機能していないと思われるため、ザックは病院まで運ぶ判断をしました。私たちは消毒をして包帯を巻く程度の応急処置しかできません。しかし本格的な治療が必要な人がたくさんいたのです。
ザックは的確に治療をしていました。的確に冷静に……残酷に。助かりそうにない人は全て無視し、助かりそうな人の中で重傷の人から順に応急処置をしていました。
私とアンソニーは比較的怪我が浅い人の治療に専念しました。傷口を消毒し包帯を巻くことしかできなかったからです。
次々と応急処置を済ますザックを見て、こんな座長しかできない自分が歯がゆくなりました。
「重傷の人から運んでくれ、あまり揺らすなよ」
ザックが手伝ってくれている人たちに、シャツで作った簡易担架を渡していました。重傷人の手当をしていたはずなのに、一体いつの間に作ったのでしょう。
「骨折? そこの銃で固定しておけ。それから手が空いているやつは担架を作ってくれ」
しかも指示を出すことも忘れません。急いではいるが、冷静で……なれているようでした。こんな地獄に慣れているようでした。
全員の治療が終わっても、まだ銃声も爆発音も止みません。別の場所でこんな風に何人もの人が亡くなっているでしょう。目の前に助けられなかった人々が倒れていました。
「撮ってもいいかい?」
ザックは一人の兵士に言いました。その兵士は銃弾を腹に受けており、出血量一つ見ても助からないことは明白でした。
「ああ、頼む」
死の淵にいるにもかかわらずその兵士は落ち着いていました。達観……というよりは諦めでしょう。兵士になったその時から、戦争が始まったその時から、死は覚悟していたのでしょう。
パシャリと無機質な音が響きました。
「何か言い残したことはないか」
ザックはそう問いかけました。
兵士は憎しみのこもった目で答えました。
「くそったれ」
パシャリと無機質な音が響きました。
それが兵士の最後の言葉になりました。
私は両親の無事が気になり、家に向かいました。ザックとアンソニーも私についてきてくれました。
「やっぱり僕はあんたが嫌いだよ。あんたは戦場カメラマンじゃない」
道中にアンソニーがザックを非難しました。
「どうしてだ?」
たいていは軽くあしらっていましたが、このときは面と向かって聞き返しました。心なしか低く凄みのある声に聞こえました。戦場カメラマンでないとまで言われて、黙っているわけにはいかなかったのでしょう。
「あんたがあの兵士に聞いたからだよ、言い残したことはないかって。あんたはそうして兵士から表情を引き出して、写真におさめたんだ。あんたが撮ってるのは本当の戦争じゃない。あんたは自分が撮りたい戦争を撮っているだけだ」
アンソニーの言葉はザックの胸をえぐりました。
いつもはアンソニーのことを軽くあしらっているザックですが、この言葉に対してはそんなことはできませんでした。
「戦場カメラマンなら、あるがままを撮れよ」
ザックは何も言い返しませんでした。何も言い返せませんでした。
それだけアンソニーの言葉はザックに突き刺さったのです。
私は二人の様子を見ていることしかできませんでした。
これが二つ目の私の失敗です。私はこのとき何か言うべきだったのです。二人の関係をこのままにしておくべきではなかったのです。
二人の間に会話がないまま、私の家に着きました。そこで少し違和感を覚えました。時刻はすでに夕方。辺りはもう薄暗くなっています。なのに父の車がありませんでした。いつもならすでに帰っている時間です。
ドアを開け、玄関から大声で呼んでみても返事はありません。父がいつも履いている靴はどこにもありませんでした。
リビングには家政婦さんだけが立っていて、やはり父の姿は見えません。
「父さんは」
家政婦さんなら何か知っているかも知れない。わずかな期待を持って聞きましたが、家政婦さんは暗い顔でうつむいたまま首を横に振りました。
「すみません……それが……まだ帰ってきていないのです。電話も……通じなくて」
もしかして被害にあったのかも知れない。そう思い私は家を飛び出そうとしました。
「待て、闇雲に探してどうする」
しかしザックに止められてしまいました。振りほどこうとしましたが、私の腕を掴んだザックの手は鋼鉄のようでした。強い意志と弛まぬ努力によって鍛えられた、漢の手でした。
「でも、父さんが」
「今この町は危険だ。騒ぎに乗じて悪事を働くやつもいる。占領が終わるまで待つんだ」
「それっていつなのよ。父さんは、今、大変な目に遭ってるかも知れないのに」
私は子供のように叫びました。背伸びをしていても中身は子供のままだったのです。父が帰ってこないだけで取り乱してしまうような子どもだったのです。
止まれと言われて止まるほど落ち着くことはできませんでした。
「……二日後か、三日後だな。その頃にはラザウィル軍が治安を回復させているはずだ」
「それじゃ、父さんは」
「ソーニャ、落ち着いて」
「大丈夫だ。今は信じるんだ」
ザックとアンソニーに止められて、それでも私は外に出ようとしました。頭には父さんのことしかありませんでした。
「でも!」
「行ってどうする、何ができる? それは自殺と変わらねぇよ」
「分かっているわよ。でも……それでも」
ザックの言うことは正論です。私はそれを理解していました。しかし助けたいと思う気持ちは感情なのです。理屈と論理で感情を抑えつけられることは、当時の私にはできませんでした。
無理矢理ザックの手を振り払おうとしたところで、ザックのもう片方の手が私の首へ伸びてきました。
無骨な手の感触と、冷たい金属の感触。
眠りに落ちるような感覚で、私は気を失っていきました。アンソニーの叫ぶ音と、ザックの謝る声が遠くに聞こえました。
目が覚めると私は寝室にいました。
窓から差し込む光が今が昼であることを示しています。
寝ぼけた頭では状況を理解できず困惑しました。そしてすぐに父が行方不明になったことを思い出して飛び起きました。
私は家を飛び出して父を探しに行くつもりでした。父の帰りを待つことなどできる状態ではありませんでした。
そんな私を落ち着かせてくれたのはアンソニーでした。
起きてすぐ目に入ったのは、椅子の上で器用に寝ているアンソニーです。私のためにずっと側にいてくれたのでしょう。
そのことに気がつくと私の中にあった焦りが消えていって、冷静に状況を受け止めることができました。
占領された町で父を捜し歩くのは私では無理です。父を助けるどころか自分が危険な目に遭ってしまうでしょう。私は無力です。
理解していても受け入れられなかったその事実を、驚くほどすんなりと私は受け止めることができました。
私が父の無事を願うように、私が無事であることを願う人の存在に気がついたからです。私のことを守ってくれる人がいて、私が死ぬと悲しむ人がいる。だから私は、私を大切にしなければならないのだと気づけたのです。
私はベッドから降りてアンソニーの前まで歩いて行きました。きっとアンソニーの事ですから、目覚めた私にかけるキザな台詞の一つや二つは考えていたことでしょう。
しかし私が起きたときには、ぐっすりと眠っていました。これでは考えた意味などありません。しかしこの格好付けようとして失敗するところが、非常にアンソニーらしかったです。
自然と口元がほころびました。町にBWVがやってきてから初めて、私は笑顔を浮かべることができました。
私は笑顔のまま、アンソニーの方をちょんとつつきました。
ぎりぎりのバランスで寝ていたアンソニーは、押された勢いのままゆっくりと傾いていって、柔らかなカーペットの上に倒れ落ちました。
「ううわあぁぁっ」
アンソニーは情けない声をあげて飛び起きました。
私はそんなアンソニーを見てクスクスと笑いながら挨拶をしました。
「おはよう、アンソニー。椅子の上で寝ると危ないわよ」
「お、お、おはようソーニャ。ちょっとは落ち着いたかい?」
急いで服装を整えて挨拶を返してくれました。その焦りようが面白くて私はまた小さく笑いました。
「おかげさまでね。町の様子はどうなっているの?」
「ぼろぼろでぐちゃぐちゃさ。占領から一日たったけど、何度も銃声が響いてくる。強盗や空き巣も収まりやしない」
「そう…………」
予想ができていたことではありますが、自分が育ってきた町が国がそんな有り様になっているのはショックでした。
父が行方不明になり、生まれ育った地が荒らされ、どうしてこんな事にならなければならないのかと憎しみがこみ上げます。
この時私は確かに戦争だけでなく、ラザウィルの事も憎んでいました。
「ザックは何処にいるの?」
「外を見回りに行ってるよ。こんな時こそ腕の見せ所だって言って、カメラ担いで出て行った」
「そう。なら帰ってくるまで待ちましょうか」
窓の側まで歩いて、外の様子を眺めました。
ここからでも何件も崩れた家や、ひび割れた道路が目に入ります。そして遠くから銃声も聞こえてきました。町の中心部はもっとひどい有り様です。
「私は行くわ。やっぱり父さんに会いたいもの」
「だめだよ、ソーニャ。今は危ないから」
「分かってるわよ。だから探し回るのは治安が回復してから。そして絶対に一人では行かない。これなら良いでしょう」
「条件を一つ追加だ。ザックではなく僕を誘うこと」
アンソニーはまだザックに対して対抗心を燃やしているようでした。始めてあったときは戦場カメラマンそのものを嫌っていましたが、この時はザックという一人の人間に対抗心を持っているようでした。
「ザックぐらい強くなったら考えてあげるわ」
私は以前に言った台詞をそのまま使いました。
「あいつの何処が良いんだ?」
アンソニーは唇を尖らせて不満を漏らしました。しかしアンソニーよりもザックの方が強いのは誰が見ても明らかでした。遊びに行くならアンソニーを誘いますが、ボディガードには向かないでしょう。
「何があっても大丈夫そうな所よ。危ないことに巻き込むと悪いでしょう」
自分のわがままにつきあわせているだけでも申し訳ないのに、怪我までさせるわけにはいきません。しかしザックならどんな目にあっても平気な顔で帰ってくる気がしていたのです。
家の中にチャイムの音が響きました。
ザックが帰ってきたのです。
私は玄関まで行って、鍵を開け出迎えました。
「ただいま。すまないなソーニャ、あんな強引な手を使って」
「お帰りなさい。無理にでも止められなければ私は町でのたれ死んでいたかも知れません。だから気にしてないです」
「ずいぶん落ち着いたな。安心したよ。……ちょっと町の様子を見に行くか?」
あんなに強引に止めたのに、今度は外に行こうと誘われました。
「大丈夫なのですか?」
「無茶をしなければ大丈夫さ。ボディーガードに暇なやつを連れてきたしな」
そう言うとザックの後ろから弦月が歩いてきました。前にあったときと違いスルト軍の服を着ていませんでした。弦月の仕事は警備でしたので、占領されてできることが何も無くなったのでしょう。
「こんにちは、久しぶりだね」
「お久しぶりです。無事だったんですね」
「BWVとの戦闘は契約には含まれていないからね。尻尾を巻いて逃げ出したんだよ」
「尻尾を巻いてと言うには頑張りすぎだがな。仲間を逃がすのも良いが、自分が死ぬような目には陥るなよ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
本当に二人は仲がよい様子でした。長年培った友情というものでしょう。こんな風に長いつきあいのできる、時の流れで風化していかない友情がうらやましかったです。
今いる友人の内、十年後も二十年後も友人でいられるのは何人いるのでしょうか。
「どうする? 町の様子、見に行くか?」
私は大きく頷きました。
外を出歩くとたくさんの兵士がいました。兵士は皆ラザウィルの軍服を着ていましたが、人種はばらばらで、そのほとんどが正規の兵隊ではなさそうでした。
