彼女の微笑み向日葵の如く
私が悪徳部と呼ばれる放送部に入ることになったきっかけは実に不純であった。
なついた猫も逃げ出す不純さであった。しかし幸いなことにその頃の私には猫になつかれた記憶がない。
私はいつものように教室を出て用を足しに男子便所へ入るところであった。
まさに九死に一生レベルの危うさであった。大であった。ここでコイツを漏らせばウンコマンというあだ名がついてしまう。
小学校入学から低学年まで私はウンコマンだったため、その時の私はウンコマンになることを酷く恐れた。ウンコマン。
ヒーローなわけはない。ヒーローであれば冷やかしながら笑われる必要はない。
幼い私は自分がヒーローではないと自覚し保健室の流れる黒髪の美女教諭に泣きついたものだ。ちなみに私の淡い初恋であった。小学校六年の時に彼女が転勤し、告白もできぬまま儚く淡い初恋であった。
ちなみにウンコマンウンコマンと言われるのは今もトラウマであるから、小学生というものは恐ろしいものである。
話が大幅にそれたが、私はトイレに向かっていたのである。否、入る寸前であった。
「すみません、少しお時間よろしいですか」
この状況をよく考えてからものを言え、と憤慨し怒鳴るつもりで開けた口はまるで林檎を丸かじりする時のように大きく開かれたまま固定されてしまった。
そこにいたのはかつての保健室の流れる黒髪の女性教諭を彷彿とさせる美麗な長い黒髪。ぱっちりとした二重瞼。洗髪剤のいい匂いがした。フローラルな香りだったと記憶している。
透き通るような漆黒の瞳。泣きボクロが印象的な、可憐で美麗、清楚の塊の少女であった。
嗚呼、なんたることか。今現在紳士を自称する私が、この私が一目惚れである。ウンコマンのことなどこの時の私には考えることもできなかった。
大和撫子とは彼女のためにあるのだとこのとき私は知ったのである。
当時も紳士を意識していた私はウンコを我慢した。超絶に我慢した。しかしダムは決壊寸前であった。
「はい、なんでしょうか」
私は自他共に認める天使のような声で答えた。否、それに関しては少し語弊があるかもしれないが気にしないでもらいたい。
「私は放送部に所属している一年、小早川 湊と申します」
小早川さん。その容姿はまさにさらさらと流れる小川のように清廉されており、純粋な人だと人目見てそれを感じた。否、三年間共に過ごしたがそれは間違いではなかったことを認める。
「貴方に放送部に入部していただきたいのです。私の名誉がかかっているのです」
私は何事かとまじまじと小早川さんの清楚な顔を見た。可憐で美しく、やはり大和撫子である。
しかし何故一年の新入部員である彼女が新入部員を勧誘しているのだろうか。甚だ疑問である。
これが私と小早川さんとの美しく清純な出会いであった。ただし穢れ無かったのは小早川さんの方で、私は穢れきっていたことは言うまでもない。
私は疑問に思いながらも首を縦に振った。どうせ青春を歩むならこの大和撫子とともに歩みたいと強く願ったのである。これが最大の間違いであり最大の分岐点であったことは、読者諸君も気づいていることだろう。
甘い香りに誘われた虫は食虫植物に食われる運命である。
「本当ですか!」
彼女は私の右手を両手でくるみ、跳び跳ねた。その瞬間自分がトイレに行こうとしていたことを思い出す。九死に一生レベルの大であったことも同時に思い出した。
しかし彼女の手を離したくはない。しかしウンコは待ってくれないのだ。私の肛門からはちきれんばかりの以下自重しよう。私は泣く泣く彼女の手を離し、トイレへ駆け込んだ。
それは凄まじい格闘であった。出るか出ないか、強固足るウンコであった。今さらであるが食事中にこれを見るのは控えた方が良い。本当に今更だ。お詫びを申し上げる。
私は手洗いを済ませぶんぶんと蝿が集る小汚ならしい男子トイレを後にする。小早川さんはその誠実そうな瞳を細め、待っていてくれた。
このご時世、楽しい放課後を異性のトイレ待ちで無駄にさせたことを私は後悔した。しかし、小早川さんはどこまでも純粋で無垢な乙女であった。
「あの、お名前をここにお書きください」
その白い手がぺらぺらに薄い入部届けを私の運動もろくにしていない細い白い手に渡す。
同じ白い手でも我が手はガサガサしている上血の気がない。小早川さんの手は白い饅頭のごとく柔らかそうであった。
私は、運動はろくにしていないのではなく、できないのだ。
腹筋などはせいぜい三十秒六回が限度である。酷いときは一回もできぬまま三十秒を終える。唯一他人と並べるのは反復横飛びのみだ。
体育測定は中学から三年間、Eしか見たことがない。Dに届くはずもないとこの時の私は思っていた。
そう、察しの通り私は根っからの文系である。まあ文系が全員運動できないというのは大間違いだが。
私が名前を入部届けに記すと、彼女は乳母車の中のすやすや眠る赤子を眺めるかのごとくまじまじとそれを見つめた。
「達筆なのですね」
そう言って彼女は私に微笑んだ。私の心に大輪が咲き乱れた。嗚呼、なんたることか。
夏に広がる向日葵畑がこの小早川さんの笑顔に差し替えられても違和感がないくらい、それは美しかった。
いや、想像したら少しだけ恐怖を覚えたので一輪程度にしておく。私は昔から想像力が高すぎていけない。
書かれた【秋山 稔】という名前も小早川さんに誉められて小躍りしているかのように見え、調子に乗るなと握りつぶしたくなった。
明らかに調子に乗っているのは愚男たる過去の私である。
ちなみに、この名は秋の山に木の実が稔るように才能ある子に育ってほしいと言う親心から名付けられた名であるが、稔るどころか散っているのは言うまでもない。
カラスに食われたかもしれない。その辺はご想像に任せる。とにかく実っていないのだ。
何にせよ美しき親心を踏みにじる大問題発生である。
もちろん、中高と稔らせる努力はしたが光合成ができない、光のない土地で育ったがごとく細い体や乏しい知性に稔るものは何一つなかった。
かくしてぴかぴかの高校一年生であった私は【放送部】への入部を決めたのである。
決め手はやはり大和撫子こと小早川さんであった。
彼女と楽しい生活を送れるのならば私は部活の一つや二つこなしてやろうと考えたのだった。実に浅はかである。
「ここが部室です」
そう言って案内されたのは放送室ではなく高校別棟にある物置とも呼べる部屋であった。
しかし手入れや掃除は行き届いているらしく床には塵一つない。
「部長、新入部員です。約束通り私を悪徳部に入部させてください」
小早川さんは今なんと言ったのか。この時の私には正直彼女が早口すぎて聞き取れなかったのである。
おそらく部長であろう茶髪の男は私達に椅子の背を向けて座っていた。そして、我々を待っていたかのように椅子を反転させこちらに顔を向けた。