彼らは一様に銃を携帯していましたが、警備の兵だけではありませんでした。交通整理をするもの、道路を復旧しているもの、治安の維持しているもの、彼らは皆それぞれ銃を持ってはいましたがあまり兵士には見えませんでした。
私は兵士を、占領政策を知らなかったのです。
「どう思う? この景色」
「少し……意外です」
占領とはもっとひどいものであると思っていたので、この光景には驚きました。
兵士による略奪行為なども想像していたのですが、一切そのような様子はありませんでした。勝手な行動をする兵士の姿は何処にもありません。
「占領政策で大事ななのは不満を抑えることなんだよ。不便で危険な生活が続くと不満が爆発して住民がテロリストになったりするからね。まずは治安維持とインフラの復旧をするんだ」
当たりを見渡しながら弦月は言います。
もしも……住民の中にテロリストがいたらどうなるでしょう? すぐ隣にいる人がいきなり銃を乱射するかも知れない。目の前の車がいきなり爆発するかも知れない。
とても恐ろしいことです。買い物に出かけることすら、怖くてできない日々が続くのです。普通の人にはとても耐えらません。
この時のスルトでも――占領されて間もないためまばらですが――辺りに人はいます。もしもその人が突然銃を撃ち出したら、突然爆弾を投げ始めたら…………。
見えない敵とは本当に恐ろしいものです。
「スルトの兵士達はどうなったんだ?」
私も気になっていたことを、アンソニーが訪ねました。
これにはザックが答えました。
「BWVにさんざんかき回されて、守りきれないことが分かってからはどこかに隠れたよ。今は民間人に紛れてるんじゃないか?」
「隠れて……どうするんだ?」
「敵国の……この場合はラザウィル軍の駐屯地を爆破したり、警備兵を襲ったり、基本は破壊活動とか諜報活動だよ。いわゆるゲリラ戦法さ。民間人の振りをしていればそう簡単には見つからないが、敵の兵士は軍服を着てるから一目瞭然だ。非常に動きやすいんだよ」
淡々とザックは語ります。その声には戦争に対する憤りなどではなく、呆れの感情が含まれていました。
ザックはどれほどの戦いを写真に納めてきたのでしょうか。
「ゲリラね……卑怯な戦い方だな。そんな戦い方で町を取り戻せるのか?」
「無理に決まってるだろ。兵士の数を見てみろよ。どこから敵が現れても対処できるようにしてあるだろう。装備も見たところ対ゲリラ用だ。ま、ゲリラは第二次世界大戦の頃からある戦法だからな。古くさいただのゲリラ戦法が今更通用するわけないさ」
「だったらなんで!」
「負けたくないんだろ。ゲリラ戦法に持ち込めば、対処にかなりの兵力を使わせることができる。いつ出てくるか分からない敵に対応するにはかなりの人数がいるからな。そうなれば進軍は遅れるし、仮に本隊が全滅しても根は残る。地下深くで活動し続ければ、戦い続けることはできる。勝てはしないが、負けにくいんだよ、ゲリラ戦法は」
やはり淡々とザックは語りました。
しかし語り終えた後、最後に付け加えた言葉だけは、呆れとは別の感情も交じっていました。
戦争に対する怒りを込めてこう言ったのです。
「いたずらに戦争を引き延ばす最悪な戦法だよ。国民をいつまで戦争に縛り付けるつもりだ」
その言葉を弦月は静かに聞いていました。戦争を行うものとして何か思うところがあったのでしょう。
「あんた、誰の味方なんだ?」
アンソニーはその言葉を聞いて、思わず聞きました。アンソニーはザックのことをスルトの味方だと思っていたのでしょう。
ザックは確かに私たちの味方ではありましたが、この国の味方ではないのです。彼はスルトの勝利など願ってはいませんでした。
ザックは一瞬たりとも迷わず答えました。
「平和の味方で、戦争の敵だよ」
ザックの望みは終戦でした。これ以上死者が出る前に、一刻も早く戦争を終わらせること。できることなら戦争の悲惨さを世界に伝え、新たな戦争を未然に防ぐこと、それがザックの目的でした。
ザックはスルトの国民もラザウィルの国民も平和に暮らして欲しいと思っていたのです。私は、そしておそらくアンソニーも自国の繁栄ばかりを願っていました。しかしザックは分かっていたのです。
どの国にも住民がいて、家族がいて、友人がいて、幸せに暮らしたいと思う人達がいる事を。
「………………」
アンソニーはその答えに対し何も言えないようでした。
しばらく口を閉じて考えた後、おもむろに口を開きました。
「……わるかったな」
「何のことだ?」
「昨日のこ」
アンソニーが話している最中に、ザックは手のひらでアンソニーの頭を軽く押さえました。
「謝るような事じゃない」
ザックはそう言いました。
時々響いていた銃声が止み、代わりに大きな爆発音が響きました。遠くで何かが爆発したようですが、ここからでも炎と煙が見えるほど大きな爆発でした。
「ちっ、自爆テロでも仕掛けたのか。弦月、二人を任せたぞ」
言うやいなやザックは爆発がした方へ走っていきました。
怪我人を助け、爆破後の光景を撮るのでしょう。
「さて、ザックは行ったけど、これからどうする?」
「帰りましょう。巻き込まれてからでは遅いです」
車のエンジンの音がしました。その音が一気に近づいて来ます。
そしてその車の窓から男の人の無骨な腕が、私が持っていた荷物を掴みました。
響く銃声とうめき声、そして地面に落ちた荷物。
いつの間に構えたのか、弦月がゴム弾で男の腕を打ち抜いていました。
「良い判断だ。騒ぎに紛れて悪さをする輩も多いからね。早く安全な家へ帰ろうか」
弦月は傭兵だけあって非常に戦いに長けていました。窓から伸ばした腕だけを打ち抜くなんて、一体どれほどの技量を持っているのでしょう。
お互い銃を持って戦ったならば、ザックよりも強かったかも知れません。
弦月はただの傭兵ではなく、とびきり優秀な傭兵だったのです。
弦月に守ってもらったおかげで、私たちは無事に家まで帰り付くことができました。
ザックに弦月、二人のおかげで不安はだいぶ無くなりました。弦月が手伝ってくれたなら父を捜すものかなり楽になるでしょう。
しかし一つ気がかりもありました。ザックとアンソニーのことです。元から中がよいとは言えない二人ですが、今日はどこかおかしいように感じたのです。関係が悪化していたのではありません。ただどこか違和感を覚えたのです。
アンソニーがザックに吐き捨てた言葉が思い出されます。
「あんたは戦場カメラマンじゃない」「戦場カメラマンならあるがままを撮れよ」
このままで良いのだろうかと一抹の不安を抱きました。何か良くないことが起こるような気がしたのです。
ラザウィル軍による占領から十日後。町の様子も少し落ち着いてきた頃、ザックは朝からカメラを片手に町中を練り歩いていました。
占領から十日がたっても父は帰ってきていません。ですがそれも仕方のないことかも知れません。父は政府の役人です。危険な情報も持っているでしょう。何が何でも捕まるわけにはいかないのです。
もう頭は冷えていたので、無茶なことはしていません。しかしやはり父の安否は気になりますし、父に会いたい気持ちは膨らむばかりです。そこで安全に気を配りザックやアンソニーと共に父さんの情報を集めていました。
今日も昼からアンソニーと父を捜しに行く予定です。
「どこに向かっているの?」
ザックは重い荷物を軽々と運んでいきます。
「ついてくれば分かるさ」
ザックが向かったのは町の外れの小さな丘でした。そこからは町全体を見下ろすことができました。
「ぼろぼろ……ですね」
「仕方ないさ、これが戦争だ」
パシャパシャパシャリ、パシャパシャリ。開いては閉じるシャッター音。
何か目的があるわけではなく、ただ気の向くままに写真を撮っているようでした。
「見せてくれますか」
「ああ、好きに見ろ」
ザックはいつも持ち歩いている愛用のカメラをこっちに放り投げました。何とか受け止めることはできましたが、あまりの重さに落としてしまいそうになりました。見た目よりもずっと重くて、普通のカメラの三倍はありそうです。
「危ないですよ」
「大丈夫だ。落としたぐらいでは壊れん。EMP攻撃でも壊れない自慢のカメラだぜ」
とにかくすごいカメラであることは分かりました。
そのカメラにはきれいな液晶がついていて、そこに今まで撮った写真が写っていました。見たこともない機能がたくさんついていますが、それを除けば普通のデジタルカメラのようです。液晶画面がタッチパネルになっていて簡単に操作できました。
町の写真、兵士の写真、市民の写真、兵器の写真、BWV……、そして驚いたことに銃撃戦の様子まで撮っていました。民間人への攻撃は禁止されているとはいえ、流れ弾が飛んでこないとは限りません。死と隣り合わせの撮影だったでしょう。
写しているのは戦争の様子だけではありませんでした。活気あふれるバザー、商売をする商人、壊れた家を修理する大工、子供をあやす親、戦時中の厳しい世の中で必死に暮らす人々の写真もいっぱいありました。
「良い写真ですね」
「ま、それで飯食ってるからな。ソーニャはどの写真が気に入ったんだ」
「バザーの写真。生きてるって感じがして好き」
「ひどい部分だけ撮っても仕方ないからな。それもまた戦争の一風景さ」
本当にこれも戦争の一部なのでしょうか。戦争とは悪いもので、死をばらまく物だと思っていました。この写真に写っているのは必死に生きる人々、命の輝きです。戦争の一部と言うには眩しすぎる気がしました。
「上手に撮れていますね」
返す言葉が思い浮かばず、相づちのような返事をしました。
「うまくなるつもりはなかったんだけどな」
「どういうことですか?」
私は気になって聞き返しました。カメラマンなのに、なぜうまくなるつもりが無かったのでしょうか。
「この花、どう見える?」
指さした花は岩場に生えた枯れかけの花でした。土壌が悪く、まともに根もはれていない、今にも枯れてしまいそうなみすぼらしい花でした。
「みすぼらしい……花に見えます」
「そう見えるよな。でもな、ちょっと貸してみな」
ザックはカメラで、そのみすぼらしい花を撮りました。パシャリときれいな音がして、カメラが景色を取り込みます。
カメラに付いた液晶に、今撮ったばかりの写真が表示されました。
「これなら、どう見える?」
液晶に映ったその花は、同じ花とは思えないほどきれいで、枯れかけではあるけれど、厳しい環境で精一杯生きる姿が前面に押し出され、みすぼらしさなど微塵も感じられませんでした。
「すごく……きれいな花です。命の輝きを感じます」
「世界は見方によって姿を変えるんだよ。カメラは一つの視点から世界を切り取るんだ。この花だってみすぼらしいという一面があれば、懸命に生きているという一面もある。カメラはな、その片方だけを選んで映し出すことができるんだ」
カメラは嘘はつけないが、人をだますことはできる。私はザックの言葉をこう解釈しています。もちろんこの時はただ額面通りに受け止めていただけですが、大人になると、この時は分からなかったザックの苦悩が理解できたのです。
またザックは口に出しては言いませんでしたが、花と同じように戦争の一面を切り出すこともできました。戦争のひどい部分だけを取り出して、実際よりもより残酷に見せることができました。
みすぼらしい花を美しく見せたように……その逆のことを。
「ありのままを写すのに、技術なんて邪魔なだけなんだよ」
「でも……ザックはたくさん撮ってるじゃない。いろんな角度からたくさん撮ってるじゃない。それじゃ……だめなの?」
ザックは確かにある一面だけを強調した写真を撮っていたかもしれません。でもまた別の一面を、さらに別の一面を撮っていけば、両の目でみた風景が立体に見えるように、写真を重ね合わせていけば本当の風景が見えるのではないかと思いました。
「ま、それはそうだけどさ」
ザックは曖昧な返事をしました。納得は……してないようでした。
私はザックからカメラをひったくって、シャッターを切りました。
私が撮った写真では、みすぼらしい花は、みすぼらしい花のままでした。
「これでどう。下手くそな写真なら私がいくらでも撮ってあげるわよ」
ザックはきょとんとした表情をしましたが、すぐに笑い出しました。
ラザウィル軍がやってきて以来見えなかった、ザックらしい笑顔でした。
「ッハハハハ。ソーニャ、お前はきっと将来はいい女になるぜ」
「失礼ね。今でも十分立派です」
「ははは。むきになって言い返してたら、どんどん遠のくぞ」
「……失礼です」
ザックは私の頭を力強くなでました。大きな手で荒くなでるものですから、髪の毛がぐしゃぐしゃになってしまいました。荒っぽい手つきですが、どこか心地よかったことを覚えています。
「おかげで答えが出そうだよ。アンソニーにあったら伝えておいてくれ、次に会うまでには答えを用意しておくぞ、ってな」
ザックはアンソニーの非難に対して、何も答えることができませんでした。戦場カメラマンではないとまで言われたのに、何も言い返せませんでした。
答えとは、先延ばしになったその時の返事のことでしょう。
俺は戦場カメラマンだ、と胸を張って言えるための何かを、ザックは見つけたのです。
「今日の昼に、一緒に父さんを探す約束をしているから、その時にでも伝えるわ」
「サンキュー。……早く見つかると良いな」
「ええ。大丈夫かしら。捕まってないといいけど」
「大丈夫だよ。あの人が逃げる方法を用意してないわけがない」
私の父は政府の役人、それもそれなりに重要な地位の人間です。もしものための脱出ルートぐらい用意しているでしょう。
「信じるわ。しばらく会えそうにないのが残念ですけど」
占領下の町にいる私には移動の自由がありませんでした。町の中では自由ですが、占領区から一歩も出ることは許されませんでした。それでは会いに行けません。
「すぐに会えるさ。旧ロシアの国々のいくつかが参戦を表明したからな」
ロシアはスルトやラザウィルとは違う、先進国の国々です。装備や兵器は最新のもので、発展途上国のものとは比べものになりません。
彼らが参戦すれば情勢は一気に変わるでしょう。この町の開放も夢ではありません。
「ラザウィルはヨーロッパの援助を受けてるから、そう簡単には戦局は動かないぞ。まっ一ヶ月以内に解放されれば良いとこだな」
「そう……ですか」
期待しただけに少しショックを受けました。しかしすぐに一ヶ月も、ではなくたったの一ヶ月と考えを変えました。たった一ヶ月我慢するだけで父さんに会えるんだ、と自分に言い聞かせました。
「気をつけておけよ。こういう不安定なときは何が起こるか分からないぞ」
「何かあったときは、守ってくれるんでしょう」
「ま、約束だからな」
「頼りにしてます」
ザックはポケットから何かを取り出して投げました。
それはボールペンのような形の何かでした。先端に穴が空いていて、その反対側には押し込めそうなボタンがあります。
「これは……」
「ピンチの時に使え。穴が開いている方を敵に向けてボタンを押すんだ」
「何が起こるんですか?」
「それは秘密だ。だが威力は保証する」
話す気はなさそうでした。ただ武器であることは分かりました。なのでありがたくもらっておく事にしました。ザックの武器ですから、殺傷力がなく、役に立つ事ものであるは間違いないと思ったのです。
「ありがとう」
「どういたしまして」
私はアンソニーの住む村へ向かいました。そこは占領区の端で、ラザウィルとはまた別の国との国境近くでした。父がまだ占領区にいるとしたら兵士の目の届くにくい辺境の地にいると思ったのです。
スルトは首都周辺は発展していますが、田舎の方はまるで時代に取り残されたかのような様子でした。辺り一面に畑が広がり、それを古ぼけた機械で耕しています。建っている家も
目的の場所に着いたとき、アンソニーはすでにそこで待っていました。
「ごめん。待たせたわね」
「君のためならいつまでも待つさ」
相も変わらず似合いもしない台詞でした。アンソニーが大人になっても、キザな台詞が似合う男になるとは思えないので、今まで何度もやめるように言いましたが全く効果は見られませんでした。私は諦めて、軽く流しました。
「早速だけど探しに行こうか。川まで歩くよ」
「どうして川なの?」
「水がないと生きていけないだろ。水くみの度に何十分も歩いてたらすぐに見つかってしまうよ」
こんな辺境には水道など無いことを失念していました。水くみの度に遠くまで出歩いていたら目立ってしまいます。外に出る事を避けられないなら、少しでも短時間で済ませようとするでしょう。川の近くに済んでいる可能性は高いと思いました。
「見直したわ」
「惚れ直したか?」
「それはないわね」
「何がダメなんだ?」
「子供っぽいもの」
白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるのを待っていたわけではありませんが、この年頃の子供らしく理想はかなり高かったと思います。人は自分に無い物を持っている人を求めるもので、子供の私は大人らしさを持った人を求めていました。格好良くて、大人っぽい人が理想だったわけです。アンソニーには大人っぽさのおの字もありません。
「ザックみたいなやつがいいのか?」
アンソニーは唇をとがらせて言いました。
「アンソニーよりはね」
ザックは確かに大人であるし、王子様のようにではないけれど私のピンチに駆けつけてくれた人です。しかしあのカメラを持っていなければ兵士か傭兵にしか見えない風貌はタイプではありませんでした。命の恩人に対して失礼ではありますが、あの見た目は怖いです。
「ザックから伝言があるわ。今度会うまでには答えを用意しておく、ですって」
「……まだ気にしていたのか」
ばつが悪そうにアンソニーは言いました。アンソニーにとってあの言葉はただその場の勢いで吐き捨てただけの言葉だったからです。
初めはザックのことを毛嫌いしていたアンソニーですが、ザックのことを知るにつれ彼のことを少しずつ認め始めていました。
「あんなに真正面から否定されたらね。でも答えを見つけたらしいしいいんじゃない。……川はこっちで良かったわよね」
「……………………そっちで合ってるよ。小さな集落があるからそこから見て回ろう」
私は頷いて歩き出しました。アンソニーは私を追い越して、案内するように前を歩きました。
「この先にある集落は少数民族の……なんだったかな、なんとか部族の集落なんだ。よそ者にも寛容な人たちだからもしかするとソーニャのお父さんに会えるかもしれないよ」
アンソニーはいつもより饒舌でした。ザックに対抗して、少しでも良いところを見せようとするその姿はとても微笑ましかったことを覚えています。
「知らなかったわ」
「このあたりは都市部とは別の国みたいになってるからね。少数民族は排他的なところも多いから気をつけてね」
「分かったわ」
そんな話をしながら歩いているとき、聞き覚えのある足音が響きました。巨大で、まるで地響きのような足音でした。トラウマのように頭の中にこびりついて離れないその音は、まさにBWVの足音でした。
BWVは何台か装甲車を引き連れて、川の方に向かっているようでした。なんとなく……なんとなくですけど嫌な予感がしました。
「こんな所にもいるのね」
「いや、いつもは見かけないよ。何かあったのか?」
「旧ロシアの国々が参戦したって話を聞いたわよ」
「ならそれが原因なのかな?」
アンソニーはどこか納得していない様子です。ロシアはスルトの遙か北に位置しているのに、BWVが向かっているのはスルトの南西部だったからでしょう。
それから十分ほど歩いたところで異変に気がつきました。遠くで煙が上がっているのです。
「ねぇ」
「たぶん……集落のあるあたりだ」
何が起こっているのかは分かりませんでしたが、良くないことが起こっていると確信しました。火のないところに煙は立たないのですから。
「ザックに連絡しましょう。私たちだけじゃどうにもならないわ」
もしかすると父がいるかも知れません。父がいなくても、そこで苦しんでいる人がいるのなら助けにいきたいという思いがありました。
しかし助けにいくことと、死にに行くことは違うのだと私はもう分かっていました。
「どうやって? ここじゃ電話はつながらないよ」
辺りは畑と山ばかりで、電波塔など何処にもありません。これでは連絡などできません。
「いったん町まで戻りましょう」
私は冷静に判断をして引き返すことにしました。二人で駆けつけたところで、父に出会える確率より、私たちが巻き込まれる確率の方がよっぽど高いからです。
「そうだな」
そう言いながらアンソニーは振り返りました。振り返ってしまいました。
「村が……」
村の方にも煙が上がっていたのです。見逃してしまいそうなほど細い煙ですが、村の方に目を向ければ見えないはずがありません。
アンソニーは家族の名前を叫びながら走り出しました。
「待って! あんた一人でどうするつもりよ」
呼び止めようとましたが、振り向くことなく駆けていきました。女の私ではとても追いつけそうもありません。
私はザックに連絡を取ろうと携帯電話を開きましたが、画面は真っ暗で何も映りませんでした。電池切れだと思い私は携帯をかばんにしまいました。もしも携帯電話が使えたとしてもこんな場所では電波は届いてなかったでしょう。ですから連絡が取れなかったことは問題ではなかったのです。問題は電池切れだと思っていた携帯電話が壊れていた事なのです。
一つ目の失敗はザックにBWVの詳細を聞かなかったこと。詳しい情報を得てもBWVには勝つことはできません。しかし逃げる手段や隠れる方法が無いわけではなかったのです。
二つ目の失敗はザックとアンソニーの関係をそのままにしてしまったこと。ザックは答えをまだ用意できてなかったが故に、アンソニーと会うことを無意識に避けました。いつものザックならボディガードとして私について来てくれたことでしょう。
この二つの失態によって私はこの非常事態に知識も頼れる人もなく挑むことになるのです。
地獄としか言い表せない光景でした。ひどいとしか形容しようのない有り様でした。
燃えさかる炎は一秒ごとに勢いを増し、村を飲み込もうとしています。その中に撃たれ殴られ傷ついた人々が倒れていました。逃げることもできない人々が炎に巻かれて悲鳴を上げています。
アンソニーの姿は見えませんでした。家族の無事を確認しに行ったのでしょう。
「う……うぅ……」
倒れている人が声にならないうめき声を上げて苦しんでいました。
何人も何人も、銃で撃たれ炎に焼かれ苦しんでいました。
「ま、待っていてください」
私は倒れている人たちに駆け寄って、火の手の及ばないところまで運びました。私の力では持ち上げることなどできないので、引きずって運ぶしかありません。
安全な位置まで運ぶことはできました。だけど……だけど……助けられないことが分かってしまいました。みんなひどい傷を負っているのに、私の手元には包帯一つ無いのですから。
私は包帯を探して走り回り、まだ燃えていない家に入りました。
――そこで私は今何が起こっているかを知りました。
おばあさんが一人、銃で撃たれて倒れていました。服が散らばり、引き出しは開けられ、家具はひっくり返っていて、まさにそれは強盗が去った後の光景でした。
次の家も次の家も強盗によって荒らされていました。強盗団か何かが村を襲ってきたのでしょうか。頭に浮かぶ事実を無視してそんなことを考えました。
私は包帯を探すことを諦めて、服で傷口を縛ることにしました。清潔ではありませんが失血死よりはましです。
手当をしている間に何度も乾いた銃声が響きました。まだこの村のどこかで略奪が行われているという証拠です。
「おい、そこの嬢ちゃん」
声をかけられました。今にも死んでしまいそうな怪我人達の救護に夢中だった私は、迫り来る足音に気がつきませんでした。
そこに立っていたのは以前にも私を襲った三人組でした。
私は≪悲鳴を上げて、全力で逃げ出しました。捕まったらどうなるかなるかは明白です。こんな時のために鞄にスタンガンを入れてますが、三人が相手ではスタンガン一個ではどうにもならないでしょう。
「待てやてめぇ」
兵士達は追ってきます。
相手は盗賊などではなく、現役の兵隊です。私はあっという間に追いつかれ、捕まりました。
私を地面に組み伏せて気持ち悪い不快な声で言いました。
「あの時と違って邪魔は入らないぜ」
「まったく、治安維持なんてクソつまらねぇ指示出されたときはどうしようかと思ったが、ロシア軍さまさまだぜ」
「ああ、おかげで撤退命令が出たからな。しかも撤退中は自由にして良いと来た。自由ってことは何をしても良いって事だろ」
下卑た笑い声が脳裏に響きます。こんな奴らのせいで村が無茶苦茶にされたのかと思うと、怒りがわいてきました。
私は必死に暴れましたが、力の差は歴然でどうにもなりません。力いっぱいの抵抗は、ほとんど無意味でした。
「撤収まではあと三十分だぜ。早く済ませようぜ」
「おいおい、一人十分かよ」
兵士達は最低な会話を繰り広げました。私はせめてもの抵抗に、鞄からスタンガンを取り出し、押し当てました。
しかしスタンガンから火花が出る事はなく、全く電流が流れていないようでした。携帯と同じように壊れていたのです。
「ハハハっ。ただのスタンガンが無事なわけ無いだろうか」
一人が懐からナイフを取り出しました。路地裏で襲われたときの、首筋に伝わるナイフの冷たさが蘇ります。あの時の恐怖がフラッシュバックし、私は怖くて叫びました。
「な、何する気よ!」
「何する気かって? こうするんだよ」
ぎらりと光るナイフの刃が一直線に走り、私の上着を切り裂きました。皮膚をかすめるナイフの感触に恐怖を覚えました。
強がる余裕もなく、私は悲鳴を上げました。
「キャアッッッ」
「いい悲鳴だなぁ。安心しろよ、まだそのきれいな肌は傷つけていないさ」
気味の悪い笑顔を浮かべて、ぴたり、ぴたりとナイフの腹を私に押し当ててきました。その度にナイフの冷たさが、恐怖を呼び起こしました。
まるで死がすぐ側にいるようです。私を切り裂くであろうナイフが、死に神の鎌に見えました。
「次は何処を切ろうか。もう一度上かな?」
ナイフが私の下着に押し当てられました。
「それとも下かな?」
わたしのズボンにナイフの切っ先が当たりました。
ナイフが触れる度怯える私を見て、兵士は心底愉快そうにしていました。
「そうだ、その表情だ。俺たちはお前のせいで路地裏に一日中拘束されたんだ。それと同じぐらいの屈辱、味わってもらわないとなぁ」
ナイフが振り下ろされ、私の顔のすぐ側へ突き刺さりました。少しでも手元が狂っていれば、私の顔を貫いていたことでしょう。
恐怖に覆い尽くされ、声も出ないほどでした。
もう呼吸すらままなりませんでした。
「そろそろやっちまおうぜ」
「そうだな。楽しませてもらおうか」
兵士達の手が迫りました。死ぬのは嫌でした。死ぬほど嫌なことをされるのも絶対に嫌でした。だから私は手を伸ばして、鞄の中を必死に探りました。そして私の手が、ボールペンのような形状の何かを探り当てました。それはザックからもらった武器でした。
武器を取り出すのは、兵士達がナイフを持っていない今しかないと思いました。ザックの武器なら、一矢報いることができるはずだと信じて。
なぜスタンガンが壊れているか分かりませんでしたが、あの武器なら無事であってくれるだろうと、最後の希望に縋りつきました。
「な、に、をやっているのかな」
腕を思い切り踏みつけられました。骨が折れたのではないかと思えるほど強烈な痛みに涙があふれてきます。
だけど……だけど私は痛みに耐えて、ボールペンのような形状のそれを敵に向けました。そしてそれのボタンを、力いっぱい押し込みました。
小さな小さな爆発音。だけどその威力はまさに規格外でした。ボールペンのようなその武器から衝撃波が飛び出して、私の上に乗っていた兵士が吹き飛びました。
ヘビー級ボクサーのパンチのような一撃と言っても過言ではない、いやそれでは全く足りていません。なにせ人が文字通り吹き飛んだのです。人が一人完全に宙に浮き、壁に激突したのです。
「「なっ、なんだぁっ!」」
兵士の一人が吹っ飛んだのを見て、残りの二人は驚き、一瞬動きが止まりました。
私は残った二人に向け一発ずつお見舞いしました。鍛えられた兵士を倒すのに、たったの一発です。しかも驚くべき事に全くと言っていいほど反動がありませんでした。
私は兵士達をそのままにしてアンソニーを探しに行きました。一刻も早く逃げるべき場面ですが、一人で逃げるわけにはいきませんでした。
痛みに耐えて、私は村の中心部へ向かって走りました。アンソニーの家は村の中心部にあります。そしてそこはまだ火が回ってないようでした。
呼吸も忘れるほど全力で村の中を走り抜け、アンソニーの家へたどり着いたとき、一人に兵隊につれさらわれてゆくアンソニーが遠目に見えました。
「アンソニィィィー」
私は大声で叫びました。生まれて初めて腹の底から声を振り絞って叫びました。
私は今でも振り向いた彼の顔を忘れられません。
生気のない顔に光を反射するだけのうつろな瞳。まるで死人のような顔でした。命があるだけで、心は死んでいるように見えました。私を見ているのに、私だと気付いていないようです。
まるで抜け殻でした。
見間違いであって欲しいと願いながら、私は急いで駆け寄りました。
駆け寄ろうとしました。
しかしコンクリートのような堅さの壁にぶつかってしまい、アンソニーの元までたどり着くことはできませんでした。
その場所には何もありません。いや、何もないように見えます。
それは危険だと第六感が、いや視覚以外の五感が訴えました。踏み固められた土、何かに遮られたような風の流れ、見えなくても気づける要素はいくらでもありました。
しかし私は知らなかったのです。BWVに光学迷彩などと言う馬鹿げた装置が付いていることを。
目の前に見えない何かが振り下ろされ、砂埃が舞いました。
目に見えない何かは、砂埃の中で目に見える揺らぎとなって私の前に立ちふさがりました。その形状はジャングルを越えてやってきたあのBWVそのものでした。
光学迷彩の効果で光は全てBWVの表面で迂回し、まるでそこに何もないかのように見せるのです。激しい動きをすると多少見えてしまいますが、じっとしている分には完全なる迷彩です。
私は逃げ出しました。こんなロボットに勝てるはずがありません。
大きな発砲音が響きました。巨大な銃口から発射された巨大な銃弾は私の側を通り過ぎ、その衝撃だけで私を吹き飛ばしました。
近くの民家の壁に体を打ち付け、全身に衝撃が走りました。
すさまじい痛みが全身を貫き、気を失いそうになりました。
体がもう動きません。
私に気付いた兵士が歩いてきましたが、立ち上がることすらできませんでした。ごめんね、と心の中でアンソニーに謝りました。助けられなくて、ごめんと。
意識が遠のいていきました。全身の痛みも感じないほどもうろうと意識の中に聞き覚えのある声が響きました。
低くて力強い、男の人の声。
「おいおい、まだ取材は終わっていないぜ」
「……ザック?」
「待たせたな。今助けるぞ」
ザックは私に近づいてきた兵士に蹴りを入れると、すぐさま私を抱えて走り出しました。
景色が揺らぎ、透明なままBWVが追ってきました。人間ではBWVから逃げられるはずがない、そう思っていました。
それは真実ではあるのですが、スルト軍との戦いを見た故の錯覚でもありました。あの一方的な虐殺は、スルトがBWVを知らなかったから起きたことであり、対策を練っていれば何もできないわけではないのです。尤も、購入したばかりで使い方を熟知していないラザウィルの兵士相手だからこそ言えることではありますが。
ザックが球状の何かを投げました。それは地面に着くと激しい炎を上げて燃え上がりました。
カメラは目と同じように光を利用して世界を見ています。そのため透明状態ではカメラは使えず、他の観測機器を利用して外の情報を得るしかないのです。
ザックはまず発炎筒で熱感知を防ぎました。
次に小さな爆弾をいくつも投げ、爆音で音による感知をつぶしました。
相手はただ光学迷彩を解けば良かったのですが、とっさにその判断ができなかったようです。
相手が私たちを見失っている内に、距離を取り、大きな通りに出ました。
「ザック、こっちだ!」
そこには装甲車を操縦する弦月がいました。
「良いタイミングだ。できればもっと近くまで来て欲しかったがな」
「あんな瓦礫だらけの場所を走れないよ。って後ろ来てるぞ。早く乗れ」
「うおおっと、やっぱ速いな」
私たちが車の後部座席に乗り込んだときには、BWVは十メートルほど離れた場所で巨大な銃を構えていました。
すでに光学迷彩は解かれていて、高性能カメラが私たちを捕らえています。
「仕掛けたかい?」
「もちろん」
得意顔でそう言いながら、ザックは携帯電話のボタンを押しました。するとBWVの足下で爆弾が爆発し、体勢を崩したおかげで銃弾は私たちに当たらず明後日の方に飛んでいきました。
数々の観測機器で攻撃を察知し、あり得ない反応速度で回避するBWVですが、仕掛けられた爆弾だけは回避が難しいのです。
何の予備動作もないうえに、広い面での攻撃なので、少し動いた程度では躱せないからです。
しかしさすがは最新機器の塊です。装甲にはかすり傷がついただけでした。そして一瞬で体勢を立て直し、走り出しました。
弦月が全力でアクセルを踏み込み、装甲車がうなりを上げて進みます。
「……逃げ切れるの?」
「大丈夫だ、任せとけ。弦月、ちょっと借りるぜ」
ザックが屋根を開けて顔を出し、ロケットランチャーを構えました。
「外さないでくれよ」
「ハッ。余裕過ぎて、あくびが出るぜ」
ザックが狙いを定めた瞬間、BWVの背中からアンテナが飛び出し火花が散りました。スルト軍のロケットランチャーを破壊した電磁攻撃です。
ですがザックが構えていたのは時代遅れのロケットランチャーではなく、最新鋭の対BWVランチャーで、電磁攻撃などものともせずにロケット弾を発射しました。
打ち出されたロケット弾が、BWVの妨害電波を耐え抜き直進しました。しかしBWVはその素早い動作制で、余裕を持って躱しました。
その瞬間です。ロケット弾はスピードを維持したまま旋回し、BWVを追いかけました。兵器のことに詳しく無い子供の私でさえ、おかしいと思う軌道でした。まるで意志を持つ獣のように追尾したのです。
ロケット弾はBWVの肩に命中し爆発しました。
衝撃にBWVはよろめきます。強固な装甲を持つBWVですが、さすがにロケット弾には耐えられないようで肩口を損傷していました。
BWVがよろめいている間に装甲車はスピードを上げ、かなりの距離をかせぎました。
しかし相手は第三次世界大戦の主力兵器ですBWVです。簡単に逃がしてくれるはずがありません。すぐに体制を立て直し、走りながら銃を乱射してきました。
「ハッハァー。そんな打ち方で当たるわけねぇだろうが。訓練で習わなかったのか?」
ここでも相手がBWVに乗り慣れていない事が影響しました。BWVといえど操縦しているのはあくまで人間です。ならば全力で走りながら撃つと命中精度が下がることは当たり前ですし、損傷があればなおさらです。
そして……
「ヒャッハァー、やっぱりてめぇはスロゥリーだぜ」
二足歩行の最高速度は遅いのです。短距離走の金メダリストでさえ、最高時速は軽自動車の三分の一程度なのです。最速の動物と名高いあのチーターでも軽自動車に勝てません。
その代わりスタートダッシュは速く、短距離でなら戦闘機にも勝ります。爆弾やロケットランチャーで時間を稼ぎ距離を開けたことで、装甲車はBWVの最高速度を超えることができました。
BWVの姿がどんどんと小さくなり、ついに豆粒のようにしか見えなくなりました。ここまで来れば狙撃の心配もありません。
「ありがとう」
体中が痛くて死にそうですが……生きています。ザックのおかげで生き残ることができました。
「どういたしまして。それとすまんな。ソーニャにあげたあの武器、発信器つきなんだ。BWVの妨害電波に反応して、救援信号を出すようになってる」
そのおかげで助かったのですから文句などありません。ただ事前に教えてくれても良かったのにとは思いましたが。
弦月がため息混じりに、君はいつも勝手だなと呟きました。それに対しザックが大げさに否定しました。
「……アンソニーは…………無事だと思いますか」
「無事だと言えば無事だろうな。しばらくは生きてはいると思うよ」
生きてはいる……それは……。あの死人のような目を思い出しました。生きてはいるが、心が……死にかけている。
「よかった……」
でも死んでいないなら助けることができます。だから少し、安堵しました。
「今は寝ろ。家に着いたら起こしてやるよ」
「……はい、そうします」
私が横になると、ザックは上着を脱いで私にかけてくれました。
私は疲れから深い眠りに落ちていきました。
朝日が目を叩き、まぶしさで私は目を覚ましました。重たいまぶたをこじ開けて、目に映るのは見慣れた天井。寝ぼけた頭が、今までのことは全部夢だと言ってきました。リビングに降りれば父が新聞を読んでいて、隣の部屋にザックが居候していて、家政婦さんが作ってくれた朝食をみんなで食べ、夕方にはアンソニーが遊びに来る。……そんな気がしました。
それはもちろん幻想で、全てが夢であって欲しいと思う私の願望です。嘘はいつも優しくて、夢はいつも心地よくて、現実はいつも非情でした。
急に涙が溢れてきて、止まらなくなりました。一晩たって落ち着いたおかげで、現実を直視することができたのです。アンソニーがさらわれてしまったという現実と向き合うと、涙が溢れて止まらないのです。
ぽっかりと心に穴が開いたような、喪失感がありました。失ってから始めて気付くとは言いますが、アンソニーの存在は思っていたよりも大きかったのです。
声も出さず。私は静かに泣き続けました。しかし涙は悲しみを洗い流してはくれません。心の穴が大きくなるばかりです。
私はアンソニーを助けに行くと決心しました。
トントンとドアがノックされました。時計は朝ご飯の時間を指し示しています。家政婦さんが私を呼びに来たのだと思いました。そうでなければザックだと。
しかしドアを開けて入ってきたのは父でした。
私はうれしさのあまり、駆け寄って抱きつきました。ベッドを濡らすはずだった涙は、父の大きな胸に受け止められました。心の穴が少し埋まりました。
「無事だったのね……パパ」
「ごめんな、ソーニャ。会いに来れなくて。軍に捕まらないように、ずっと隠れていたんだ」
泣きじゃくる私を父は大きな手でなでてくれました。また少し、ぽっかりと空いた胸の痛みが楽になりました。
「連絡ぐらいしでよ……私……パパが……ひっく……パパが死んじゃったんじゃないかって……」
「……ごめんよ、ソーニャ」
私はそれ以上は何も言わず、父の胸で泣き続けました。父に抱きしめられ、涙を流す度に胸の痛みが引いていきます。
しかし泣き続けて少し心が落ち着くと、ここに居続けたいと思う気持ちが強まっていることに気付きました。決心までも涙に溶けて流れていっていたのです。
このまま泣き続けていたい衝動を振り払って、父を抱きしめていた手を離ました。そして顔を上げて、自分の腕で涙をぬぐいました。
涙で真っ赤になった目で、父の目を真っ直ぐに見て私は言いました。
「父さん、私……これからラザウィルに行くわ。アンソニーが軍にさらわれたから、助けに行きたいの」
父は私の目をじっと見つめました。そして低い声で、言いました。
「それは、ダメだ。ソーニャ、今は戦争中なんだ。どんなに頑張っても敵国には行けないよ」
「分かってるわよ。それでも」
「分かっていない。前線は立ち入り禁止、国境近くでは紛争だ。いったん他の国へ渡っても、ラザウィルに入るには厳重な審査を抜けないと行けない。残念だけど、アンソニー君のことは諦めた方がいい」
無理なことは分かっていました。だけど父が行方不明になったときのようにパニックに陥ったわけではなく、考えた結果行くと決めたのです。だからせめて、無理だと思い知るまでは前に進みたかったのです。
「無理だって事は……分かっているわ。でも助けに行きたいの」
「ソーニャ、その旅の先にあるのは戦場だ。死地だ。アンソニー君もソーニャが死ぬことを望んではいないだろう」
「助けを求められたから助けるわけじゃないの。ただ私が助けたいのよ」
目をそらさずに父を見つめ続けました。そうすることで私の決意が伝わると思ったからです。
先に目をそらしたのは父の方でした。
「一つだけ約束してくれ。危険を感じたらすぐに逃げ帰って来ること……無茶だけはしないでくれ」
「それじゃあ」
「ああ、行ってくるといい。私はもう止めないよ。だけど……手伝ってあげることもできないんだ」
父は私に背を向けて、ドアに手をかけました。
父はスルトの重要な役人の一人です。もしもラザウィルに知られると何千人と犠牲者がでつぃまうような機密情報を知っていました。また一つのミスでこれから先の交渉に悪影響を及ぼしてしまう可能性がありました。
父はその立場のせいで、私を手伝うことができなかったのです。
「少し待っていてくれ、渡したいものがある。…………まったく、今ほど自分の立場を呪ったことはないよ」
いつも頼もしかった父の背中が少し小さく見えました。ドアを開けて出て行く姿も、どこか疲れ果てているように感じました。
しばらくして戻って来た父は手に小さな短剣を持っていました。鞘や柄はきれいに装飾されていて、みたところ戦うための武器ではないようでした。
「我が家に伝わる宝剣だ。お守り代わりに持って行くと良い」
私は父から宝剣を受け取りました。小さな見た目の割にずっしりした重さがありました。
年代を感じさせる見た目で、飾りの宝石は立派、家宝と言っても良いぐらいの代物に見えます。
「こんな大事なもの……いいの?」
「その宝剣は代々受け継いできたものだ。渡すのが少し早くなっただけだよ」
「ありがとう……父さん」
温かな涙が一筋、頬を伝いました。
その涙は、アンソニーを助けに行くという決心を濡らして固めてくれました。
それから私はザックと弦月に連れられてアンソニーの住んでいた村へ向かいました。ザックは撮影のため、私はアンソニーを探し出す手がかりを得るため、弦月は私たちの護衛として。
昨日の夜にはすでに占領されていた町は全て旧ロシアの連合軍によって解放されています。ラザウィル軍は戦わずして逃げ出したのです。その代わりありとあらゆる物を略奪して行きました。アンソニーもその被害にあったのです。
車に揺られること十分、遠くに小さく村が見えました。
そして近づくにつれ、村の有様が、ひどく荒れた様が見て取れるようになりました。
村は廃墟と化していました。半分以上の家が焼け落ちて、残った家屋も荒らされた後です。
一昨日までは貧しいながらも活気溢れる村だったのに、たった一日の出来事で見る影もなくなってしまいました。ふつふつと怒りがわいてきます。町を荒らしていったラザウィル軍、そして戦争そのものに対する怒りです。
「何度見ても慣れるものじゃないね」
弦月が辺りを見渡して言いました。傭兵である彼は私なんかよりももっと地獄を見ているはずです。しかしそれでも戦争の悲惨さには慣れることはできないようです。それほどまでに戦争とはむごいものでした。
「そりゃそうだ。これを見てなんとも思わないやつは人間じゃない」
ザックの目線の先には焼死体がありました。死体やその周りの様子から苦しんだ様がありありと見て取れます。いつも怒りをあらわにすることのないザックですら、拳を握りしめていました。それほどまでに悲惨で見た人の心をえぐる光景でした。
あの時ザックが来てくれなければ、私もこんな風になってしまったのでしょう。
ラザウィルに行こうとすればこれ以上の地獄が待ち受けていると考えると、身震いがします。
ザックは目をつぶり黙祷しました。私もそれに習って、犠牲になった人達のために祈りました。せめて天国へ行けますようにと。
黙祷が終わるとザックはカメラを構え、シャッターを切りました。パシャリ、パシャリと静かな世界に、無機質な音が響きます。
私はカメラを通してこの惨状が世界に伝わることを願いました。
こんな目に遭う人が一人でも減れば、少しは死んでいった人達も浮かばれるでしょう。
「さて、ソーニャ。アンソニーの家は分かるか。この惨状じゃ、ちょっときついかもしれないけどよ」
炎と銃弾で壊れた村では、もうどこがどこだか分かりませんでした。目印となるものなど全て焼け落ちています。
それでもなんとかアンソニーの家を見つけることができました。偶然にも炎に巻かれることはなく、そのまま残っていたのです。
家に近づくとすさまじい異臭がしました。家の中はあさられた後で、ものが散乱していました。金目のものは全て持ち去られた用です。
戦争の後と言うよりは、強盗の後のようです。ですがこれもまた戦争の一面でした。
みんなやっている。戦争だから仕方ない。そんな言葉を免罪符に行われる悪事です。どんな状況でも盗みは悪で殺人は罪だと言うのに。
家の奥へ歩いて行くと床に真っ赤な血の跡がありました。部屋の真ん中でアンソニーの母が血を流して倒れていたのです。
銃弾の痕が腹に一つと頭に一つ。頭のそれが致命傷のようです。
「これは……」
私が死体の前で冥福を祈っていると、ザックが険しい表情で呟きました。その横では弦月も同じように険しい表情で死体を見ています。
戦争を知る二人は、死体から死の状況を読み取れました。そしてそれは非常な現実を示していました。
「たぶん斬九朗の思った通りだよ。国際法で禁止されているのに、いつまでたってもなくならない」
「けっ、嫌な世の中だぜ」
なぜザックと弦月がそんなに険しい表情をしていたのか私には分かりませんでした。私は戦争のことなどほとんど分かっていなかったのです。
私はただアンソニーの母のために祈り続けました。
あまり話したことはありませんでしたが、知人の死はやはりこたえます。二度と会えないのは辛いのです。
ザックに頼んで、墓を作り始めました。
墓にアンソニーの母の遺体を入れて、埋めました。そして墓の前でもう一度静かに祈りました。
「これからどうするんだ?」
「アンソニーを助けに行くわ」
私は迷わず答えました。それ以外の選択肢など私にはありません。
「お、おい君、それは……」
慌てて私を説得しにきた弦月を、ザックが腕で制しました。ザックは弦月に向かって小さく首を振りました。
止めるなと、その目が語っていました。
それから私の目を見て、問いかけてきました。
「一応言っておくが、辛い旅になるぞ」
止める気はなく、本当にただ確認のため聞いただけのようです。何を言っても私は止まらないとザックは気付いていたのかも知れません。
「止めないんですね」
「行くなって言って欲しかったのか?」
「もう気絶させられるのはごめんです」
想像を遙かに超えた危険で辛い旅になることは分かっていました。戦時中に敵国に行くなど無茶であることは子どもでも分かります。それでも私は行くことに決めたのです。
「辛い旅なのは分かってるわ……。でも、助けに行きたいの」
「パパに別れは言ったか」
「なんとか説得したわ」
「了解。乗れよ、連れて行ってやる」
「いいの?」
「俺はただ取材現場に向かうだけさ。たまたまそこにアンソニーがいるかもしれないがな」
ザックはカメラを抱えて、にっこりと笑いました。
これから死地に向かおうというのに、ザックは笑いました。もしかすると少しでも私の気を楽にしようした配慮だったのかも知れません。
「ザック……少し入れ込みすぎじゃないのか?」
静かな声で、弦月が忠告しました。
確かにこの時のザックは入れ込みすぎでした。
戦時中ではアンソニーのような目に遭っている子どもは決して少なくありません。そして当然ながらその全員を救出することは不可能です。力業ではどうにもならないからこそ、カメラで戦っているのです。
なのに家族でもないアンソニーを、なぜ助けようとしたのか。なぜ多くの子ども達の中でアンソニーだけを特別に助けようとしたのか。
その答えを、ザックは答えました。まるで当たり前の事のように。
「別に、自分に関わった人くらいに助けたいだろ。後で後悔するのも、嫌だしよ」
「全く……ほんとに君は。…………無茶しないって言ったのはどの口だよ。君はいつもこうだ。頼むから無事に帰ってきてくれよ。今回は助けてやれないからな」
弦月が困った様子でそう言いました。弦月の次の契約相手はラザウィルなのです。私たちの手伝いをすると言うことは、雇用主を裏切ると言うことと同義なのです。だから弦月は私たちの味方で居続けることができませんでした。
雇用主を裏切っては傭兵を続けれません。家族を養う必要のある弦月は、この不況の世で職を失うわけにはいかないのです。
「あれは嘘だ。太く短くが信条なんでね。死ぬまで無茶をするのさ。俺の夢を叶えるにはそれでも足りないぐらいだがな。弦月も乗れよ、いったん国外に出るんだろ。国境まで送ってやるよ」
「はぁ……無事に帰ってきてくれよ。もう何も失いたくないからな」
嘆息をもらしながらの言葉でしたが、心からの言葉でもあるようでした。彼はきっと戦争で仲間を何度も失ってきたのでしょう。彼は傭兵なのですから。
「よし、弦月を送っていったら、ラザウィルへ取材に行くぞ。覚悟はできているな、ソーニャ」
「国境越えてまで取材なんて、頑張り屋なのね」
「夢があるからね」
「どんな夢?」
「それはもちろん、失業することさ」
なんとも彼らしい答えでした。
車に揺られること二十分、行ったこともない町の中を通っていました。向かっているのは北東ですから、スルトの北東にあるヤンデ共和国に向かっていたのでしょう。ヤンデ共和国はスルトとラザウィル両国に接する国です。スルトから直接ラザウィルに行くには戦場を抜ける必要があるので、隣国から回り込んでいくのが一番でした。
車が走り出してから十分ぐらいは会話があったのですが、この時にはみな無言になっていました。
私は悲惨な光景が頭にこびりついてしまっていたから、ザックはその知識と経験でアンソニーがどうなったか分かっていたから、弦月は何もできない自分をふがいなく思っていたから。みな会話を楽しむ余裕がなかったのです。
会話がないまま車が進み続けて十分、ザックが弦月に話しかけました。
「弦月、やっぱり手伝ってはくれないのか?」
アンソニーを助けるのを、ではなく戦場カメラマンとしての仕事をと言うことです。実はザックは何度も弦月の事を誘っていました。
「それは無理だって何度も言っただろ。戦争をなくそうなんてきれい事を吐くには、僕の手は汚れすぎているんだよ」
弦月が殺してきた人の数を私は知りませんが、一桁と言うことは無いでしょう。仕事だから、戦争だから、それでも返り血は袖を濡らします。
「だからこそ見える世界もあると思うけどな」
「間違えない人よりも、何度も間違えながら正しさを知った人の方が尊いってことかな? だけど斬九朗、それはね正しい道を目指す人だけなんだ。確かに僕は人を殺すことの愚かさを知っているよ。憎しみの恐ろしさを味わったよ。戦争の被害をこの目で見たよ。でも……それでも僕は人を殺すよ」
もしも取材中に物取りに襲われたら、テロリストが爆弾を持って走ってきたら……。ザックなら説得するか、並外れた武術で押さえつけるでしょう。でも弦月なら殺します。物取りがナイフを出す前に頭を打ち抜き、テロリストが踏み出す前に腹に銃弾をたたき込みます。それが生き残るための最善手だからです。
それを自分自身で分かっているからこそ弦月は、ザックの誘いを断ったのでしょう。守るべき人を撃ち殺す人間は、戦場カメラマンには向きません。
「戦場に生きるんだ。生き残るためには殺すことも必要になるだろうよ。だったらその分多くの人を救えば良いだけだ」
弦月は自嘲気味に笑いました。自分はそんな人間にはなれないよと表情で語っていました。
「ザックのように平和な国で生まれていたら戦場カメラマンなんてのも悪くはなかったんだけどね。僕は生まれて間もなく捨てられて、傭兵達に拾われて育った。おかげで武器の扱いには長けたし、生き残る術を身につけることもできた。でも僕は平和を知らないんだよ。いくら力があっても、目指すべき平和を知らないんじゃ話にならない」
「いつも殺したくないって言ってる平和主義者のくせにか」
「それだよ。僕にとっての平和は人を殺さなくても良い世界なんだ。争いがない世界と言い換えても良い。でもさ、平和ってそんなものじゃないだろ。争いがないだけの世界を平和とは言わないだろ」
争いのない世界を平和と呼ぶことはできます。でもそれが真の平和なのかと言われると首をかしげざるを得ません。それではただの戦争がないだけの世界です。
ザックが目指す平和はそんな所にないでしょう。
私が目指す世界は皆が相手を思いやる世界です。戦争の歴史から傷つけられた人の悲しみを知り、傷つけあうことのばからしさに気付いてもらう。そしてお互いがお互いのことを尊重できるようになれば、私の目標は達成です。
私が小説を書き、ザックが写真を撮るその理由は、戦争をなくすために活動をしている理由は、それが壁として立ちふさがっているからです。壁を破壊して終わりではありません。
「……そうだな。それはただの通過地点だ」
「分かったかい? 僕は戦争屋以外にはなれないんだ、諦めてくれ。優秀な助手が欲しいなら、ほら、将来有望な子どもが後ろにいるじゃないか」
弦月が私を指さして言いました。私は慌てて否定しました。ザックのようになれるわけがないと思ったからです。この時私が知っている戦場カメラマンはザックのみで、私にとってはザックが戦場カメラマン代表だったのです。
ザックのとても大きな背中は手を伸ばしても届かないものに見えていて、戦場カメラマンと言う職もまた遠い世界のものに見えていました。
「ま、素材としてならピカイチだな。でも素材は素材だ」
その言葉に私はむっとしました。褒められていることは分かりましたが、子ども扱いされていることも分かったからです。私は子ども扱いされることが嫌いでした。
「もう十歳です! 半分は大人です!」
「ははは、やる気満々じゃないか。よかったな斬九朗。助手ができたぞ」
「十年後に期待するよ」
「失礼です」
それで私は完全にへそを曲げてしまいました。
それからまた会話のない時間が続きました。話したいこと、伝えたいことはいっぱいあったのでしょうが、言葉にならなかったのでしょう。一度の別れが、今生の別れになるかもしれないのです。いや、それどころかラザウィル国内で出会ってしまえば、敵同士になってしまいます。二人の関係はそのような関係でした。
別れには慣れていても、この別れには覚悟が必要だったのでしょう。
車はガタゴトと音を立てて道を進みます。
景色は賑やかな町から畑の広がる農村へ、どんどんと国境が近づいてきました。
「斬九朗、この辺りまででいいよ。ここからは歩いて行ける」
ザックはブレーキを軽く踏んで、車を道の端に止めました。
「いいのか? ここからラザウィルまで歩くと半日はかかるぞ」
「ここから先には検問があるからね。この車、見られるとやばいものもつんでいるんだろう」
「確かに……その通りだな。……物取りに襲われるなよ」
「そっちこそ。頼むから撃たれないでくれよ。それとあまり基地には近づくなよ。今はまだラザウィルの兵士じゃないから見逃すけど、勤務中に密入国者を発見したら捕まえるからな」
弦月は、次に会うときは敵だと言いました。覚悟をして言いました。
「分かってるよ。ところでどこの基地だ?」
「軍事機密だ。分かっててやってないか?」
「お堅いことで。それじゃ、ばいばい」
「さよなら、斬九朗。送ってくれてありがとう」
弦月は荷物を持って車を降りました。こっちに手を振る姿が遠ざかっていきます。
私たちは来た道を引き返し、ラザウィルとの国境に向かって走り出しました。
あっという間に小さくなる後ろ姿を見て、私は少し不安になりました。違う向きに伸びる私たちの道が、再び交わるときはあるのでしょうか。
もちろんその心配は杞憂に終わります。この業界はそれほど広くはないからです。しかし再開が、必ずしも良い出来事であるかどうか分からないのがこの世界なのです。
この世界では再会した友人が敵なのか、それとも仲間なのか、再会するその瞬間まで分かりません。最悪の場合、友人同士で殺し合わなければなりません。
この世界は残酷なのです。
私は筆を置きました。ここからは辛い話が多くなります。少し心の準備が必要です。思い出すたび胸がえぐられるように痛みます。
書きたいという思いと、書きたくないという思いが私の中に同時に存在します。思い出を綴り書き記したいという作家としての思いと、辛い思い出を心の奥にしまったままにしておきたいという私の弱さです。私の心がまだ弱かった頃、十歳のソーニャ・ジタンがまだ私の中に残っているのです。
深呼吸をして、再び筆をとります。
ザックとの旅は大変な物でした。検問抜けに国境越えと問題ばかりでした。
ただそれはまたの機会に語ろうと思います。まずはアンソニーの事を書ききるべきだと思うからです。
ただその前に一つだけ語るべき事があります。それはスルトとラザウィルの国境近くにある湿原での話です。
アンソニーの母親の銃創の意味を子供の私は知りませんでした。一発目を誰が撃ち、二発目をだれが撃ったのか。
少年兵達が殺し合う戦場となった湿原で私はその意味を知ることになりました。
私は高台の上で、藪に隠れて潜んでいました。手には双眼鏡を持って、戦場の様子を観察している最中です。
隣でザックも同じように双眼鏡をのぞいています。
双眼鏡の向こうでは、私やアンソニーと同じ年頃の少年が銃を手に歩いています。
背を低くして木々に紛れて進む姿を見る限り、訓練は受けているようでした。統率もとれているようで、少年兵達の上官とおぼしき兵士の命令通りに動いているように見受けられます。
小さな爆発音と共に、一番前を走っていた一人の少年兵の足が吹き飛びました。地雷です。
私は小さく悲鳴を上げて、目をそらしました。少年兵が歩いている戦場は地雷除去すらしていないのです。
「目をそらすな。これが少年兵の現状だ」
誰も怪我をした少年兵を助けようとしません。なぜならもう歩けないその少年は足手まといだからです。足を失った兵士は戦うことはできず、生きるために助けがいるようになります。足手まといになるぐらいなら、死んでくれた方がましなのです。戦略的には正しいですが、倫理的には大問題で決して許されてはならない行為です。
この時の様子を振り返ると、むしろ彼らは地雷を踏むために走っていたのかもしれません。彼らが死ねばその代わりに後ろの本隊は安全を確保できるからです。
この時から十年の月日が流れた今でも、こんな風に使い捨てにされる少年兵は後を絶ちません。
「ここの兵士達の死因で一番は何だと思う?」
「撃たれて死ぬのが一番多いのではないでしょうか?」
「いや、感染症だ。衛生状態が劣悪で、まともな医療も受けられない。戦争で弱った体と心にな、どんどんと細菌が入り込むんだ」
こんな場所が存在して良いのか、始めて自分の目で本物の戦場を見て思いました。どんな理由があってもこんな事を起こしてはいけないと肌で感じました。そこにあったのは戦争の恐ろしさが一目で分かる光景です。戦争はまさに……地獄でした。目を覆いたくなるような現実でした。
両国の少年兵同士がぶつかり殺しあいが始まりました。いくつもの銃声が途切れることなく鳴り響き、まるで一つの大きな音のようでした。
少年兵達は何の作戦もなく、正面から突撃していきました。最低限の訓練は受けているようでしたが、やはり訓練不足で動きが悪く、どんどんと撃たれて死んでいきます。どんどんと撃って殺していきます。
両国ともたいした訓練をしていないため、ただ突撃して当たり前のように死んでいきました。
「なんで……人を駒みたいに使えるんですか」
耐えきれなくなって私は目をそらしました。そしてザックに聞きました。なんでこんな事になっているのかと。戦争だから、では納得できません。
私の問にザックは冷めた声で答えました。
「自国の人間じゃないからな」
連れ去られるアンソニーの姿が脳裏をよぎりました。
アンソニーがさらわれたように、少年兵はどこからかさらってきているのです。それは少数民族であったり、敵国からであったり……自国民も混じっているはずです。
でも兵士達にとって、どこからきたかなど関係ないのでしょう。少年兵達をただの道具と見て、国民だと見なしてないのです。だから……捨て駒にできるのでしょう。
鳴り響く銃声の一瞬の間に、草木を踏みしめる音がしました。地面に伏せたまま振り返ると、ほんの六歩か七歩の距離に一人の少年兵が立っていました。
ザックは腰から銃のような武器を取り出し撃ちました。銃口からは銃弾の代わりにワイヤーが飛び出し、少年兵の服に絡みつきます。そのワイヤーに電気が流れ、激しく火花が散って少年は倒れました。テーザーガンです。
周辺を見渡しましたが、誰もやってくる様子はありません。火花の音と少年の声は辺りに響き渡る銃声と悲鳴にかき消されたようでした。
「いきなりですね」
「一発でも撃たせると銃声を聞きつけて仲間が来るからな。それに……こいつらの引き金は軽い」
「どうしてですか?」
銃を撃ち慣れている兵士の方がはるかに軽く引き金を引くのではないかと疑問を口にしました。
「ちょっとついてこい。伏せたままでな」
ザックは地雷に注意をしながら、近くの民家を目指しました。
すでにこの場は戦場なので民家は間違いなく無人です。そこに行ってどうしようというのでしょうか。
疑問には思いましたが、私はおとなしくついて行きました。
「ソーニャ。右側からワイヤーが出てるから触れるなよ」
言われてみてみると草陰に隠れて細いワイヤーが伸びていました。触れるとワイヤーの先に繋げられた爆弾が爆発する危険な仕掛けです。
ザックに言われてなければ間違いなく半身が吹き飛んでいたでしょう。戦場では一時も気を抜けません。
ザックの後を追って民家まで着くと、その荒廃ぶりが目に付きました。金目のものどころか盗めるものは全て盗まれた後です。家に使われていた木材も一部が抜き取られていました。
そして……家の中では一人の女性が死んでいました。服ははぎ取られ、肉を虫に食われ、もういつからここに倒れているか判別できないぼろぼろの死体でした。
ザックはその女性に対し祈ると、死因を調べました。
そしてそれはすぐに見つかります。腹に一つ、頭に一つ、アンソニーの母と同じ所を打ち抜かれた後がありました。
「ソーニャ、ここを見ろ。この位置は肝臓の位置だ、正確にど真ん中を貫いてる。肝臓を貫かれると、大量に血が出て失血死するんだ。その上胴体にあるから少し狙いがずれても体のどこかは貫く。これは戦争のプロの仕業だ」
ザックは死体の腹の傷を指して言いました。
そして次に頭の傷を指さします。
「次にここを見てくれ。銃弾が頭蓋骨に阻まれて逸れている。狙いが甘かった証拠だ。頭を撃つときは真正面から撃たないと、頭蓋骨の表面で銃弾が滑る。これは明らかに素人が発砲している。分かるか? 一発をプロが、もう一発を素人が撃っているんだ」
「どういう……ことですか?」
真剣な目で話すザックにおそるおそる訪ねました。喉の奥がからからに乾いてきました。
頭にこびりつく嫌な想像を否定して欲しいと祈りました。否定してくれなければ、もし想像が現実ならば、アンソニーは……。
「戦場にいて、銃を持っている素人なんて多くはない。そして出血で動けない相手に外すほど下手くそなやつは、力のない子どもだけだ。ソーニャ、これを行ったのは訓練される前の少年兵なんだよ」
親や友人を撃ち殺させ、他人を殺す事への抵抗をなくし、コントロールしやすくする。私は知りませんでしたが、それはよくあることなのです。
……それが効率的だから。
「アンソニーも……撃ったのですか?」
「ああ、撃っている」
アンソニーの母の受けた傷、一発目は兵士が撃った物です。そして兵士は銃を渡して言うのです。「お前が楽にしてやれ」
そして撃つのです。頭か心臓を。
その手で殺すのです。かけがえのない人を、その手で。その手で。その手で。
「長居はできないな。行くぞ」
「……はい」
「覚えておけよ。これがアンソニーの現状だ」
――――――はい。
私たちの目的地は少年兵を育成しているキャンプです。
キャンプでは少年達が訓練という名の洗脳を受け、少年兵となります。少年兵の訓練は本当にひどいもので、訓練の内容は拷問に近いもので、薬物による洗脳を行っている所までありました。
親を殺させることで人を殺す事への抵抗をなくし。薬物投与で恐怖心を無くし、中毒で逃げられないようにする。
人道に反した絶対に許されない所行です。しかしそれがまかり通ってしまうのが戦争という異常な状態なのです。それが効率的なのは分かりますが、絶対に守らねばならない一線があるのではないでしょうか。どんな状況で、どんな理由があっても許されない事はあるはずです。
キャンプへ向かう道で、ザックに少年兵に関するより詳しい話を聞きました。アンソニーが無事でいるのか不安になると共に、得体のしれぬ怒りがわいてきました。
誰に向けたものでもない、私が始めて抱いた社会という漠然なものに対する怒りです。
何度も戦争を見た今でも、少年兵を見る度に怒りがわいてきます。少年兵に対する許されざる行為の数々にはもう怒りしかありません。
アンソニーが連れさらわれてからまだ五日しかたっていません。しかしもしも軍が手段を選ばなかったならば、すでに手遅れである可能性は十分にありました。
嫌な想像ばかりしてしまいます。
日が沈み、あたりが暗闇に覆われた頃、真っ暗な闇の中、キャンプの側にやってきました。
真夜中でもキャンプには見張りの兵士が何人も歩いていて、進入は困難に見えました。地面には地雷が埋まっていたはずです。
「警備が甘いねぇ」
しかしザックは余裕たっぷりでした。ザックの目には警備の隙がありありと見て取れたのでしょう。
この厳重な警備もザックからすれば一世代遅れた警備方法なのです。
ザックはいつもの旅行鞄から小さな箱を設置しました。真っ黒な箱で一面にだけ穴が開いています。
ザックは大きな旅行鞄から、必要な物だけを小さなショルダーバッグに詰め込み、キャンプの中の様子を双眼鏡で観察し、着々と準備を進めてその時を待ちました。
十分後、見張りの兵士が深い眠りに落ちました。巡回中の兵士達も次々と眠りに落ちていきました。
ザックの説明によると、風の流れに左右されない無色無臭の催眠ガスだそうです。しかも遅効性で、気付いたときには手遅れという便利なガスと言うことです。
ザックはガスマスクをつけて兵士の元へ行き、カードキーを盗み指紋を採取しました。
後の作業も簡単でした。見張りが全員眠った扉の前に立ち、機械でパスワードを解読し、指紋をごまかし、カードキーを通すという作業をなんなくこなしてしまいました。
後はアンソニーを捜すだけです。
しかし内部にも見張りはいます。兵士が二人一組で見回りをしていました。一人がライトと拳銃を、もう一人がアサルトライフルを持っています。また見張りの少年兵の姿も見えました。少年兵同士で監視し合っているのです。ひどい手段です。誰がこんな事を思いついたのでしょうか。少年兵同士で監視させ、疑心暗鬼に陥らせる、最低な方法です。
私たちは見張りの兵を避け、少年兵達が眠っている建物にたどり着きました。
ザックが小さなバックからからミミズのようなロボットを取り出すと、建物の壁に設置しました。それは自動で建物の隙間から中に入り込み、中の様子を撮影するものです。
「遠隔操作はできないの?」
「機能はあるぞ。だけど電波を飛ばすのは危険だ」
帰ってきたミミズ型ロボットから映像データを取り出しましたが、アンソニーの姿は映っていません。もうすでに戦場に……そんな考えを振り払いました。まだ見てない宿舎はあるのです。
次の宿舎に向けて歩いているとき、二人で見回りをする少年兵の後ろ姿が見えました。その一人は――アンソニーでした。
「待てっ」
駆け出しそうになった私をザックが止めました。
「俺が行く」
音を立てないように二人の後ろをつけ、二人が建物の影に入ったとき、ザックは動き出しました。
忍び足で距離を詰め、二人との間は五歩程度。素手では届かない距離、だけどどんな小さな足音でも聞こえてしまいそうな距離です。
ザックはその距離をたった一歩で詰めました。ザックが速いと言うよりは、まるで地面が短くなったかのような錯覚を覚えました。
背後から脳天に一撃。たった一発で少年兵は声を上げることなく倒れました。
「よう。久しぶりだな、アンソニー。元気にしてたか?」
「ザ、ザ……ザック、そ、それにソーニャも。幻覚? い、いや」
驚き、戸惑った様子でした。まさかこんな所まで来るとは思わなかったのでしょう。
アンソニーは私を見て、そして倒れた仲間を見て、震える腕で手に持った拳銃を、その銃口をザックに向けました。
「う……動くな……動くんじゃない」
アンソニーは震えていました。その震えで引き金を引いてしまいそうなほど震えていました。尋常ではない様子です。
「安心しろ、お前をここから逃がしてやる」
ザックは銃口を下げろとも、銃を放せとも言いませんでした。アンソニーが血がにじむほど銃を握りしめていることに気がついていたのでしょう。今のアンソニーにとって銃は最後のよりどころなのです。ぼろぼろの心が求めるのは、その身を守るための…………力。
「だ、だめだ、殺される、殺されたんだ、逃げだそうとしたやつはみんな」
その言動だけでまともな精神状態にないとすぐに分かりました。一体ここでどんなひどい目にあったのでしょうか。
「俺がいる。俺ならお前をここから逃がしてやれる。殺されそうになっても、俺が守ってやる」
「だだだめだだめなんだ。僕は生きるんだ。生きなくちゃ。そ、そのためにママを殺したんだから、殺して生きているんだから」
ここで逃げないと、いつか捨て駒にされて死んでしまうということを理解できてはいないようでした。
自分の手で母親を殺すことがどんな行為なのか、どれだけ心をむしばむのか、私には理解できません。いや、本人にしか理解ことできないでしょう。ただ一つだけ分かることは、そのショックは人が壊れるのに十分すぎるということだけです。
こちらに銃を向けるアンソニーに対し、ザックは大きく一歩を踏み出しました。
「生きてるだけでいいのか」
その声には怒りが混じっていました。
ザックはさらに一歩踏み出しました。突きつけられた銃に怯えることなく、真っ直ぐとアンソニーを見つめたまま踏み出します。
「ただ生きてるだけでいいのかてめぇは」
「くくくるな、撃つぞ」
「戦争が嫌いなんだろ。戦争に関わる全てが嫌いなんだろ。なんで戦争の味方なんかしてるんだよ」
「お、脅しじゃないぞ」
声を上げそうになりました。このままではアンソニーは本当に撃ってしまうと思ったからです。アンソニーだってザックを殺したくないでしょうが、恐怖のあまり引き金を引いてしまう可能性は高いでしょう。
ザックはアンソニーの胸ぐらをつかみあげて、無理矢理に目と目を合わせて言いました。
「俺を否定したてめぇが、こんな程度で生き方を否定されてんじゃねぇよ」
乾いた音が響きました。銃口から硝煙が立ち上りました。
――血が地面を濡らしました。
アンソニーが撃った銃弾はザック脇腹をかすめ、地面を穿ちました。
かなりの激痛が走ったはずですが、それでもザックはアンソニーから目をそらすとこはありません。
「戦えよ。なんでお前の母親は死んだ? とどめを刺したのは確かにお前かもしれない。でもその原因は戦争だ。戦争だろうが。戦えよ。逃げてんじゃねぇ。敵を討てよ」
ザックが叫びました。いつもどこか飄々としていたザックが、思い切り叫びました。心から叫びました。
「もう……無理だよ」
アンソニーは銃をぽとりと取り落とし、憔悴した声で訴えます。
「ザックに……僕の何が分かるんだよ」
ザックは手を離して、だけどアンソニーを正面から見つめたまま語りました。
「俺の両親は第三次世界大戦で死んだ。空爆で家ごと吹き飛ばされて死んだよ。かばわれた俺だけが生きた。お前と同じだよ、俺が両親を殺したんだ」
戦争と戦い続けてきたザックもまた、戦争の被害者でした。戦争に巻き込まれ大切な人を失い、それでも立ち上がって戦争に戦いを挑んだのです。
自分と同じ思いをする人が少しでも少なくなるように。
「僕はザックのように、強くはないんだよ。今すぐに死にたいくらい、辛くて、辛いんだよ。罪悪感におしつぶされて、もう何もできないんだよ」
アンソニーはザックから目をそらして、うつむきました。
パニックからは脱して、落ち着いているようでしたが、代わりにひどく憔悴した様子を見せていました。
アンソニーの心の傷は、どこまでもどこまでも、計り知れないほど深かったのです。
「俺もそうだった。うちひしがれて何もできなかった。でもなお前には支えてくれる人がいるだろ。両親を亡くしても、まだなくしていないものがあるだろ」
アンソニーの目がこちらを向きました。助けを求めるような、そんな視線。だから私は走り寄ってアンソニーの手を掴みました。
私が側にいて支えるとそんな気持ちを込めて強く握りしめました。
「お願い。生きて。辛いかも知れないけれど生きて。ここから出よう。私はアンソニーに生きていて欲しい」
手を握りしめたまま真っ直ぐに気持ちを伝えました。戦争ばかりの世の中で、大切な人を失って、傷も癒えず、生きていても辛いことばかりかも知れない。でもそれでも私はアンソニーに生きていて欲しかったのです。
今にも泣き出しそうなほど辛そうな表情ですが、先ほどまでの追い詰められた様子はありません。
「…………あり……がとう」
アンソニーは小さく呟きました。
「逃げるぞ」
銃声が響いたせいで、あたりが騒がしくなっていました。銃声を聞きつけた兵士が今にもやってくるでしょう。
私はザックの後に続いて走りだしました。すぐ後ろにアンソニーもしっかりとついて来ていました。
血が出るほど握りしめていた銃を拾うことなく。
物陰に隠れて様子を見ます。アンソニーが見張りで、私はザックの応急処置を手伝いました。
「どうする? 兵士がいっぱい来てるよ」
アンソニーが怯えた声で状況を告げました。兵士に対して恐怖感を覚えているのでしょう。アンソニーを襲った出来事を考えると無理もありません。
「犬は」
「見える範囲にはいないよ」
犬が来たらもうどうしようもありません。血のにおいを嗅ぎつけられ、すぐに居場所がばれてしまいます。
止血が終わると、ザックはすぐに立ち上がりました。
「それでは奥の手といきますか。ついてこい。格好良く逃げ出すぞ」
たどり着いたのはとてつもなく大きな武器庫でした。
兵士達が捜索を始め、見張りの兵士が寝ている事もばれている状態で、こっそり逃げることが不可能だと判断したザックは、とんでもない判断をしました。
その武器庫の一番の特徴はビルのような高さでした。
扉を開いた私たちの目の前に現れたのは巨大な人型ロボットです。まるで子供の空想をそのまま形にしたようなそのフォルム。まさにそれはBWVでした。
この武器庫の形は身長の高いBWVを収納するためだったのです。
「……知ってたのか」
「見たら分かるだろうが」
ザックは入り口近くのパソコンにカードキーを通しました。
「カードキーは共通、暗証番号も共通、ガキの秘密基地か何かか?」
楽しそうにハッキングを行うザック。キャンプに入る時にも使った機械を使ってどんどんとそのパソコンを掌握していきます。
「完っっっ了っ」
エンターキーを力強く叩きました。
突然直立していたBWVが膝をつき、胸のハッチが開き、ここから登れと言わんばかりに、梯子が降りてきました。
作業にかかった時間はたった三分。見事な手際でした。
「さぁ乗れ、逃げるぞ」
ザックの後に続いて登ると、手にぬるりとした感触がして思わず片手を離しました。おそるおそる見てみると、梯子の一部が血で真っ赤にぬれています。
「ザック……」
「気にすんな。かすり傷だよ」
とても心配でした。これから先ちゃんとした治療を受けられるとは限らないのです。傷口から雑菌が入れば死んでしまうかもしれません。
ザックが操縦席に、私とアンソニーが後ろの席に詰めて座りました。BWVは二人乗りなのでとても窮屈です。
「さぁて逃げるぞ。ただし正面から堂々とな」
ザックが操縦席のヘルメットをかぶると、BWVが動き出しました。脳から発せられる電気信号がBWVへと流れ、まさに自分の体の一部のようにBWVは動きます。
画面に外の様子が映りました。ザックの目はカメラとつながっているので、これは副操縦士のための映像です。
構えるは戦車砲のような大口径の大砲。放たれるは鋼鉄の弾丸。鉄筋コンクリートの壁を障子のように貫いて、がれきの山を作りました。
不要な武器を捨てて、倉庫にできた巨大な出口からBWVが勢いよく飛び出します。敵にすると恐ろしいですが、操縦すると頼もしいことこの上ありません。
倉庫の外にはたくさんの兵士と、さらにたくさんの少年兵が私たちを捜していました。しかし歩兵などいくら集まってもこのBWVは止められません。たとえそれが軍事大国ラザウィルの兵士であってもです。
何事かと驚く兵士達を尻目に柵を跳び越えキャンプから脱出しました。ライフルで何十発も撃たれましたがダメージは全くありません。
あとは逃げ切るだけです。しかしキャンプの兵は戦車や装甲車で追いかけてきました。速く走れば地面と接する時間が減るBWvと、どれだけ速く走っても地面と離れない車では最高速度に差がありすぎます。以前はその弱点を生かして逃げ切りました。だけど今回はその弱点を突かれて追いかけられています。
だけど問題ありません。逃げる敵を倒す手段は限られていますが、追いかけてくる敵は……撃てばいいだけです。
全てを切り裂くレーザーと電子機器を破壊するEMP攻撃、そして大口径のマシンガン。あまりの武器の差に、一瞬で決着がつきました。
まずEMPの対策ができていない車両を破壊し、残った車両も運転席を避けてレーザーで真っ二つ。戦車でさえ一撃で破壊できました。
「あ~あ、来やがった」
ザックは実にけだるそうに言いました。
五感の全てと四肢への命令はBWVへと流れますが、話すことに支障はありません。
見れば一体のBWVがこちらに向かってきていました。BWVの持つ武装ならば、すでに射程圏内でしょう。
ザックは逃げることを諦め、向かい合います。
「だ、大丈夫なのか?」
アンソニーが慌てた様子で聞きました。
たとえBWVに乗っていても、相手がBWVでは互角、いや訓練の差を考えると相手が有利と言えました。
だけどザックは自信満々に答えました。
「もちろん余裕さ。かっこよくやっつけてやるから見ておけ」
相手の武器はそれぞれ対物ライフルとマシンガンが一丁ずつ、それと内部に仕込まれた武器がいくつかあるでしょう。
こちらの武器はマシンガンとレーザー、少々心許ないです。この火力ではBWVの強固な装甲を貫くのは難しいのです。
対物ライフルが火を噴きます。それに対しこちらは構えられる前に動き、引き金を引くまでに躱しました。最高速度は遅くても、敏捷性は優秀です。BWV同士の戦闘になれていなければ、まず当たりません。
細かく動いて相手を翻弄しながら、マシンガンで牽制し接近します。ザックは接近戦を挑むようでした。ザックもBWVの操縦には慣れていないため、銃弾はほとんどかわされてしまいます。それならば得意の格闘術に持ち込もうという算段なのでしょう。
相手は素早くマシンガンに持ち替え弾幕を張りました。大量に弾をばらまかれては、いくらBWVでも躱しながら接近はできません。
それに対してザックはなんと真正面から特攻しました。大口径のマシンガンは容赦なく装甲を削りますが破壊には至りません。どこかに一点集中すれば破壊できたでしょうが、相手はとっさにその判断をできませんでした。
ザックは片手で相手のマシンガンを押さえ、もう片方の手で相手の足をすくいにかかりました。しかし相手は躊躇わずマシンガンを捨てて、後ろに下がりました。
BWVの操縦には慣れていなくても、相手は軍人、そういうとっさの判断は非常に優れていました。
そして相手はバックステップで下がりながら対物ライフルを構え、発砲しました。
兵士の持つ豆鉄砲とは違う、兵器が兵器を破壊するための凶悪な銃器。至近距離ではなたれたその弾丸。肩の装甲をえぐり取り突き抜けて行き、衝撃にコックピットが大きく揺れました。
あともう少し銃口の向きが違えば、コックピットを貫かれていたでしょう。
それでも、それでもザックは怯みませんでした。衝撃をこらえ、距離を詰めるため足を前へ踏み出します。
相手の判断はまたも素早く、今度は武器を押さえることもさせてくれませんでした。照準を定める時間も無いと判断し、ライフルで殴りかかってきたのです。
勝敗を分けたのは経験の差。軍事格闘術は接近された場合や弾切れの際の最終手段です。相手の操縦者はたいていの場合、遠距離からの狙撃で敵を倒してきたでしょう。
それに対しザックは人を殺す武器を使いません。遠距離から撃ち殺すという一番楽な手段に頼らずに、いつも敵の前にその身をさらして戦ってきました。
ザックは振り下ろされたライフルを避け、ライフルを持つ手を掴み、その勢いを利用して相手を投げました。日本の伝統武道、柔術です。
これが実戦での格闘経験の差です。銃を撃たずに殴りかかる判断は素晴らしいですが、ザックは相手が殴りかかってくることをその経験をいかし予測していたのです。
「おいおい、BWVに乗る前に格闘技を習えって教科書に書いてなかったのか?」
地面に倒れた相手に素早く馬乗りになり、相手の両腕を膝で押さえるマウントポジションを取りました。そして圧倒的有利な体勢から相手の対物ライフルを奪い取り、頭部に一撃。そしてだめ押しに両腕に一発ずつ。腹部のコックピットは壊れていませんが、見るからに戦闘不能です。
「もう終わりかよ。悪役が弱いとヒーローが輝けないぜ」
「でも強かったら困るでしょう」
「あったりまえだよ。全力で逃げるぜ」
私たちは援軍が来る前に逃げ出しました。スルト国内まで逃げ込めば相手は追って来れません。
全速力で国境を目指しました。